013 「山の怪談」 岡本綺堂 他 河出書房新社




 第11回から連想して山の怪異譚を。たまたまここ何年間かの間に、山に関わる怪奇実話、さまざまなテーマの実話集(実話本)の何冊かを入手して目を通したところ、存外愉しめたこともあって、ここでいくつか紹介しておきます。

 ここでは山と渓谷社の本からいくつか―

 田中康弘「山怪」と続篇の「山怪 弐」。著者は巻末の記載によれば、1959年生まれのフリーランスのカメラマンで、「農林水産業の現場、とくにマタギ塔の狩猟に関する取材多数」とあります。 
 この本は、山関係、狩猟関係の現場で取材した際に聞いた、「山での不可思議な出来事の類い、大蛇や狐に関する謎の現象譚」をまとめたもの。本の腰巻(帯のこと。かつては「腰巻」というのが正しい用語だったよね)には「山で働き暮らす人々が遭遇した奇妙な体験。現代版遠野物語。」とある。
 たしかに、不思議な現象を「あれは狐だ」と語った、といった素朴な話が多く、「遠野物語」を思わせる説話集と見えます。ただしいかなる話も、解釈など加えてていない生のままでなければならぬ、という柳田国男ほどの徹底したピューリタンではなくて、著者の感想や「あれはなんだったのだろうか」といったオチがついているあたり、私はこうした実話集を安易に「遠野物語」になぞらえることには反対したい気分もありますね。話の最後に、時にトボケたコメントなどを加えているものもあり、通俗的な読み物の領域を出るものではなく、「遠野物語」と同列に論じることはできないとは思いますが、現代の怪異譚として愉しめました。

 工藤隆雄「新編 山のミステリー」は山小屋の主人や登山者が経験した、不可思議な現象の実話集。必ずしも超自然現象ばかりではなく、広い意味でのミステリーとして、人間の不可思議さ、理解しがたさを語る話もあって、そんな話がかえってリアリティを感じさせます。同じ著者による「マタギ奇談」はマタギに聞いた話をまとめたもの。どちらかというと、後者の方がおすすめ。

 伊藤正一「定本 黒部の山賊」。ここでいう山賊とは、山のガイド、遭難救助員、漁師として黒部とその周辺の山まで暮らした人々のこと。そうした人々に取材した実話集。鬼窪善一郎(語り)白日社編集部編「新編 黒部の山人」は「定本 黒部の山賊」に登場する人物が山や猟について語った話をまとめたもの。

 東雅夫編「文豪山怪奇譚」は火野葦平、田中貢太郎、岡本綺堂、宮沢賢治らによる、山にちなんだ怪談もののアンソロジー。私の好みでいくつかあげると、岡本綺堂「くろん坊」、泉鏡花「薬草取り」、田中貢太郎「山の怪」など、鉄板とも言うべき怪談作家による作品に加えて、平山蘆江の「鈴鹿峠の雨」。なお、この本には、柳田國男の「山人外伝資料」も収録されています。その後同じ編者による続篇「山怪実話大全 岳人奇談傑作選」も出ました。前者が面白く読めた人は併せてどうぞ。


岡本綺堂

 さて、今回取りあげるのはアンソロジー「山の怪談」です。

 収録されているのは、「I 山の怪異の民俗」には柳田国男(「国男」はこの本での表記)の「入らず山」を筆頭に5編。「II 文人・林人の心霊の話」には小泉八雲、岡本綺堂、志賀直哉、平山蘆江ほか全8編。「III 岳人の怪奇・神秘体験」には深田久弥ほか全7編です。
 実話、エッセイ、小説とさまざまな作品が並んでおりますが、読み終わって心に残るのは、やはり文学作品たる小説です。個人的には岡本綺堂、平山蘆江、豊島与志雄あたりが好きですが、工藤美代子の日常のなかでひとと交わした会話の間に惻々とした恐怖が垣間見える「行ってはいけない土地」もいいですね。軽快な文体で不思議な余韻を残すあたり、実話もののお手本としたいところです。

 深田久弥の「山の怪談」などは上記「山怪実話大全 岳人奇談傑作選」とダブるんですが、これは後者の編者東雅夫の鑑識眼のたしかさを示すもの。ここで取りあげる本はこの編者による2冊でも良かったのです。とはいえ、今回の「山の怪談」もなかなか渋めのセレクション、どれも手許に置きたいアンソロジーです。

 じつは、柳田国男の「入らず山」が冒頭に置かれているのはちょっとした皮肉なんですね。この短いエッセイでは、「山の神秘」は「山小屋の火の傍では、そういろいろ山の話はしない」とあります。

 素人は山小屋に泊って、火を焚いて夜を更かしている際などに、よくこの類いの話を聞いてみたくなるが、さっそくその間に答えて話すような人は少ない。山にいろいろ不思議があるということは、直接に山の威力の承認を意味する。そんなことをいってしまえば自分がまず弱くなる。だからだまって笑っているだけでなく、中には明白に今までいっこうにそんな経験はないと、答えるものさえ多いのである。

 多くの神秘談は死の床で、もしくは老衰してもう山で稼げなくなった者が、経験を子弟に伝えようとするついでにいい残すのが普通になっていて、そういう話の聞書には真実味がある。そうでない場合に面白げに話すのは、作りごとでないまでも、受け売りの誇張の多い話と見てよい。


 たしかに、世に多い実話本の類いはフィクションか「受け売りの誇張の多い話」ですね。それではこの本に収録されている話は?(笑)
 念のため付け加えると、上記の一節の後には「(山の話は)何ともかともいいようがないほど怖ろしかった」と続き、さらに話し手はその不思議を承認して、「やたらに批評したり、考えたりする者には話したがらないのである」とあります。読み手である我々も、あるがまま受け入れてみるのが礼儀というものかもしれません。


平山蘆江

 そも「入らず山」とはなにか―これは、聖地であるとか不浄の地であるからというようなことばかりでなく、自然に対する畏怖の念からそう言われるようになったものもあるはずです。民俗学者、宮本常一によれば、ひとたび入り込むと、もう出口が見つからなくなるという「入らず山」の話は四国の徳島、高知あたりに多いほか、「山七合目から上は神様のもの」とか、神の許しを受けなければ入れぬといった伝承は、中部地方から近畿、中国、四国山中のところどころで聞かれたそうです。そうした禁を破れば罰を受ける。たとえば加賀白山の畜生谷へ行くと、犬や馬に変えられてしまう・・・。泉鏡花の小説「高野聖」を思い出しますね。

 山というものは人間の日常生活の領域を超えて、天上近くにまで聳え立っているため、世界各地において「神に近い場所」をあらわすシンボルとなっています。とくに火山は、人間界と超人的世界とを結びつける、不気味であると同時に崇高な場所と考えられることが多かったのですね。我が国の富士山ももちろん、シリアのシナイ山、ギリシアのオリュンポス山などはしばしば神の力の象徴となり、絵画にもそのようなシンボルとして描かれています。

 逆に、宇宙全体が段丘状の山腹を持つ山として表現されることもあり、階段式のピラミッド型で表現されることもあります。聖なる山への巡礼は、日常の領域から一歩ずつ離れていくことや、精神的な高みへと昇りつめてゆくことの象徴であって、たとえばスペインの神秘思想家ホアン・デ・ラ・クルスは、自らが神の御許に近づいてゆく過程を「カルメル山登攀」になぞらえていたそうです。

 山岳巡礼は世界各地で行われており、オーストリアのケルンテン州では「四山巡礼」が盛んであり、日本の富士山の例をあげれば、毎年多くの巡礼者(登山者)が頂上をめざし、また頂上まで行かずとも、山麓の神社に詣でたりしています。古代メキシコでは、イスタック・シワトル山地のトラロック山が同じ名前の雨の神トラロックの偶像が置かれた山として知られており、人々はこの神像の頭に農作物の種をのせて、豊作を祈願したということです。

 標高の高い山であればあるほど、周囲にくらべて天の近くに位置することとなり、そうした山は神のすみかとしてイメージされる一方で、しばしばその周囲に雲を集め、それによって雨をもたらす存在ともなります。

 また山の頂は日常の領域から「抜きん出ていること」を象徴して、天上においてほかの星々が描く円軌道の中心である北極星の真下にある山としてイメージされていました。

 キリスト教の図像では、世界の終わりに現れる審判者が、しばしば雲の上に座った姿で描かれています。その一方で、キリスト教はほかのすべての山を、象徴的な意味においてではありますが、平らに「ならして」しまった・・・とされており、これは異教的な山岳信仰を否定しようとしたものと考えられます。このことによって、中部ヨーロッパにキリスト教が浸透して以来、かつて神聖な存在とされてきた山々が、悪霊が跳梁跋扈する、魔物のすみかとされるようになってしまったというわけです。たとえば、ハルツ山地のブロッケン山では、魔女たちが悪魔の司式のもとに涜神的な儀式を執り行っているとされていましたよね。

 しかし、キリスト教徒も案外と行き当たりばったりなところがありまして、異教的な山岳信仰にとって代わるため、山々の頂に教会や礼拝堂を建てたりもしたという ambivalent も。山頂に十字架が立てられるようになったのは近代以降のことですが、これは異教的な山岳信仰と同様な、山(頂)が神に近い場所であるという畏敬の念を抱き、それを新たな形で表現したものであったのでしょう。

 山というのは神聖な聖地なのか、はたまた悪霊やら魑魅魍魎やらが跳梁跋扈する異界の地なのか、はたまたそれはヤヌスの双面神の如き表裏一体のものであるのかという問いに答えようと、こうして、人々が山に対して抱いたさまざまな思いをたどってみたわけですが・・・

 そう、山はそれ自体精神なのです。


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「山の怪談」 岡本綺堂 他 河出書房新社

「山怪」 田中康弘 山と渓谷社
「山怪 弐」 田中康弘 山と渓谷社
「山怪 参」 田中康弘 山と渓谷社
「新編 山のミステリー」 工藤隆雄 山と渓谷社
「マタギ奇談」 工藤隆雄 山と渓谷社
「定本 黒部の山賊」 伊藤正一 山と渓谷社
「新編 黒部の山人」 鬼窪善一郎(語り)白日社編集部編 山と渓谷社
「文豪山怪奇譚」 東雅夫編 山と渓谷社
「山怪実話大全 岳人奇談傑作選」 東雅夫編 山と渓谷社

「文豪怪談傑作選 特別篇 鏡花百物語集」 東雅夫編 ちくま文庫
「現代怪談実話傑作選 私は幽霊を見た」 東雅夫編 MF文庫ダ・ヴィンチ
「日本怪談実話 全」 田中貢太郎 桃源社
「崇高と美の観念の起原」 エドマンド・バーク 中野好之訳 みすず書房
「美と崇高との感情性に関する観察」 イマヌエル・カント 上野直昭訳 岩波文庫
「判断力批判」(上・下) イマヌエル・カント 篠田英雄訳 岩波文庫


Diskussion

Parsifal:死と再生というと、第10回の「ファールンの鉱山」の話を思い出すね。

Kundry:絵画でも、山というのは宗教的なテーマを内包していますよね。

Hoffmann:例によってカスパール・ダーヴィト・フリードリヒの絵を思い出すね。たとえば「リーゼンゲビルゲの朝」。


Caspar David Friedrich ”Morgen im Riesengebirge

Parsifal:フリードリヒなら、ほかにも「ヴァッツマン山」とか―バイエルン地方のヴァッツマン探訪は当時流行したらしいけど、まさに美と崇高を同等に扱っているよね。よくある、山小屋やそこに住み着いた人のいる、理想化された山ではない。まして、幸福なアルプスの生活への憧れもなく、描かれているのは人を寄せ付けない未踏の自然だよね。

Klingsol:カントの「判断力批判」における崇高論、より直接的にはエドマンド・バークの「崇高と美の観念の起原」の時代だからね。

Kundry:前回の柳田國男のお話のときの「予定調和」など、どこにも見当たりませんね。

Hoffmann:それなら「岩の峡谷」、それに山ではないけれど「氷海」もあげておきたいね。


Caspar David Friedrich ”Die Felsenschlucht”


Caspar David Friedrich ”Der Watzmann”


Caspar David Friedrich ”Das Eismeer”

Parsifal:「岩の峡谷」は、前景の倒木が人間の侵入を拒否しているね。

Klingsol:その先の山麓へと続く途であろう道も霞に覆われている。さらに、V字の鋭角的な構図と、すべてが人間に開かれることのない山岳の厳しさをあらわしているんだね。
 一方、「氷海」の構図は「ヴァッツマン山」とほとんど一致している。じっさい、フリードリヒはこの2作を対をなすものと考えていたようだ。1826年、ベルリンでの展示の際は両作品を向かい合わせにするよう希望したそうだよ。


Hoffmann:そうなんだ。じつは我が家にあるオットー・クレンペラーのレコードで、ブルックナーの交響曲第8番の独プレス盤のジャケットが「ヴァッツマン山」で、マーラーの交響曲第9番の仏プレス廉価盤が「氷海」なんだよ。だからついレコード棚に収納するときに並べておきたくなる。カスパール・ダーヴィト・フリードリヒにも喜んでもらえそうな気がして(笑)
 同じ頃の「高い山脈」という絵に対する展覧会批評は次のような印象を伝えているんだ―


 私はこの太古の山岳の神聖な偉大さの前に跪いて祈ることもできる。またこの枯れ行く小さな木に泣くこともできる。それは、険しい入り組んだ岩壁に挟まれて立ち、こんなにも孤独で消えゆかんばかりだ! まるで崇高な教会の音楽のように、この風景は私の心に語りかけ、憧憬を目覚めさせ、また想いを静める!

Kundry:ここに挙げたすべての絵にも適用できる評ですね。

Klingsol:さて、せっかく美と崇高に浸っているところで散文的になってしまって申し訳ないんだが、ここでちょっと指摘しておきたいのは、象徴なんかじゃなくってね、坂道や階段を登る時の息切れだな。健常な人でも山登りや激しい運動をすれば息切れを感じるよね。坂道や階段を上るという動作は、運動している時と同様に、安静時より多くのエネルギーを必要とする。エネルギーが増加すると、酸素需要も増加し、もっと息をするようにと体に命令するので、息が切れるわけだ。つまり、呼吸をするための仕事量が増えている状態になる・・・。

Kundry:健康な人ならばちょっとした坂道や階段を登ったところで、息切れを感じることはほとんどないのでは?

Klingsol:そうだね。わずかな運動で息切れを生じる場合には、酸素を体に取り込むのに支障があるような病気の存在が疑われる。
 ところが、そうした状態が身体的な要因ではなくて外的な要因で発生するのが山なんじゃないかな。つまり、「ちょっとした」運動量ではすまされないケース。あるいは、空気が薄い高山部ではどうだろう・・・そうした身体的不調に見舞われるのもひとつの体験であり、通過儀礼でもある。登って、下りる。ここで象徴を持ち出すと、死と再生、というわけだよ。


Parsifal:なるほど通過儀礼 initiation か。たしかにあらゆるinitiationには死のイメージが付きものだね。


Hoffmann:こちら側の世界とあちら側の世界をつなぐ機能があるんだ。

Klingsol:たとえばの話―なぜ、トンネルには心霊スポットとされる場所が多いのか?
 心霊スポットされるトンネルのほとんどが、最新技術によって造られたものではない、古い時代のものなんだよ。古い時代のトンネルは照明設備の整っていない暗い場所が多くて、経年劣化で地下水の水漏れがあるなど「暗い、冷たい、じめじめしている」といった心霊現象が起こりやすいとされる場所の条件が整っている。
 シールド工法が確立される以前、トンネル工事では落盤事故が起こりやすく、じっさいに多数の犠牲者を出した工事も少なからずある。なかには、生贄となる人を土壁の中に埋めたという人柱の噂や言い伝えがあるトンネルもあるよね。このようなことから、トンネルには「死」のイメージがつきまとっているわけだ。

Kundry:トンネルは入り口側の世界と、出口側の世界をつなぐ道―出口側というのは入口側から見れば異世界だから、現世と異世界をつないでいるというわけですね。

Klingsol:神話に語られた黄泉路を連想させるよね。イザナギは死んだ妻であるイザナミを忘れることができず、異界である黄泉平坂を通って死者の世界に赴き、そこで醜く成り果てたイザナミの姿を見てしまう・・・。つまり、トンネルはその構造がそもそも日本人にとって死や死後の世界を連想させやすいものになっているんだな。だから心霊スポットだなんていう噂話が生じやすいわけだ。
 橋なんかもそうだな。「あちら側」と「こちら側」をつなぐ通路―しかも宙に浮いていて、落ちたら死んでしまう、そんな生の不安定さを意識させる通路だから、やっぱり心霊スポットとされることが多い。

Parsifal:象徴ではなくて、集合的無意識だね。いや、そもそも象徴というものを生み出したのが集合的無意識なのかな?