049 「サラサーテの盤」 (「文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒」) 内田百閒  東雅夫編 双葉文庫




 恐怖小説、怪奇小説、怪談ばなしといったジャンルで、偉大な作家と言えば、まず思い浮かぶのは泉鏡花です。「偉大な」なんて言うと、やはり最初に挙げるのは泉鏡花かな、と思ってしまいます。では「名匠」としたらどうか―泉鏡花に続けて、岡本綺堂、内田百閒の名前を挙げたくなります。


内田百閒

 そこで今回取り上げるのは「サラサーテの盤」。鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)はこの小説に基づいたものですね。原作の方は短編小説なので、割合シンプルなstoryです―

 ある晩、「私」が来客と食事をしていると、「私」の友人で1か月ほど前に亡くなった中砂の未亡人、おふさがやって来た。おふさは中砂の死後、生前に中砂が私に貸していた辞書や参考書を取りに来ていた。今回は、サラサーテのレコードを返してほしいと言う。そのレコードは、演奏の途中に人の声が入っているというもの。声の主はサラサーテ自身と思われるため、レコードは珍品扱いされている。しかし、レコードが見当たらなかったため、私は「後日探す」とおふさに告げる。

 ここから回想―学校を卒業したあと中砂は東北の官立学校に任官し、ある正月を私の家で過ごした。そして夏休みに私と中砂は太平洋岸に小旅行に出かけて、そこで出会った芸者がおふさだった。その後、中砂は教師を辞めて上京して結婚、きみ子という子供が生まれるが、妻は乳飲み子を遺し、西班牙風邪で亡くなった。そこで、中砂は亡くなった妻の里にいた女中との縁で、おふさをきみ子の乳母として迎え入れ、中砂とおふさは結婚した。しかし、何年か後、中砂はおふさときみ子を残して病気で死んでしまった。

 その後、所用があってある家を訪ねようとして道に迷っていたときに、おふさときみ子に出会った。おふさは、中砂は死んだ奥さんのところに行っている、私を残してきたなどとは思っていない、でもきみ子は私の手で育てる、中砂に渡す事では御座いませんと言って、去っていった―回想はここまで。

 いつもどおりの時刻におふさがやって来て、奥様はいらっしゃいますかと言う。おふさは、夜中のきまった時刻にきみ子が目を覚まし、中砂と話している、きっとこちらにきみ子が気にするものが預けてあるに違いない、奥様はきっと御存知だろうと思うから来た、奥様が不在なら近いうちにまた伺う、と言う。

 私はサラサーテのレコードを友人に又貸ししていたことを思い出して、レコードをおふさの家に持って行くことにする。おふさは私が持っていったチゴイネルヴァイゼンのレコードをかける。すると―

 はっとした気配で、サラサーテの声がいつもの調子より強く、小さな丸い物を続け様に潰している様に何か云い出したと思うと、
「いえ、いえ」とおふさが云った。その解らない言葉を拒む様な風に中腰になった。
「違います」と云い切って目の色を散らし、「きみちゃん、お出で。早く。ああ、幼稚園に行って、いないんですわ」と口走りながら、顔に前掛けをあてて泣き出した。



内田百閒

 この小説もまた、前回Kundryさんがお話しした「ねじの回転」同様に、あるがまま、読んだままに受け入れればいいと思っています。なにも、いちいち意味を求めたり、「解釈」したりする必要はありません。謎は謎のままにしておけばいいんです・・・とはいうものの、読むだけならそれでいいんですが、こうして語るとなると、「ねじの回転」とは違って、話すことがなくなってしまいます。それに、内田百閒はヘンリー・ジェイムズのように、あえて曖昧にしているわけではありません。この、悪夢さながらの小説にはいくつかの手がかりが示されているように思えますので、それをたどってみることにしたいと思います。

 中砂の遺児きみ子が最初の手がかりです。小説のなかで、「私」の前では一度もことばを発することはなく、おふさが中砂の遺品を取りに来たときも、家の玄関(土間)にも入ってこないで外にいる。もちろん、「私」がレコードを返しに行ったときも、家にいない。つまり、まったく姿を見せないのです。この小説のなかで「私」の前に姿を現すのは、回想のなかで、「私」と偶然出会ったときだけです。このとき、きみ子は「私」とおふさの間から「くるりと擦り抜けて」おふさの反対側に寄り添って歩きます。

 この場面で注目すべきは、おふさの発言です。「でもこの子が可哀想で御座いますから、きっと私の手で育てます。中砂には渡す事では御座いません」と言っている。これは、きみ子が中砂のもとに奪われていってしまう可能性を示唆しています。

 最後のサラサーテの声を聴いた直後、おふさがきみ子の所在を確認しようとするのは、その声がきみ子に関するものであったことを示しています。しかも、「・・・幼稚園に行って、いないんですわ」という確認の後、泣き出す。

 さきほど、きみ子は小説のなかで、「私」の前では一度もことばを発しない、と言いましたが、夜中、決まった時間には中砂と一心に会話していることが、おふさによって語られています。

 つまり、きみ子が家にいるときには、きみ子の耳に、直接「死者の声」が聞こえる。幼稚園に行っていないときには、サラサーテの声を通して、「私」にもおふさにも、「死者の声」が聞こえたわけです。

 これをもって、きみ子は「私」が生きているような現実世界に、少なくとも「私」と同じようには、存在していないとは考えられないでしょうか。さらに言えば、此岸(現世)と彼岸を行ったり来たりしているように思われます。そして、おふさはその境界線あたりをうろうろしているのです。

 そのきみ子と小説中で唯一接触している(話しかけている)のが、「私」の「家内」です。おふさが訪ねてきたときに―

 家内も出て来て、おふさに上がれと云いかけたが、きみ子が外にいると聞いて、下駄を突っ掛けて往来へ出た。
「まあ、きみちゃん、そんな所に一人で」
 しかし子供は中に這入りたがらないらしい。


 この「私」の「家内」は名前さえも与えられていませんが、おふさが言うところの「奥様」です。そう、きっとこちらにきみ子が気にするものが預けてあるに違いない、奥様はご存知だろうと思うから来た、奥様が不在なら近いうちにまた伺う・・・とおふさに言われた「奥様」です。きみ子に唯一接触した「奥様」がきみ子を接点にして、おふさから遺品返却のキーパーソンとされているのです。

 もうひとり、おふさから「奥さん」と呼ばれている女性がいましたね。中砂の前妻です。中砂は死んだ奥さんのところに行っている、私を残してきたなどとは思っていない、でもきみ子は私の手で育てる、中砂に渡す事では御座いません、とおふさは言っていました。

 おふさの決意は次の2点です―

 「奥さん」のところへ行った中砂、その中砂にきみ子を渡す事ではない。
 「奥様」(「私」の「家内」)のところ(家)にある中砂の遺品(喪失したもの)を残らず取り戻さなければならない。

 おふさは自身は、「奥さん」でもなければ、「奥様」でもない・・・というより、「奥さん」「奥様」になれなかったのです。「後妻」としてやって来て、早々に主を失って未亡人となった自分が喪失したもの、それが中砂の遺品と呼ばれているものなのです。きみ子も中砂の遺品のひとつです。きみ子と、「私」の家に預けられている中砂の遺品を自分の手元に置きたい、回収したいというのは、喪失したものを取り戻そうとする思いです。

 そのような自分が喪失したもの、未だ未回収の中砂の遺品、それがなんであるかを知っているのは、「奥さん」「奥様」、すなわち「家内」と呼ばれる人種でしかない、と考えているのです。奥様ならご存知だろうという口調に、苛立ちと嫉妬が読み取れるのは、そうした理由によるものです。ましてや、「私」の「家内」=「奥様」は、「まあ、きみちゃん、そんな所に一人で」と言って、きみ子を家に上げようとしました。これはおふさにとっては許し難い行動だったと思われます。きみ子が家の中に入れば、きみ子もまた失われてしまいかねないからです。だから、その日の二度目の訪問の際には、また子供(きみ子)を外に立たせているのかと尋ねると、「取り合わない様な風」で、「よろしいんで御座いますよ」としかこたえないのです。再び「奥様」をきみ子と接触させるわけにはいかないからです。

 此岸と彼岸を行ったり来たりしているきみ子、此岸と彼岸の接点=境界線あたりにいるおふさ。彼岸には「奥さん」と中砂がいて、此岸には「奥様」と「私」がいる―しかし「奥様」=「私」の「家内」が、きみ子に接触することによって、きみ子と「奥様」の接点ができてしまい、「奥様」はおふさによる中砂の遺品回収に巻き込まれることになったのです。つまり、おふさは「私」に対して、「奥様でなければわからない」「奥様はきっと御存知だと思う」中砂の遺品=おふさが喪失したものを要求してきた。もちろん、もうきみ子を連れてきてはいません。

 なぜ「私」に? なぜ直接「奥様」に尋ねない? この場面では「奥様」は「今日は用達しに出て・・・まだ帰らない」とありますが、それが本当の理由ではありません。「奥様」というものが「私」に「家内」と呼ばれているとおり、「私」の分身として「家」を象徴するものであるからです。だから、尋ねるのは「私」に対してで、間違っていないのです。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒」 内田百閒  東雅夫編 双葉文庫
「サラサーテの盤」 内田百閒 福武文庫
 ※ いずれも新字・新仮名遣いにあらためられています。


Diskussion

Parsifal:内田百閒らしい、なんとも言えない不気味な雰囲気がたまらないね。

Hoffmann:一種独特な、異様な、atmosphereが漂う小説だよね。


Klingsol:先ほどは引用しなかったけど、冒頭部分がまた見事なんだ―

 宵の口は閉め切った雨戸を外から叩く様にがたがた云わしていた風がいつの間にか止んで、気がついて見ると家のまわりに何の物音もしない。しんしんと静まり返った儘、もっと静かな所へ次第に沈み込んで行く様な気配である。机に肘を突いて何を考えていると云う事もない。纏まりのない事に頭の中が段段鋭くなって気持が澄んで来る様で、しかし目蓋は重たい。坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいがした。廂を辷って庭の土に落ちたと思ったら、落ちた音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。

 ポオの「アッシャー家の崩壊」の書き出しに匹敵するよね。

Kundry:小説の書き出しのお手本のようですね。

Parsifal:ポオの模倣はできるかもしれないけれど、内田百閒の模倣はできそうもない。


Hoffmann:「奥様でなければわからない」遺品というのは、もちろんサラサーテの盤のことではではないんだよね。サラサーテの十吋盤は「私」が友人に又貸ししていたのを忘れていたのであって、「奥様」には関わりのないものなんだから。


Kundry:ところが、映画だと「奥様」がそのレコードを隠していたんですよね。


Hoffmann:そう。だから映画では、中砂未亡人の「失せ物探し」はサラサーテの10インチ盤に焦点が絞られてしまう。


Parsifal:そこの改変は、まんざら悪くない原作の―「解釈」と言うよりも、「翻訳」だと思うんだよ。鈴木清順による映画はなかなか見事に、この短編小説の本質を突いていると思うんだ。はてさて、小説中の「私」がおふさに返却するべきものとは、なんなのか・・・。


Hoffmann:それでは、映画についてはParsifal君に語ってもらおうか。


(追記) 映画を観る 15 「ツィゴイネルワイゼン」upしました(こちら