039 「書きたがる脳 言語と創造性の科学」 アリス・W・フラハティ 吉田利子訳 ランダムハウス講談社




 著者はマサチューセッツ総合病院の神経科医。産後、書きたがる、書かずにいられない「ハイパーグラフィア」に陥り、精神安定剤の服用をはじめたところ、今度は頭のなかにアイデアはあるのにそれをことばにできない「ライターズ・ブロック」に苦しむこととなった経験から、これらの衝動やブロックを神経科学から説明しようと、この本を書いたということです。

 サラリーマンの仕事は次にやるべきことが明白です。だから目の前の仕事に集中すればよい。経験を積んで、あらゆるパターンに習熟すれば、たいていの場合は次になにをなすべきか迷うことはなくなるはずです。しかし、経営者の場合は直ちに取るべき行動が明白ではありません。集中よりも分散的な思考が求められると言われる由縁です。作家に限らず、ものを書くという創造行為は、おそらく後者に近いはず。

 創造性とはなにか、創造性は手放しで喜んだり称賛されたりするものなのか? フロイトは、創造的な仕事を、過剰な性的エネルギーを社会に受け入れられるようなかたちに転換・昇華する方法だとしました(うへぇ)。ハンナ・シーガルは芸術的な創造とは鬱の空しさへの反応だと主張しています、自分の世界の再創造であると―。

 芸術面の創造性を精神疾患と結びつける考えもあって、狂気が大好きなロマン主義よりも前、ルネサンスの時代から躁鬱を含む憂鬱と創造性を結びつける考えはありました。憂鬱―メランコリー、メランコリアといえばここでかつて語られた話を思い出す人もおられますよね。鬱が内省を導き、この内省状態が書くこと(創造行為)を促す、という考え方です。



 書きたいという欲望を増強させる脳の状態について、この本でまず語られるのは側頭葉てんかん。そして躁鬱病(双極性障害)など。そして側頭葉が「異常な」ハイパーグラフィアを促進するのと同じく、「正常な」創作活動にも一役買っていることにふれて、ライターズブロックの心理的メカニズムを取り上げています。さらに創作活動のサイクルについて検討して、神経科学の面から書いたり読んだりする、ときにはことばに色が見えるといった不思議な体験と脳のメカニズムの関係をさぐる・・・このあたりからはもっぱら脳科学の領域で語られ、ことばを大脳皮質で理解することのほかに、辺縁系で情動を感じ取ること、側頭葉の機能による暗喩的思考から、宗教的・創造的インスピレーション―内なる声を外部に投影する神経作用について検討されています。

 てんかんの影響下における旺盛な創作活動といえば、まず思い当たるのはドストエフスキーでしょう。ドストエフスキーの作品群は、てんかんとの関連抜きには語れない。それにギュスターヴ・フローベール。フローベールが書く発作の様子は側頭葉てんかん発作の典型とされています。

 ハイパーグラフィアのひとが各文字には人が書く文字には特徴があることが多く、とりわけ念入りでスタイリッシュな字体が使われる傾向があるそうです。レオナルド・ダ・ヴィンチの鏡文字もそう。強調のために全文を大文字で書いたり、カラーインクを使うといった例も。側頭葉てんかんだった可能性が高いルイス・キャロルにもこの傾向が見られるとのこと。いまならPCのなかに入っている何千ものフォントやアニメーション・クリップを多用することになるのでしょうか(笑)

 躁鬱病の作家は数多く、ある研究によれば、作家は一般の人と比べて躁鬱病の発症率が10倍ほど高く、詩人に至っては40倍だということです。鬱のときは書く量が減少するばかりか文字も小さくなり、むしろライターズ・ブロックが起こりやすい。躁と鬱が交じりあった興奮状態で創作活動が旺盛になる、とされています。


Fyodor Dostoevsky

 ライターズ・ブロックについて考えてみると、なにも書いていなくても苦しくなければライターズ・ブロックではない、単に書かないというだけです。書けない状態にはいろいろ理由が考えられますが、自己批判や完全主義からライターズ・ブロックになる作家もいます。音楽家でも「わかりすぎてしまって」演奏ができなくなる例があると聞いたことがあります。小澤征爾の師であった斎藤秀雄がそうであった、と言っている教え子がいました。

 自己実現に関する本は、先送りにするな、いまから取りかかれと説いています。「いつか・・・」という理想の未来はいまと地続きなのだから、いまからはじめよ、と―。自信を持て、とか、批評家は必要ない、内なる批評家を沈黙させよ、と―。

 こうなると、もはや「超自我」の問題になります。企業が採用しているブレインストーミングで上司が言います―なすべき価値があることならば、下手でもなにもしないよりはましだ、ことは単純だと。こうしたブレインストーミングは有害だという報告があります。なぜならこの場合、そのひとを足止めさせている原因は「超自我」だからです。ちなみに精神科医のカウンセリング(セラピーと呼ぶのかな?)、ことに自由連想は無意味です。自由連想ができるくらいなら、超自我が緊張を解いているわけですから、その人はもう癒やされているということなのです。



 宗教的体験は―多くの有名な宗教指導者の行動も含めて、いまや側頭葉で発生するものだという共通認識があるようです(てんかん発作を起こすまでには至らない微妙な活動変化から生じるもの)。これはある研究者によると、もっと穏やかな、朝の高揚した気分や読書で深く感動したときなども側頭葉の活動が認められるということです。

 それでは宗教体験も感動も、脳の状態にすぎないのか。ある研究グループは頭頂葉の領域も関係しているらしいという実験結果を報告している、それにしたって脳の状態であれば、神秘体験は神経学的な障害ということになります。無神論者は、だから神の存在は否定されると考え、もっと穏健な人は、側頭葉のある種の状態が神が信者に語りかけるときの方法なのかもしれないと言う―。しかしワインにしろ、ハシシにしろ、あるいは断食も瞑想も、身体的状態をつくりだすための手段として利用されてきたのではないでしょうか。そもそも即物的になりきれず、sentimentalな記述で話を進めてきた著者は、このあたりでお茶を濁してしまうのですが・・・。

 私はドラッグはやったことがないのでわかりませんが、アルコールで気分が高揚してさまざまなアイデアが思い浮かぶことはときどき経験しています。もっとも、アルコールの力を借りて創出されたアイデアというものは、素面で見ると使い物になりません。それはまったく創造的な状態ではないのです。

 それでは宗教的体験は? 私は、宗教的体験、神秘的体験といったものが、まったく創造的ではないと感じています。サバトの情景にしても、ジャンヌ・ダルクの幻視にしても、UFOやエイリアンとの遭遇にしても、よくよく検討してみれば、まことに散文的にして陳腐な想像力の生み出したもの、としか思えません。創造性というのはまた別な話のような気がします。レコードの溝を観察したってその演奏が上手いのか下手なのかはわからない。脳の側頭葉が活動しているからといって、またその画像を観察したり微弱な電流を計測したりしたところで、そのときの行為が創造的であるかどうかなど、わかるはずもないのです。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「書きたがる脳 言語と創造性の科学」 アリス・W・フラハティ 吉田利子訳 ランダムハウス講談社


Diskussion

Parsifal:いまさらだが、まったく書評にはなっていない。本の紹介も若干したけれど、あとはこの本を読んで思いついたことを語らせてもらったよ。

Hoffmann:我々の共通スタンスだ、それでいいんだよ(笑)

Kundry:私には、側頭葉とか言われても、「だからなに?」としか思えないんですが・・・。

Klingsol:たいがいの人は興味のあるふりをしてふむふむ・・・なんてやるわけだが、事故などで脳の一部を損傷した患者以外には、あまり深い意味を持たないよね。個人的には、脳科学ということば自体に胡散臭さを感じる。じっさい、この本の「解説」はおそろしく無内容なことが書き連ねてある。

Hoffmann:ああ、「脳科学者」を自称している人だね。自分で用語を作っちゃって、それを使って語っているんだよね。だから、じつはほとんど中味のない寝言なんだ。よく、時事問題なんかで幼稚な発言をしているけど、まず自分のオツムを調べなさいと言いたいね(笑)マスコミにもてはやされるのは、口当たりのいい、その程度のことしか喋れないからだよ。肩書きは学者でも、井戸端会議レベルだ。

Klingsol:それはともかく、Parsifal君がここ2回、続けてこういった本を取り上げたのは、なにか理由が?

Parsifal:いや、まず滅多に読まない類いの本だから、この機会に読んでみようと思ったんだ(笑)「読字」とか「書くこと」とか、ここで取り上げるのも、まんざら悪くないテーマだろうと思って・・・。

Hoffmann:いずれにせよ、結論にはまったく同意するね。UFOはもちろん、サバトも悪魔憑依も、異教徒の人肉食も、神秘体験も、どれもが人間の陳腐な想像力の範囲を出ていない。だからこそだれにでも馴染みやすいんだよ。

Klingsol:その最後の結論のところ、著者はちょっと歯切れが悪いね。Parsifal君の言うとおり、叙述がsentimentalだ。肝心なところで判断を留保してしまうところがある。

Parsifal:ただ、前回の「プルーストとイカ」と比べると、こちらの本の訳文はこなれていて読みやすいね。それと、世評の高いオリヴァー・サックスやV・S・ラマチャンドランよりも、この本の方がおもしろく読めたことは付け加えておきたい。