009 「影をなくした男」 アーデルベルト・フォン・シャミッソー 池内紀訳 岩波文庫




 4回めの「中世のアウトサイダー」から5回めの「カルメン」に続いた途があったので、その延長となる途も示しておきたいと思います。ハンセン病患者に刑吏(死刑執行人)、娼婦、それに魔法使い、魔女に加えて狼男もありますが、私が「アウトサイダー」と聞いて連想するのはアーデルベルト・フォン・シャミッソー Adelbert von Chamisso です。

 「影をなくした男」は、原題”Peter Schlemihls wundersame Geschichte”を訳せば「ペーター・シュレミールの不思議な物語」。主人公ペーター・シュレミールが「灰色の服の男」と取引して、際限なく金貨を生み出す革袋と引き替えに、自らの影を売り渡してしまい、それがために社会に身の置きどころを失ってしまう。愛する女性のもとも去らねばならぬこととなり、悲嘆にくれるが、偶然にも一歩で七里を歩くことのできる魔法の「七里靴」を手に入れ、世界を股にかけ、植物学や動物学の研究に没頭して人生の平安を得る・・・というドイツ・ロマン主義時代のメルヒェン風物語です。



Adelbert von Chamisso

 もともとシャミッソーはフランスの名門貴族の子として、1781年由緒あるボンクール城に生まれ、世が世であれば父親の跡を継いでフランス貴族として生涯をおくるはずであったところ、1789年に起こったフランス革命によって家は貴族の特権を剥奪されて家族もろともベルギーやオランダを転々とした後、プロシアの首都ベルリンへ。20歳でプロシア軍士官となり、すっかりドイツ人になってしまったのですね。シャミッソー一家は1802年にこのドイツ人化してしまった息子を残してフランスへ戻っていきます。一方軍士官シャミッソーは、1806年にはナポレオン戦争に駆り出され、自分の祖国を敵に闘うこととなり、捕虜とされ解放された後はベルリンに戻らずフランスへ。故郷ボンクール城は壊され廃城となっており、兄弟や親類縁者はこの「ドイツ人」に冷淡でした。
 つまり、ドイツにあってはフランス人、フランスにあってはドイツ人、いずれの側から見てもアウトサイダーである、帰るべき故郷を失った根無し草。
 そしてロシア派遣の北極探検船に乗り込み、足かけ3年にわたる世界一周の大航海へ。植物学者として研究と調査旅行にいそしむ傍ら、詩人として名をなします。たとえばシューマンの歌曲「女の愛と生涯」はシャミッソーによる詩です。

 いかがでしょうか? 祖国をなくした男が影をなくした男を書き、国籍だの国境だのといったものをやすやすと超えさせてくれる「七里靴」を夢見た―岩波文庫の解説でもそうなんですが、こうした作者の実体験が作品に反映しているといった読み方は近頃はやらないようですね。それどころか、そのような読み方は間違っているのなんのと決めつける傾向にある。たしかに、私もこの物語を芸術家によるユートピア探索・創造の物語とも受け取れないではない。
 でもね、やっぱり私はこの物語とシャミッソーの人生に重なりあうものを感じ取らないではいられません。これは詩「ボンクール城」にしても同様です。作者の境遇の反映を否定するのも無理があるんじゃないでしょうか。

 だからといって、この物語が悲劇的だとか悲愴感にあふれているとか言うつもりはない。軽妙で、ユーモアにも欠けていない、たのしいメルヒェンであることに間違いはありません。
 それでも、ふと作者のため息が漏れ聞こえてくるような寂しさが漂っている。
 それでも、微笑をたたえたメルヒェン。

 なんだか、晩年の澁澤龍彦による、結果的に遺作となった「高丘親王航海記」と、作者のスタンスが似ているとは思いませんか。これが文学作品の極意―ひとつの方法なんですよ。




七里靴

(おまけ)

 ただいまの話に出てきたシャミッソーの詩「ボンクール城」を引用しておきます。
 引用元は「名訳詩集」(白凰社)、訳は小牧健夫です。


  ボンクール城

 わたしは銀髪の頭を振り振り
 夢に幼いころに立ち返る。
 もろもろの像よ、おんみらは何故わたしを訪れるのか。わたしは年久しくおんみらを忘れていたのだが。

 蔭ふかき柵の上に
 かがやく城は浮かび立つ。
 わたしは識る、あの塔を、あの城壁を、
 あの石橋を またあの大手の門を。

 あの大戸の紋章の
 獅子はしたしげにわたしを見まもる。
 わたしは昔なじみたちに会釈し
 城の中庭へいそぐ

 かしこ泉のほとりにスフィンクスは横たわり
 かしこ無花果樹は青々と茂る。
 かしこに見える窓々の奥で
 わたしは初めて夢を見てすごしたのだ。

 わたしは城の礼拝堂へ足を入れて
 祖先の墓をたずねる。
 かしこだ。かしこの柱に
 昔ながらの武器がかかつている。

 わたしの眼はおぼろに霞んで
 碑銘の文字が読めない。
 五彩の玻璃窓を通じて
 光がその上に射していても。

 父祖代々の居城よ。おんみは今も
 わたしの心のうちにかくも忠実に儼として立つ。
 だが、おんみは地上から跡を消し
 おんみの上を鋤が通つている。

 いとしい土よ、稔り豊かなれ。
 わたしはおんみを情愛こめて祝福する。
 誰がおんみの上に鋤をはこぶにしても
 わたしはそのひとを二倍にも祝福する。

 さわれ、わたしは琴を手にして
 元気よく起ち上ろう
 広い大地をさすらいあるき
 国から国へと歌つて行こう


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「影をなくした男」 アーデルベルト・フォン・シャミッソー 池内紀訳 岩波文庫

Adelbert von Chamisso ; Saemtliche Werke (Winkler Verlag Muenchen)
「ドイツ幻想文学の系譜」 ヴィンフリート・フロイント 深見茂訳 彩流社
「元型との出会い」 トーマス・インモース 尾崎賢治訳 春秋社

「名訳詩集」 西脇順三郎・浅野晃・神保光太郎編 白凰社


Diskussion

Parsifal:たしかに、微笑をたたえた寂しさ漂うメルヒェンだね。嫋々たる私小説なんぞよりも、はるかに胸を打つよね。

Hoffmann:水蒸気過多のべちゃべちゃな文章で、どうでもいいような「内面」とやらを開陳している、いわゆる「中二病」というやつかな、登場人物が自分に酔ってるような、あれは作者が酔っているわけで、あんなものは「小説」ではないし、もちろん「文学作品」とも言えない、作者の「汚物」なんだよ

Kundry:ああ、また(笑)具体的な名前は出さないでくださいよ。

Parsifal:シャミッソーの旅行記は「世界周航記」の一部が、国書刊行会から出たドイツ・ロマン派全集第II期第18巻の「郵便馬車にゆられて」に竹内節により訳出されていたね。

Hoffmann:あれは1815年に共同研究者としてロシアの探検隊に参加したときの手記をもとにして後年執筆されたもの。だれか全訳してくれないかなあ。
 ちなみに、一定のテーマで企画された全集・作品集や個人全集は、いちどきに全巻入手しない場合、このような旅行記や、上記「ドイツロマン派全集」でいえば日記・書簡・回想集である「詩人たちの回廊」、自然論・歴史論集である「太古の夢・革命の夢」などの巻は、優先的に入手しておくことをおすすめしたいね。各作家の代表作はほかで読めることも多いから、後回しにしてもいい。むしろこうした記録から作家やその作品の背後にあるものが見えてくることも多い。それに、あまりよく売れそうな巻でもないため、後になると入手しにくくなることが予想されるのでね。


Klingsol:全集本なら、まず手を出すべきは別巻だな(笑)

Parsifal:シャミッソーを読むのに、Hoffmann君が取りあげた池内紀訳でなにも問題はないんだろうけど、個人的には昔角川文庫から「影を賣つた男」という表題で出た(昭和27年刊)手塚富雄の訳が好きかな。

Kundry:それにしても、「七里靴」って唐突に出てくるような印象もありますが・・・。

Klingsol:”Siebenmeilenstiefel”、一歩で7マイル進むという魔法の靴だな。
 悪魔に影を売るということは魂の喪失を意味するのはもちろんだが、ドイツ語で”ueber den eigenen Schatten springen”(自分の影を飛び越える)と言えば「むなしい努力をする」ことをあらわす慣用表現だ。深読みかもしれないけど、「七里靴」を入手してはじめて生きがいを得る、人生に慰めを見出す、というのは、つまりそれだけの魔法の跳躍で「飛び越える」ことが必要だった、ということじゃないかな。