026 「いにしえの魔術」 アルジャーノン・ブラックウッド 夏来健次訳 アトリエサード
    「猫町」 (「猫町 他十七篇」) 萩原朔太郎 清岡卓行編 岩波文庫
    「猫の泉」 (「恐怖博物誌」) 日影丈吉 出版芸術社



 前回のKlingsolさんのお話は犬の本でしたので、今回私は猫の本を取りあげようと思います。


Hoffmannさん撮影です。

 猫と言えば萩原朔太郎の詩集「青猫」を思い出しますね。


 この美しい都会を愛するのはよいことだ

 ボードレールの影響を受けた都会派詩人らしい詩です。

 ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
 ただ一疋の青い猫のかげだ

 萩原朔太郎にはそのものずばり「猫」という詩もありますが、今回は「猫町」という短編小説と、同じく短編小説でアルジャーノン・ブラックウッドの「いにしえの魔術」を取りあげます。みなさん、ハハーンと思われかと思いますが、しばらくお付き合いください。


萩原朔太郎

 まず、萩原朔太郎の「猫町」ですが―


 語り手である「私」が北越の温泉に出かけて、ある日そこからすこし離れたU町に遊びに行こうとしたところ、「幻燈」のような、「古雅で奥床しく」「人出で賑やか」でありながら「閑雅にひっそりと静まりかえった」町に迷い込む。凶兆を予感して不安にかられた「私」が「今だ!」と叫ぶと、黒い鼠のようなものが町の真中を走り、人間の姿をした猫の大集団が町に充満する・・・そして気がつくと「私」は見知ったU町にいるのだった。

 この文庫本の解説には、イギリスによく似た小説があることが指摘されています。すなわち、アルジャノン・ブラックウッドの「いにしえの魔術」のことです。「猫町」の発表が1935年であるのに対して、「いにしえの魔術」は発表が1908年とこちらの方が早い。解説には、おそらく芥川龍之介から教わったのではないかと、書いてあります。

 ブラックウッドの短編小説は、怪奇小説のアンソロジーにもしばしば収録されており、先日Hoffmannさんが取りあげた「怪奇幻想の文学」にも何編か入っていましたね。そのなかには「いにしえの魔術」はありませんでしたが、翻訳はいくつかあるようで、今回取りあげたのは、アトリエサードから出た単行本、夏来健次の翻訳です。

 「いにしえの魔術」はジョン・サイレンスものと呼ばれる一連の作品のひとつで、心霊医師ジョン・サイレンスが登場して異常な現象の謎を解明しようとする連作中の一篇です。storyは―

 アーサー・ヴェジンというイギリス人が旅の帰途、北フランスの小さな駅で下車し、中世ふうのたたずまいを残す町の宿屋に逗留する。町の人々は彼に関心がないようでいて、じつはつぶさに観察・監視しているかのようにみえる。宿屋の女将は大柄で大猫のようだったが、女将の娘は若く、この客人に好意的で、彼は恋心をおぼえ、ついに抱きしめてキスをする。その身体はいやにやわらかく、薄気味悪い・・・。

 そしてついに娘は彼に、ここにやってきたのは偶然ではなく、私が呼んだのだ、あなたは背後にある過去の力に押されてここにやってきたのだと説明し、「魔女の宴会(サバト)」に誘う。町の人々が猫に変身して悪魔の饗宴がはじまろうというときに、彼は正気を取り戻し、町を脱出する・・・。

 ジョン・サイレンスがこれをどのように解明しているのかというと―解明とはっきりは言えないのですが、この事件は主人公であるヴェジンの意識の内部で起こったもので、中世における前世の記憶が甦ったものではないか、としています。調査によれば、ヴェジンの先祖はその町に何代にもわたって住みついており、うち二人の女性が魔女として火あぶりにされていた。そして問題の宿屋はまさにその火あぶりの行われた場所に建てられたものだった、つまり、彼は前世で行動をともにした者の霊魂とめぐりあったのだろう・・・。

 その宿屋に秘書を派遣してみると、そこには話のとおりの女将がいて、ヴェジンは一週間以上滞在していたと言っていたのに、記録では二泊しかしていない、女将によれば、ヴェジンはまったく変わり者でぼんやりしていた、ひとりで森の近くをうろつき、突然勘定も払わずに去ってしまった、ということだった・・・。

 以前読んだときは、ジョン・サイレンスなんていうひとが出てこないで、宿屋の件は表面的な事実が判明して、前世についてはそれとなくほのめかしたほうが、怪奇小説らしくなると思ったものです。こんな謎解きで小説を終わらせてしまうと、やっぱり通俗的になってしまうな、と。

 ところが、考えてみれば、題材とされているのが超自然ですから、ジョン・サイレンスがどう解明しようとしても、それが確実な結論というわけではないのですよね。いまでは、これはこれで不思議な物語ということで読んだまま受け入れればいいのかなと思っています。


 
Algernon Blackwood 右はHoffmannさん所有の"John Silence"1st edition

 以上、ブラックウッドと萩原朔太郎の作品を並べてみて思うのは、ブラックウッドの小説では、あらかじめ猫の変身(または猫への変身)を思わせるものが予告されているのですね。それによって読者の不安をかきたてるという、怪奇小説のセオリーに従っています。一方、短編小説としても短い、ほとんど散文詩のような「猫町」では、主人公が道に迷ったところで、犬神や猫神に憑かれた部落について考えるのが伏線なのかもしれませんが、最後の「変身」はやはり唐突と感じられます。

 また、「いにしえの魔術」では、宿屋の娘さんと主人公との間に恋愛感情を添えるあたり、いかにも西洋風ですね。ところが、これによって、「いにしえの魔術」では幻想・幻覚の領域の方が、恐怖を伴いながらも、どこか魅力的だと思えてくるのです。いっそ悪魔の宴の歓楽に身をゆだねてしまいたい、とは主人公でなくても、思うのではないでしょうか。恐れおののいた、逃げた・・・ではなくて、恐怖と魅惑が一体となっている、そのあたりがさすがブラックウッドと言いたいところですね。

 では萩原朔太郎はどうなのか。またまた文庫本の解説の話になると、朔太郎の「さまざまな生活の苦難や不幸」について、主に家庭の問題を解説して、妻との離婚に至る小説を書こうとして頓挫したこと、父の死、そして先ほども少し話しました「全体主義と軍国主義に突き進んで行く日本の不気味さ」「自分本来のものである近代化への夢が、怖るべきその時流によって酷たらしく抑圧されはじめていること」を「猫町」に「奥深く投影したにちがいない」なんて書いてあるのですが、これはやっぱり読書感想文用なんでしょうか(笑)こういう解説が付いていないと、宿題を出された学生さんが買ってくれないのかもしれません。でも、こういう小説はもっとあるがままに、幻想的な奇譚として楽しんだ方がいいですね。

 私がブラックウッドの「いにしえの魔術」と大きく異なっていると感じるのは、この短い物語のはじめのほうで、「景色の裏側」について語っているところです。あるとき道に迷って、私の知らない美しい町、情趣の深い町の往来に出た。現実の町ではなく幻燈の幕に映った影絵のような町のように思われる・・・と思ったら、よく知っている町に反対側から入ってしまっていたのであって、いつも南外れにあるポストが北に見え、いつも左側の町家が逆に右側に移ってしまった、包囲を錯覚したための変化が見慣れた町を珍しく新しいものに見せていたのだった・・・。これはU町で猫の集団を見た後、いつものU町にたたずむ自分を発見したときにも、「私は反対の方へ降りたつもりで、逆にまたU町へ戻って来たのだ」「いつも下車する停車場とは、全く違った方角から、町の中心へ迷い込んだ」と、同じ説明を繰り返しています。

 ブラックウッドでは時空を遡っており、その垣間見た世界とそこの住民が、主人公と因縁浅からぬことがほのめかされますが、朔太郎では、とくにこの語り手が選ばれた存在ではなく、猫の大集団となんらかの関わりを持つわけでもありません。もちろん、時空を超えるわけでもなく、そこは見知ったU町なのです。ただし、裏返したかのようなU町ですね。

 ここで私が注目したいのは、垣間見た世界の位置づけがブラックウッドの場合とはまったく異なるということです。ブラックウッドには、ヨーロッパが経験してきたロマン主義の名残がうかがわれますが、朔太郎の場合は、時間的にも空間的にも遠いものへの憧憬はなく、いま眼前に存在しているU町の別の顔、それはシュルレアリスム的な本質なのかもしれない。日頃見知ったはずのU町が別な相貌を見せる、と考えれば、これは「いにしえの魔術」とは描いたものがまったく異なっていることがおわかりいただけると思います。

 シュルレアリスムの解説をしておくと、これはよく誤解されているように、「現実離れ」しているということではありません。「超現実主義」の「超」は、完全に、徹頭徹尾、の意味です。つまり「徹底的なリアリズム」、人の無意識の領域まで明らかにしようとするリアリズムですから、日頃見ることも聴くこともないけれど、じつはこれが本当の姿であり、本質なのだ、というものを提示しようとする試みがシュルレアリスムです。

 朔太郎がさかんに「三半規管の喪失」だの「人は私の物語を冷笑して、病人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う」だのと言っているのは、はっきり言ってどうでもいいことです(笑)これは私が学生時代にも、文学青年かぶれの少年少女がよく口にしていた自虐的な発言と同じ種類のものです。いまの感覚で、少々鼻につく「気取り」があってもしかたがありません。



日影丈吉

 さて、今回はこのふたつの短篇小説を取りあげることにしていたのですが、事前にHoffmannさんから「猫町ならもうひとつ」と、一冊の本をお借りしていました。それが日影丈吉の短篇小説「猫の泉」です。

 storyは、「私」が南仏を旅行中、西蔵(チベット)猫がたくさんいるというヨンという町のことを知り、興味を持って方々で尋ねるが、だれもヨンという町のことを知らない。ようやく郵便局員が「この局ではまだ、ヨンに関係のある通信をあつかったことはない」と言いながら、「だいたい」の道筋を教えてくれる。乗り物も使えなくなってからかなり長い登り道を歩かされ、ようやく辿り着いたヨンの町には高い時計塔があり、町役場の町長と書記に「この町三十人目の外来者として」歓迎される。いまでは人口は40人足らずのその町では、十人目にやってきた旅行者ごとに、町の運命を占ってもらう慣例があるという。町長によれば、三百年前に建てられた庁舎の時計塔が時を打つ前に立てる、うなるような音を聞いてもらいたい、十人目ごとの旅行者にしか、そのことばはわからないのだ、とのこと。そして「私」は時鐘五分前に書記が迎えに来て、大時計の裏側にある廊下にあがる。


 ガッタン ルールー
 グルール グルルール

 しかし、ことばは聞こえない。二度目も聞こえない。そして一時間後、三度目―

 私はなにか追いつめられた気持で、今度は前の二回よりも熱心に、耳をすませた。
 ガッタン ルールー
 グルール グルルール
 するとその機械の吐息が、ふと私の耳に、こんなふうに聞こえたのだ。
 ヴァッタン ジュンノム(去れ、若者よ)
 デリュージュ ロルロージュ(洪水、大時計)

 しかし語り手は追いつめられたような気持ちから、無意識にこじつけたにすぎないと思えて、書記にも町長にも黙っていた。その晩、月明かりで明るく照らされた広場に出てみると、二十匹、三十匹の猫がいる。猫たちは物問いたげに、「私」をとりまき、見つめているようだ。時計が十二時を打つ。「私」はばかばかしいと思いながらも、「きみたちなら話しても、気が咎めないから」と、昼間に聞いた予言のことばを語る。すると、猫の群れの中から一匹が「月のかかっている中天(なかぞら)に顔をあおのかせて、ミャオーと一声ないた」。そしてその猫が向きを変えてのそのそと歩いて行くと、ほかの猫たちも縦列を作って時計塔の階段をのぼりはじめる。「私」もかれらといっしょに夜を凄すごそうと、猫の行列と一緒に頂上に辿り着き、眠ってしまう。

 翌朝、ヨンの町は山津波か、豪雨に見舞われたように屋根までずぶ濡れになっており、町全体がうっすらと湯気を立てていた。人影がなく、町にはもうだれもいない。四十人足らずの住民は一瞬で押し流されてしまったのか、それとも、裏の山へ逃げ延びたろうか。「私」は大急ぎでヨンの町を去った・・・。


 いかがでしょうか、大時計の機械音がたいへん印象的かつ効果的なので、思わずため息が漏れてしまいますね。なんだか懐いた猫の「グルル、グララ」のようでもあります(笑)

 この小説の舞台は南仏のどこかの町、なにしろ300年間に30人しか外来者が訪れていない、忘れられた―実在することさえあやしい町です(ちなみにヨンヌ県”Yonne”はフランスにありますが、南仏ではありません)。

 書記は「頭巾をかぶった小さな男」「鳥のような眼をした年恰好のわからぬ男」と描写され、町長は「肥満した赭ら顔」「ずんぐりした小男で、見事な巻き毛を肩のあたりまで垂らしていたが、どうやら仮髪(かつら)のよう」。ふたりとも「実にちょこまかと、よく動く連中」で、「まるで肥えた鼠と痩せた鼠だ」。広場にかたまって立っていた30人あまりの人たちは「どれもこれも小作りで、頑冥な山地の人らしく見えた」。かれらは「鼠が穴の口のぞくように、陰気な表情で私を見まもっているだけ」。あえて鳥や鼠に喩えられる町の住民たちですが、これが単なる形容ではなく、異界の空気感を醸し出しているのも見逃せないところです。


 いつかのお話のように、無理にオチを付ける必要はないと思います。垣間見た「あちら側の世界」―というより、朔太郎的な「この世界の裏側」でしょうか、一種異様と見える光景も、眼を閉じてまた開けてみれば、なんら不思議のない元の世界に戻っている。戻ってしまうから、眼を閉じたくないときもあるでしょう。結末には物寂しさが漂いますが、猫たちに予言のことばを伝えたことに、一抹の安堵をおぼえるのも事実です。

 ちなみに、「私」が深夜広場に出て行ったとき、枯れた泉のほとりにいる十匹あまりの猫を「青びかりする毛皮をうねらせて」と書いています。月に吠える朔太郎の青猫ですね(笑)



これもHoffmannさん撮影です。


(Kundry)



引用文献・参考文献

「いにしえの魔術」 アルジャーノン・ブラックウッド 夏来健次訳 アトリエサード
「妖怪博士ジョン・サイレンス」A.ブラックウッド 紀田順一郎他訳 国書刊行会
「迷いの谷 平井呈一怪談翻訳集成」 A・ブラックウッド他 創元推理文庫
「猫町 他十七篇」 萩原朔太郎 岩波文庫
「猫の泉」 日影丈吉 現代教養文庫
「幻想博物誌」 日影丈吉 講談社文庫
「恐怖博物誌」 〈ふしぎ文学館〉 日影丈吉 出版芸術社

「新しき欲情」 萩原朔太郎 昭21 小学館
「虚妄の正義」 萩原朔太郎 昭23 角川書店
「宿命」 萩原朔太郎  昭14 創元社

「猫の伝説116話 家を出ていった猫は、なぜ、二度と帰ってこないのだろうか?」 谷真介 梟社刊・発売=新泉社
「猫と魔術と神話事典」 M・オールドフィールド・ハウイ 鏡リュウジ監訳 真喜志順子訳 柏書房
「猫の比較文学 (猫と女とマゾヒスト)」 堀江珠喜 ミネルヴァ書房
「猫のまぼろし、猫のまどわし」 東雅夫編 創元推理文庫

※ Diskussionでの萩原朔太郎の著作の引用は旧漢字・旧仮名遣いを新漢字・新仮名遣いにあらためています。



Diskussion

Klingsol:前回の犬の歴史にならって猫の歴史を見ると、もともと、古代エジプトでは猫は崇拝の対象だったんだよね。エジプトの神々のなかでもバテスト神は猫の頭と人間の身体で描かれている。月と豊穣を司るとされていたんだ。それが、キリスト教の拡大とともに、それまでの土着信仰が異教とされて、女神たちはサバトに関連付けられ、月は人を狂気に導き、猫は悪魔と結びつけられて、魔女の使いとまでされてしまう。それでもやがて猫は各家庭で飼われるようになる・・・ひとつには、鼠取りという実利的な理由もあったんだろうけどね。我が国でも、ちょっと前までは、お米屋さんはたいがい猫を飼っていたよね。

Parsifal:19世紀末の、いわゆる世紀末芸術ではスフィンクスの神秘性が復権したよね。朔太郎の「青猫」も、その流れの先にあったんじゃないかな。もちろん、猫が象徴していた無意識や月の属性もいまに生きているし・・・。

Hoffmann:そう考えると、ブラックウッドの猫の扱いは、それが象徴しているものそのままだよね(笑)

Kundry:じつを言うと、萩原朔太郎は私にとってはちょっと微妙な方でして・・・学生の頃、クラスの文学青年かぶれの男子に朔太郎好きがいたんですけどね(笑)

Parsifal:たしかに、文学青年気取りの心をくすぐるところがあるよね。

Hoffmann:萩原朔太郎のことではないけれど、自堕落で、生活力もないが故に零落して、あげく女と心中に至るような作家に憧れてしまう文学青年、文学少年はいつの時代もいたからね。

Parsifal:いたいた(笑)でも、我々の世代くらいまでじゃないか? さすがにいまどきは・・・。

Hoffmann:以前、エッセイふうのアフォリズム集というか、アフォリズム風のエッセイ集というか、「新しき欲情」と「虚妄の正義」を読んだんだけどね、どれも陳腐な印象は否定できなかったなあ。今日、持ってきたのでちょっと引用してみると―
 「新しき欲情」から―


 天邪鬼  天邪鬼の興味は、絶えず一般的の者に反対するということにある。既に一般的となってしまった彼自身の思想や興味に対してすら。

 「虚妄の正義」から―

 家庭人  すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめて居る。

 百貨店での警告  流行を追わないで、君自身の趣味によって、君自身の柄に合うもの選択せよという忠告は、それらの百貨店にうろうろしている、おしゃれの婦人にのみ言われるのではない。

 ・・・なんて、正直なところ、いわゆる「中二病」ではないかと・・・(笑)あ、石が飛んでくるかな?

Klingsol:時代が違うので、しかたがないだろう。当時にしてみれば、こんな箴言がちょいと気取ったスノッブの自尊心をくすぐったのではないかな。

Hoffmann:アフォリズムといえば、山田風太郎あたりが結構作っていて、面白おかしいエッセイにしているけど、いまの時代、パロディとしてしか成立しないんだな。

Klingsol:そもそもアフォリズムというものは、ある思想家なり芸術家なりが、その思想の一端を短文のなかに凝縮したものだ。整然とした論文ではなくて断章であるために、思わぬ波及効果をもたらすんだな。その含蓄の深さは、二重三重の意味が込められていること、つまり多義性にあるんだよ。これがないと、辛辣味が薄れてしまうんだよ。

Kundry:多義性というと?

Klingsol:たとえば「強者の論理はいつも最良だ」というのは、権力者の強弁ともとれるし、「無理が通れば道理が引っ込む」という、強者の理不尽を責める意味にもなる。長くなればなるほど説明調になって、逆説がなくなる。わかりきった平凡なことになってしまうと、読む人に深い共鳴を与えることは難しくなる。

Hoffmann:なるほどね。ボードレールの「支配するために存在する必要のないのは神だけである」なんて、無神論者のことばとも、信心深い魂の告白ともとれるよね。かなり多義的な表現だ。

Parsifal:逆説だから辛辣になる、それには人生の観察者としてへそ曲がりのひねくれ者であった方が都合がいいわけだ。ラ・ロシュフコーなんかがいい例だね。あれだって、いま読めば、たいしたことは言ってないと思うけど(笑)

Klingsol:ラ・ロシュフコーなんて、偽善を嫌っていただけまだいい方だよ。ただ斜に構えているだけのアフォリズムとか、あたりまえのことを言っているだけのアフォリズムというものにすこしでも価値があるとすれば、すくなくとも、そのアフォリズムの書き手が、多くの読者に関心を持たれている人物であることが前提だよね。たとえば「人生は人が思うほど善くも悪くもない」なんて、モーパッサンのことばでなかったら、とっくに忘れられているよ。

Hoffmann:・・・と、考えてみても、朔太郎のアフォリズムはやっぱり陳腐だな(笑)

Kundry:でも、「猫町」は別ですね、という結論なんですが・・・。

Parsifal:賛成だ。いま読み返してみても、新たな気付きがある。


Klingsol:ブラックウッドは超自然、朔太郎はやっぱり詩人だよね。日常ではないけれど、超自然には行かない。

Hoffmann:個人的には一推しの「猫の泉」はどう?

Parsifal:朔太郎以上に朔太郎的かもしれないな。

Kundry:今回、Hoffmannさんに教えていただいて、本もお借りしたのですが、短篇ということもありますけれど、5回くらい読んでしまいました。

Klingsol:短篇は本当に上手いよね。江戸川乱歩が「猫町」というエッセイで朔太郎とブラックウッドの短篇への愛着を語っていたけれど、そのエッセイが書かれたのは・・・1948年かな。その翌年1949年に「別冊宝石」の100万円懸賞で短篇部門二等になったのが日影丈吉の処女作「かむなぎうた」だ。二等といっても、江戸川乱歩は全候補作のなかでも一位だとして、「ほとんど完璧の作品」と言っている。その日影丈吉が後に「猫の泉」を書いているのも、不思議な因縁かもしれないね。

Kundry:猫関連の本で、ほかになにかありませんか?

Klingsol:読んだ範囲では、神話・伝説をまとめたもので、日本のものならば谷真介の「猫の伝説116話」(梟社刊・発売=新泉社)、海外ものならM・オールドフィールド・ハウイの「猫と魔術と神話事典」(柏書房)、文学作品に登場する猫を論じた堀江珠喜の「猫の比較文学」(ミネルヴァ書房)あたりかな。「猫の比較文学」は副題が「(猫と女とマゾヒスト)」で、三島由紀夫、谷崎潤一郎、江戸川乱歩に赤川次郎ときて、カルメン、ナナ、マゾッホのヴィーナスから映画のキャットピープルまでを扱っている(「扱っている」のであって、「論じている」のではないことに注意されたい)。

Hoffmann:アンソロジーなら東雅夫編纂の「猫のまぼろし、猫のまどわし」(創元推理文庫)がある。じつは、このアンソロジーには朔太郎の「猫町」はもちろん、ブラックウッドの「いにしえの魔術」も「古い魔術」という表題で収録されている。この翻訳が西條八十だ。あと、創元推理文庫から出ている「迷いの谷 平井呈一怪談翻訳集成」には、ブラックウッドの「いにしえの魔術」が、ずばり、「猫町」という表題で収録されているよ。