043 「堀口大學 詩は一生の長い道」 長谷川郁夫 河出書房新社




 耳  
ジャン・コクトオ

 私の耳は貝のから
 海の響きをなつかしむ


 この、ジャン・コクトーの有名な短詩を紹介したのが、訳詩集「月下の一群」です。「月下の一群」は、1929年、すなわち大正14年に第一書房から刊行されました。紹介されたのは66人の詩人、その大部分が未紹介であったもの、長短340篇の作品はほとんどが初訳。堀口大學33歳の時です。


堀口大學

 中村眞一郎は次のように書いています―

 堀口大学は私たちの世代のほとんどすべての青年を、あのフランス近代詩の厖大な訳詩選集『月下の一群』によって、感受性を革新させたという意味で、単なる詩人以上の日本近代の精神史上の巨大な人物である。

 堀口大學がアポリネールの存在を知ったのは、この訳詩集刊行の10年ほど前、マドリードにいたときに、マリー・ローランサンから紹介されたのでした。それまでレニエやサマンを好んでいた堀口大學に、未来派、ダダ、シュルレアリスムの詩人を教えたのはこの閨秀画家だったわけです。1929年にアポリネールを、翌年にジャン・コクトーを、ブラジル滞在中に訳しています。また1921年(大正10年)には、ポール・フォールからウルグァイの詩人シュペルヴィエルの存在を教えられ、「シュペルヴィエル詩抄」を出版したのが1936年。このほか、詩に限らず、フランスの新しい小説家・劇作家の斬新な作品を次々と紹介して、我が国の作家や詩人に広く影響を与えました。

 ミラボオ橋  アポリネエル

 ミラボオ橋の下をセエヌ河が流れ
 われ等の戀が流れる
 わたしは思ひ出す
 惱みのあとには樂しみが來ると

 日が暮れて鐘が鳴る
 月日は流れわたしは殘る

 手と手をつなぎ顏と顏を向け合はう
 かうしてゐると
 われ等の腕の下の橋の下を
 疲れた無窮の時が流れる

 日が暮れて鐘が鳴る
 月日は流れわたしは殘る

 流れる水のやうに戀もまた死んで逝く
 戀もまた死んで逝く
 生命ばかりが長く
 希望ばかりが大きい

 日が暮れて鐘が鳴る
 月日は流れわたしは殘る


 日が去り月が行き
 過ぎた時も
 昔の戀も ふたたびは歸らない
 ミラボオ橋の下をセエヌが流れる


 日が暮れて鐘が鳴る
 月日は流れわたしは殘る


 翻訳の対象とする作品の選択基準は、あくまでも自分の好みに従うというもの。見事ですね。読んで愉しみ、次に翻訳して愉しんでいるわけです。なんのことはない、影響を受けた側は、堀口大學の愉しみのおこぼれを頂戴していたのです。しかし、「影響」とは本来そうしたものであることが理想なのではないでしょうか。

 訳文は、(当時としては)当世風、軽快感があり、新鮮味があって、ときに日本語のことば遊びも取り入れるというもの。これがひとつの方法論ではなくて、堀口大學流なのです。

 火事  マックス・ジャコブ

 火事は
 ひろげた孔雀の尾の上に咲いた
 一輪の薔薇ですね。


 それが翻訳者の好みを反映しているのですから、少なからぬフランス詩人、作家は堀口大學の独り占め状態。とはいえ、もちろん、見事な訳詩はフランス近代詩に限りません。サマン、グールモン、ボードレールもランボーも、ときに世話に砕けた調子を出しながらも、それもまた自家薬籠中のものにしているから、典雅にして流麗、その香気たるや、いずれも名訳の名にふさわしいものです。

 小説ならばともかく、詩に関しては(読むことができるのならば)原文で読むのに越したことはないのですが、もしも翻訳で読むならば、読むに値する日本語であってほしいものです。そこで問われるのは、翻訳のスタイルに尽きるでしょう。近頃「平明な」「生きた日本語」と称して、退屈な日常生活に適合するくだけた表現、「安易で平俗な日本語」による訳文が「新訳」として出版されていることもしばしばあります。もしも堀口大學の訳文を読んで「わかりにくい」「難しい」と感じたならば、それは日本語を知らないせいです。そういう人は何を読んでも難しいはず。


ジャン・コクトー訪日時 中央がコクトー、左が堀口大學

 少しばかり時代を遡って、名訳詩集といえばまず思い出すのが上田敏の「海潮音」、そして永井荷風の「珊瑚集」。このあたりは、おそらく異論のないところでしょう。「海潮音」は1905年(明治38年)に出版された、日本に初めて象徴派の詩を紹介した訳詩集です。永井荷風の「珊瑚集」は1913年(大正2年)の刊行。上田敏の「海潮音」と並ぶ名訳詩集ですが、とくに名作と呼ばれるものを選んでいるわけではなく、あくまで荷風が自分の琴線に触れた作品を選んでいるのが特徴です。

 そして次に現れたのが、「月下の一群」ですね。「海潮音」と「珊瑚集」があってこその「月下の一群」、しかし時代を画したのはまぎれもなく堀口大學だったと言っていいでしょう。フランス近代詩という点では上田敏と共通するものがあり、自分の好みを優先させるあたりは荷風譲りです。もちろん、それだけの審美眼あってのことながら、文学においては好きなものでなければ翻訳しない。同時に、人生全般についても贅沢な美食家。おいしいお酒でなければ手も触れない、好きなことでなければ見向きもしない。戦時中の物資不足のなかにあって、不如意なことがあっても、いつも上機嫌で泰然と詩を語り、美を讃え、その生き様は高潔にして軽妙。

 そして詩人として。次に挙げるのは、大正8年に世に出た第一詩集「月光とピエロ」から―

 ピエロの嘆き

 かなしからずや身はピエロ、
 月の孀の父無児!
 月はみ空に身はここに、
 身すぎ世すぎの泣き笑ひ!


 ライト・ヴァースで有名なものをひとつ、「雪国にて」から―

 お七の火

 八百屋お七が火をつけた
 お小姓吉三に逢ひたさに
 われとわが家に火をつけた

 あれは大事な気持です
 忘れてならない気持です


 堀口大學晩年の詩集のなかに、辞世の詩らしきものがあります―

 旅の果て

 もう幾つ寝ると
 旅の果て

 終の住処は
 土の下

 せめては薫れ
 わが骨よ


 重く苦しい思いは泥臭いもの、これを粋でしゃれた軽妙な詩に託してしまう、これこそ精神の貴族―。


堀口大學


(自分のためのメモ)

 以下は、私が所有している堀口大學の翻訳書です―

「空しき花束」 堀口大學譯詩集 第一書房 大正15年11月10日
 
※ これは初版本です。

「新篇 月下の一群」 堀口大學譯詩集 第一書房 昭和3年10月1日
 
※ 「空しき花束」と「月下の一群」を一冊にまとめ、さらに新訳数編を加えたもの。革装。

「ボオドレエル感想私錄」 シャルル・ボオドレエル 第一書房 昭和8年7月18日

「アポリネール詩抄」 ギョーム・アポリネール 第一書房 昭和2年12月10日初版
「アポリネール遺稿詩篇」 ギョーム・アポリネール 昭森社 1972年9月15日

「ジャン・コクトオ詩抄」 ジャン・コクトオ 第一書房 昭和4年3月15日
「戯曲 オルフェ」 ジャン・コクトオ 第一書房 昭和4年4月15日
「阿片」 ジァン・コクトオ 第一書房 昭和7年3月10日 普及版
「阿片」 ジァン・コクトオ 第一書房 昭和21年1月20日 改訂新版
「僕の初旅世界一周」 ジヤン・コクトオ 昭和12年5月20日
「コクトオ詩集」 世界現代詩叢書3 ロジェ・ランヌ解説 アンリ・パリソ編 創元社 昭和26年10月30日
「エッフェル塔の花嫁花婿」 ジャン・コクトー 求龍堂 1979年10月25日

「ドルヂェル伯の舞踏會」 レーモン・ラディゲ 角川文庫 昭和27年10月15日初版 昭和41年3月30日十版
 
※ 角川文庫の帯のほか、三島由紀夫評「正に少年時代の私の聖書であった」の帯付き。

「幸福の後にくるもの 1 メディシスの泉のほとり」 ジョセフ・ケッセル 新潮社 昭和26年11月30日
「幸福の後にくるもの 2 ベルナン事件」 ジョセフ・ケッセル 新潮社 昭和26年12月28日
「幸福の後にくるもの 3 夾竹桃花のさかりを」 ジョセフ・ケッセル 新潮社 昭和27年6月15日
「幸福の後にくるもの 4 石膏の人」 ジョセフ・ケッセル 新潮社 昭和27年11月28日



「夜ひらく」 ポオル・モオラン 現代仏蘭西文藝叢書5 新潮社 大正13年7月15日初版 大正14年7月10日八版
「夜とざす」 ポオル・モオラン 現代仏蘭西文藝叢書9 新潮社 大正14年6月17日
「戀の欧羅巴」 ポオル・モオラン 一聯社 昭和22年1月15日

「闘牛士」 アンリ・ド・モンテルラン 第一書房 昭和11年2月10日(注1)
「女性への憐憫」 アンリ・ド・モンテルラン 新潮文庫 昭和28年9月20日初版 昭和45年5月30日十七刷(注2)
「善の悪魔」 アンリ・ド・モンテルラン 新潮社 昭和26年1月30日初版 昭和26年9月5日三刷

「誘惑者 上巻」 ジャン-マリー・カプラン 人文書院 昭和29年11月30日初版 昭和30年2月28日20版
「誘惑者 下巻」 ジャン-マリー・カプラン 人文書院 昭和30年2月1日

「架空會見記」 アンドレ・ジイド 鎌倉文庫 昭和21年11月15日初版 昭和22年3月10日再版
「一粒の麥もし死なずば」 アンドレ・ジイド 第一書房 昭和8年9月20日初版 昭和14年4月15日改版第九刷

「嶮しき快癒」 ジヤン・ポオラン 堀口大學譯 伸展社 昭和12年5月1日

「仇ごころ」 ヴァルリィ・ラルボオ 堀口大學・青柳瑞穂共譯 第一書房 昭和7年10月15日
「幸福の谷へ」 ヴァレリー・ラルボオ 堀口大學・青柳瑞穂共訳 鎌倉文庫 昭和22年3月15日
 
※ 「仇ごころ」改題

「フイリツプ短篇集」 シヤルル・ルヰ・フイリツプ 第一書房 昭和3年4月5日(注3)

「フランシス・ジャム詩抄」 フランシス・ジャム 第一書房 昭和3年6月18日

「新版/馬来乙女の歌へる」 イヴァン・ゴル プレス・ビブリオマーヌ 1967年年8月
 
※ 紫水晶嵌入本
「宿なしジャンの歌」 イヴァン・ゴル プレス・ビブリオマーヌ 昭和42年12月

「デスノス詩集」 ロベール・デスノス 彌生書房 1978年9月30日

「ノアの方舟」 ジュール・シュペルヴィエル 青銅社 1977年11月30日(注4)
「沖の小娘」 ジュール・シュペルヴィエル 青銅社 1977年12月25日(注5)

「聖母の曲藝師」 現代仏蘭西短篇集 至上社 大正14年8月18日初版 大正14年8月20日三刷(注6)
「花賣り娘」 仏蘭西短篇集 第一書房 昭和15年2月20日(注7)
「毛虫の舞踏会」 講談社 昭和54年3月20日(注8)
「詩人のナプキン」 ちくま文庫 1992年6月22日(注9)
「堀口大學訳 横田稔挿画 短篇物語」 書肆山田 1989年3月5日、31日(注10)


 このほかの新潮文庫、角川文庫、講談社文芸文庫等は省略。


(注1)
 第一書房のフランス現代小説全10巻の最初に刊行されたもの。全10巻は以下のとおり―

「闘牛士」 アンリ・ド・モンテルラン 堀口大學譯 昭和11年2月10日
「閉された庭」 ジュリアン・グリーン 新庄嘉章譯
「結婚」 ジャック・シャルドンヌ 佐藤朔譯
「王道」 アンドレ・マルロオ 小松淸譯
「反逆兒」 ジャック・ラクルテル 青柳瑞穂譯
「女騎士エルザ」 ピエール・マッコルラン 永田逸郎譯 昭和11年7月20日
「運命の丘」 ジャン・ジオノ 葛川篤譯
「靑春を賭ける」(未完)ラモン・フェルナンデス 菱山修三譯 昭和11年5月20日
「靑春を賭ける」(續) ラモン・フェルナンデス 菱山修三譯・「北ホテル」 ウジェエヌ・ダビ 岩田豊雄譯 昭和11年6月20日
「女達に覆はれた男」 ドリュ・ラ・ロシェル 山内義雄譯 昭和11年12月30日

 刊行年月日を記載したものは所有している。

(注2)
 モンテルランの「女性への憐憫」「善の悪魔」は以下の4部作のうち第2作と第3作にあたる。新潮社からは新庄嘉章訳と堀口大學訳で出た。

「若き娘達」 新庄嘉章訳
「女性への憐憫」 堀口大學訳
「善の悪魔」 堀口大學訳
「癩を病む女達」 新庄嘉章訳

 新庄訳の「若き娘達」は新潮文庫版で所有している。「癩を病む女達」は所有しておらず、読んでいない。死ぬまでには読みたい。

(注3)
 収録作は以下のとおり―

「慈善」
「獅子狩」
「チエンヌ」
「黌を逃れて」
「訪問」
「食人人種の話」
「遺言状」
「友の中」
「邂逅」
「娘の嫉妬」
「二人の正直者」
「殺人犯」
「燐寸」
「仔犬」
「悪魔の敗北」
「來訪者」
「告白」
「戀の一頁」
「二人の破落戸」
「チエンネツトの脚」
「牛酪の中の猫」
「ロメオとジユリエツト」
「醉漢」
「三人の死刑囚」

(注4)
 収録作は以下のとおり―

「ノアの方舟」
「エジプトへの逃亡」
「砂漠のアントワーヌ」
「少女」
「牛乳の椀」
「蠟人形」
「また見る妻」

(注5)
 収録作は以下のとおり―

「沖の小娘」
「秣槽の牡牛と驢馬」
「セーヌ川の名無し女」
「天空の跛行者たち」
「ラーニ」
「ヴィオロン声の少女」
「或る競馬のつづき」
「犯跡と沼」
 シュペルヴィエルについて―マルセル・レーモン

(注6)
 収録作は以下のとおり―

「萎れた手」 クロオド・フアレル
「颱風」 クロオド・フアレル
「冷たい戀人」 クロオド・フアレル
「青髯の結婚」 アンリイ・ド・レニエ
「オノレ・シュブラツク滅形」 ギイヨオム・アポリネエル
「土耳古の夜」 ポオル・モオラン
「聖母ノ曲藝師」 アナトオル・フランス
「幼童殺戮」 モオリス・メエテルリンク
「水いろの目」 ルミ・ド・グウルモン
「エステル」 フイツシエ兄弟
「友の中」 シヤルル・ルイ・フイリツプ
「訪問」 シヤルル・ルイ・フイリツプ
「黌を逃れて」 シヤルル・ルイ・フイリツプ
「三日月」 アンリイ・バルビユス
「モネルの言葉」 マルセル・シユオブ
「遊行僧の話」 マルセル・シユオブ

(注7)
 収録作は以下のとおり―

「ドニイズ」 レイモン・ラデイゲ
「花賣り娘」 レイモン・ラデイゲ
「人殺しのクロドミイル」 マルセル・ジュアンドオ
「無人島」 マルセル・アルナック
「エクゼルショオル」 ポオル・モオラン
「吝嗇」 ポオル・モオラン
「書物と戀愛」 ジャック・ド・ラックルテエル
「自像」 アンドレ・ジイド
「いまはの夢」 アルベルト・インスゥア
「懶惰の賦」 ジョセフ・ケッセル
「アポリネエルの手紙」
「マヤコオフスキイの死」 ウラディミル・ボズネル
「半面の眞理」 アンリ・ド・レニエ
「フアルグ一家言」
「ユウゴオ一家言」
「嶮しき快癒」 ジヤン・ポオラン

(注8)
 初版当時の15篇に、「ノアの方舟」以下の4篇を追加したもの。収録作は以下のとおり―

「世代の争い」 ジョルジュ・デュアメル
「毛虫の舞踏会」 モーリス・ブデル
「海中を翔ける鳥の話」 クロード・アヴリン
「母親」 ガブリエル・ルイヤール
「鵞鳥の友」 ローオン・ドルジュレス
「少年パタシュ」 トリスタン・ドレーム
「象の墓地」 ピエール・ミル
「獅子の屠所」 ロニー兄
「リス」 コレット
「キリアキ」 マルセル・ティナイエール
「水泡と蜘蛛」 シャルル・ヴィルドラック
「秣槽の牡牛と驢馬」 ジュール・シュペルヴィエル
「エジプトへの逃亡」 ジュール・シュペルヴィエル
「砂漠のアントワーヌ」 ジュール・シュペルヴィエル
「少女」 ジュール・シュペルヴィエル
「ノアの方舟」 ジュール・シュペルヴィエル
「ある競馬のつづき」 ジュール・シュペルヴィエル
「獅子狩」 シャルル・ルイ・フィリップ
「白い獣」 アンドレ・シャンソン

(注9)
 「詩人のなぷきん」(第一書房・昭和4年)の全篇に、「花売り娘」(第一書房・昭和15年)から「ドニイズ」「花売り娘」「無人島」「書物と恋愛」「いまわの夢」「懶惰の賦」「嶮しき快癒」の7篇と、「アムステルダムの水夫」を加えたもの。収録作は以下のとおり―

「オノレ・シュブラツク滅形」 ギイヨオム・アポリネエル
「アムステルダムの水夫」 ギイヨオム・アポリネエル
「詩人のナプキン」 ギイヨオム・アポリネエル
「聖母の曲芸師」 アナトオル・フランス
「颱風」 クロオド・フアレエル
「冷たい恋人」 クロオド・フアレエル
「萎れた手」 クロオド・フアレエル
「五寸釘」 メデロ・エ・アブルケルク
「エステル」 フィッシェ兄弟
「三日月」 アンリイ・バルビュス
「嫉妬」 フレデリック・ブウテ
「幼童殺戮」 モオリス・メエテルリンク
「青髯の結婚」 アンリイ・ド・レニエ
「水いろの目」 ルミ・ド・グウルモン
「ドン・ファンの秘密」 ルミ・ド・グウルモン
「遊行僧の話」 マルセル・シュオブ
「モネルの言葉」 マルセル・シュオブ
「ドニイズ」 レイモン・ラディゲ
「花売り娘」 レイモン・ラディゲ
「無人島」 マルセル・アルナック
「書物と恋愛」 ジャック・ド・ラックルテエル
「いまわの夢」 アルベルト・インスゥア
「懶惰の賦」 ジョゼフ・ケッセル
「嶮しき快癒」 ジャン・ポオラン

(注10)
 「幼童殺戮」(1989年3月5日)、「アムステルダムの水夫」(1989年3月5日)、「聖母の曲芸師」(1989年3月31日)の全3巻をセットにして函に入れたもの。収録作は以下のとおり―

1 「幼童殺戮」
「ヴィオロン声の少女」 ジュール・シュペルヴィエル
「幼童殺戮」 モーリス・メーテルリンク
「詩人のナプキン」 ギョーム・アポリネール
「沖の小娘」 ジュール・シュペルヴィエル

2 「アムステルダムの水夫」
「花売り娘」 レイモン・ラディゲ
「オノレ・シュブラック滅形」 ギョーム・アポリネール
「アムステルダムの水夫」 ギョーム・アポリネール
「ドニイズ」 レイモン・ラディゲ

3 「聖母の曲芸師」
「聖母の曲芸師」 アナトール・フランス
「パタシュの麒麟」 トリスタン・ドレエム
「パタシュは反芻がしたい」 トリスタン・ドレエム
「パタシュと金魚」 トリスタン・ドレエム
「少女」 ジュール・シュペルヴィエル



(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「堀口大學 詩は一生の長い道」 長谷川郁夫 河出書房新社
「異国情緒としての堀口大學 翻訳と詩歌に現れる異国性の行方」 大村梓 青弓社
「読書好日」 中村真一郎 新潮社


Diskussion

Hoffmann:伝記的な事柄は省略して、取り上げた本の内容にもほとんどふれなかったけど、読みはじめたら止められない本だよ。

Kundry:自分が気に入ったものだけを・・・なんだか、澁澤龍彦を思い出しますね(笑)

Hoffmann:わかる(笑)でも、それより以前に堀口大學がいるじゃないか、と言いたいね。

Parsifal:コクトーの「貝」はとりわけ有名だよね。この詩は、漫画「巨人の星」(原作:梶原一騎・作画:川崎のぼる 1966~1971年)でも引用されていて、若くして病魔に命を奪われる星飛雄馬の恋人が海辺で暗唱するシーンがある。

Klingsol:語学者ではなくて、文人の手になる翻訳だよね。それでいて調子が高いと感じさせないんだ。


Parsifal:「月下の一群」は、ふと手に取って、どのページを開いても愉しめるよね。


Hoffmann:その影響力は小説の翻訳においても同様で、たとえばポール・モーランの訳文は、一時期、横光利一、川端康成の文体にも大きな影響を与えているんだよね。

Klingsol:三島由紀夫も堀口大學訳のラディゲ「ドルヂェル伯の舞踏会」について、「少年時代の私の聖書であつた」と言っているよね。

Kundry:私はアナトール・フランスの「聖母の曲芸師」が大好きなんですよ。以前、他の訳で読んでいたのですが、以前、Parsifalさんから堀口大學訳を勧められて、お借りして読みました。

Hoffmann:あれ、ジュール・マスネがオペラにしているんだよ。「ノートルダムの曲芸師」といって、合唱を除くと男声だけのオペラだ。

Parsifal:フィッシェ兄弟の「エステル」も面白いよ。帳簿だけでstoryが紡がれている(笑)よくこういう小説を見つけてきたものだと思うよ。

Hoffmann:あんなのでも・・・と言うのは決して悪口じゃないんだけどね、初版と後の版でわずかに訳文が変わっているんだ。新仮名遣いにもまったく抵抗がなかったそうで、詩も、訳文も、生きていて成長するという態度だったんだね。最新のものが決定稿、という姿勢は崩さなかったらしい。

Parsifal:Hoffmann君は挙げていないけれど、新潮文庫で出ているものはいまでも入手しやすいんじゃないかな。ボードレールの「悪の華」とか、コクトー、ランボー、ヴェルレーヌ、アポリネール・・・。

Kundry:小説ではメリメの「カルメン」や、サン=テグジュペリの「夜間飛行」もありましたね。

Hoffmann:新潮文庫以外はすぐに品切れか絶版になっちゃうんだよね。いや、新潮文庫だって、モンテルランなんて全滅だ。

Klingsol:ポール・モーランあたりは再刊もされないし、いま読んでいる人はいないだろうな。かろうじて、堀口大學が翻訳したからこそ、記憶されているんだろう。

Hoffmann:最近、ピエール・マッコルランの翻訳が出ているけれど、なんなら、ポール・モーラン、アンリ・ド・モンテルランも復活してもいいんじゃないか? 3人合わせてラン・ラン・ランだ(笑)あるいは、堀口大學、中村眞一郎、青柳瑞穂あたりの訳業がなんらかの形でまとめられてもいいと思っているんだけどね。新聞記事みたいな文体の「新訳」を出すよりも、そちらのほうがよほど優先されていいと思うな。

  
左から Paul Morand、Henry de Montherlant、Pierre Mac Orlan

Hoffmann:じつは今日、ボードレールの「悪の華」の文庫本を3冊持ってきたんだ。マッコルランの画像がパイプをくわえていることだし(笑)「パイプ」と題された詩の翻訳を比較してみよう。まずは新潮文庫の堀口大學訳―

 わたしは作家のパイプです。
 アフリカ生まれの美人のやうな
 わたしの顔を見ただけで
 ご主人の煙草好きはすぐ解る。

 ご主人の筆の進まぬ難儀な時は、
 野良から戻る百姓の
 夕餉の支度に忙しい藁屋そつくり
 わたしはせっせと煙を立てる。

 火になつたわたしの口から立ちのぼる
 靑い煙の網の目で
 彼氏の心を抱きしめてそうつと搖すり、

 強いかをりをふりまいて
 心をうつとりさせてあげ
 頭をさつぱりさせてやる。

 次に、岩波文庫の鈴木信太郎訳で―

 作家のパイプでございます。
 エチオピアの娘かカフルの女性のやうな
 眞黑な わたしの顔を御覧になると、
 主人の煙草好きなのが、お解りになる。

 主人の筆が 澁滞して苦勞をする時、
 野良から歸る百姓に 夕飯の
 支度をしてゐる 藁葺きの農家のやうに
 わたしは 煙を盛んにあげる。

 火となつたわたしの口から立ち昇る
 ゆらめく靑い網目の中に
 主人の心を搦めとり 輕く搖すって、

 強烈な香氣を わたしは振りかけて、
 それが 心を 魅惑して 精神の
 疲勞を 癒やして差し上げる。

 そして、集英社文庫の安藤元雄訳―

 かく言う私は作家のパイプ。
 ごらんのとおり この顔つきは
 アビシニアかカフラリアの黒人女、
 主人の煙草好きのほどが知れます。

 主人が悩みに沈んだときは、
 私の煙は 藁ぶき小屋が
 夕餉の支度もいそがしく
 野良から帰る人を待つよう。

 燃える私の口から昇る
 ゆらめく青い煙の網に
 主人の魂をからめて 揺すって、

 強い香りを放てば それが
 主人の心を魅惑して
 その精神の疲れをほぐします。

Klingsol:う~ん・・・安藤訳は新しいね。「百姓」ということばは避けたのかもね。

Parsifal:リズムでは堀口訳かな。

Hoffmann:原文のフランス語が読めないので、あまり断定的なことは言えないんだけど、堀口訳が「ご主人」を「彼氏」にして、「精神」「魅惑」ということばを排除しているのは、リズムを重視したためだけではないと思えるね。

Kundry:私はずっと岩波文庫で読んでいたので、鈴木信太郎訳が馴染み深いのですが・・・それにしても、この詩を選ぶなんて、さすがHoffmannさんです。Brenford大学でLeolinus Siluriensis教授のもと、Fumifical Philosophyを修めただけのことはありますね(笑)