051 「不連続殺人事件」 坂口安吾 角川文庫




 明治以来、日本の文学は海外文学の翻案によりはじまったといってもいいでしょう。戦前はほとんど翻訳に近い翻案、戦後は模倣です。これは探偵小説においても例外ではありません。海外の小説の翻案からはじまるのは、本邦における推理小説・探偵小説作家の草分けである黒岩涙香の昔からのこと。

 黒岩涙香は文久2年、1862年生まれの作家です。明治20年代には探偵小説の黄金時代をつくりあげたひと。創作ももちろんありますが、その多くは海外の小説の翻訳・翻案でした。当時のことですから発表の場はもっぱら大衆新聞。主要な新聞がこぞって探偵小説を連載するようになったのは、このひとの業績あってのことです。

 さて、今回は坂口安吾の「不連続殺人事件」を取り上げます。

 一応storyを簡単に―

 戦後間もない1947年(昭和22年)の夏、詩人歌川一馬の招待で山奥の豪邸に集まった男女たち。作家、文学者、詩人、画家、劇作家、女優などいずれ劣らぬ奇人・変人たちが一馬の手紙により招待されていた。ところが、一馬によればその招待状は偽物。招待客、使用人、家族を合わせ、29人の人々が滞在していた歌川邸では、家族のみならず戦争中に疎開していた10人や、その他の招待客らの間に愛欲と憎悪渦巻くなか、流行作家の望月王仁が殺害される事件が発生する。続いて一馬の妹珠緒とセムシの詩人内海明、千草が殺害され、一週間後の8月26日には、第五・第六の殺人が発生する。

 次々に起こる殺人事件に、一貫した動機を見出すことはできず、次に誰が殺されるのかも予想がつかない。連続殺人事件であるのに、動機に一貫性がない。犯人が複数なのか、あるいは真の動機を隠すためだけに殺された被害者が存在するのか。語り手である小説家矢代と共に訪れた探偵巨勢博士は、この事件を「不連続殺人事件というべきかもしれない」と言う。

 そして9月10日の明方4時、一馬が青酸カリによって死亡。警察は自殺と判断する。探偵である巨勢博士は、最後の被害者が出る直前には真相に気づいていたが、証拠をつかむために屋敷を離れていた際に、最後の殺人が起こってしまった。戻ってきた巨勢博士は残った人々を一堂に集めて、「犯人はヌキサシならぬ心理上の足跡を残してしまった」と指摘して、事件の真相を語り始める・・・。


坂口安吾

 もう有名なことなのでネタバレしてしまうと、この作品の主要なトリックは海外の有名な女流作家の作品とほぼ同じのものです。この「不連続殺人事件」もATGで映画化されていましたが、その海外作品も映画化されていす。たしか邦題は「ナ・・・(ムニャムニャ)

 これは作者である坂口安吾も隠すつもりはなかったようで、探偵小説が好きだという登場人物のひとりが、好きな作家としてまさにこの女流作家の名前をあげています。

 以前、ある雑誌を読んでいたところ、「不連続殺人事件」はなかなかよくできた悪くないミステリだが、トリックが斬新だとか、意外性がすばらしいだとかいう評価はまったく間違っていて、この作品を日本ミステリ界のベストワンに推すひとは翻訳ミステリをあまり読んだことのないひとではないか、と言って、最も重要な部分がある海外の作品によく似ている、と得意になって指摘しているひとがいました。「不連続殺人事件」がそんなに高い評価を得ている作品だったとは私も知らなかったのですが、例の海外の作品と似ているのはよく知られていることだと思います。このひとは、「不連続」をすぐれた作品であると認めながらも、「本格探偵小説は、オリジナリティ、独創性をつねに尊重しなければならない」「偶然の一致だろうとなんだろうと、よく似た前例があれば、それだけマイナス」だと言っているんですね。

 私の場合、誤解を恐れず言わせてもらうと、ミステリであれなんであれ、オリジナリティなんてまったく評価の基準ではありません。似たようなトリックだからといってマイナスになるなんてこれっぽっちも思っていません。むしろ、つまらないトリックに依存した出来の悪いミステリや、トリックそのものが破綻しているようなミステリがどれほどあることか・・・同じようなトリックでも、説得力のあるなしのほうが作品の評価においては問題になるべきだと考えています。もちろん、説得力のあるなしというのは、トリックそのものではなくて、その背景の物語の設定などの話。現代ミステリがつまらないと感じることが多いのは、そういった点で玉石混淆だからです。昔の本格物だと、出来の悪いものはとっくに淘汰されてしまっているから、いいものが多いといった印象を受けるのでしょう。文学作品も一定期間寝かしておくといいのかもしれませんね。

 じっさい、「不連続殺人事件」はたいしたものだと思います。翻案と呼べるほど元の作品に依存していない、どころか、元の作品は海外のミステリのなかでも名作のひとつと言われていますが、小説としては疑いなく「不連続殺人事件」のほうがすぐれていると思います。具体的に言うと、探偵役の巨勢博士が真相に気付くきっかけとなったとする、犯人が残してしまった「ヌキサシならぬ心理上の足跡」の件は、坂口安吾が作品中に独自に張り巡らしておいた伏線であり、謎解きの説得力を増すのに大きく役立っています。探偵小説だって小説なんですからね、小説としてよくできていることが重要なんですよ。



坂口安吾

 物語はこの作品が書かれた当時の昭和22年、地方の山中にある豪邸を舞台にしています。これ、いま読んでも不思議な魅力がある設定ですね。山奥の、あたかも隔離された環境での連続殺人事件。どことなく横溝正史の角川映画の雰囲気です。横溝作品にも言えるかもしれませんが、こうした閉鎖空間でのstory展開が、古くささを感じさせず、同時にその古さが郷愁を誘うような、いかにも日本の作品といった魅力を添えているのではないかと思えます。

 これはどういうことかと言うと、描かれている人物や情景の雰囲気が昭和22年でありながら、汽車だの円タクだのは出てこないので、現代の読者にもなじみやすいのではないかということです。同じ坂口安吾でも、ある短編推理小説では、東京駅発博多行急行列車が7時30分発で、京都着が午後6時41分とある。こうなると、さすがに古いなあと思ってしまいますよね。そのせいでもないと思いますが、文体も、「不連続」とたいして変わらないのに、ついていけない印象になってしまいます。やはり「不連続殺人事件」は特別によくできた名作なのでしょう。

 また、登場人物たちはどれもこれも平凡人ではない、かなり個性豊かな、悪く言えば異常な連中ながら、妙にリアリティがあります。

 そして読者に対しては公平で、必要な手がかりはすべて与えられていて、じっさい、雑誌連載時には、終章(解決篇)の掲載直前には読者への挑戦状が掲げられました。坂口安吾のエッセイを読むと、そうした本格物こそミステリーの王道と考えていたようですね。もちろん、挑戦状に対して読者からの応募もありました。これは当時の雑誌を読んで確認したのですが、見事真犯人を推理した読者がひとりおりまして、作者自身から賞金も出たようです。なかには、とんでもない登場人物を犯人と目して、クイーンの「Yの悲劇」ばりのストーリーと見抜いた(?)読者もいたそうです。作者から直接指名で挑戦した江戸川乱歩、荒正人、平野謙、大井広介といったひとたちは全滅でした(笑)

 もしかすると、カタカナ混じりの文章と文体は、これはいまの読者には少々馴染みにくいかもしれません。

 戻って京子に言ったら、マッピラ御免だと言う。

 私は然し、至ってツキアイのいい方だから、何かというとホダされて、どうもいけないタチである。・・・所詮ホロリとしているのだ。じゃア思いきって行きます・・・


 ほかにも、「カケダシの若僧」「美学というシャレたもの」「ハッキリ割り切られて」など。「ハッキリ」に至っては1ページに3回出てくるところもあります。登場人物だって木兵衛は「モクベエ」、光一が「ピカ一」、警察官のニックネームなんて「ヨミスギ」「カングリ」「アタピン(アタマにピンとくる、の意)」ですからね。ハッキリ言って(笑)ちょっと「幼稚」と思えないでもありません。

 イヤイヤ、然し、これは時代を考えたら仕方がないやね。それに、ハッキリ言って、カタカナ混じりの文章に関しては、坂口安吾はエッセイでもいつもこんな調子だアね。正直言って、オレも個人的にはこの手の文体はちょッといけないクチだ。まア、当時のいわゆる無頼派と呼ばれる文士の間では、こんなのが流行ってたンだな。だから、この点は大目に見て、カンベンしてやろうじゃアないか(^0^)ノカンラカラカラ・・・おっと、笑い声まで古くなってしまいました(笑)つまり、これは坂口安吾の文体と思ってそのまま受け入れてしまいましょうということです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「不連続殺人事件」 坂口安吾 角川文庫

「私の探偵小説」 坂口安吾 角川文庫
「能面の秘密 安吾傑作推理小説選」 坂口安吾 角川文庫
「明治開化 安吾捕物帖」 坂口安吾 角川文庫






Diskussion

Parsifal:坂口安吾と言えば、中学か高校のときに「堕落論」を読まされたな。


Hoffmann:感想文まで書かされたよ。

Parsifal:「無頼派」なんて、Hoffmann君の好みではないよね(笑)

Hoffmann:なにしろ文体が嫌だった。アジ演説を聞かされているようで・・・ちなみにそのころ文体で好きだったのは貝塚茂樹と吉田健一だったから(笑)

Kundry:「堕落論」というと、ニーチェとの親近性が指摘されますよね。

Hoffmann:結論に至るまでが違うんだよ。坂口安吾って、「アンチテーゼ」はあるけど、「テーゼ」がないんだよね。こんなこと言うと、安吾が好きな人からは猛反論されそうだけど(笑)

Parsifal:わかる(笑)そもそもがダダの影響を受けたところから始まった人だからね。

Kundry:そういえば、ジャン・コクトーの「エリック・サティ」の翻訳がありましたね。佐藤朔との共訳ですが。

Klingsol:「アンチテーゼ」はあるけれど「テーゼ」がないというのは、そうかもしれないね。坂口安吾は、なにかを否定・粉砕する形でしか、自分の主張ができないようなところがある。だから、長篇「吹雪物語」なんて、当人でさえ失敗作と認定するような小説になってしまった。行き場のない、閉塞状態の観念小説だもの。

Hoffmann:たしかに、「○○だ」と言った後に、続けて「しかし××だ」とか、「それだって××だ」・・・とやっている、全編この繰り返しだ。とにかく「拒否」しているだけなんだよね。反論する相手がいなければ自分で自分の前言を否定するしかないということか・・・たしかに、ダダ運動が行き詰まるわけだ(笑)

Kundry:すると、この「不連続殺人事件」はとくに出来がいいとして・・・坂口安吾の推理小説は「不連続殺人事件」以外はいかがでしょうか。先ほどのお話ですと、いま読むとさすがに古いと・・・?

Hoffmann:特異な位置を占める作品がある。「明治開化 安吾捕物帖」という連作短篇小説だ。勝海舟が推理に一枚かんでいるんだけど・・・世相を慨嘆するばかりで、謎解きはほとんど間違い、失敗している。ところが、その人間観察と洞察力は戦後社会を諷しているんだな。時代を描くのに、「不連続・・・」とは異なって、舞踏会、人力車といった風俗も盛り込んでいるところが、さすがだね。

Kundry:それでは、映画の方のお話も、お願いできますか?(笑)

(追記) 「映画を観る 016『不連続殺人事件』」upしました(こちら