065 「ペレアスとメリザンド」 モーリス・メーテルランク 杉本秀太郎訳 湯川書房




 ある王国に兄弟の王子がいて、兄が狩りの途中で出会った娘を連れて帰り、妻とする。ところがその妻と弟王子が愛し合い、兄は弟を殺して、妻もまた子供を産んで息絶える・・・このようなあらすじを聞いて、それが小説であろうと戯曲であろうと、読んでみようかなと思うひとがどれだけいるでしょうか。少なくとも私は興味をそそられません。ところが、読んでしまう、そして読んでみたところで、後悔しない。そんな不思議な戯曲がメーテルランクの「ペレアスとメリザンド」です。



Sarah Bernhardt演じるPelleas

 モーリス・メーテルランクは1862年生まれ。出生地はベルギーのガン。「ペレアスとメリザンド」を発表したのは1892年です。時まさに象徴主義全盛の時代。より正確に言うとフランス象徴主義隆盛の時代ですね。おまけにメーテルランクの演劇理解は、登場人物たちが目に見えない運命を信じ、その力の前では無力であるというもの。これは驚くにはあたりません。ギリシア悲劇の昔からの伝統です。ただし、ギリシア悲劇では主人公たちが運命に逆らおうとして戦いを繰り広げ、古典劇では人間関係の葛藤が前面に出てくる・・・しかしメーテルランクの登場人物は無抵抗で、そこに英雄的な雄々しさはありません。そして運命の糸は日常の中に絶えず垣間見られる・・・それが象徴であり、それを見つめる眼差しは無意識に光を当てようとするものですね。フロイト以前の段階ですから、メーテルランクにおいては、聖なる魂の感受性というものが信じられています。なので、演劇であるのにもかかわらず、台詞が意味するところよりも、沈黙が意味するものが重要になります。つまり、会話では表現できないものが沈黙により、理解されるのです。

 結果的に、メーテルランクの戯曲は、上演された演劇で俳優の肉体という夾雑物を介して、身体と動きを観るよりも、戯曲を読んで精神とその動きを読み取る方がその本質に近付けるということになります。現実的、具体的な個人の肉体という物質は排除された方が、作品の象徴だけが感じ取りやすくなるのです。


Debussyの”Pelleas et Melisande”でMelisandeを演じるMary Garden


 さて、この、年若い妻と年取った夫、妻の若い愛人の三角関係からなる物語は、マラルメの批評を借りれば「古いメロドラマ」です。ところがメロドラマは謂わば舞台の書き割りに過ぎず、劇そのものは象徴に次ぐ象徴を柱として、究極的には見えない運命の力に従って殺し、殺され、死にゆく、またそれを傍観している無抵抗な人間を描いています。

 象徴に次ぐ象徴というのは、思いつくまま挙げてみると―冒頭のシーンで女中たちが敷居や敷石を水で洗うのが、水の精を迎える象徴であり、同時にいずれ起こる殺人で血が流れる象徴でもあります。近未来に起きることを象徴としてあらわすことで、逃れることのできない運命を印象付けることもできるわけですね。また、このとき海から朝日が昇り、終幕では海に日が沈むのも時の循環の象徴。ゴローがメリザンドを見つけたときに、泉に金の冠が投げ捨てられているのはメリザンドが自分の地位を投げ捨てたことを、その後結婚指輪を水の中に落としたのは妻という立場を投げ捨てたことを象徴しています。さらにその金髪が水に浸されるのも、人間的な物質性、肉体性を無効にするという象徴です。ああ、もうショーチョーショーチョーときりがありません(笑)

 ゴローとメリザンドの出会いは中世の人魚メリジェーヌ伝説に似ており、同時にドイツロマン主義作家のフーケによる水の精の物語「ウンディーネ」を連想させます。ジュヌヴィエーヴとゴローという名前は、中世の伝説「ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン」から取られたものと思われ、そこではゴローというのはジュヌヴィエーヴを誘惑する家令の名前です。「ペレアスとメリザンド」の完成稿では、ジュヌヴィエーヴはゴローやペレアスの母の名前とされていますが、草稿の段階ではヒロインの名前がジュヌヴィエーヴだったのですね。それがメリザンドと変更されたのは、おそらくメリジェーヌという名前の音から、よく似た名前として採用されたのではないでしょうか。

 そのメリザンドが塔の窓からペレアスに向かって長い金髪を下ろすのは、グリム童話の「ラプンツェル」を思い出させます。窓から下ろされた波打つ髪は水のimageで、メリザンドの身体性(肉体性)の象徴が落ちていったことで、これはメリザンド自身とは別個の官能性の物質として、ペレアスを包み込んでいます。ペレアスが陶然としているのは、生身のメリザンドに対してではなく、その水の属性に対してなのです。従って下ろされた金髪はメリザンドを水の精として認識させ、「ラプンツェル」の連想はメリザンドが幽閉されているも同然の立場にあり、塔の下にいるペレアスには、幽閉されている女性を救出することが期待されるように印象付けているわけです。

 メリザンドは水の属性故に、主体性を持っていません。ペレアスがゴローに刺し殺され、その場を逃げるメリザンドですが、門の外で発見されたとき、メリザンドはゴローとしっかり抱き合って倒れています。もうペレアスにもゴローにも、メリザンドの運命の中で与えられた役割はないのです。もちろん、愛憎の念も持ち合わせてはいません。なので、ゴローとメリザンドの会話も成り立たない。主体性がないという以上に、透明な、不在の存在となっていますから、なにを訊ねても、虚空を掴み取ろうとするようなもので、手応えもなく、すべては徒労に終わるのです。自らの死でさえ、メリザンドにとってはことさらに悲劇ではなく、そのまま受け止める運命でしかありません。あとは、メリザンドが生んだ小さな娘が運命に従って生きてゆく番である・・・それだけなのです。

 ひとつだけ、付け加えておきます。「ペレアスとメリザンド」の物語を三角関係とはとらえず、ペレアス+メリザンドとゴローの対立と見る考え方があります。ペレアスとメリザンドの愛は、あたかも鏡のように似通った双生児の合一を意味するものであり、ナルシシズム、ドッペルゲンガーの愛の物語であるという見方です。ポオの「アッシャー家の崩壊」でのロデリックとマデライン、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」におけるジークムントどジークリンデを思わせますね。こうした解釈によると、現実世界の人間的情欲にとらわれているゴローには、このエロスのない愛に生きるペレアスとメリザンドを引き離すことはできず、ふたりは永遠に愛し合い続ける・・・ということになります。しかし、私はこの説には賛同できません。メリザンドは、無垢で無邪気で、王冠も指輪も、その身体性をも軽々と捨て去ってしまうことのできる存在であり、「愛」といった概念に結びつけることにも馴染まないと思われるからです。

(Kundry)


引用文献・参考文献

「ペレアスとメリザンド」 モーリス・メーテルランク 杉本秀太郎訳 湯川書房

「メーテルランクとドビュッシー 『ペレアスとメリザンド』テクスト分析から見たメリザンドの多義性」 村山則子 作品社
「水の音楽 オンディーヌとメリザンド」 青柳いづみこ みすず書房





Diskussion

Hoffmann:懐かしい本だな、高校生の時に、自由課題で読書感想文を書いた。

Parsifal:またエライものを取り上げたね(笑)どんな感想文を書いたの?

Hoffmann:もう細かいことは忘れちゃったけど、運命の操り人形としての存在でしかない登場人物たちが、なんとも世紀末的だとかなんとか・・・。

Klingsol:読み方としては「あり」じゃないか? サンボリスムはまさに世紀末芸術だし。Kundryさんの話のなかでも、ギリシア悲劇、古典劇からの変遷にふれられていたけど、「源氏物語」の亜流である「狭衣物語」とか「夜半の寝覚め」、「浜松中納言物語」のような、主人公の行動になんら意志の働きが見られない、運命の戯れに振り回されるばかりで、現実から逃避してしまう・・・そんな頽廃が「ペレアスとメリザンド」にも感じられないではないね。

Kundry:大胆なご指摘ですね(笑)

Klingsol:決して批判的に見ているわけではないけどね、「運命劇」といえば聞こえはいいけど、具体的な行動を起こすのはゴローだけだよ。


Parsifal:もっとも、最終的にはそのゴローがいちばん悲惨な末路を迎えるわけだ。


Hoffmann:メリザンドといえば、 純粋で無邪気で無垢な存在、かつ謎めいた捉えどころのなさ・・・というのが一般的だけど、それ以上に空虚な存在だよね。


Klingsol:メリザンドを世紀末芸術の「宿命の女(ファム・ファタル)」ととらえる見方は?

Kundry:結果的にはそのような側面もありますね。でも、メリザンドは「宿命の女」の系譜に連なるような「悪女」や「妖婦」ではもちろんなく、「善良な女」とか「聖女」とも言えないと思うんですよ

Parsifal:あと、落下のモチーフに注目したいね。噴水、指輪を落とす、金髪を窓の下に落とす、それとペレアスの「星がみんな落ちてくる」・・・。


Hoffmann:「星が落ちてくる」に関しては、ドビュッシーのオペラで、メリザンドと抱き合って「星が落ちてくる」と歌う演出と、ゴローに刺されてから「星が落ちてくる」と歌う演出があるんだよね。

Kundry:いずれにせよ、Hoffmannさんにはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のdisc紹介をお願いしますね(笑)


(追記) 「音楽を聴く 19 ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」のdisc」upしました。(こちら