070 「聖少女」 倉橋由美子 新潮社




 前回取り上げた安部公房の「箱男」と同様、新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」として出版された小説です。ちなみに「箱男」は1973年3月30日に初版が出て、私が持っているのは1976年11月25日の15刷。「聖少女」は昭和40年(1965年)9月5日初版で、私が買ったのは昭和52年(1977年)1月15日の26刷。安部公房ほどではないにしても、長きにわたって順調に、よく読まれていたようですね。


倉橋由美子

 この小説は、倉橋由美子の転換期にあるものです。作者本人も「最後の少女小説」と言っている。たしかに、それまでのいかにも学生でデビューした若い作者の手になるものと思わせる作品郡の最後を飾るもので、ここで脱皮、「夢の浮橋」(1970年)で新たに生まれ変わったような変貌があったと感じています。同時に、社会とか時事というものを感じさせるよりも、個人の内面に焦点が移り、定まっていったような変貌ですね。

 storyをまとめるのもあまり意味がないと思われるので省略しますが、描かれているのは主人公たる少女未紀(未記、と書いている人がいるが誤り)と「パパ」の近親相姦であり、それが当の未紀のノートによって語られています。しかも少女は、事故のために記憶喪失となっていて、なにが本当でなにが嘘なのか、わからない。

 私はこの小説を高校生のときに読みました。そのときの感想は・・・いや、それを語る前に―

 多くの人が、この小説をはじめて読んだ時のことを「狼狽した」だの、「思春期の男の子にとってはショッキングでした」だの、「どぎまぎし、たじろぎ、そして慌てた」だのと語っているんですが、ホントでしょうか。

 よく、絵でも彫刻でも、雷に打たれたようにその場に立ち尽くした、とかショックのあまり身動きもできなくなった、なんて臆面もなく「告白」(というのは、当人の表現)しているのを見かけますが、私はこういった大言壮語をあまり信用していません。ま、「どぎまぎし、たじろぎ、そして慌てた」と語っている人は、主人公の名前を間違えているので、本当にあわてているのかもしれません(笑)

 さて、私が高校生の時に抱いた感想はというと、ただただ、おもしろい小説だなというものでした。小説なのだからフィクションです、そのなかにまたフィクションがある、いまなら「メタ・フィクション」なんて言うかもしれませんが、そもそも小説の登場人物が真実を語らなければならないという法はありません。この小説に書かれていることばは、主人公未紀のノートに書いているところに従えば、「あたしの分泌したことばは、現実をとかして、現実と非現実の境にゆらめくかげろうのなかにあたしをとじこめるための呪文」なのです。嘘は比喩であり、迷路のように錯綜した末にたどりついたところに見えるものは虚像。近親相姦については、推理小説の殺人事件と同じ。私は読む小説によっては、まったく感情移入することなく客観的に受け取ることができる読者なので、別になんとも思いませんでしたね。

 注意しておきたいのは、病的なものと異常なものははっきりと区別されるべきものであるということです。倉橋由美子の小説では、サディズムやマゾヒズム、同性愛に近親相姦といった、一般にアブノーマルとされている他人との関係は、ことばと想像力の世界から咲いた反自然的な、それゆえにきわめて、あまりに、人間的なものなのです。当然のこととして、それは明らかに「文明」に属するものです。なぜなら、人間はことばによって他人と関係を結ぶことで存在する動物だからです。だから、どんな関係を選ぼうと「自由」なのです。主人公未紀が記憶喪失になったのは交通事故が原因ですから「心因性」なのか「器質性」なのかわかりませんが、これは作者の隠れ蓑で、じっさいはその「自由」におびやかされて、根源的な不安から逃れるために、記憶喪失に逃げ込んだ結果なのではないでしょうか。もちろん、自ら望んでそうしたわけでもなく、ノートを書いていたのは自己治療の一貫として行っていたものと考えられます。

 従って、この小説のテーマは近親相姦ではありません。そもそも姉と弟の近親相姦や近親相姦的な関係ならば、これ以前にもいくつも書かれています。しかし、この作者が性をテーマにして論じたことは一度もありません。この作者の書いた小説を、どれでもいいから読んでごらんなさい、女性は男性が好んで考えるような性的存在そのものではないことが、繰り返し繰り返し、書かれているじゃないですか。性といえば、もっぱら愛や結婚、家庭、生活、風俗、道徳の問題として取り扱っている「疑似文学」しか知らないと、そういう誤解をしてしまうんですよ。

 倉橋由美子自身が、「わたしはこの小説のなかで、不可能な愛である近親相姦を、選ばれた愛に聖化することをこころみました」と書いておりますが、私は「いやあ、この人の書く登場人物はみんな聖化されているからなあ」と思っていましたね。そう、この作者の、少なくともこの作品に至るまでの短篇小説に登場する主人公は、すべて「選ばれし人間」です。現実の世界には存在しない・存在し得ないほど、美しく、高貴なまでの「選民意識」を持っています。だから、近親相姦であろうが、親殺しであろうが、醜いものではない。

 その後大学生になってわかったのは、現実の少年少女、若い男から結構な大人に至るまで、こんな人物はいない、ということ。「選民意識」を持っている奴はいるけれど、その拠って立つところは、家庭(たとえば家が金持ち)とか、所属している学校・企業(一流大学・一流企業)とか、当人そのひととは関係がないところにある。大学に入ったら、周囲の同級生も先輩も、男女を問わず、家庭の影でしかなかったというのが現実でしたね。たとえば、男が軽自動車に乗るなんて、と言う女の子は、父親がそう言っていたことを模倣しているだけ、他人に対してマウントをとるしか能がないやつは、自分では自慢できることがなくて、家がどうとか、親がどうとか・・・。だから、順序が逆になりますが、「聖少女」を読んで、ドギマギしたり狼狽したりするわけがないんですよ(笑)

 倉橋由美子の小説の登場人物のそれは、そんな他力本願で幼稚かつ低劣な「選民意識」ではありません。もっと高邁な精神の持ち主です。第一、そうでなくてはこの作者の小説に登場する資格がないのです。

 間違っても、「近親相姦とはなにか」とか「エレクトラ・コンプレックス」をテーマにした物語でないことはたしかですね。本来ならばあたりまえのことなんですが、独立した人格が登場人物であるからなのです。安部公房の「箱男」ではありませんが、倉橋由美子にとっては、現代人の「帰属」なんて問題にするに足らないのです。むしろ、精神の「貴族」。現代の小説で、独立した人格を持つ登場人物を見ることが少ないのは、どれもこれも、作者の人格がその程度だからでしょう。


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

 特にありません



 ※ amazonのマーケットプレイスに新潮文庫の古書が出ていますが、あまりに高値なので、linkは貼りません。


Diskussion

Kundry:いまここにいらっしゃるみなさんは、私も含めて、全員この小説を読んでいるんですが、たとえば学生時代に、周囲にこれを読んでいる人はいましたか?

Parsifal:いなかったな。

Klingsol:我々は全共闘世代ではないし、もちろん学生運動なんて知らない。倉橋由美子のデビュー当時にリアルタイムで読むにはちょっと遅かったんだろう。

Hoffmann:じつは、高校生のときに倉橋由美子の小説を模倣した短篇小説を書いたことがある。読んだ連中からは「安部公房みたい」とは言われたけれど、倉橋由美子の模倣だと気付いた奴はいなかった。誰も読んでいなかったんだろうな。

Kundry:それでも、みなさんは読んでおられますよね。そのきっかけは? 私の場合は「夢の浮橋」を読んで、ほかの作品も読もうと思って手に取ったのですが。

Hoffmann:安部公房を先に読んで、その流れだよ。もちろんカフカも読んだし、倉橋由美子からカミュやサルトルへも流れた。もっともそちらの流れはすぐに行き止まりだったけど(笑)

Parsifal:我々の世代でカミュ、サルトルというのはもう古かったね。

Klingsol:「パルタイ」は昭和35年度上半期の芥川賞候補になって、受賞はしなかったけれど、受賞作の北杜夫と並んで、当時の「文藝春秋」に掲載されているんだよね。だから、知名度は十分にあったんだよ。ちなみに北杜夫の「夜と霧の隅で」は選考委員全員一致の受賞だった。

Hoffmann:偉そうに言って申し訳ないけど、とにかく小説作法が完璧だと思った。それから、文体というか、文章が非の打ち所がない。このひとのエッセイを読んでいたら、本が出なくなっては困るというのが吉田健一と貝塚茂樹で、だからこの二人も片っ端から読んで、自分では日本語の勉強をしたつもりだ。おかげで一時期、酒と中国の歴史に詳しくなった(笑)

Parsifal:文体は硬質だよね。間違っても、水蒸気過多の耽美的なものではない。

Klingsol:いま、Kundryさんも「夢の浮橋」と言って、Hoffmann君も指摘しているけど、たしかに「夢の浮橋」で変わったよね。以来、「夢の浮橋」以前の作品を読み返すことはなくなった。

Hoffmann:これは「夢の浮橋」を取り上げるべきだったかな(笑)

Parsifal:いや、「聖少女」もいま読めば読み方が違って、おもしろいよ。もちろん、「どぎまぎ」したり「狼狽」したりしたことはないけど(笑)

Klingsol:フィクションというもののお手本だよね。頭で書いて、頭で読む本だ。差別的な発言をするつもりはないんだけど、女性の皮膚感覚だと、近親相姦が描かれているというのは生理的にどうなの?

Kundry:私の場合はあまり女性代表にはふさわしくなさそうで(笑)参考にならないかもしれませんが、たしかに女性は自分の父親や兄弟などを思い浮かべて読んでしまう傾向があるかもしれません。妙なたとえですが、ホラー映画耐性の強い女性なら、あくまでフィクション、つまり小説として読めるんじゃないでしょうか。