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「阿呆船」 (上・下) ゼバスティアン・ブラント 尾崎盛景訳 現代思潮社





 取りあげた本とはぜんぜん関係ない与太話に流れ流れて漂流するかもしれないこのページ、ならば最初は船の話がよろしかろうと―「本を読む」の第1回め、取りあげるのはゼバスティアン・ブラントの「阿呆船」といたしましょう。


さあ、阿呆の国へ!

 ゼバスティアン・ブラント Sebastian Brant によって書かれた「阿呆船」 Narrenschiff は、1494年にバーゼルで出版された風刺詩集です。出版されたその年に複製本がニュルンベルク、ロイトリンゲン、アウグスブルクで印刷され、シュトラスブルクでは粗悪な偽作本まで発行されたということから推測できるように、かなりの成功を収めたドイツ文学作品、あらゆる阿呆たちが集結し、「阿呆国」ナラゴニア Narragonia 目指して航海するという体裁です。阿呆たちが船に乗って航海するという構成は当時既に前例があって、ライン沿岸地方の謝肉祭劇にも見られるものだそうです。いずれにしろこれはあくまで枠組み。内容は航海の物語ではなくて、一章ごとに阿呆(な行為)を韻文で風刺するといったもの。

 ゼバスティアン・ブラントは1457年にシュトラスブルクで生を受けた詩人。父親は旅館の主人で、この父親も、また祖父も市の参事会員も務めたというから、出自は立派な市民階級ですね。バーゼル大学に進学して学芸学部、後に法学部に転じ、市民法と教会法の学位を得て、母校の教授となって法学部長にも選ばれたという経歴の持ち主です。

 各章に付せられた木版画はその多くがアルブレヒト・デューラー Albrecht Duerer の手になるもので、あとはスイスの2、3の画家が加わっていると言われています。出版当時の「阿呆船」の人気は、この木版画によるところも大きかったようで、たとえば文字の読めない(文盲の)人々にとっても、魅力的な本であったに違いない。きっと、子供だって親の持っている「阿呆船」の木版画を眺めては愉しんでいたんじゃないかな。


Sebastian Brant


Albrecht Duerer

 内容は、阿呆を満載した一群の船が Narragonia 阿呆国に向かって出帆する、という枠のなかで、さまざまな阿呆どもを批判するもの。この、阿呆たちが船に乗って航海するという構成はブラントの独創ではなく、先に述べたとおり、当時既に前例があったもので、西暦1500年という区切りに向かう15世紀末の時代の気分と無関係ではありません。1500年の到来は世の終わりを迎えるということであって、すなわち世の終わりたる大洪水のimageが、この時代の芸術作品にはしばしばあらわれているというわけです。

 ドイツでデューラーが「阿呆船」の木版画シリーズで成功を収めたころ、ネーデルランドではヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch が「阿呆船」を描いていました。ネーデルランドは土地が低いので、とりわけ洪水には敏感な土地だったのです。排水のための水路を開いても、1500年前後にはそれでは対処しきれない洪水にたびたび見舞われているんですね。この洪水によって農業生産は深刻な打撃を受けて、衛生環境は悪化、黒死病をはじめとする疫病による高い死亡率・・・こうした天変地異から引き起こされる社会不安は、「これこそ神の怒り」「最後の審判の日は近い」と、社会にいっそうの焦りと不安を引き起こしておりました。キリスト教会の腐敗が取り沙汰されている一方で、そうした不安から、神の怒りを鎮めようと、いよいよ人々の信仰は深まってゆき、やがて来る16世のマルティン・ルターによる宗教改革が準備されてゆくことになるのです。そのプロテスタントたちが1582年のグレゴリオ暦制定を軽んじていたのだって、どうせ間もなく世界の終末が訪れるのだから、と信じていたという理由があったわけで、こうした精神風土が広まっていたことと宗教改革が進められていったこととはパラレルの関係にあったわけです。その精神的背景をひと言で申せば、教会の権威、キリスト教的禁欲主義によって罪過とされていた行いが、道徳的・啓蒙的風刺によって笑うべき愚行・救済されるべき狂態へと、認識が改められてゆく、近代的倫理観の台頭です。


Hieronymus Boschの「阿呆船」

 宗教改革はともかくとしても、じっさいに、ネーデルランドではヒエロニムス・ボスが「阿呆船」を描き、世に満ちあふれた愚かさを告発している。これがゼバスティアン・ブラントの「阿呆船」と影響関係があったかどうか、たしかなところはわからないのですが、おそらくは時代の気分が文学と絵画のジャンルにそれぞれあらわれ出たものなんじゃないでしょうか。このボスの「阿呆船」に見て取れるのは、第二の洪水によってこの世が滅びるという強迫観念であって、第一の洪水の際には、船というものが人類を救うノアの方舟であったのに対して、ここでは阿呆を満載した「阿呆船」が、方舟の陰画として描かれているというわけです。いやあ、人類も知恵がつくと、なかなかアイロニカルになるもんですなあ。まあ、そもそも「阿呆船」自体が怠惰な生活を送るあらゆる人々に対する皮肉なコメントであるわけですけどね。

 世紀初頭にはヨーハン・シュトッフラーが1524年は大洪水の年になるなどと予言しており、旧約聖書の洪水以来の第二の洪水を目前にして現れた「阿呆船」のイメージは、かつて人類を救ったノアの方舟の陰画ですから、旅を経て目的地(天国)へと至る象徴としての船ではなく、動機も目的もない無意味な航海をあらわす船です。このように、「阿呆船」というテーマは、画家をはじめとする芸術家たちに、1500年という時代の区切りに世の終わりを読み取らせ、その作品群には天変地異や疫病に加えて大洪水のイメージが横溢していた、それと関連してあらわれたものでもあったというわけです。

 ブラントの「阿呆船」で痛烈な批判の対象とされているのは、欲ばり、暴飲暴食、姦通、財産目当ての結婚、嫉妬と憎悪などといった日常的な事象から、当時のドイツの国状や政状にまで及び、ために後世に至るまで高い評価を受けることになったわけです。ブラントは皇帝を賛美して、その高い理想に参画しようとせず私利私欲に走る諸侯を非難して、「ドイツ人は自分で帝国を滅ぼすために汗を流しているようなものだ」と言っていますが、これは当時の政状批判の例としてしばしば引用されているものですね。いやはや、人間てのは変わらんもんですなあ、この句、現代の多くの国家や組織に対しても、同じことが言えるんじゃないでしょうか。

 さて、ゼバスティアン・ブラントによる前書きは以下のとおり―

 本書は世に裨益するよう、英知、理性そして良風を教え、広めるために、またあらゆる身分階級の人 その痴呆、盲目、迷誤、愚鈍を笑いいましめるために、粉骨砕身、真摯な努力をもってバーゼルに於いて編集されたものである。

 そして序詩を挿んで第一の詩は章頭に主題となる三行の詩句「まず皮切りに一踊り。/積んだ書物は山ほどあるが/とんと読みゃせぬ分りゃせぬ」を掲げ、次に表題「無用の書物のこと」ときて、まず風刺されるのは、知識ある本を買い集めるだけでまったく読まない者―

 わたしが船首におりますは、
 伊達や酔狂ではござらぬて、
 期するところがあればこそ。
 書物がわたしの生きがいで、
 宝の山と積んである。
 中身はまったく分からぬが、
 蠅一匹にもふれさせず、
 あがめまつってありまする。
 話題の学芸百般は
 ほとんどわが家に積んであり、
 書物の山を見ていれば、
 それで満足文句なし。


 おっとっと(笑)こいつは耳が痛いや、住居という名の物置で寝食しつつ、その家賃の負担に労苦を重ねるのも人間様より蔵書のため、病膏肓、「積ん読」に人生を捧げてきたこの身には、身にしみる小唄ですなあ。こうして「本を読む」の第1回めを「無用の書物のこと」ではじめるのも、私、Hoffmannなりのアイロニーでございますよ。

 もうひとつ、ちょっととばして、第四の詩は流行を追い、まき散らす者―

 むかしの男はひげ自慢、
 今は女のまねをして
 おしろいごったりぬりたくり、
 猿と器量のくらべっこ。

 上着、外套、シャツ、チョッキ、
 長靴、スリッパ、靴、ずぼん、

 トップモードに超モード、
 浮気移り気あさましく
 恥も外聞もあるものか、
 上着を短くちょん切って
 おっと、おへそが見えますぜ。


 おやおや・・・この詩は現代でもそのまんま通用しますね。ちょっと前にやたらつんつるてんの上着(ジャケット)が流行って、おしり(もちろんズボンをはいた状態での臀部のこと)が丸出しのひと、よく見かけましたよね。

 そもそも民話や伝説に登場する人物像としての愚者は、その起源を宮廷道化に見ることができるものです。王侯や宮廷に仕えていた道化は、まだら模様の服を着て、手には笏杖を持ち、鈴のついた帽子をかぶり、冗談や風刺という仮面をまとって、真実をしゃべっても罰せられないという「愚者の自由」が与えられていた存在です。タロットの大アルカナ0番は「愚者」ですが、このカードは世間知らず、叡智を得る途上にある「清き愚か者」、無邪気、自然な振る舞いといったもののシンボルです。だから、愚者というのは、おどけた滑稽な存在でありながら真実を語るものであり、風刺とは切り離せない存在なのです。愚か者こそがすべてを見通し、真実を告げる―愚かさと賢さは紙一重というわけです。


宮廷道化


大アルカナ0番「愚者」

 中世になると、精神を病んだ人々が「道化」と同じ語で、すなわちドイツ語なら Narr という語で呼ばれるようになり、やはり道化服に鈴のついた帽子を身につけることになります。そうしてひと目でそれと分かるような目印を持つことによって、「愚者の自由」を享受し、ひとに損害を与えても大目に見てもらえたのですね。それどころか、愚者が幸福の守り神とされていた地方もあったようで、たとえば南仏の湿原地帯で有名なカマルグを舞台にしたアルフォンス・ドーデーの戯曲「アルルの女」では、主人公フレデリの弟が「ばか」で、これが終盤、悲劇の訪れる前に正常になり、母親は不幸が起こる予感におののいていますよね。

 ちなみに精神病者が発生したのは、精神病院という「制度」ができてから、制度ができたから発生した、というのはミシェル・フーコーの説です。

 阿呆=愚者、そのルーツが宮廷道化であってみれば、阿呆の仮面をかぶっていれば真実をしゃべっても罰せられないという「愚者の自由」が与えられていた存在です。ドイツ語では「道化」も Narr ですからね。すべては冗談、悪ふざけ、大アルカナの0番、愚かさこそが清く尊い。

 かくしてこのhomepage=阿呆船、船首に「四面書架」なる看板掲げて、いざいざ出航とござい。


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「阿呆船」 (上・下) ゼバスティアン・ブラント 尾崎盛景訳 現代思潮社

「デューラーを読む」 藤代幸一 法政大学出版局
「記号を読む旅」 藤代幸一 法政大学出版局
「『死の舞踏』への旅」 藤代幸一 八坂書房
「死の舞踏」 本間瀬精三 中公新書
「道化」 イーニッド・ウェルズフォード 内藤健二訳 晶文社
「アルルの女」 アルフォンス・ドーデー 櫻田佐訳 岩波文庫
「ヒエロニムス・ボスの図像学」 神原正明 人文書院
「ヒエロニムス・ボス:奇想と驚異の図像学」 神原正明 勁草書房


Diskussion

Parsifal:Hoffmann君が「積ん読」だなんて、むしろ「再読」している本が結構多いんじゃないの?

Hoffmann:お恥ずかしいばかりの不勉強ぶりで。後になって、読んだつもりになっていた、というか、理解したつもりになっているだけだった・・・ということに気づくこともめずらしくないんだよ。

Kundry:それは、再読して新たな発見や気づきがあるということではありませんか? 「読んでいない本について堂々と語る方法」を実践しているわけじゃないですよね(笑)

Klingsol:阿呆船がノアの方舟の陰画、という指摘があったけれど、当時のネーデルランドの毛織物業の発展と船団の航海のimageに重ね合わせれば、阿呆船はギリシア神話の金羊毛を探し求めるイアソンのアルゴー船の陰画・パロディであるとも言えそうだね。

Parsifal:私なんかは「好色一代男」、世之介の女護が島への船出を連想してしまうね(笑)浮世離れした雰囲気に共通するものがありそうだ。

Hoffmann:船というものは、まず生き物と見なされ、まさに金羊毛のような戦利品を手に入れたりするほか、死者を来世に導くもの、旅や人生、女性の子宮や豊饒など、さまざまな意味を持つシンボルだけど・・・ここではそこまでの深い意味を持つものでもなさそうだね。

Kundry:「阿呆」が船に乗って「生き残る」のではなくて、「追放される」、あるいは「行き場を捜す」、といった見方をした方がいいかもしれませんね。

Hoffmann:表題の訳語について補足しておくと、我が国では「愚者の船」と訳されていることも多いようだね。でもこれだと「愚者の(所有する)船」とも受け取れてしまう。渡辺一夫は「狂人船」と訳していたけれど、ちょっと狭義に至ってしまわないかな、それにいまの時代にこのことばは「不適切」かもしれない・・・。ブラントが使っているのは Narr というドイツ語、英語なら fool だね。意味合いとしては愚者、馬鹿、無知、間抜け、狂人、道化などの概念を内包しているので、「阿呆」は上方ことばだけれど、ほどよく滑稽味があって、訳語としては案外とふさわしいものなんじゃないかな。

Klingsol:シンボルとしてなら、船よりも Narr = fool のそれを検討する方が興味深そうだな。

Parsifal:いずれにしろ、「愚者」ときたら次回は私の出番だね(笑)