036 「差別感情の哲学」 中島義道 講談社




 
著者は、序章「何が問題なのか」において、差別のない社会を実現することに異存はないが、よくある差別撤廃を疑いのない「公理」と前提して、颯爽とした正義感をもって人間の心のうちに潜む「悪」を一律になぎ倒そうとい姿勢に「居心地の悪さ」を感じるとしています。差別は悪意に基づく。しかし、疫病にかかった者、障害者、ユダヤ人、穢多・非人などの被差別社を差別する動機は悪意ではなく、オソレでありケガレである、とします。

 この本の目次を見ると―

序章 何が問題なのか

第一章 他人に対する否定的感情

1 不快
2 嫌悪
3 軽蔑
4 恐怖

第二章 自分に対する肯定的感情

1 誇り
2 自尊心
3 帰属意識
4 向上心

第三章 差別感情と誠実性

1 まなざしの差別化
2 差別語
3 誠実性 1
4 誠実性 2

終章 どうすればいいのか


 ―そう、この本は差別のある制度ではなく、「感情」をテーマにしている。制度上は公平を謳っていても、現実に差別が生じていることが問題なのです。そうしたときに、必ず「差別はない」と主張する人がいる。人間はさまざまな場面で狡く、差別をしている者は「区別があるので差別はない」と主張する。概して得をしている側は、差別ではないと言うのです。

 一方で、既存の区別によって利益を得ている者は、そのことに負い目を持たなければならない、という根拠のない、あくまで「感じ」による提案もあります。たとえば、あなたにとって、許しがたい嫌悪感を抱いている相手がいる。しかし、その相手が在日韓国人だったとき、あなたはその嫌悪感を表明できなくなる。嫌悪感の理由が、その相手が在日韓国人だからではなく、たとえその相手の出自を知らなくても嫌悪感を抱かざるを得ない理由があったとしても。

 こうしたところから逆差別が生じる可能性もあります。電車で「この人、痴漢です」と叫ばれたらもうおしまい。盲目の正義感、女性は弱いもの、たとえば女子学生は純粋で純真で嘘などつくわけがないという、根拠のない前提のもと、被疑者を待ち構えているのは、はじめから有罪が確定している魔女狩り裁判。

 政治家の語る差別問題が空々しく聞こえるのはなぜか。差別感情の強い人というのは、まず、自分が他人に対して抱く嫌悪感について、自己批判精神を持っていない人でしょう。自分を安全地帯においている限り、ということは、自分は絶対に被差別者になることはないと思っている限り、そうした人が語る差別問題は議論が空転してしまうのです。

 また、善良な弱者というものもまた、弱者独特の卑劣な手段で差別問題を空転させてます。「弱くて傷つきやすいおれに、すべて合わせろ」と―。そのために、常に「被害者面」している。これは、他人に嫌われたくないという願望が強すぎる場合と、他人からすぐれていると認められたい、承認欲求が強い場合とが考えられます。いずれの場合も、自分は嫌われていない、自分は他人から有能であると認められている、と思い込もうとする自己欺瞞を伴っています。自分の人間としての幼さに気づいていないだけ。それで差別問題を語っても「きれいごと」にしかならない。人間の醜さ、社会の理不尽さというものを否定したって―ということは、そんなものがないふりをしたって、自己欺瞞から発しているという自己反省がないから、どこかの国の野党のように、その当人に向かって「ブーメラン」が飛んでくるんです。

 差別感情のもととなる感情で、自己欺瞞から発する最大のものは優越感だと思います。自分は他人よりすぐれていると自覚すること。これを高慢や虚栄心と自覚しているのならば、それはもはや高慢ではありません。誇り、自負心、矜恃というものを持つことが悪いわけではなく、それを自分で検閲できるかどうかが問題なのです。勉強でも仕事でも、優越感情を維持するために、これをエネルギーとして、さらなる努力するならそれも結構です。ところが社会で、というのは国際社会も含めて、ということですが、周囲が迷惑するのは、なんの理由もないのに高慢であることです。自分が、重んぜられてしかるべき理由、なんらかの美点が自分にはある、と考えるのではなく、美点など無視して高慢である例です。いちばん簡単なのは、他人をおとしめること。隣の国を、おとしめる。言いがかりのような難癖をつけて、口汚く罵倒する。これは、自分には世のなかに誇れるような美点がないため、これを無視して手っ取り早く他人を自分の土俵より下におとしめようとする姿勢です。劣等感から卑屈になっているんですね。

 高慢と似て非なる態度が高邁です。高邁な人は、自分より社会的価値の高いものを備えた人の前に出ても、卑屈にはなりません。しかし、高慢で卑俗な人は、常に自分より劣った者との比較によってしか、自分の優位を自覚することができない。だから絶えず比較することにばかりとらわれて、測定値にこだわり、自分より劣った人を探すことに汲々としている。「私の座右の銘は○○です」なんて、声高に宣言している人、だれも尋ねてもいない自己の内面を大きな声で語っている人(喫茶店なんかでときどき見かけます)には、こうしたタイプが多いと感じています。

 マイナスの誇り、というものもあります。これは近代以降の主流ではないかと思えるくらい、社会に蔓延しています。この本から例を取ると、「私は義務教育しか終えていない、でもまじめで実直な職人としての父親を誇りに思います」とか「俺は、美人でもなく教養もないけれど、女手ひとつで俺を育ててくれた母親を誇りに思う」という宣言。これは他人の視線を強く意識して、だれからも非難を受けることなく、優しいまなざしに包まれることを期待した文脈です。時代の波に乗って、世のなかに受け入れられようとする功利的精神が透けて見えます。自分が社会的に劣っている、とするものこれもまた強烈な優越感なのです。「そんな私は美しい」と酔っている。その同じ人が、学歴や家柄といった社会的にプラスの誇り、陽の当たる場所にいる人の誇りには容赦なく冷たい視線を注ぐのです。これを単なる嫉妬だろう、などと言ってしまうと、マイナスの誇りによる優越感を持っている相手の思うつぼにはまるのでご注意を。

 向上心が、他人を見下す態度を伴うことはしばしばあります。当たり前です。向上とは他人に称賛されること、承認されることだからです。しかし、私がこれまで見てきたところ、向上しない人に限って、他人を見下す傾向が強いようです。なにも勉強しない人が、他人が試験に失敗すると大喜びするんですね。それでいて、当人は試験を受けない、受けても受からない。こうなると、差別感情以前の問題としたいくらいで、劣等感にまみれた人間が自己欺瞞で自己反省することなしに、他人に攻撃の刃を向ける、というのは小学生から国家規模に至るまで、しばしば見受けられるケースです。

 そう、努力したって報われないときもあれば、報われない人もいるのです。「努力」というものに全幅の信頼をおいているひと、「努力」こそ尊いと思っている人、いますか? 「努力しろ」という叱咤激励や、「努力が足りない」というお説教こそが差別なのです。努力したってダメなものはダメ、それなのに「努力が足りない」「もっとがんばれ」などと言われるから、行き場がなくなって自殺したり殺傷事件に及ぶ人が出てくるのです。殺傷事件に及んだ人を擁護するつもりはないことをことわったうえで―よくいる陳腐なコメンテーターみたいに、「同じように苦しんでいる人がいるのに」と言うのならば、この機会にその多くの人の苦しみを問題にして取り上げなさい、と言いたいのです。

 そして差別用語。「ブス」ということばには悪意、侮蔑、排除、嘲笑が含まれているから、このことばを特定の女性に対して発することは、その女性を殴ることに通じるのです。その女性の容姿の問題ばかりでなく、彼女を侮蔑すべき、排除すべき、嘲笑すべき者と規定する悪意を放っているからです。それでは「ブス」ということばを差別語として一律に規制したり禁止したりするべきなのか。差別語狩りとも言われる差別語規制に対して、表現の自由を盾に差別語規制を批判する人もいます。いずれも、問題が「悪意」であるということを無視した短絡思考です。ことばという代理人ではなくて、差別そのものに目を向けなさいと言いたいですね。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「差別感情の哲学」 中島義道 講談社


Diskussion

Hoffmann:私もこの本は読んだ、いい本だよね。

Klimgsol:差別語の名の下に行われることば狩りは問題だよね。

Kundry:以前、ある劇団が「ノートルダムのせむし男」を上演したとき、ある新聞(全国紙)の劇評では「ノートルダム男」と表記されていましたね。

Hoffmann:滑稽にさえ感じるね。

Parsifal:ことばの言い換えでよしとしていると、本質から逸れてしまうから問題なんだよ。

Hoffmann:ことば狩りだったら、差別語より軽蔑語だよね。国会野党のくだらない言いがかりは差別語でこそないものの、悪意に満ちあふれた軽蔑語だよ。とくにひどいのが蓮崩、辻素なんとか。議員としてというより、ひととして品性が下劣すぎる。あれが一般市民で近所に住んでいたら、絶対にかかわりたくない「異常な人」だよ。


Parsifal:辻素って、前科付きの犯罪者だろ? 心底嫌悪感をおぼえるね(笑)


Kundry:ハラスメント問題はいかがですか? パワハラも同じですが、セクハラの場合でも、「当人が不快と感じたらハラスメントがあったものと見なされる」となると、まさに魔女狩りではないでしょうか?

Hoffmann:主観に頼らざるを得ない問題を、法律や規則で規制すること自体に無理があるんだな。国民が未成熟なのか・・・まあ、国会議員からしてあんなのがまかりとおっているんだからどうしようもない(笑)

Klingsol:歴史上、あるいは社会制度において、女性の立場が抑圧されてきたということがあるからだろう。その反動だよ。とくに女性の問題に限らず、あらゆる差別問題で、低いところにいる人間が高慢になったことと、その言い分が無批判に通るようになったことはパラレルだな。だから自分を低いところに位置させた方が、戦略的に有利だということに、みんな気付いているわけだ。政治家が選挙運動で「庶民の味方」と叫んでいるのはそういうことだ。

Parsifal:きれいごとで片付く問題ではない。自分の冷酷さと向き合う覚悟がないと、差別問題は解決しないんだよ。

Hoffmann:その冷酷さの根本にあるのが、他人に対する否定的感情と自分に対する肯定的感情だね。