052 「ひかりごけ」 武田泰淳 新潮文庫




 第15回の「鬼の宇宙誌」について、自分でしゃべったことばを引用します―

 この「食人性」というのがくせものでして、人間の想像力というものは月並みというか、いかなる立場にある者であっても似たり寄ったりなところがあって、ヨーロッパでも、かつてキリスト教徒は人肉を食っていると中傷され、その後ユダヤ人は当のキリスト教徒たちから人肉を食っていると中傷された・・・近親相姦についてもお互いに言い合っていたようです。人肉嗜食とか近親相姦というものは、宗教対立につきものの、「罵倒語」というか、相手を非難するときの決まり文句なのです。つまり、世のなかでいちばんの悪徳行為の代表格として、だれしもが思いつくものなのです。だから鬼=食人性という図式は、鬼を絶対的な悪の存在とし定義していることは間違いありません。

 映画のゾンビが人肉を食らうというのも、ゾンビはもともとは人間ですから、人間として最悪の堕落はなにかと考えた末に導き出された結論なので、これが究極の堕落というわけです。つまり、ホラー映画では、人間をゾンビ以上に恐ろしい悪の生き物に変身させるアイデアが、もう見あたらなくなってしまったのですね。そのためでしょう、もう数年来ゾンビ映画をコメディだとか変格ものにしている例がしばしば見受けられます。究極とは、言い換えれば行き詰まりということでもあるのです。


 ・・・以上は話としては「脱線」箇所なのですが、ここから発展して、今回は、「食人」は根源的なタブーであり絶対的な悪なのか、なぜ「食人」は究極の堕落と考えられているのか、考えてみたいと思います。ついでに言うと、ラヴクラフト作品のなかで好きなものとして、Parsifal君が挙げた小説にも関連していますね。

 「ひかりごけ」は、1954年(昭和29年)3月に雑誌「新潮」で掲載された、武田泰淳の短編小説です。実際に起こった食人事件、「ひかりごけ事件」を題材に書かれたものですが、ひと言注意しておきたいのは、武田泰淳は執筆にあたって、噂を元に構成された「羅臼郷土史」を参考にしており、当事者への取材・聞き取りも行っておらず、ここに書かれていることが必ずしも事実ではないこと、ましてや事件の真相でもないことです。これは発表当時、かなり誤解されていたようで、その点で武田泰淳は批判されるべきではないかとさえ思います。じっさい、この小説のおかげで当事者たる船長がことさらに世間の非難を浴びたことから、とくにここに断っておきます。この小説はあくまで武田泰淳の文学作品であって、冒頭の紀行文部分はともかくも、事件や裁判を描いた戯曲部分はまったくの虚構です。

 先走ってしまいましたが、この作品は構成が特異で、
紀行文、戯曲第一幕、戯曲第二幕の三部構成となっています。序・破・急の構成です。この構成に従ってあらすじを追ってみましょう―

 紀行文―北海道・羅臼を訪れた「私」は中学校長の案内でマッカウシ洞窟を訪れ、そこで金緑色に光るひかりごけを見る。その帰り道、校長はペキン岬でおこった人肉事件について「凄い奴ですよ」と笑いながら、無邪気かつ明るい口調で話す。「私」はその話に関心を持ち、「アイヌの一部の部族はかつて人肉を食べたこともあった」という日本人研究者の一言に激怒したアイヌ語学者M氏を思い出す。
 校長の紹介でS青年に面会した「私」は、彼が編纂した「羅臼村郷土史」を譲り受け、事件に関する具体的な知識を得る。「私」はこの事件を「読む戯曲」という形式で表現するので、読者が自己流の演出者になって読んで欲しいと語る。

 戯曲第一幕(マッカウス洞窟の場)―舞台は昭和19年の冬。4人の男が島に流れ着く。食糧もなく、4人は徐々に衰弱していく。はじめに五助が死ぬ。残された3人は遺体を海に流すか喰うかで悩むが、最終的に船長と西川は喰うという選択をする。八蔵は五助が死ぬ間際に「死んでも喰わない」と約束していたため、喰わずに餓死することを選ぶ。八蔵は死の直前、西川の首のうしろに光の輪を見る。光の輪とは、昔からの言い伝えにある、人を喰ったものに着く薄い緑色の光のことであった。
 八蔵の肉が尽きた後、西川は船長に殺されることを恐れるようになる。西川と船長は口論になり、「お前に喰われるくらいならフカに喰わせる」と逃げようとする西川を、船長が追う形で2人は退場する。アイヌの祈祷音楽が流れ、洞内のひかりごけが光を放つなか、船長が西川の屍をひきずって再び登場する。船長が恐怖にかられてうずくまったとき、ひかりごけの光が一斉に消える。その後船長の光の輪が輝きはじめ、楽の音が続くうちに幕が下りる。

 戯曲第二幕(法廷の場)―舞台は法廷、第一幕から6ヶ月経った晩春の一日。人肉食を犯した船長の裁判が行われる。船長は悪相を失ったおだやかな、紀行文に登場した中学校長に酷似した風貌になっており、理智的な標準語を話す。検事になにか言いたいことはないかと聞かれた船長は、「私は我慢しています」と繰り返す。そして、自分は他人の肉を食べた者か他人に食べられてしまった者に裁かれたいのだと話し、検事を激昂させる。
 船長は「自分の首のうしろには光の輪が着いている、そのためあなた方と私ははっきり区別できる」と語り、自分をよく見るように促すが、群衆には光の輪が見えない。そのうちに検事、裁判長、弁護人、傍聴人の首のうしろに次々と光の輪が着く。見えないはずはない、もっとよく見なくちゃいけませんよと船長は言う。「みなさん、見て下さい」と叫び続ける船長を光の輪が着いた群衆が取り囲み、おびただしい数の光の輪がひしめく中、幕はしずかに下りる。



武田泰淳

 人肉食にかかわる文学作品と言えば、野上弥生子の「海神丸」、大岡昇平の「野火」、それに三浦哲郎の「おろおろ草紙」といったあたりがすぐに思い浮かびます。

 語り手である「私」は最初の紀行文部分で、「飢餓の極に達して、しかも絶対にそこから脱れられなくなった男たちの犯す罪悪は、次のようになります」と考察しています―

一、たんなる殺人。
二、人肉を喰う目的でやる殺人。
三、喰う目的でやった殺人のあと、人肉は食べない。
四、喰う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる。
五、殺人はやらないで、自然死の人肉を食べる。

 この五つを比較すると、(二)は(一)よりも重罪らしいし、(四)は(三)よりも重罪らしい。ただし(一)つまり、たんなる殺人と、(五)つまり、殺人はやらないで自然死の人肉を食べるのと、どちらが重い罪かとなると、そんな比較が馬鹿々々しくなるほどむずかしい問題になってしまいます。

 ・・・人肉喰いとなれば、たとえどんな条件の下で発生しようと、身ぶるいがするほど嫌悪の念をもよおす。何という未開野蕃な、何という乱暴な、神を怖れぬ行為であるか、自分はそんな行為とは無関係だし、とても想像さえ出来ない、と考えます。まるで殺人は、罪としては一般なみであり高級であり、人肉喰いはごく特殊で下等であると、相場が決まっているかのようです。
 殺人は「文明人」も行い得るが、人肉喰いは「文明人」の体面にかかわる、わが民族、わが人種は殺人こそすれ、人肉喰いはやらないと主張するだけで、神の恵みを享けるに足る優秀民族、先進人種と錯覚してはばかりません。

 ―武田泰淳が個人の道徳観念に関わりなく敵を殺し、自分は生きなければならないという戦争体験を持ち、有名な「司馬遷―史記の世界」で「司馬遷は生き恥さらした男である」と書きはじめたことを思えば、ここにすべてが言い尽くされているのではないでしょうか。

 そして戯曲第二幕のクライマックスで、自分の首の後ろにある光の輪を見て下さいと呼びかける船長の周囲に裁判長、検事、弁護人、傍聴の男女が集まる光景が、「そのむらがる姿、処刑のためゴルゴダの丘に運ばれるキリストを取巻く見物人に似たり」と表現されている・・・人肉を喰った船長はキリストになってしまうのです。

 ただし、私はこの作品で扱われているのが、よく言われる人間の「原罪」の問題提起だとは思っていません。「凄い奴ですよ」と笑う中学校長の想像力の欠如、その中学校長に酷似した容貌となった船長、法廷における自らの感情・気分に対する無自覚、無批判な検事の言動、その検事を含め、裁判長から傍聴の男女の首にまであらわれる光の輪、これらすべて人間の「原罪」を、船長の姿に託して突きつけている・・・ように見えますよね、たしかに。つまり、船長のみが罪を自覚して、その罪を昇華させている、これにより、船長は救われ、生きながらキリストに近づいた・・・という解釈が一般的であるようです。

 しかし、それだと先に引用した考察はなんだったのか、ということになりませんか。結局「罪」なのだ、ということでは思考停止、思考放棄ではないでしょうか。

 第二幕の法廷の場で、船長はしきりに「私は我慢しています」と発言していることに注意してください。

 
私は我慢しています。

 裁判というものが、私とは無関係のものに思われるのです。

 私はただ我慢しているだけなんですから。

 私は我慢しているだけですよ。

 「広辞苑」で「我慢」を引くと、「①自分をえらく思い、他を軽んじること。高慢。②我意を張り他に従わぬこと。我執。強情。③耐え忍ぶこと。忍耐。④入墨のこと。」とあります。ここが「広辞苑」のすぐれたところで、この辞書では語源に近い語義から列記されているのですね。

 「我慢」ということばは、元来の仏教用語では「自分が自分が」という利己的な心をさしていたのです。「我慢」とは、もともと「我が強く、こらえることができない」ということで、たとえば「私は〇〇しているのに」「あの人は〇〇だから」と自分と他人を比較して自分を高く、他人を下に見たり、「私はこれだけ〇〇しているのだから」と見返りを求めたりする驕りの心として、七慢という心を苦しめる煩悩のひとつとされています。そうとらえると、忍耐とは自分のなかのそうした「我慢」に気づいてこそできるものなのであって、「我慢」=「忍耐」ではない。

 浄土宗の僧侶であった武田泰淳がここに「我慢」「我慢」と繰り返し書いたのは、この仏教用語の「我慢」の意味でのことではないでしょうか。つまり、船長は自らの罪を「罪」として否定してはいない。あるがまま受け入れている。ごく日常的なモラルを象徴するキリストと同格になること、ただそれだけが、自らの意志によって生きながらえた船長の自己主張なのではないでしょうか。言い換えれば、絶対者への挑戦なのです。

 そう考えると、普通なら聖なるものとして扱われるはずの光の輪(光背)を、人肉食の印として背負わなければならないという結末は、強烈な皮肉となっているように見えますが、これは仏教用語本来の意味での「我慢」の印なのではないかと思われます。だとすれば、法廷にいる全員に光の輪が着いているのもわかります。お互い同士には見えないけれど、「私は我慢しています」と語る船長だけは、自分に光の輪が着いていることを知っているのです。


(Klingsol)


引用文献・参考文献

「ひかりごけ」 武田泰淳 新潮文庫

「海神丸」 野上弥生子 岩波文庫
「野火」 大岡昇平 新潮文庫
「おろおろ草紙」 三浦哲郎 講談社文芸文庫

「カニバリズム論」 中野美代子 ちくま学芸文庫
「人喰いの社会史 カニバリズムの語りと異文化共存」 弘末雅士 山川出版社


Diskussion

Parsifal:作中では野上弥生子の「海神丸」、大岡昇平の「野火」に関する言及があるね。

Klingsol:引用した箇所の少し後のところで、「『野火』の主人公が『俺は殺したが食べなかった』などと反省して、文明人ぶっているのは、明らかにこの種の錯覚のあらわれでありましょう」とある。これに対して大岡昇平は、文明人の気取りで人肉を食わないのではなくて、人間は全部「ひかりごけ」の傍聴人のように人肉食いをする可能性があるが、しかしおれは食わないんだという倫理的選択として書いたのだ、といった反論をしている。

Parsifal:「野火」もいい作品だと思うけど、その反論は聞かない方が良かったな。かえって、じゃあその倫理ってなんなの・・・って(笑)

Hoffmann:「海神丸」「野火」では、主人公はギリギリのところで人肉を食べる罪を犯さずに踏みとどまる。そこに「救い」があるわけだけど、「ひかりごけ」ではその「救い」を安易なものとして退けてしまっているんだね。

Kundry:武田泰淳はあまり読んでこなかったのですが、今回のお話を聞いて、ちょっと興味がわいてきました。

Hoffmann:学生時代に音楽雑誌で、 團伊玖磨のオペラ「ひかりごけ」の舞台写真を見たことがあって、これが強烈に記憶に残っている。それで「ひかりごけ」を読んだんだけど、原作をどう感じたのかはおぼえていない。むしろ野上弥生子の「海神丸」のほうが強い印象を残したな。


オペラの舞台写真。当時見たのもたぶんこれ。


Klingsol:カニバリズム関連の本を2冊紹介しておこう。中野美代子の「カニバリズム論」(ちくま学芸文庫)は基礎知識を得るには適切で、入手しやすいはず。弘末雅士の「人喰いの社会史 カニバリズムの語りと異文化共存」(山川出版社)は大航海時代から以降の主にスマトラの異文化接触をたどったものだ。