030 「バレエ・リュス その魅力のすべて」 芳賀直子 国書刊行会




 バレエ・リュス”Ballets Russes”、すなわちロシアバレエ団とは、1909年から1929年の20年間だけ存在したバレエ団です。主宰・運営していたのはセルジュ・ディアギレフ(英:Sergei Diaghilev, 仏:Serge de Diaghilev)。じつは「バレエ・リュス」というのはフランス語で「ロシアのバレエ団」という一般名詞。この一般名詞が特定のバレエ団を指しているのですから、その知名度の高さがうかがわれるというものですね。メンバーの中心はロシア帝室バレエ団出身者でしたが、活動の中心地はパリ。じつはロシアで公演したことは一度もないんですよ。

 バレエ・リュスといえば、パブロ・ピカソやマリー・ローランサンが美術を担当し、ジャン・コクトーが台本を書き、ココ・シャネルが衣装をデザイン、クラシック音楽好きなら知らぬ者のないストラヴィンスキーやエリック・サティが新曲を書き下ろし、舞ったのはワツラフ・ニジンスキー・・・こうした説明の方が、馴染み深く感じられるでしょうか。


Serge de Diaghilev

 バレエ・リュスの一番の特徴といえば、劇場附属でない独立した団体であることです。いまも当時も、バレエ団といえば劇場附属が当たり前、団員には長い教育と厳しい選抜なしには維持運営は不可能、上演するとなれば費用もかかるし、なによりオーケストラも必要になる。ましてや20世紀初頭という時期、劇場に所属しないで―ということは、国や州、市などの公的資金を受けることなく、高い水準の舞台を維持することなど、ちょっと想像もつかないことです。もちろん、ディアギレフは常に資金不足に悩まされていました。一方で、劇場監督や役人などからの介入はなく、人間関係や芸術的な見解に関しては自由でいられたのです。

 はじめの2年間は、公演期間だけ契約して結成される一時的なバレエ団で、オールシーズン公演ができるようになったのは1911年のこと。

 初期のバレエ・リュスを語るのに欠かせないのがアンナ・パヴロヴァ。この人はバレエ・リュスのパリ・デビューの前年、1908年からパリを中心に活動をはじめ、人気を得ていたので、こうしたダンサーがメンバーに加わったのは、バレエ・リュスの公演の成功に大きく貢献したことと思われます。パリ市民の間では、ロシアから来たバレエは本場物、といった認識がすでに広まっていたわけです。


Anna Pavlovna Pavlova

 なぜパリなのか? これは簡単な理由で、パリで成功すれば世界に認められる、と考えていたから、つまり当時パリは名実ともに芸術の都、芸術の中心地であったからです。続いてロンドン、モンテカルロの二都市を重視していたようで、ロンドンでは嫌々出演したミュージック・ホールでの公演が観客を増やし、モンテカルロでは王室の庇護を受けることができたばかりでなく、ここが英仏の貴族、ロシアの大公、インドのマハラジャ、アメリカの流通王が訪れる社交場であったことから、上流階級に認知される機会にもなりました。そうした上流階級の人々のなかには、後々までバレエ・リュスを支援することになった者も含まれていたのです。

 「天才を見つけだす天才」と言われたディアギレフは、若い芸術家の才能を見抜き、出会わせ、作品を依頼し、叱咤激励して、意欲をかきたて、一方でパトロンに頭を下げてお金を集め、自分の思い描く「バレエ・リュスならではの作品」を生み出し続けました。こうした先見性と度胸、審美眼とプロモーターとしての度量を持ち合わせたディアギレフは、前にも後にも類を見ない人物でした。

 1920年代、バレエ・リュスに多大な援助をしていたスペイン王アルフォンソがディアギレフに尋ねたそうです。


「君は一座で何をしているのかね? 指揮もしないし、踊りもしない、ピアノを弾いているわけでもないようだが、一体なにをしているのかね?」
 彼はこう答えたという。
「恐れながら王様、私は貴方と同じようなものです。私は何もしていませんが不可欠な存在なのです」

 納得したのかしなかったのか、アルフォンソ王はその後も援助をし続けています(笑)

 資金が潤沢であったとはお世辞にも言えないディアギレフのもとに多くの才能ある芸術家が集まったのは、やはりディアギレフの人間的魅力だったのでしょう。じっさい、前日入団の誘いを受けたレオニード・マシーンは、ディアギレフの泊まっているホテルに「断りに行って」、「お申し出をお受けします」と言ってしまったと書いています。

 バレエ・リュスの特徴―独自のカラーとはなんだったのでしょうか。その作品群は多彩で簡単には分類できませんが、第一次世界大戦前は「ベル・エポック」、すなわち華やかな時代の雰囲気にエキゾティシズム、バーバリズム、エロティシズムを感じさせる作品が多かったようです。大戦後は、エキゾティシズムがそれまでのトルコやインドからイタリアやスペインに変わり、パリ生まれのモダニズムが積極的に取り入れられるようになります。もちろん、「白鳥の湖」「眠りの森の美女」といったロシア帝政の華やかなりし時代のバレエは一貫して取りあげられていました。

 そして前衛。「牧神の午後」「春の祭典」「パラード」といった作品上演はしばしば大スキャンダルとなり、会場では観客同士が大喧嘩になった例もありましたが、ディアギレフはスキャンダルを怖れず、むしろスキャンダルのたびにチケットの売り上げは飛躍的に増大、なにしろマスコミは大げさに書き立てるものですから、報道と同時にチケット完売などということもあったようです。

 ここであらためて指摘しておきたいのは、こうした活動を、特定の劇場を拠点にして行うのではなく、また一定の資金提供を受けて行ったのでもないことです。ディアギレフというと、ちょっと知っている人は「興行師」「プロモーター」と呼ぶのですが、これは根本的な部分で誤りです。ディアギレフは常に貧乏、「儲からなかった」のです。リディア・ソコロワは戦時中子供が病気になったときに、文字どおり「最後のお金」である各国の銀貨をかき集めて医者代を払ってくれたディアギレフの姿が忘れられないと書いています。このときではありませんが、ホテル代が払えなくなって、追い出されたこともありました。

 上演が話題になり、観客が入ることを重視したことはたしかですが、あくまで質の高い作品を、質の高い舞台で上演することに意を注いでいたのであって、客がたくさん来るから、儲かるからという理由で作品を選んだり創ったりしたことはありませんでした。スキャンダルでチケットが売れたとはいっても、ここがいまどきの「炎上狙い」のYoutuberとは違うところ(笑)


Misia Sert

 そうして自分の芸術的信念に妥協せず、バレエ・リュスに魅せられたミシア、ココ・シャネル、といったパトロンのおかげでバレエ・リュスは存続することができたのです。

 ミシアについて説明しておくと、彼女はロートレック、ルノワール、マラルメ、ラヴェルら芸術家たちにインスピレーションを与えたミューズで、社交界の女王。あるとき、なかなか舞台の幕が開かない、未だ衣装代、美術費用を貰っていない業者が、いますぐ払わねば持って帰ると言っているというので、どうしても舞台を見たいミシアが待たせていた自分の馬車にお金を取りに行かせ、無事支払いを済ませた、なんてこともあったそうです。

 ココ・シャネルは言うまでもなく、ファッションデザイナーにしてシャネルブランドの創設者。おもしろいのは、ディアギレフが同性愛者であることは有名だと思いますが、パトロンにはなぜか女性が多いということ。やはり人間的魅力なのでしょうか。男性のパトロンもいたことはいたのですが、概ね事業で成功した成金で、お金は出すが口も出す人が多かったようで、お気に入りのダンサーを主役にしなければ援助を引き上げる、といった調子で、ディアギレフを悩ませていたようです。ああ、オトコってどうしてこうなんでしょう(苦笑)



Coco Chanel

 バレエ・リュスのスター・ダンサーといえばワツラフ・ニジンスキー、レオニード・マシーン、セルジュ・リファール、イダ・ルビンシュテインの名がすぐに思い浮かびますが、初期のカラーを決定づけたのは振付家ミハイル・フォーキンです。代表作はなんといっても「薔薇の精」「レ・シルフィード」。これを舞ったのがニジンスキーですが、ニジンスキーは「牧神の午後」「春の祭典」の振り付けも行っています。次の振付家はレオニード・マシーン、スペインの舞踏や風俗を取り入れた人。続いてアントン・ドーリン、セルジュ・リファール。

  
左からVaslav Fomich Nijinsky、Ida Lvovna Rubinstein、Mikhail Mikhailovich Fokin

 バレエ・リュスは1929年のディアギレフの死をもって活動を停止します。

 同年7月24日の公演終了後、ディアギレフは休暇に入り、ドイツで彼の最後の恋の相手である若い(16歳)作曲家イーゴリ・マルケヴィチと落ち合ってライン河の旅へ。現在では指揮者として知られているマルケヴィチですが、ディアギレフはこの若者の才能を見抜いて、次のバレエ・リュスの音楽家にしようと決めていたのです。

 ところが8月7日、ザルツブルクでマルケヴィチを見送り、ヴェネツィアのホテルに到着するも、12日には起き上がることもできなくなってしまいます。そして8月19日明け方、息を引き取りました。休暇中のことで、多くのダンサーたちは新聞や電話、電報でディアギレフの訃報を受け取りました。その死に立ち会ったのは、ボリス・コフノ、セルジュ・リファール、ココ・シャネル、ミシアの4人。ちなみに葬儀費用の一切を支払ったのはココ・シャネル。ディアギレフは糖尿病だったのですが、インスリンが実用化されたのはこの翌年のこと。もっともあと1年長生きしていたら、世界大恐慌に見舞われて、バレエ・リュスを経済的に支えてきた富裕層も大打撃を受けていたことでしょう。はからずも、ディアギレフの引き際はタイミングがよかったとも言われる由縁です。


 ディアギレフあってのバレエ・リュス、だれも後を継ぐことはできず、20年間の歴史は幕を閉じたのでした。


(Kundry)



引用文献・参考文献

「バレエ・リュス その魅力のすべて」 芳賀直子 国書刊行会
「ロシア・バレエとモダン・アート 華麗なる『バレエ・リュス』と舞台芸術の世界」 海野弘解説・監修 パイ・インターナショナル

「ニジンスキーの手記 肉体と神」 V・ニジンスキー 市川雅訳 現代思潮社
 ※ ディアギレフと絶縁した後、狂気に陥る直前にニジンスキーが残した手記。
「その後のニジンスキー」 R・ニジンスキー 市川雅訳 現代思潮社

 ※ ニジンスキーの妻ロモラによる手記。バレエ・リュスを神格化しているが、「恋仇」ディアギレフに対する悪意に満ちている。


Diskussion

Kundry:ああ、オトコってどうしてこうなんでしょう(苦笑)

Parsifal:いや、まったくだ(笑)でも、ディアギレフに女性のパトロンが多かったのは言うまでもなく、人間的魅力だよ。

Klingsol:同性愛者だからね。同性愛者が魅力的ということもあるかもしれないけど、男性的なオトコってのは、支配欲が強くて、たいがい意識的にも、無意識的にも、性差別的なところがあるんだ。つまり、「男らしさ」「女らしさ」という根深い偏見にとらわれているんだよ。

Hoffmann:歌手のマリア・カラスが指揮者・作曲家のレナード・バーンスタインに向かって言ったのが―「どうして魅力的な男性ってみんなホモですの?」(笑)

Parsifal:バーンスタインといえば、男性といちゃつかないで、と注意した奥さんに、「知らないのか? 芸術家はみんなホミンテルンなんだぜ」と言ったんだったね。

Kundry:なんですか、「ホミンテルン」というのは?

Hoffmann:「ホモ」と「コミンテルン」を組み合わせた造語だよ。

Parsifal:それから、ディアギレフの「引き際」のタイミングなんだけど、不思議だよね。歴史にはままこういうことがある。

Kundry:医者の指示にもあまり従っていなかったようですが・・・。

Hoffmann:世界恐慌で多くの支援者は破産したはずだし・・・20世紀音楽のその後を考えても、1930年代以降にお客さんを呼べるバレエ音楽の新作が望めたのか、ちょっと疑問ではあるな。さらにナチスの台頭と・・・ココ・シャネルは対独協力で戦後の一時期はスイスに亡命していたし。

Parsifal:歴史に”if(もしも)”を言っても意味はないけど、バレエ・リュスが大恐慌をもちこたえたかどうか、もちこたえても、どんな立場におかれたか・・・。

Klingsol:あそこで解散したことで各地に散らばって、いくらかなりと、バレエ・リュスの残り香を伝えることができたのなら、それはそれでよしと考えるしかないね。

Kundry:たいへん残念なことに、バレエ・リュスの芸術は映像としては残されていないのですね。

Parsifal:そこが舞台芸術の弱みだね。じっさいに観た人の記憶のなかにしか残されておらず、その観た人たちも、もう鬼籍に入っているだろうしね。

Kundry:ところが、写真や舞台や衣装のデザイン画、さらには舞台衣装そのものが残されていて、参考文献に挙げた「ロシア・バレエとモダン・アート 華麗なる『バレエ・リュス』と舞台芸術の世界」などの本で見ることは可能なんですよ。

Hoffmann:舞台のデザイン画のいくつかはレコードのジャケットや解説書でも見たことがあるけど、この本は豪華だね。

Kundry:うまく話がつながりました(笑)バレエ・リュスが使用した音楽や、その舞台のために作曲された音楽は、いまもレコードやCDその他で聴くことができますから・・・バレエ・リュスの舞台に流れた音楽について、Hoffmannさんからお話しをお願いいたします。


(追記) バレエ・リュスの音楽のページ、upしました。(こちら