062 「盗まれた記憶」 イゴール&グリチカ・ボグダノフ 三輪秀彦訳 白水社




 「盗まれた記憶」はイゴール&グリチカ・ボグダノフという、フランス人の兄弟の合作です。1986年度のアヴォリアズ幻想文学大賞を受賞した作品。三輪秀彦の翻訳もいいですね。

 物語は主人公の青年、といっても37歳なんですが、その農夫アントワーヌのもとに、次々と不思議なことが起こるという、謎解きミステリ風にはじまります。 「検査官」を名乗る男が現れて、アントワーヌに社会保障ナンバーを訊ねる、「安全連続番号を教えたまえ」「あなたは二度も死にたいのだな?」と―。しかしアントワーヌににはその番号がわからず、こたえられない。一方で、訪れた「神父」は「あなたが見ているものが、必ずしも存在しているとはかぎりません」と謎めいたことばとともに、社会保障ナンバーを彼らに教えてはいけない、と告げる。またあるときは、屋根の上に見えるはずの太陽が見えず、「黒くて途方もない円盤」「完璧にまん丸の穴」が見える・・・。

 彼はもともと戦争中に両親が行方不明となり、いまの「親方」夫妻が里親となって育てられたのですが・・・じつは、主人公の意識は、死にかけた人間の脳をコンピュータに転移したもので、主人公が見たり、感じたりしているものは、プログラムが創り出した幻影の世界なのです。アントワーヌは、西側の情報ネットワークに東側ネットワークを監視するプログラムを導入した情報処理学者の「脳」、それがプログラムとなって形成した「自我」だったのです。

 主人公アントワーヌの住んでいる村ジュリアンの世界はコンピュータが創り出した虚構に過ぎない・・・ということは、魅力的なジュリエットも、親方もおかみさんのジェルメーヌも、親方の息子で遊び人のロジェも、みんなコンピュータのプログラムでしかないということ。この事実が明らかにされた頃には、読者の側も、この偽りの世界に親しみを感じてしまっているので、主人公がこの素朴で幸福な生活を守ろうと、コンピュータを操っている相手と戦いはじめるところでは、すっかりこの自然豊かな虚構の世界に感情移入してしまっているという仕掛けです。そしてアントワーヌが、納屋に放火して大勢の人々を集めるなどといった方法でコンピュータに負荷をかけ、ついにこの戦いに勝ったときの、感動と安堵は、これが虚構の世界であることを忘れてしまうほどのものですね。

 主人公が村のはずれ、森の縁まで歩いてゆくシーンは、コンピュータのプログラムの限界に至る場面で、ある地点から突然、暗い虚無が広がっていると描かれます―

 虚無の内部の暗い虚無のほかに何もなかった。
 アントワーヌはさっと振り向いた。背後には、完全に正常な森が相変わらずそこにあった、大木が朝日に照らし出されていた。
 それから、あらためて、彼は前方を見つめた。またしても彼は暗い虚空を、虚無を、無を発見した。まるでそれは、その向こうには光も、物質も、運動もない世界の端に到達したかのようだった。彼が目の前に見ているのは死ですらなかった、それは非存在、時間そのものが何らの意味もない絶対的な〈不在〉だった。


 おそらくこの体験が複線になっているのでしょう、主人公は最後に、ひとつの結論に至ります。つまり、現実はそれ自体としては存在しない、ただ意識と現象とのあいだに相互作用があるのみである、物質的に世界が存在するといっても、意識の認識構造から独立しては存在しえない、と・・・。これは量子物理学の考え方ですね。主人公が戦いの末、「電子の生活」を勝ち取ったあと、中庭に出て―

 彼は深呼吸をして、なおも前方を見つめつづけた。樹木、畑、丘などは、それ自体としてはいかなる現実性も持っていない、というよりむしろ、それは彼を通してしか、彼がそれらに対して行う観察の行為のなかにしか〈存在〉していないのだ。しかし〈本当の〉世界ではこれと違うのだろうか? それにその別の世界は、彼がいま生きている世界よりも〈現実的〉だろうか? いずれにせよ、量子物理学は、世界が幻想にすぎない、人間意識の結果にすぎない、とまで言おうとしている。そうした見方からすれば、たとえ世界は物質的な現実性を持っているように見えても、意識の認識構造から独立しては存在しないのだ。

 ・・・もちろん、これは小説ですから、アントワーヌの物語は虚構内虚構。仮想世界に生きる主人公の戦いを描いたという点では、後の映画「ダークシティ」”Dark City”(1998年 米・豪)や「マトリックス」”The Matrix”(1999年 米)の草分けと言ってもいいかもしれません。

 この小説が発表されたのは1985年。東西冷戦下を舞台にしているところがいまとなっては古いかなとも思いますが、当時としては東西両ブロックの軍事防衛ネットワークという設定が近未来的だったかもしれません。いずれにせよ、よくできた小説で、認識論的な哲学が小説のなかで浮き上がることなく、充分に愉しめる小説となっています。一見すると、身も蓋もない量子物理学が真の現実への目覚めに貢献しているあたり、ユニークな発想の転換と言えるのではないでしょうか。つまり、認識論の小説、というわけです。

 ちなみにこの作者は双子の兄弟なんですが、TVタレントとなって、理論物理学論文(の査読)で物議を醸したり、揃って整形手術を受けたりする(本人たちは否定?)など話題になりましたが、2021年末から2022年初頭にかけて、新型コロナウィルス感染症により、相次いで亡くなりました。

(Parsifal)



引用文献・参考文献

「盗まれた記憶」 イゴール&グリチカ・ボグダノフ 三輪秀彦訳 白水社

「虚構の男」 L・P・デイヴィス 矢口誠訳 国書刊行会







Diskussion

Hoffmann:いまは絶版になっているようだけど、これは再刊されてもいいんじゃないかと思うね。

Kundry:おっしゃるとおり、「ダークシティ」や「マトリックス」の先駆ですね。

Klingsol:認識論まで踏み込んでいるところが、映画などでは描ききれないところじゃないかな。

Parsifal:最近読んだもので、L・P・デイヴィスの「虚構の男」(国書刊行会)が、ちょっと似た感じの小説で愉しめた。仮想世界ではないんだけど、1965年の発表だから、これはさらに早い。

Hoffmann:「虚構の男」は読んだ。作者はすっかり忘れられているようだね。今回の「盗まれた記憶」も、L・P・デイヴィスの「虚構の男」も、SFと言えば言えるけど、ミステリ・タッチで読者を惹き付けながら、怪奇味もあるという、ジャンルを超えたおもしろさがあるよね。