012 「神隠し」 小松和彦 弘文社




 引き続き私、Klingsolが前回の予告どおり、小松和彦の「神隠し」について語ります。



 この本は、「神隠し」と言われるさまざまな事件や、柳田の「遠野物語」や「山の人生」のなかの神隠し譚を引用して、そこに見える約束ごとや、天狗や狐、鬼、果ては山姥から口裂け女へと、「隠し神」が時代とともに変遷する様、そしてユートピアとしての異界訪問を論じて、神隠しの意味をとらえようとするものです。

 私が興味を持ったのは、第二章の「神隠しにみる約束ごと」。

 ここでは柳田の「山の人生」に記述された神隠し譚の分析からはじめて、神隠しが発生しやすい時刻は夕暮れどきと考えるところが多かったことを指摘しています。子供の隠れん坊でも、夜分は鬼に連れて行かれるとタブーとされていた地方は多い。しかし、これはたとえ昼間に誘拐されたとしても、失踪に気付くのは家に戻ってくるはずの夕方だから。

 ここで隠れん坊という隠れ遊びの本質について、ここでは藤田省三の見解を引いています。そこでは、隠れん坊の鬼が何十か数えて目を開いたときのひとりぼっち感、社会が無くなった空白感、自分独りだけが隔離された孤独の経験、この「迷子の経験」が、神隠しにあったものが経験するであろう心理的体験で、隠れん坊の鬼も、隠れる方の番に当たった者も、経験しているものである、とされているとのこと。

 一方で、西村清和の説を引き、そこでは隠れ遊びが社会からの離脱・隔離の象徴体験そのものではなく、離脱しないようにという遊びの約束ごとのなかで、隠れつつもほどなくして発見される状態を楽しみつつ、「見る―見られる」という往還の遊動をくりかえしている、とされていると述べています。

 著者はこのふたつの説を共存しうるとして、ここに夕暮れどきの隠れん坊が神隠しにあいやすいのかという答えがあるとします。つまり、隠れん坊はおとぎ話の構図を身体によって再演する遊びであり、そのおとぎ話は鬼が出没して人々を異界に連れ去ってゆくことを物語っている、鬼が出没する夕暮れどきに隠れん坊をするということは、一種の模倣呪術的行為であり、鬼を呼び寄せてゲームが現実になってしまうからタブーであると。そして鉦や太鼓による捜索は、人間界と神界・異界との間の往還を象徴的に意味しており、日本の打楽器は、神界・異界とコミュニケーションを図るための道具であったと指摘します。

 さらに神隠しのタイプ四つに分類して―

A1 失踪者は無事な姿で発見され、失踪中の体験を覚えている
A2 失踪者は無事な姿で発見されるが、失踪中の体験を覚えていない
B 失踪者は行方不明のまま発見されない
C 失踪者は死体で発見される

 このBとCに関しては、神隠しだと推測するのは残された村人たち。失踪者になにが起こったのかはわからない、わからないからこそ、「神隠し」のラベルを貼り付けて処理しようとする。
 そしてA1とA2について検討すると、発見場所や帰還者の言動にも「約束ごと」が見られると指摘します。たとえば、異界のイメージも、天狗信仰を反映していれば山奥、あるいは天狗たちの集会(酒盛り)と、それは失踪者の独自体験ではなく、失踪者が属する民俗社会の天狗幻想を語っているものであるとしています。

 そして、柳田國男も指摘しているように、神隠しにあうのは、幼い子供、痴鈍な大人、あるいは一時的に精神障害を生じているような人物、そして若い女性が多かった・・・。

 以上のことから導き出される神隠しの本質―この本が到達した結論は、神隠しとは、実世界のさまざまな現実をおおい隠すために作り出され用いられた語であり観念である、というものです。

 失踪事件が発生する。数日後に失踪者が死体となって山中で発見される。事故死であれ、自殺であれ、また殺人であれ、その発見場所や死体の状態などに「不思議」を見つけ出して、「神隠し」というラベルを貼り付ければ、すべてが不問に付されて、失踪者=死者は“向こう側”に送り出されることになる。
 戻ってこない失踪者の場合も、「神隠し」と決定すれば、じつは家出か駆け落ちか、そうした事情は、たとえそれを知るひとがいたとしても不問に付されて、失踪者はその社会では死んだことになる。つまり「神隠し」とされることは”社会的死”の宣告。
 失踪者が戻ってきた場合も同様。なぜ消えたか、どこにいたか、なにをしていたのか、「神隠し」となれば、すべてが不問に付され、またその社会に受け入れてもらえる。この場合、「神隠し」とされることは“社会的再生”。
 つまり、「神隠し」は人を隠してしまうだけではなく、真相を直視することも隠してしまう機能を持っていた。過去を水に流す、そのための方便が「神隠し」だった、というわけです。

 親が我が子を口減らしのために崖から突き落としたのかもしれない、嫁いではきたものの夫の両親との折り合いが悪くて家出をしたのかもしれない、精神障害で徘徊・放浪していたのかもしれない、そうした真相のいずれもが、「神隠し」のラベルを貼り付けることで隠されて、追及されることもなく闇に葬られる。

 現代では異界を失い、神隠しも失われてしまった。従って、すべての事件は人間社会の論理・因果関係のなかで説明できると判断されている。著者は次のようにこの論考を結びます。


 現代こそ実は「神隠し」のような社会装置が必要なのではないか・・・家族生活や学校生活(受験生活)、会社勤めなどに疲れ切った私たちに、「神隠し」のような、一時的に社会から隠れることが許される世界が用意されていたらどんなに幸せなことだろう。そこに隠れたと見なされたとき、私たちは”死者”として扱われ、まもなくしてそこから戻ってきたときは、失踪の理由をあれこれ問われることなく再び社会に復帰・再生できるのだから。

 いじめの問題にしてもそう、多くの人が「なぜだ」「なぜだ」と問う。なかには、いじめられる側にも問題があるのではないかなどと、根拠もなく想像するひとも出てくる。いじめにあって、苦しみ、つらい思いをしているひとに、「なぜあなたはそんなめにあうのか」と問うのはセカンド・レイプと同じこと。「不問に付す」「闇に葬る」「臭いものに蓋をする」というのも、一面、昔のひとたちの知恵なのかもしれません。


(Klingsol)


引用文献・参考文献

「神隠し」 小松和彦 弘文社

「神隠しと日本人」 小松和彦 (角川ソフィア文庫
「遠野物語・山の人生」 柳田国男 岩波文庫



Diskussion

Parsifal:「臭いものには蓋」という古来の知恵にも一理あるよね。

Hoffmann:よく、人は怒る理由があって怒るのではない、怒る理由をさがしているのだ・・・って言うじゃない? ネット上のいわゆる「自粛警察」なんて、まさにこれだよね。

Parsifal:理由があって文句を言うのではなく、文句を付ける理由をさがしている、というわけだな。たしかに、国会での野党の「追及」なんて、そんなことどうでもいいじゃないか、って問題まで無理矢理引っ張り出しているよね。

Kundry:政治と宗教問題はふれない方がいいんじゃないですか?

Hoffmann:だけどさ、他人のことになるとどうでもいいようなことまで「追及」して、自分のことになると知らんぷりしているよね(笑)何年か前には山尾志桜里とかいう国会議員が倉持麟太郎とかいう評判の悪い弁護士との不倫報道があったよね。あのとき思ったんだけど、日頃はやたら他人にどうでもいいようなことでも「説明責任」を求めているくせに、自分のことになるとは「むき出しの好奇心には屈しない」なんて言って、口汚い下品な言葉遣いで腐った関係に蓋をしている莫迦は議員として以前に人としてどうなんだ? しかもやっていることはただのダブル不倫のヨコレンボ。いよいよになると行方をくらましてカクレンボ(笑)

Parsifal:むき出しの性欲にはかないませんなあ。ちなみにあの弁護士の元妻、自殺したんだよね。そんな鬼畜同士、いまでもよろしくやっているのかね?

Hoffmann:自分のことになると・・・って言えば、冷蔵庫の件でtwitter炎上したS水とかいう莫迦が、外を歩いていると他人の視線が気になって外を歩けない、なんて急に被害者ぶっていたけど、こいつ、ほっといたら面白半分でどこまででもエスカレートするくせに、自分がやられる側になったら被害者ぶって「外を歩けない・・・」なんて、自業自得だろ。そもそもお店閉店させて、仕事がなくなってしまったアルバイトやパートさんこそが被害者じゃないのか。まともな想像力のある人間ならあんなことはやらないし、他人の視線より前に自分の行動にこそ恐怖しろよ・・・ってこと。

Kundry:さすがに、こうした話題は「自粛」しましょう。Klingsolさんも困っていますよ(笑)

Parsifal:「不問に付す」のも当人のケアという点では意味があるよね。

Hoffmann:他人のことはどうでもいいようなことまであげつらい、自分のことになると被害者ヅラして・・・ってのがまかり通ってるのが問題なんだよ。

Parsifal:「不問に付す」のも、「水に流す」のも、周囲の人間が決めることだよね。自分から要求することじゃない。

Klingsol:「水に流す」なんて言うと、いかにも農耕民族の特性らしく聞こえて、責任問題をないがしろにしているような悪いイメージがあるけれど、社会装置としては見直してもいいかもしれないね。関係者の間でさえそうなんだから、Hoffmann君の言った「自粛警察」みたいな、安全地帯から盲目の正義感を押しつけてくる手合いは始末に負えないよね。

Hoffmann:おっと・・・そうならんように気をつけます。

Parsifal:不倫報道といえば、以前、不倫相手の女優さんの下着を頭にかぶったお医者さんがいたよね。あの件など、当の写真が流出してしまったという、当人にとっては取り返しのつかない痛恨事をもって、不問に付してあげてもいいような気がするね。

Hoffmann:あくまで私人のプライヴェートレベルの話だし、なにしろコトに滑稽なおかしみがあるからねえ(笑)

Kundry:今日は話題がとんでもない方向に・・・(笑)でも、Klingsolさんのお話にあったように、現代の「駆け込み寺」があってもいいのかもしれませんね。

Hoffmann:事件があったとき、犯人も捕まって裁判になって、はたしてこのうえ真相を追究したり解明したりする意味があるのかなって思うことはあるな。もちろん、黒幕でもいるというなら解明も必要だろうけど・・・むしろその裁判や取り調べの過程で「真相」が捏造されたり、捏造までいかなくても、説明しやすいように作り直されてしまうケースがあるんじゃないかな。

Parsifal:よく、小説のレビューで「オチがない」って不満を表明している人がいるよね。「なるほどそういうことだったのか」って、スッキリしたいんだよ。でも、現実の出来事なんて、たいがいオチがない。事件に巻き込まれた人は気の毒ではあるけれど、理由のない犯罪なんていくらでもあるだろう。何故この被害者が選ばれたか・・・となると、被害者側が納得できる理由なんかないんだよ。たとえば愉快犯や模倣犯が「愉快だから」「模倣したくて」と説明したところで、被害者側は「納得」できない、納得できないから「事件の全貌を明らかにして欲しい」と訴えるわけだ。

Hoffmann:Klingsol君の言うとおり、子供が学校でいじめられたと泣いているとき、学校の先生や親が「なぜなの?」「どうしていじめられるの?」「いじめられる理由はなに?」と問い詰めるのはセカンド・レイプなんだ。言われている子供にしてみれば、「おまえに原因があるのではないか」と責められているようにしか思えない。よくある「被害者にも原因がある」っていう発想はこの無理矢理な「理由探し」から発しているんだな。

Kundry:強引にオチをつけようとすると、かえって問題の本質から離れてしまうということですね。


Parsifal:ところが多くの人は、理不尽なことがあったとき、なにか納得のいく理由がないと落ち着かないんだよ。


Klingsol:それが、いわゆる「陰謀論」の苗床なんだな。