015 「鬼の宇宙誌」 倉本四郎 平凡社ライブラリー




 第12回の「神隠し」のときに取りあげた本によれば―昔話のなかでは、天狗は子供を好み、鬼は若い女性を好んでさらってゆく傾向がある。天狗には、人間に異界を覗かせてくれるような、あまり悪意のない説話もある。失踪者が戻ってきたときに「天狗か狐のせい」とは言われても、「鬼のせい」とは言われない。なぜなら、鬼は凶悪な存在で、人間をさらってゆく目的は、その人間を喰らうか、あるいは妻とするためなのであって、連れ去られた者は二度と人間界に戻れないためである、ということなのですが、それでは、鬼はとことんネガティヴな存在なのか? もしそうだとすればなぜなのか?

 ・・・というわけで、今回は鬼についての本を取りあげます。

 平凡社ライブラリーの「鬼の宇宙誌」、この本を読む前に、まず目次をごらんいただきたい。


 まえがき 闇の王の素姓
 第一章 狼男はヨーロッパの鬼である
 第二章 地獄の業火は鍛冶場の火である
 第三章 大工道具が地獄の責め具となる理由
 第四章 車輪は女神の女陰である
 第五章 酒天童子を殺したのも鬼である
 第六章 鬼退治は男原理による女原理の制圧譚である
 第七章 鈴鹿の女鬼は錬金術師だった
 第八章 欠けたる者こそが打ち出の小槌を得る
 第九章 婆さん怖い
 第十章 つづらは鬼の母胎である
 第十一章 烏天狗は鼻高天狗の手下ではない
 第十二章 頼光四天王は鬼ウナギではないか
 第十三章 カッパも鬼族だから腕を抜かれる
 第十四章 能登のコイは鬼が釣る
 第十五章 ハイテク半島とは鬼ヶ島である
 第十六章 江戸時代の嫁入り道具は鬼入りだった

 目次からわかること―この本の内容について、想像できることは、どうやらひとつの結論に向かって論考を積みあげていくよりも、鬼あるいは鬼との関連で、いくつものテーマを並置してゆく内容らしいこと。「結論」「まとめ」らしき章がないことからも、そのように想像できます。私が気になるキーワードは、「鍛冶場」「錬金術師」のふたつ。これはオカルティズム面での関連であり、また鬼をアウトサイダー的に捉えているのかもしれません。次に「大工道具」「車輪」「打ち出の小槌」「つづら」、これらのキーワードは、この本がさまざまな図像を引きながらそこにあらわれている「もの(オブジェ)」を読み解こうとしているものと推察できます。加えて、「つづら」と「車輪」、それに「男性原理」「女性原理」とくれば精神分析的なアプローチもありそうです。「狼男」というキーワードからは、著者の西欧的な思考経路がうかがわれます。


鬼ちゃん♪

 あらかじめ「鬼」についておさらいしておくと―

 「おに」の語源については、「隠(おん)」、あるいは「陰(おん)」の字音から転じたとされる説が有力です。鬼は物に隠れて形が顕れることを欲しないので俗に「隠」、また、そもそも陰と隠は死にかかわる表記として同じように使われているので陰と隠のふたつの意味の「おん」が「おに」に転訛したのであろうという折衷説を述べるひともいます。
 そして漢字の「鬼」は、死体をかたどった象形文字に、後に賊害の意味を持ち音を表す「ム」の部分が加わったものとみられています。

 日本の文献に「鬼」の字がはじめて使われたのは「出雲国風土記」で、漢字の「鬼」という字が「おに」という和訓を獲得し、それがほぼ定着したのは平安時代末期のころ。それまで「日本書紀」、「万葉集」などでは、鬼の字を「もの」「しこ」「かみ」と訓じていました。

 「もの」という読みについては、折口信夫が、極めて古くは悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを「もの」と言ったとして、「もの=精霊=鬼」とみています。これに対して、大野晋は、人間より価値が低いと見る存在・物体に対して「もの」と使い、その名を言えば実体が現れる、そのため、恐ろしいものや魔物を明らかな名で言うことはできないので、どうしてもそれを話題にしなければならないときには、ごく一般的普遍的な存在として扱うようになった結果であろうとしています。つまり「得体が知れない存在物」だから「もの」としかいいようがないというわけです。

 「しこ」という読みは「万葉集」に例があって、「鬼」は「醜」に通じるもので、一方で「鬼」は「もの」とも読まれるので、「シコ」は、異郷・霊界から出現する「もの」(精霊)と同義に考えられた、それが醜く、けがらわしいさまをいうようになった、という説と、たんに醜いということではなくて、「しこ」が死の国とかかわる言葉だったから、という説とがあります。

 一方で「かみ」と読むのは、鬼はけっして「かみ」とは呼ばれなかったが、「畏るべきところ」として近似した感覚から、「おに」を「かみ」とも言う場合があったのではないかと推測されているほか、「おに」は「かみ」の蔑称であるという考え方があるようです。


 鬼の分類としては、新道系、修験道系、仏教系、人鬼系、変身譚系といった分類のほか、単純に想像上の鬼(説話や伝説、芸能、遊戯などにおいて語られ演じられるものとしての鬼)と歴史的実在としての鬼(周囲の人々から鬼もしくは鬼の子孫とみなされた人々、あるいは自分たち自身がそのように考えていた人々)という分類があります。

 想像上の鬼は常に異様な姿で描き語られ、その基本的属性は食人性にあります。「神」の対極にあって、人々にとって恐怖の対象ですが、最終的には神仏の力や人間の武勇・知恵によって、退治もしくは追放される運命を担わされているものがほとんどです。

 この「食人性」というのがくせものでして、人間の想像力というものは月並みというか、いかなる立場にある者であっても似たり寄ったりなところがあって、ヨーロッパでも、かつてキリスト教徒は人肉を食っていると中傷され、その後ユダヤ人は当のキリスト教徒たちから人肉を食っていると中傷された・・・近親相姦についてもお互いに言い合っていたようです。人肉嗜食とか近親相姦というものは、宗教対立につきものの、「罵倒語」というか、相手を非難するときの決まり文句なのです。つまり、世のなかでいちばんの悪徳行為の代表格として、だれしもが思いつくものなのです。だから鬼=食人性という図式は、鬼を絶対的な悪の存在とし定義していることは間違いありません。

 映画のゾンビが人肉を食らうというのも、ゾンビはもともとは人間ですから、人間として最悪の堕落はなにかと考えた末に導き出された結論なので、これが究極の堕落というわけです。つまり、ホラー映画では、人間をゾンビ以上に恐ろしい悪の生き物に変身させるアイデアが、もう見あたらなくなってしまったのですね。そのためでしょう、もう数年来ゾンビ映画をコメディだとか変格ものにしている例がしばしば見受けられます。究極とは、言い換えれば行き詰まりということでもあるのです。

 話を戻すと、だから鬼は当然のように仏教思想や雷神信仰と結合した、つまり宗教に取り込まれやすい便利な存在でもあったわけです。たとえば死後に罪人が行く地獄の獄卒や天上界の雷神を鬼とみなす考えなどがそうです。

 一方、歴史的実在としての鬼については、小松和彦が、人々に鬼の実在を確信させた背景には、鬼とみなされた人たちの存在があったとして、次のように分類しています。

1 大和朝廷などの体制に従わない人々
2 体制から脱け出し徒党を組んで乱暴狼藉を働く山賊
3 農民とは異なる生業に従事する山の民や川の民、商人や工人、芸能者たち、山伏や陰陽師、巫女たち
4 鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそのように考えてきた家や社会集団

 いかがでしょうか? これこそ、歴史上のアウトサイダー、被差別民のことですよ。
 大和朝廷などの体制に従わない人々とは、「日本書紀」の「鬼」です。大和朝廷などの体制に従わない「まつろわぬ人」は鬼(もの)と呼ばれ、彼らの祭る神もまた「鬼神(もの)」と蔑視されていたのです。

 酒呑童子物語でも、酒呑童子が平野山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師が延暦寺を建てたために逃げ出し、仁明天皇の代より大江山に棲みついている、と自ら語っており、つまり酒呑童子は先住者であり、その先住者が「鬼」と見なされていたわけです。先住者=民=敗者=鬼、征服者=勝者=人間という図式ですね。

 きりがないのでこのくらいにしておいて、あとはこの本の著者が、北野天神縁起絵巻をはじめとして、中国・ヨーロッパに取材した豊富な図版に見られる事象をもとに、あらゆる文献を引きながらそれぞれの図像を読み解いてゆくさまを楽しめばよろしいでしょう。



北野天神縁起絵巻

 目次から想像されるように、一見話があちらこちらへと飛ぶ漫遊記風エッセイです。そのなかで一貫しているのは、「鍛冶場」「錬金術師」「大工道具」といったところから、鬼伝説のあるところには鉱山があり(だから私は第10回「ファールンの鉱山」からこの本を連想していたのです)、採鉱と精錬すなわち金工に携わる者としての鬼というテーマです。ただ、デューラーの作品まで持ち出して、「悪魔がフイゴを使っている作品があった」としていますが、どうしたものか、ここで、西洋の悪魔の職業が古代においては鍛冶屋、鉱山技師であったことが指摘されていません。

 私の感想としては、工人・職人=被差別民であることから、やはり鬼に擬せられたのは小松和彦の言う「歴史的実在としての鬼」であることを裏書きする流れが、とりわけ納得のいくものでありました。また、錬金術は「打ち出の小槌」にも関連づけられ、一寸法師についての考察はほとんどフロイト的ですね。ただし、「男性原理」「女性原理」ということは、なにも鬼に関する論考でなくても、昔話や伝説では共通して見られる要素ではないでしょうか。また、「つづら」に関しても、これが鬼の母胎であるというよりも、「つづら」も「箱」も、なにも「鬼の」と限定せずとも、ごく一般的な意味での「母胎」であり「子宮」でしょう。

 少々私見を述べてしまいましたが、いろいろ興味深いインスピレーションがちりばめられており、個人的にはこういった話があちらこちらへ飛ぶ考察のエッセイはまんざら嫌いじゃありません。


(Klingsol)


引用文献・参考文献

「鬼の宇宙誌」 倉本四郎 平凡社ライブラリー

「鬼の研究」 馬場あき子 ちくま文庫
「酒呑童子の首」 小松和彦 せりか書房
「妖怪文化入門」 小松和彦 せりか書房
「怪異の民俗学4 鬼」 小松和彦編 河出書房新社
「鬼と日本人」 小松和彦 角川ソフィア文庫
「賤民にされた人びと」 柳田国男 河出書房新社
「被差別の民俗学」 折口信夫 河出書房新社
「鍛冶師と錬金術師」(エリアーデ著作集第5巻) ミルチャ・エリアーデ せりか書房
「日本鬼文学名作選」 東雅夫編 創元推理文庫



Diskussion

Klingsol:この本で言及されている北野天神縁起絵巻について説明しておこう。菅原道真の無念の一生と、死後天満大自在天と化して霊威を振るったこと、人々が道真の霊を鎮めるために天神社を作った経緯などを絵巻物にしたものだ。現存最古のものは北野天満宮に伝わる承久本と呼ばれるもので、これは詞書に承久元年(1219)とあるところからそう呼ばれているもので、八巻からなっている。六巻までは道真の伝記と死後怨霊となった経緯が描かれ、残りの二巻では日蔵という僧侶の地獄めぐりと六道のありさまが描かれている。本来は、それに続いて北野天満宮の創建や天神の霊験について描かれるはずであったところ、なんらかの事情で中断されたらしいと言われている。
 巻物は、縦長の紙を横につなぎ合わせて作ってあり、現存する絵巻物としては最も大きなもので、大きさは縦52cm、各巻の長さは、最も長い巻で1,184.1cm、総延長は80mだそうだ。


Parsifal:Klingsol君がもう参考文献に挙げているけれど、こうした研究となると小松和彦が頼りになるよね。どれか1冊というのなら、「鬼と日本人」が文庫本で入手しやすい。これは、何冊もの著書から抜き出してきた13編を並べたものなんだけど、多方面から鬼について切り込んでいるところが、今回取りあげた「鬼の宇宙誌」と似ている。

Kundry:私は「鬼」といえばなんといっても馬場あき子の「鬼の研究」を思い出しますね。一貫した論考の代表としておすすめしたいですね。これも文庫本になっていますが、最初に刊行されたのは1971年ですから、もう古典と言っていいでしょう。

Klingsol:小松和彦といえば、「怪異の民俗学」シリーズの第4巻が「鬼」をテーマにしている。小松和彦の責任編集で、折口信夫、馬場あき子、高田衛、五来重などの論考を集めた本でね、もともと2000年に刊行されたんだが、2022年におよそ20年ぶりに新装復刻版が出た。全8巻、テーマは「鬼」のほかに「憑きもの」「妖怪」「河童」「天狗と山姥」「幽霊」「異人・生贄」「境界」と、どれもおすすめだよ。
 馬場あき子の本は、鬼の全体像をつかむためには、まず読んでもらいたい本だね。たしかに古典―記念碑的著作と言っていいものだね。


Hoffmann:鬼に関する文献はわりあい豊富にあるなあ。Klingsol君が言ったとおり、話題があちらこちらへ飛ぶ考察のエッセイは楽しいよね。気が向いたときに拾い読みしてもいいし。学術書ではないけれど、視点が自由というか自在だから、ときに思いがけない関連付けの発想や発見もあるわけだ。

Parsifal:バルトルシャイティスよりもマリオ・プラーツ型かな(笑)

Kundry:研究書以外ではなにかありますか?

Hoffmann:最近、ここでの話でよく名前の出る東雅夫が編んだ鬼文学のアンソロジー、「日本鬼文学名作選」が創元推理文庫から出ているね。個人的にはこんなアンソロジーででもお目にかからなければ絶対に手に取らない作家の対談、短篇、断章も収録されているんだけど(笑)