016 「松陰の本棚 幕末志士たちの読書ネットワーク」 桐原健真 吉川弘文館




 前回は目次を読むことからはじめる読書でしたが、今回はあとがきを読むことからはじめる読書です。


吉田松陰

 この本を取りあげてまずふれておきたいのは、著者による「あとがき」です。著者は、学生時代に卒業論文を書こうとしていたとき、「吉田松陰全集」読みはじめるにあたって、「東北遊日記」や「読書記」等の記録類が収められている第9巻から手を付けたそうです。ふつう、思想家や哲学者といった「人物」を取り扱う場合は、その対象となる人物の主著―松陰であれば「講孟余話」などにあたるもの。なぜそうしなかったかというと、著者が最初に接した松陰論の著者、藤田省三の影響であったとのこと。この藤田による、岩波書店から刊行された日本思想大系のなかの「吉田松陰」所収の著作が、松陰の主著と言われるものを避けて、書簡や旅行日記などの記録類によって占められていた、藤田の小文は、「松陰に主著はなく、彼の短い生涯そのものが彼の唯一の主著なのであった」と断じて、松陰を徹底して「状況的」存在として描き出すべきことを主張して、それまでの「佐幕―尊皇」や「鎖国―開国」といったレッテル貼りや、あるいは「維新の先覚」のごときステレオタイプな松陰論を拒否した点で画期的なものであったと、「あとがき」のなかで述べられています。

 この「松陰の本棚」という書名に添えられた副題は「幕末志士たちの読書ネットワーク」、帯(腰巻)に添えられた惹句は「“読書魔”の志士松陰/その思想と人脈に迫る!」「『知』の共有から『志』の共有へ・・・」とあります。ここでは吉田松陰の読んだ本を時系列に羅列するだけで、その思想の変遷を論じているのではありません。吉田松陰と會澤正志斎の「新論」との関わり、というよりも、松陰の長い時間をかけての関わり方、なかなか接近しないという関わり方、そして「新論」のそのときどき、そのひとそれぞれの受容のされ方を見ることによって、松陰像を明らかにしてゆく、といった方法がとられています。

 ここで會澤正志斎の「新論」についてちょっと説明しておくと―會澤正志斎は1972年7月5日(天明2年5月25日)生まれ、江戸時代後期から幕末に書けての水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家です。



會澤正志斎

 1824年(文政7年)、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見して、その会見の様子を記した「暗夷問答」を著し、翌年、いわゆる尊王攘夷論について体系的にまとめたのが「新論」。これを藩主・徳川斉脩に上呈したんですが、内容が過激にすぎるという理由で公には出版されず、ようやく刊行されたのは執筆から約30年後の1857年(安政4年)。しかしそれまでの間、「新論」は写本や無許可出版の携帯で流通して、「志士たちのバイブル」となっていたんですね。近世日本の活版印刷はもっぱら木版印刷だったので、木製活字は耐久性に難があったものの、規制をかいくぐって印刷するのに有利だったっということです。

 そもそも水戸学とは17世紀後半に活躍した、水戸藩の二代目の藩主、徳川光圀(義公)にはじまるもので、中国で明から清への王朝交替にともなって日本へ亡命した朱子学者、朱舜水を藩邸へ招いて朱子学を学び、日本古典の研究として「釈万葉集」などの編纂を進めるとともに、日本の通史である「大日本史」の編纂事業を行い、江戸小石川の藩邸に設けた彰考館に多くの学者を集めて、主として朱子学、それに加えて伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学を学んだ史臣たちが、学問の一派をなすに至ったもの、これが水戸学です。
 
 水戸学が独自の思想集団としての性格をもちはじめるのは、19世紀初頭、文化・文政期の水戸における藩政改革に活躍した、藤田幽谷からのこと。水戸藩で活躍した思想家たちは、水戸徳川家に仕える武士として現実政治に関わりながら、彰考館や、のちに設立される藩校、弘道館を舞台に、学問また政治上の議論を闘わせていました。會澤正志斎は藤田幽谷の弟子として、幽谷の息子である藤田東湖とともに、1830年代から天保期の藩政改革に携わることになります。

 「新論」は、水戸藩の第八代当主、徳川斉脩(なりのぶ)にあてて上程された書物であることは先に述べたとおり―その執筆の四年後に藩主は斉脩の弟、斉昭に代わり、天保改革を主導することになって、まずはそうした藩政改革を期待して、斉脩にむけ政策案を提示した文書であったと見ることができるものです。

 水戸徳川家は、尾張、紀州の徳川家と並ぶ、いわゆる御三家のひとつであって、大名としては特別の地位にあったために、江戸城の公方にとっては、跡継ぎが出る可能性もある親戚であり、旗本を監督して北方の防備にあたる役も任されていたのですね。したがって、おそらくは斉脩を経由して公方に伝わることも予想しながら、日本全体の統治に関わる提言を正志斎は「新論」に盛りこんだわけです。

 「新論」における改革提言の背景には、経済の発達を背景とする武士の頽廃や、天明の飢饉を通じて困窮した百姓が離散するといった、日本国内の危機状況もあったほか、西洋諸国がやがて日本に侵略してくるのではないかという、対外的危機感があります。既に18世紀末から、ロシアや英国の船が通商を求めて接近してきた状況は、北方防備にあたる水戸藩にとっては重大な関心事であって、1824(文政7)年には、英国の捕鯨船が常陸の大津浜に接近し、船員が食糧を求めてボートで上陸する事件が起きて、正志斎はその取り調べにあたり、西洋諸国の動向に関する情報をえて、「暗夷問答」を著し、翌年に『新論』を書きあげたわけです。

 したがって、この本で正志斎がもっとも重要な課題にしたのは、日本の独立を保つための人心の統合です。西洋諸国がインドやジャワ、フィリピンへと進出し、支配下に置くことができたのは、キリスト教を侵略の手段として用いたからだと正志斎は考えた(よくぞ見抜いた、見事!)。彼らは日本に接近して、まず庶民に密貿易をもちかけ、キリスト教の教えによって、西洋諸国の方に人心を惹きつけてゆくだろう。そうなればキリシタン大名が輩出した戦国時代と同じように、日本国内は分裂し、やがて西洋人によって支配されてしまう・・・。

 これに対抗して、武士だけでなく町人・百姓までも含めて忠誠対象を統一するために、「新論」が提起したのは「國體」すなわち日本独自の国のあり方です。そこでは「天祖」すなわち天照大神が、「天胤」すなわち歴代の天皇に天下を治めさせ、その下であらゆる人々が「君臣の分」を守りながら、日本全体の統治に何らかの形に関わらねばならない、この上下の秩序は「天祖」が定めたものであって、動かし難いものであると。

 そうした論理によって、日本では、いまの天皇に絶対的な「忠」を尽くすことが、過去の天皇の統治を同じく支えた先祖の志を継承することにもなるという意味で、「孝」の実践と一致する、そして天皇の即位に際して、神を祀る大嘗祭を大規模に行うことで、あらゆる身分の人々に「國體」を再認識させ、日本全体の秩序を保つよう、人心を統合できると説いています。

 ここで注意すべきことは、正志斎の議論は日本全体の統治はあくまでも江戸の公方が行うことを前提としていることで、尊王論ではあっても決して倒幕に結びつくものではないということ。ところが、徳川末期においてペリーが来航して「開国」されると、公儀に対する信頼がゆらぐようになり、ここに至って「新論」は尊王攘夷運動の書として読まれるようになります。その影響は、明治期の教育勅語や国民道徳論にも明らかに残されています。



「新論」

 さて、この本によると、松陰が「新論」と出会うのは1850年(嘉永3年)の平戸遊学時なんですが、このときはさほど大きな影響を受けなかった模様で、そもそも当時の書簡によると、まだ読んでいなかったらしく、「新論」を海防論書だと認識していたらしい。その書簡を書いた半月後に「新論」を手にしているんですが、記録によればこのときも「『新論』を見る」とあって、「読んだ」とは言っていない。従って、著者はこのときをもって水戸学の代表的著作に接してその影響下に入ったと見るのは「少しく乱暴な議論」であるとしています。つまり、後世の我々が「新論」を「志士たちのバイブル」「明治維新の経典」とイメージしていることから、「新論」に接したことすなわちその思想に影響を受けることと、解釈が短絡的に先走っているというわけです。

 1851年(嘉永4年)6月には「新論」を読んだと日記に書いている松陰ですが、このときもどこまで熟読したものかは不明で、この時期、松陰は進むべき道に迷っていた。そしてこの年の年末から5ヶ月にわたる東北遊歴、そのうち1ヶ月を水戸で過ごし、会沢を7回訪ねています。

 この水戸滞在が、松陰に思想上の転回を与えるものであったわけですが、しかし会沢とこれだけ面会して歓待を受けていながら、未だ「新論」には接することができていなかったんですね。ただ、以降の発言に「新論」の影響を見ることができるので、東北遊歴の同道者の所持していたものを読んだ可能性はある。

 そしてこの東北遊歴が脱藩の罪を犯してものであったため、萩に帰った後、長州藩士としての籍を削られ、浪人となってしまいます。これがかえって松陰を「解放」するきっかけとなって、藩主から10年間の諸国遊学の許しが得られたことから、ふたたび江戸をめざし、江戸に入るやいなやペリー率いる米国海軍艦隊が浦賀に来航する、松陰はただちに浦賀に駆けつける。さらに、間をおかずにロシアのプチャーチン艦隊が長崎に来航する。こうした危機意識により、主張されるのは、もはや国体論としてだけではない、現状に対処しうる実践の海防論となり、「新論」を引くのも、この時点ではそうした視点から読み込まれていることが分かる、ということになります。


黒船来航

 松陰はこの国難に対して「民が動かんこと」、すなわち日本全体が一丸となってあたることを願っていたのですが、翌1854年(安政元年)に日米和親条約が締結され、さしあたっての危機は去り、松陰は海外渡航を企てて、ペリー艦隊への密航を決行するも失敗、長州藩の野山獄に投獄されることとなり、ここから足かけ4年間にわたる、松陰の獄中での読書生活がはじまります。その記録が「野山獄読書記」。

 この「野山獄読書記」が「蔵書録」ではなくて「読書録」であることについて、本書の著者は次のように指摘しています。


 「蔵書」行為が表現するものは、あくまで傾向であって、これに対して読了するための時間を必要とする「読書」には、その書籍を選択し、入手しようとする主体的な意志が現れている。この点で、読書録には、読書者におけるその時々の志向が、極めて鋭敏に反映されていると言ってよい。

 松陰の記録で確認できる読了書籍は1ヶ月あたりで約40冊、当時の書籍の形態からしてその紙幅も少ないにせよ、1日1冊以上です。読書傾向はさまざまながら、40%近くが「史書」、その多くが中国史で、やがて教育書が増えてくる。これは松陰の関心が女子教育に移ってきた時期に符合しています。

 ここで「史書」についてふれておくと、西洋史関係はわずか4冊、少ないようですが、これは、この時代に西洋史に関する本が絶対的に少なかったからという理由のほかに、近世日本の知識人にとっては、西洋に対しては、同時代的な関心が主であったという事情が考えられます。多くが中国史であるのは、時代を考えれば標準的でしょう。日本史に関しては、その過半を頼山陽やその弟子の岡田鴨里が占めていたそうです。


 このあたりで松陰の「新論」評価も変化してきたようで、その実践的価値を疑うようになってきている。つまり、米露両艦隊の来航という危機に直面したとき、既存の海防論がほとんど役に立たなかった事実が、反省を促したのであろうと考えられます。もちろん、「新論」からまったく離れてしまうわけではありませんが、やがて松陰は、一友人との書簡論争から強い自己批判を経て、攘夷よりも尊皇の純化に至るという思想上の転回を迎えることとなります。同時に、交際を拡大させ、書籍貸借により相手方とのコネクションを形成して、より広域的な尊皇志士のネットワークを構築・展開させていこうとした、というのが本書の著者の主張なんですが、ちょっと引いておきたいのがまたまた「あとがき」―著者は学生時代に入手したてのPCで松陰の「読書記」をデータ処理してみたところ、松陰の尊王論書の読了冊数における水戸学から国学への変化という発見をした、とあります。

 むしろ、そもそも思想というものは、はじめから体系的なのではなく、ときに変化し、そして転回する常に「状況的」なものであるという事実であった。

 そう、この「変化」。考えてみればあたりまえのこと、思想家にしろ哲学者にしろ、その主著にばかり頼っていると、思想の変遷は見て取ることができても、それが「状況的」に移ろいゆくものであることを捉えきれているのか、見過ごしてはならない問題だと思います。


(Klingsol)


引用文献・参考文献

「松陰の本棚 幕末志士たちの読書ネットワーク」 桐原健真 吉川弘文館

「尊皇攘夷:水戸学の四百年」 片山 杜秀 新潮選書
「江戸の読書会 会読の思想史」 前田勉 平凡社


Diskussion

Parsifal:たしかに、思想家や哲学者について論じることと、その主張について論じることはイコールではないね。ところが、じっさいにはニーチェを論じるのにニーチェの著作の作品論になってしまっている例はありそうだ・・・というか、ある(笑)

Hoffmann:ニーチェくらい波乱に富んだ人生を歩んでもらっていればまだしも、フッサールやハイデガーの生涯についてある程度詳しく語れるひとがどれだけいるのか、つまり「状況的」存在としてのフッサールやハイデガーを知らなくても、フッサールやハイデガーの哲学は十全に理解可能なのか・・・。

Parsifal:たとえば第9回で取りあげたシャミッソーの「影をなくした男」について、シャミッソーの人生を知らずに読んだところで観賞に問題はないのか、あるいはシャミッソーのおかれた境遇を知っていた方が、作品を深く理解できるのか、知らないよりは知っていた方がいいということなのか・・・。

Hoffmann:私個人の話をすると、ある時期から作家論というものをほとんど読まなくなったんだよね。本を買うならテキストを、読むなら作品を読めばいい。作家論なんて、見知らぬ他人がその作家について論じたものを、なんで貴重な時間を割いて読む必要があるのかと・・・そう思いながらも、自分で反論したい気持ちもあったんだよね。

Klingsol:ちょっと遠回りな考え方なんだけど、よく、「文学作品は時代を映す鏡」とか言うじゃない? あれ、なにについてだって言えることだよね。「SF小説は時代を映す鏡」「ポルノ小説は時代を映す鏡」「漫画は時代を映す鏡」「ホラー映画は時代を・・・」なんでもありだ。それでは話を小説作品に限ったとして、そのなかでも、もっとも「時代を映す鏡」と呼ぶにふさわしい小説はどのような小説かと考えると、それはいわゆる純文学とか高尚な芸術作品として歴史に残るような文芸作品ではなくて、流行小説なんじゃないかと思うんだよ。

Hoffmann:たしか、中村眞一郎が、その時代を知るには、その時代の流行小説まで読まなければならない、といった趣旨の発言をしていた。そりゃそうだ、自己の内面に沈潜して「人生とは・・・」なんて書き連ねたものをいくら読んだところで、時代の世相や風俗が見えてくるわけがない。

Klingsol:・・・とすると、ある時代のあるひとを知るには、それが小説家であれ詩人であれ、ましてや政治家や政治に関わる思想家・哲学者であればなおさら、そのひとの置かれている「状況」を知らなければならないだろうという考えに至るのは、決して突飛な発想じゃないよね。

Hoffmann:たとえば、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいて、「ドレフュス事件」なんてなんのことか知らないよ、ではこの長大な小説も、プルーストという人間も、理解できるとは言えない。

Parsifal:「本棚を見ればそのひとが分かる」なんて言われるけどね、たしかに、そういった興味で、たとえば興味のあるひとの蔵書目録なんかに目を通して、また新たな発見をしたりして楽しんだりすることはあるな。Klingsol君もさっき引用していたとおり―

  「蔵書」行為が表現するものは、あくまで傾向であって、これに対して読了するための時間を必要とする「読書」には、その書籍を選択し、入手しようとする主体的な意志が現れている。この点で、読書録には、読書者におけるその時々の志向が、極めて鋭敏に反映されていると言ってよい。

Kundry:私たちもいいかげんなことは発言できませんね(笑)

Parsifal:現代でも政治家なんかが歴史書を「愛読書」とか「座右の書」だなんて言ってるよね。ところがそこで挙げられているもののレベルたるや、そもそも「史書」ではない、司馬なんとかいう「見てきたようなウソ」でかためた、あれは歴史書なんかじゃない、架空の物語、絵空事、ファンタジー、まったくの「フィク書ン」だ。

Kundry:Parsifalさん、司馬遼太郎になにか恨みでもあるんですか?(笑)

Hoffmann:いまの時代に、頼山陽の名前を出す政治家なんていないもんかねえ。
 頼山陽はともかくとしても、Klingsol君の話にあった思想の転換点、「危機に直面したとき、既存の海防論がほとんど役に立たなかった事実が、反省を促したのであろう」というあたり、どこかの国の憲法学者とはエライ違いですなあ。


Prsifal:思想の変遷が「状況的」に移ろいゆくものであること―これは、プルーストの「失われた時を求めて」以後の時代に生きるひとは、むしろ常識として理解しておきたいね。

Klingsol:君子は豹変する(笑)