029 「鹿と鳥の文化史 古代日本の儀礼と呪術」 平林章仁 白水社




 今回取りあげる本は、古代日本における鹿崇拝、鳥霊信仰について、「風土記」や「日本書紀」などの文献、また弥生土器の装飾、狩猟や喪葬などから読み解こうとするものです。

 方法論的には象徴の読み解きということになるのですが、象徴と言ったときに現代の我々が思い浮かべるような、フロイトやユングの象徴―比喩や符牒のことではありません。あくまでも信仰、宗教的な心性に基づいた象徴です。宗教的というのは特定の具体的な宗教ではなく、呪術や儀礼そのもののことです。だから宗教「的」と言っているのであって、それは、象徴でありながら、実在するものの本質であるか、少なくとも本質と深く結びついたものであるということなのです。

 鹿は地霊の象徴、生態サイクルが稲の生育の季節と一致することから穀霊祭儀にかかわる霊獣として扱われており、抜け落ちては新しく生え替わる鹿角から、鹿そのものが再生・不老長寿・永遠の生命を象徴する霊獣として広く崇拝されていました。なので、鹿が穀霊祭儀の犠牲とされるのも、喪葬と結びつけられるのも、同様の観念に由来するわけです。また、鹿を解体して食することは、その不老長生の霊力を獲得することができると信じられていたためなのです。

 念のため付け加えておくと、明治以前の日本文化の特色とされる肉食忌避は仏教思想伝来以降のこと。奈良時代より以前には、肉食を穢悪(えお)のこととして忌避されることはありませんでした。これもまた、古代信仰が宗教とは異なるものであることを示していますね。

 この本は、学術書の体裁で、論考の筋道まできちんと示しています。弥生土器に描かれた鹿の絵についての部分を例に挙げると―

 縄文土器とは対照的に、弥生土器は文様や装飾が少なく実用的で簡素だが、意外にも絵画の描かれたものが多い。描かれた画題には鹿がもっとも多く、ほかは人物、家屋、舟、魚など。
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 古墳時代の埴輪や須恵器にも鹿の絵や造形が見られるが、鹿と猪がともに代表的狩猟獣であったにもかかわらず、弥生時代の絵や造形では鹿が圧倒的に多い。
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 それは鹿が古代人に特別視され、精神生活のうえで重い位置を占めていたことを示していると考えられる。
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 それでは弥生土器に描かれた絵画は単なる風景画か、それとも一定の目的のもとに描かれたものであり、なんらかの特定の意味をあらわしているのか。
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 これはその土器の用途にもかかわるとともに、同じく鹿の多く描かれている銅鐸絵画の解釈やその用途にも関連する問題である。
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 古代社会において絵画や造形、装飾などが精神生活のうえで持っていた重い意味を考え、また空想の怪獣である龍が描かれている例からも、単なる風景描写と見ることはできない。
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 儀礼の場で供献された土器に鹿が描かれている。
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 それを用いた儀礼の内容にかかわるなんらかの重要な意味が鹿に付与されているのではないかと推察される。
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 狩猟の光景、狩猟獣としての表現もあった。
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 それがなんのための狩猟である狩猟獣であったかについても考えなければならない。

 ・・・このような流れです。必ずしも読みやすくはないかもしれませんが、著者の考察の過程を追うことができるのは、参考になりますね。

 一応、上記の問題に対して示されている見解を列記しておくと―

・鹿の豊猟を期待した表現。
・供献用の犠牲動物としての鹿をあらわしたもの。
・農耕儀礼に不可欠な稲の生育を司る神として表現したもの。
・農耕祭祀と結びついた神聖さを付与された鹿を表わし、その土器は農耕祭儀の場で稲籾を入れて神に捧げる祭器として使用された。

 ―とあります。



 個人的には鹿以上に興味深いのが鳥です。鳥霊信仰は大きく分けるとふたつの形を取っています。ひとつは農耕儀礼と習合した鳥霊信仰で、とくに白鳥を穀霊の運搬者ないし化現、象徴とするもの。いまひとつは、人の霊魂の運搬者ないし化現、象徴とする鳥霊信仰で、こちらは人の誕生(出産儀礼)や死(喪葬儀礼)と結びついて展開する。これはいずれも弥生時代からのこと。喪葬儀礼と結びつくということは、これは死者の霊魂が鳥に乗って、あるいは鳥の姿をとって自由に飛翔するという神仙思想の尸解仙に似た信仰があったわけです。してみると、古墳というものも、被葬者の霊魂にとっては単に遺骸の一時的な埋置所、冥界への入り口でしかないということになりますね。やはり、時代、地域を問わず、人々の宗教観や世界観の特徴がもっとも端的に表れるのは、喪葬儀礼に際してなのですね。

 再び、著者の論考の筋道を追ってみましょう。「日本書紀」に伝えられている出来事を例に挙げます。仁徳天皇の寿陵造営にあたり、築陵最初の日に、野のなかから走り出た鹿が倒れ死んだ、不思議に思って死因となった傷を調べたところ、百舌鳥が鹿の耳から飛び去った。鹿の耳は百舌鳥によって割かれていた、という出来事が伝えられていることが紹介されています。これは、鹿の耳に予兆や感知の能力があると信じられていたこと、耳は御霊(みみ)、つまり霊の宿るところであり、従ってこの百舌鳥は鹿の霊の象徴であった、と考えられるということになります。つまりこのエピソードは、王陵造営地の地主神を、鹿と百舌鳥を用いて退去させるという、呪術的な儀礼について伝えたものなのですね。では、それが築陵初日に起こったと伝えられているのはなぜか・・・。こうして論考が進められていきます。

 このほか、水神の追放についての章で、「日本書紀」に吉備中国の川嶋河で河神を退治するのにヒョウタンを用いる話が興味深い。著者は中国南部から東南アジアに広く分布する大洪水の後に生き残った兄妹が人類ないしは一族の始祖になるという「兄妹配偶者型洪水伝説創世神話」にふれています。ヒョウタンというえば虚舟(うつろぶね)、または空穂舟 (うつぼぶね)。水神信仰とは関連が深く、洪水伝説は世界各地で共通するものです。

 ついでなので、うつぼ舟について説明しておきましょう。

 桃太郎といえば、川上から流れてきた桃のなかから生まれた童子ですね。これが犬・雉・猿をお供にして鬼退治をするという昔話の、主人公の名前、またはその物語のことです。竹取物語では、かぐや姫は竹から生まれますよ。瓜子姫は瓜から。桃や瓜、竹といった、中がうつろな植物から子供が生まれるというのは、日本古来の水神小童の信仰と深い関係があります。それに、流れてくる桃から生まれるというのは、うつぼ舟の漂着伝説の変形にほかならない。なので、ここから生まれたのが「英雄」であるのは、ごく自然なことなのです。

 うつぼ船とは、大木をくり抜いた船のこと。独木船(まるきぶね)ともいいます。カヌーのようなものを想像してください。旧約聖書では、ノアは巨大な方舟を作って洪水を逃れましたよね。方舟とはその名のとおり箱型の船で、大雨から逃れるためにほぼ密閉された、まさに水に浮かぶ空洞の箱のような船だったと考えられます。洪水伝説を並べて見ると、普通の船や筏に乗って逃れる話は意外にも少なくて、ほとんどが瓢箪や籠、箱(太鼓、桶)など、中がうつろで水に浮かぶ植物製の容器を使って逃れています、これがうつぼ舟。

 世界の各国には罪の子もしくは異形の子を産んだためにうつぼ舟に入れられて流される姫の伝承があります。この場合、うつぼ舟に乗せられるのは殆どが女性です。たいていは姦通などの罪でうつぼ舟、もしくは箱に入れられ、海に流されたと・・・つまり罪人なのですが、流れ着いた先で女はその地の男と結ばれたり、あるいは英雄となる子供を産み落としたりして、ある種の神秘的な力を備えた存在となるのが多くの伝承のパターンです。従って、言うまでもなく、うつぼ舟というのは胎内を象徴しているのです。水は羊水かもしれません。つまり、うつぼ舟という窓のない、空洞の容器、あたかも胎内のようなそれに入り、水を渡っていくことで、この世ならぬ世界に辿り着くこともできるし、自分自身が異能の存在に生まれ変わることも可能となるのです。

 水神小童の信仰についても説明しておくと、水神というのは、水があらゆる生命の生成と存続にとって必要不可欠であるところから発生した、水そのものが超自然的な力を持っているとする信仰です。これ自体は日本独自のものではないのですが、日本では古来から聖なるものは小さな姿で現れると信じられていて、「小さ神」の代表に少彦名命(すくなびこなのみこと)があります。じつはこの神様は水辺に現れるのですね。そんなところから、民間伝承では、水辺に小さな姿で誕生する神の子の物語が、「小さ子譚」として語り継がれているのです。

 どうも、話が大きく逸れてしまいました。

 古代の呪術、祭祀というものは、宗教的ではありますが、現代の我々が知っているような宗教ではないのです。象徴はあくまで象徴であって、「意味付け」ではありません。動物崇拝にしても、その皮をまとうことはその動物の霊力を身につけることを意味するばかりではなく、そうすることによって、その動物に変身してしまうと信じていたのです。「信じていた」ということは宗教を信仰していたということとは違います。古代人においては宗教的なものと政治・経済が未分離でした。ましてや人々の集団は氏族性、地域性というごく小規模なもの。そのなかで霊威に従っていただけなのです。

 仏教や儒教、キリスト教ましてやカルト宗教を含む新興宗教のように、近代的合理主義と結びついて政治(権力)と経済(カネ)を優先する宗教を信仰するということは、これは信仰などというものではないのです。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「鹿と鳥の文化史 古代日本の儀礼と呪術」 平林章仁 白水社


Diskussion

Klingsol:例によって脱線してしまった・・・。

Parsifal:いや、脱線は我々の持ち味だ、それでいいんだよ。

Hoffmann:私なんざ、脱線だけでご飯3杯はいける(笑)

Kundry:うつぼ舟の話だけに、流れ流れていってしまったんですね(笑)

Hoffmann:水から現れるといえば、小さな姿ではないんだけど、映画「猿の惑星」の冒頭では、宇宙船が湖に落下して乗組員たちは水のなかから上陸するし、TVの「ウルトラマン」も、ハヤタ隊員のジェットビートルがウルトラマンもろとも湖に落ちて、ハヤタ=ウルトラマンは水のなかから再生するんだよね。


Parsifal:ウルトラマン=水神説か(笑)


Klingsol:今回取りあげた本は、近頃の流行なのか「文化史」という表題だけど、説明したとおり、考察の筋道まできちんと示しているので、必ずしも読みやすいとは言えないかもしれない。

Parsifal:いや、おかげでこの本の著者の考え方が明確になっているよね。現代人の世界観でとらえるのではなく、古代人の考えるところに基づいているわけだから・・・。鹿や鳥、それに樹木神や水神も、それ自体が古代史にどうあらわれているかということよりも、著者の見方とか解釈のしかたの方が重要だよ。

Klingsol:そのように話を聞いてくれたならありがたい。

Hoffmann:Klingsol君の結論には同感だな。抹香臭い宗教の戒律なんぞよりも、「えんがちょ斬った」のおまじないの方がよほど馴染める(笑)

Kundry:私は鹿肉が食べたくなってきました。


Parsifal:いい店、知ってるよ。

Hoffmann:デザートは桃がいいな。蟠桃園の桃なら不死になれるぞ(笑)