053 「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」 筑波昭 草思社




 津山三十人殺しと呼ばれる事件は、1938年(昭和13年)5月21日午前1時40分頃から3時頃までの間に、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件です。1時間半足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負い、内2名が(致命傷となって)その後12時間以内に死亡。犯人も自殺しています。

 おそらく、この事件を最初に取り上げたのは横溝正史でしょう。横溝正史の小説「八つ墓村」の冒頭で語られる村人32人殺し事件は、本事件をモデルとしています・・・というのは正確ではなくて、本事件の外面だけ取り入れたものです(以下、読んでいただければこの説明の意味がおわかりいただけるはずです)。そのほか、この事件は小説や映画、漫画にもなっており、前回取り上げた島田荘司も、長篇「龍臥亭事件」のなかで、集落の名称を変更しながら、この事件に言及しています。また、ノンフィクションとして取り上げたのは松本清張で、犯罪実録もの「ミステリーの系譜」シリーズのなかの「闇に駆ける猟銃」がそれ。

 この事件に関しては奇妙な「伝説」がありました。それは、事件当時マスコミに発表されず、世間から秘匿されてきた、日華事変の最中でもあり、あまりにも残虐なこの事件は公表されなかった・・・という「伝説」です。これはまったくの誤解で、事件当時には新聞やラジオで大々的に報道されており、全国に知れ渡っていたことは、当時の新聞をひもとけばすぐにわかること。「少年倶楽部」だって、この事件を取り上げているんですよ。

 この事件が公表されなかった、とする「伝説」。これがなにを意味するのか―。



都井睦雄

 事件について、ごく簡単に振り返っておくと―

 時は1938年(昭和13年)5月21日午前1時40分頃、都井睦雄(といむつお)は、詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭には鉢巻を締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけたうえ、首からナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には9連発に改造したブローニング・オート5を持つという異様な姿で、近隣の住人を約1時間半のうちに次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった、というもの。

 最初に、自宅で就寝中の祖母(75)の首を斧で刎ねて即死させたところから、1軒め、2軒め・・・そして11軒めの家まで、日本刀での殺害または射殺を繰り返した後、3.5km離れた荒坂峠の山頂で、猟銃で自殺しました。


凶行時の都井の恰好の再現

 このような犯行に及んだ背景を、都井睦雄の人生をたどってみることで明らかにできるかもしれません。以下に箇条書きにしてみましょう―


 2歳の時に両親を、いずれも肺結核で亡くした。
 睦雄は姉とともに祖母に引き取られた。
 学業優秀であったが祖母は彼を手放したくない思いから上級学校への進学に反対。進学を断念。
 肋膜炎を患い静養、なにをするでもなく約3か月間をすごした。
 やがて肋膜炎は小康を得たが、外出を好まず、部落の青年団、及び隣人たちとの交際に無関心となった。
 終日家に閑居して雑誌を読む程度で他になすこともなく、徒食を続けていた。
 1934年3月、睦雄が満17歳の時、姉が他地区の男性と結婚して家を出た。
 1935年の初めごろ病気が再発。
 1937年3月、満20歳の成人を迎えた睦雄は正式に家督を相続。
 1937年5月に徴兵検査に臨んだところ、結核を宣告され丙種合格となった。
 このころ猟銃1丁を購入。警察から狩猟免許を取得。その後、別の猟銃と交換して改造。毎日のように射撃練習をするようになった。
 1938年5月、以前懇意にしていたもののその後都井の元から去り、他の村へ嫁いでいた女性が村に里帰りしてきたことがきっかけとなって、21日未明、犯行に及んだ。

 上記では、睦雄本人や関係者の内面に関してはあえて触れていませんので、少し補足しておくと、結核に罹患していることが明らかになって、性関係にあった女性から関係を拒否された、というのは事実に反していて、少なからぬ女性が結核を承知で情交関係に入っています。睦雄の薬をついでの折にもらってきてくれた女性もいます。そのなかには睦雄から金品を受け取っていた者もいました・・・が、もちろん事件後にそのような「証言」はされていません。

 ただ、そのことをもって、睦雄を擁護することはできません。睦雄の「遺書」にも、少なからず大げさで芝居がかった表現が見られます。睦雄が避けられるようになったのは、見境なく婦女に挑み情交を迫り、応じない場合、また応じても継続しない場合に猟銃片手に脅しをかけるような態度に怯えたためのようです。猟銃を持って部落内を歩き回っていたのも、関係のある女たちばかりでなく、部落民に対する牽制策であったようなのです。ところが、これは裏目に出て、かえって女たちから疎まれる結果をもたらしたわけです。被害妄想もあったのかもしれません、都井睦雄は、極端に猜疑心深く極端に自己中心的になっていきました。


 注目すべきは「結核」「徴兵検査不合格」これに伴う「女性関係」の3点でしょう。

 結核は1935年以降は死因の第1位を占めていました。世間一般、ことに地方社会では、とりわけ肺病と癩病(ハンセン氏病)に対しては極端に嫌悪する傾向がありました。おそらくいまでは考えられないほどに、当時の結核に対する嫌悪感は並大抵でなく、結核は遺伝であると信じ、肺病患者が住んでいる家の前を通るときは、口や鼻をハンカチでおさえて通るようなこともあったと言われています。両親を肺結核で亡くし、自身も結核と宣告された睦夫の絶望はいかばかりのものであったのか・・・「不治の病」の宣告と受け取ったようなのです。

 徴兵検査の結果は「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」の5種類に分かれ、乙には第1種と第2種がありました(のちに第3種が加わる)。1927年以降、甲種は「身長155センチ以上で身体強健な者」、乙種は「甲種に次ぐ者」とされていました。甲種と第一乙種が「合格」で、その年12月以降に入営する「現役兵」として徴兵されます。丙は「現役に適さざる者」、丁は「兵役に適さざる者」、戊種は翌年再検査の対象です。受験者の約半数が甲と乙だったそうです。これは当時の栄養状態、衛生環境からすればそんなものでしょう。兵役には現役、第一・第二補充兵役、第一・第二国民兵役がありました。丙種は第二国民兵役に服するものとされ、徴集を免除されて国民軍の要員になるのですが、平時は名目にすぎないもの、つまり「丙種合格」とは「不合格」ということです。

 女性関係については、「夜這い」の風習について確認しておきます。この地方の村落における性的な風土、すなわち「夜這い」の風習については、調査によると、部落外の者が大部分、この風習の存在を肯定するのに対して、部落民の大半及び駐在巡査は「夜這い」の風習の現存することを否定していたそうです。つまり、当事者に限っては、この事件によって暴露された男女関係の事実は、都井睦雄を中心とする例外にすぎないと主張しているのですね。

 しかし、どうでしょうか―家々がほとんど戸締りをせず、明かりもなかった時代、男が夜、女の家に忍び込んで性的交渉を持つ。地域によってそれぞれ「取り決め」や「条件」が違ったとは思いますが、農村や山村などでほぼ全国的に行われていたとされているのに、否定する方が無理があるのではないでしょうか。念のためことわっておきますけどね、夜這いというものは、相手の意思を無視して忍び込むという例もなくはないでしょうが、多くは事前に相手の同意を得て訪ねたもので、それも性交渉が必ず伴うというものではなかったんですよ。「性的に自由」というのは「無規律」ということではないのです。夜這いの文化が絶えたのは、大正から昭和にかけての青年会運動や官憲の取り締まりによってであって、中国山地の山中に位置する山口県周南市出身の男性の証言として「戦後も長らく夜這いが活発だったことを覚えている」という記録も残っています。もちろん、地域によって実態は異なっていた可能性も否定はできないのですが・・・そんな風習はなかった、というのは、この事件の背景からはちょっと信じ難いのです。

   
事件を告げる当時の新聞

 こうしたところに、この事件が公表されなかった、とする「伝説」が流布した理由が見えてきます。


 つまり、犯人たる都井睦雄が自殺してしまったので、「死人に口なし」なんですよ。生存者やその関係者が犯人を悪く言うことはあっても、自分に都合の悪いことを口にするはずがない。まして女性たちはかつて犯人と関係があって、それが動機の主たる部分を形成していると噂されているのに、当の女性がすべてを語るはずがない。どころか、「証言」した範囲でも、真実を陳述したという保証はないのです。その他の生存者に至っては、ほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親戚関係にあったため、その証言は一方的にすべての罪を睦雄にかぶせる「証言」となっています。

 事件は都井睦雄という名の「異常者」が起こしたことだとしておけば、生き残った人間も、殺された人間も、名誉が守られて傷つかないのです。悪いのは都井睦雄だ、あれは異常者だ、と一方的に主張しておけばよいのです。睦雄と性的な交渉があった女性など、そんなことを公に認めたら、事件の原因をつくったと言われかねない。もしも睦雄との性関係が否定しきれないのならば、「無理矢理暴力的に・・・された」と「証言」すればいいのです。ましてや「結核」「丙種合格」に対して差別的な、閉鎖的で排他的な村社会のことです。じっさい、この本にはそうした、とくに睦雄との関係が深かった女性の「証言」が引用されていますが、一読すると明らかに矛盾だらけなのです。しかしこれを非難する人はいない。事件後に村八分にされたのは、襲撃を受けなかった都井家の親族の一家です。

 だから、生存関係者ばかりでなく、部落の人々はこの事件に触れることを禁忌(タブー)としたのです。じっさい、昭和50年に刊行された「加茂町史」でも千ページを超す大冊の中で、この事件に関しては次のような記述しかありません―


 戦争に非協力的な者は非国民呼ばわりされ、徴兵検査での甲種合格は成年男子の華であった。このような風潮の中で都井睦雄事件も発生したのであった。

 ・・・これだけです。

 ことわっておきますが、私はこの事件の加害者である都井睦雄に同情するつもりはありません。しかし、単に恋愛、性欲が満たされないことで、30人も殺したのではないことは明らかです。結核に罹患したことは不幸なことだったと思います。しかし、徴兵検査に不合格となって、彼の家系がいわゆる「結核筋」として嫌悪・白眼視された・・・その白眼視した者たちが、事件について語ることを禁忌として、自分たちのしたことには口をつぐんで、一方的に睦雄の異常性ばかりを語ることには疑問を感じます。

 さらに言うと、戦時中、病人に対して戦争に非協力的だと「非国民」呼ばわりした人間が、戦後はあっさり民主主義に転向して、やれ軍部が悪いの、天皇の戦争責任だのと叫びだす、というのは日本中で見られたこと。都合の悪いことをなかったふりをするときに、いちばん簡単な方法は、なにも語らず、そのことに一切触れないことです。

 睦雄の残した「遺書」には、残忍さよりも罪悪感に悩む、神経の細さが読み取れます。さらに、不治の病である肺結核に対する不安と恐怖。先に述べたとおり、睦雄の「遺書」にも、少なからず大げさで芝居がかった表現が見られます。しかし、その不安と恐怖は本物でしょう。被害妄想、逆恨みといった面も否定はできませんが、そうした不安と恐怖の末、「冷たい目で見られ」「悪口を言われ」「嫌悪、白眼視され」「憎しみさげすまれ」「つらく当たられ」るのも、すべて肺結核のためだという考えに至っているのです。これをもって、この事件を「遂には極めて苦しい内的葛藤のもとに自殺を決意し、道連れ的大量殺人事件に移行した」ものではないか、とする意見もあります。この本の著者は、睦雄の凶行の動機には、「結核による絶望と部落民への憎悪のほかに、強烈な自己顕示欲があずかっていたにちがいない」としています。その自己顕示欲は睦雄生来の個人的なものでしょうか。あるいは戦時下における、理想化された「あるべき健康な成年男子」像に近づくことのできない睦雄の代償行為だったのかもしれません。

 こうした事件を禁忌として語らず、死人に口なしで一方的な「証言」で片付ける―その結果、平成、令和に至っても、似たような事件、起きているとは思いませんか。我が国独特の村社会のこうした閉鎖性、排他性、異質な者を拒否・排除しようとする傾向は、ここまでの地方の村落でなくても、結構な大都市でも、いまでも見られるものではないでしょうか。



(Klingsol)



引用文献・参考文献

「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」 筑波昭 草思社




Diskussion

Hoffmann:「・・・いまでも見られるものではないでしょうか」って・・・さんざん見てきたよ。

Parsifal:Hoffmann君は転勤が多かったからね。

Hoffmann:田舎とか江戸時代の村落が、のどかであたたかいなんて予定調和の妄想だよ。それにいまでも、田舎でなくたって、結構な大都市でも地元と余所者の区別がはっきりしているところは、あるよ。

Klingsol:「夜這い」について、ことわっておきたい。日本は歴史的に性をことさら禁忌とする考えを持ち合わせていないよね。地域ごとに一定のルールが守られているような「夜這い」という風習など、決して非難されるようなものだとは思っていない。夜這い自体に問題があるとは思っていないよ。

Kundry:問題は閉鎖的、排他的な村社会にあるのですね。それと、病気(病人)に対する嫌悪感と差別・・・。

Parsifal:この場合は、病気の象徴機能・・・まで持ち出すまでもないかな。

Klingsol:横溝正史の「八つ墓村」は有名だけど、大量殺人の動機も、犯人の立場も、じっさいの事件とは違うよね。なんだか、かえって犯人の「狂気」ばかりが印象付けられて、あまり言及したくなかったんだよね。

Parsifal:その意味では横溝正史の罪も深いね。この事件の背景を知らない人は、「八つ墓村」で語られているような、異常者が狂気にかられて犯した事件としか思っていないだろう。


「八つ墓村」(1977年)

Hoffmann:島田荘司が長篇「龍臥亭事件」のなかで、集落の名称を変更しながら、この事件に言及していることは先ほどKlingsol君が触れたけど、そこで参考にされているのがまさに今回取り上げている筑波昭の本なんだよね。

Klingsol:筑波昭は新聞記者を経て作家活動に入った人だ。いま調べたら・・・もう亡くなっているようだね、没年は不明となっているけど・・・黒木曜之助名義で小説も書いている。

Hoffmann:2冊読んでいるので、ここに挙げておこう―

 「虚妄の推理 ―論文『夏目漱石殺人事件』―」 黒木曜之助 春陽文庫
 「名探偵乱歩氏 ―実録・千駄ヶ谷パス屋殺し―」 黒木曜之助 春陽文庫

 「虚妄の推理」は、夏目漱石がある殺人事件に関わっていたという論文が国文学専門誌の編集部に持ち込まれる・・・しかしロンドン留学中の筆者は水死体で発見され、完成したはずの原稿が消えていた・・・という話。漱石が登場するわけではないよ。「名探偵乱歩氏」は休筆宣言をして姿を隠していた江戸川乱歩が、ふとしたことから貸金業者が殺害された事件に首を突っ込むことになるんだけど、なかなかスケールの大きい話だ。

Parsifal:乱歩が登場するといえば、久世光彦の「一九三四年冬 ― 乱歩」(新潮文庫)を思い出すね。あれはミステリじゃないけど。作家が探偵役のミステリなら、海渡英祐の「伯林 ― 一八八八年」(講談社文庫)もスケールが大きいよ。森林太郎、すなわち後の森鷗外が踊り子の死の真相を探るうちに、ビスマルクと出会うんだ。ちなみに留学生仲間として、後にペスト菌を発見する北里柴三郎も出てくる。

Kundry:なんだか話が妙な方向に・・・。

Klingsol:25歳の芥川龍之介が探偵役となっているのが井沢元彦の「ダビデの星の暗号」(講談社文庫)だ。井沢元彦には、「猿丸幻視行」(講談社文庫)という作品もある、こちらは若き日の折口信夫が探偵役。

Kundry:このところ、ミステリを続けて取り上げましたからね~(笑)それにしても、先日私が取り上げた夏目漱石だけではないんですね。

(追記) 「映画を観る 019『八つ墓村』」upしました(こちら