073 「東海道四谷怪談」 (新潮日本古典集成) 鶴屋南北 郡司正勝校注 新潮社




 「東海道四谷怪談」と「仮名手本忠臣蔵」

 「東海道四谷怪談」は四世鶴屋南北の代表作、文政8年(1825年)7月、江戸中村座で初演された歌舞伎狂言です。言わば娯楽的な大衆演劇。多くの人が知るように、「仮名手本忠臣蔵」の外伝、主人公民谷伊右衛門は四十七の義士には入らなかった人物。最初から敵討ちなどする気がなかった不忠の士で、人格的にもろくでもない奴です。

 ただ、あまり「忠臣蔵」にこだわりすぎる必要はありません。しかし、世界を「忠臣蔵」に借りている・・・という認識はしておいていただきたい。ここで一応、「忠臣蔵」との関わりを簡単に説明しておきましょう。それには人物紹介をもってするのがいちばんわかりやすそうです。

 まず、お岩とお袖姉妹の父親である四谷左門。これは塩冶浪人です。伊右衛門に殺害されたために討ち入りの四十七士には入れませんでしたが、大星由良之介を盟主とする一党のひとりとして、貧苦に耐えながら時節を待っていた人物です。

 民谷伊右衛門も、もちろん塩冶浪人です。ただし、伊右衛門は塩冶家解体以前に藩金を横領して、その悪事を義父左門に知られたために、妻のお岩を連れ戻されていました。

 直助権兵衛。これは江戸の悪党ですが、じつは奥田将監の小者だったということなので、塩冶家にゆかりのある者ということになります。

 佐藤与茂七は赤穂義士の矢頭右衛門七(やとうえもしち)がモデル。れっきとした塩冶の義士で、高の家の探索をしていますが、時折地獄(隠れ娼婦、つまり素人の娼婦)買いをしているという男。

 そのほか、まだ脇に登場人物が控えていますが、やはり赤穂義士関連の者たちです。

 そしてstoryは、主軸がお岩・伊右衛門の事件、副筋として直助権兵衛・お袖の件、別筋に小塩又之丞があって、この3つが綯い交ぜになっています。主軸と副筋をつなぐのが宅悦、主軸と別筋をつないでいるのが小仏小平です。

 お断りしておかなければならないのは、私は歌舞伎狂言に関してはほとんど無知で、「忠臣蔵」も「四谷怪談」も、舞台で鑑賞したことはありません。なので、ここで鶴屋南北の「東海道四谷怪談」に関して語る資格はないのです。ところが、「四谷怪談」に関する本をいろいろ読んでみたところ、上記冒頭の、段落で言えばふたつ分、これだけの当たり前のことが、それぞれの本に、書いていないのですよ。少なくとも、はじめのほうにまとめられていない。たいがいの本はいきなり搦め手で細部の話になったり、演劇史の話がはじまったりする。歌舞伎狂言とか忠臣蔵とか、そんなことは誰でも知っている当然のこととして、いちいち触れてくれないのでしょうか。本によってはいきなりお岩さんの話がはじまって、十何ページも進まないと、鶴屋南北の「つ」の字も出てこないありさま。

 そこで、私は自分の無知を逆手にとって、歌舞伎だからどうとか時代がこうだからという話は一切抜きにして、たとえば映画になった「四谷怪談」を観るときに、多少でも知っていれば役に立つ、参考になるような話をしたいと思います。もしかしたら、映画の見方も変わるかもしれませんよ。



東海道四谷怪談「神谷伊右エ門 於岩のばうこん」9歌川国芳)


 「四谷怪談」とはなにか?

 はじめに、ちょっと整理しておきましょう。そもそも、一般的に「四谷怪談」とはなにをさすのか?


 「東海道」が付いていない「四谷怪談」について、これはなにかと言えば、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された怪談、ということになります。まあ、普通名詞扱いだと思って下さい。この創作された怪談の舞台は江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)。storyは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というものです。

 では、誰の創作か?

 まず鶴屋南北の歌舞伎狂言。それから、三遊亭圓朝の落語もあります。鶴屋南北の歌舞伎狂言の表題は「東海道四谷怪談」、三遊亭圓朝の創作落語の表題は「四谷怪談」です。なお、鶴屋南北の「東海道・・・」は、もともとは「あづまかいどう・・・」と読みました。

 次に、元禄時代にじっさいに起きたとされる事件とは?

 これは「於岩稲荷由来書上(おいわいなりゆらいのかきあげ)」という、町年寄の孫右衛門と茂八郎という人物が1827年(文政10年)に幕府に提出した調査報告書に記されています。そこに書かれているのは、貞享年間(1684年~1688年)、四谷左門町に田宮伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門は婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚して子を儲けてた。これを知ったお岩は発狂した後に失踪。その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者が次々と死んで、最終的には18人が非業の最期を遂げ、田宮家は滅亡した。その後、元禄年間に田宮家跡地に市川直右衛門という人物が越し、さらにその後、1715年(正徳5年)に山浦甚平なる人物が越してきたところ、奇怪な事件が起きた。このため自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧請して追善仏事を行ったところ怪異が止んだ―というもの。

 お気づきになった方はおられますか? この調査報告書が書かれたのは1827年。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が上演されたのは1825年。調査書の方が2年も後なのです。しかも、この二人の町年寄は、なぜ100年以上も前の事件を、この時点で調査報告したのか。なんだかおかしいですよね。あるいは、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」観て、これを参考にして書いたのではないでしょうか。また、研究者の郡司正勝は「南北が自作を宣伝するために、袖の下を使って書かせたのではないか」と推測しています。

 じつはもうひとつ、四谷怪談に関する実録文献があります。それが「四谷雑談集」。「ヨツヤゾウタン」と読んで下さい。こちらはぐっと古くなって、1727年(享保12年)の奥付。100年遡ります。ここでも元禄時代に起きた事件として記されており、これが鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の原典になったものとされています。しかしこれだと、江戸時代初期に勧請された稲荷神社の由来とは年代が合いません。しかも、田宮家は現在まで続いており、おまけに田宮家に伝わる話としては、お岩は貞女で伊右衛門との夫婦仲も睦まじかった、とあるのです。このことから、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかという説があるほか、岡本綺堂はお岩稲荷について、下町の町人の語るところは怪談であり、山の手の武家の語るところは美談と分かれているので、事件が武家に関わることゆえに、武家が美談をこしらえたのではないか、という考察をしています。

 この、「四谷雑談集」のstoryは―

 四谷在住の御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門の一人娘である岩は性格が悪く疱瘡を煩って容姿も醜く、なかなか婿を得ることができなかったが、浪人の伊右衛門は、又一という仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として入り、岩を妻にすることとなる。田宮家に入った伊右衛門は、上司である与力の伊東喜兵衛の妾に惹かれ、また喜兵衛は妊娠した妾を伊右衛門に押し付けたかったので、二人は結託して、岩を騙して田宮家から追い払ってしまう。騙されたことを知った岩は狂乱の末失踪。岩の失踪後、田宮家には不幸が続き断絶。その跡地では怪異が発生したことから於岩稲荷が建てられた。

 ・・・というものです。

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」以前に、この「四谷雑談集」を下敷きにしていた作品としては、曲亭馬琴「勧善常世物語」(1806年(文化3年))、柳亭種彦「近世怪談霜夜星」(1808年(文化5年))があります。

 以上のような背景があって、1825年に四世鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が上演された、ということを理解しておいて下さい。



「四ツ谷怪談」(月岡芳年「新形三十六怪撰」) 

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」

 「東海道四谷怪談」は、鶴屋南北の作による全5幕の歌舞伎狂言で、1825年(文政8年)7月に江戸中村座で初演されたこと、「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた外伝という体裁で書かれていることは、先の述べたとおりです。ベースになっているのは前述の「四谷雑談集」。

 あらすじをまとめると次のとおり―

 時は暦応元年(1338年)、元塩冶家の家臣、四谷左門の娘、岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に岩との復縁を迫るが、過去に公金横領を働いたことを指摘され、証拠も握られているとあって、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害。同じ場所で、岩の妹、袖に横恋慕していた薬売り、直助は袖の夫である佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。そこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人を伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。

 田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫、梅は伊右衛門に恋をして、喜兵衛も伊右衛門を婿にと望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通を働かせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て震え上がった宅悦は、伊右衛門の計画を暴露する。岩は怒りと恥辱で苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだ咎で捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板に打ちつけ、川に流す。

 伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。

 袖は宅悦に姉、岩の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果的に不貞を働いてしまった袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかって死ぬ。袖の最後のことばから、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。

 蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った与茂七がやって来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。

 ※ 「四谷雑談集」では「伊東喜兵衛」、「東海道四谷怪談」では「伊藤喜兵衛」です。誤変換ではありません。

 ・・・以上のようなものです。なお、付け加えると、「忠臣蔵」と続けて上演した場合、与茂七は最後に伊右衛門を討った後、高師直の館への討ち入りに参加することになります。しかし、「東海道四谷怪談」も再演では単独上演されています。もちろん現代の映画は単独で制作されますから、いろいろと変更が加えられることになります。



葛飾北斎「百物語」提灯お化けのお岩さん

 鶴屋南北は「四谷雑談集」を下敷きにしてこうしたstoryを展開させたわけですが、それでは、「四谷雑談集」と「東海道四谷怪談」の違いはなにか?

 「四谷雑談集」では懐胎したのは与力の伊東喜兵衛の妾です。ところが、「東海道四谷怪談」では、伊右衛門が義父殺しまでして、しかも偽りまで構えて、妻のお岩と復縁するのですが、そのお岩が懐胎中であったということになっています。この違いによって、「東海道四谷怪談」では、後にお岩が「うぶめ」的な亡霊の姿で現れることの伏線になっています。

 また、「四谷雑談集」では、お岩の怨念によって次々と家族を喪った伊右衛門は、ひたすら仏にすがる気弱な男ですが、「東海道四谷怪談」では、伊右衛門はお岩の妄執からなんとか逃れようとしています。

 細かいことを言っているときりがないので、それでは鶴屋南北が歌舞伎狂言に独自に取り入れた要素はなにか?

 ひとつは、なんといっても二幕目、伊右衛門内の場でしょう。これはお岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き、死に至る場面です。髪梳きというのは、本来、歌舞伎の舞台においては男女のふれあいの情緒的場面を作るものという約束事がありました。つまりラブシーンにつながる場面ということです。ところが鶴屋南北はこの約束事を覆して、女が嫉妬に狂う場面としているのです。じつは南北はこれ以前にも「阿国御前化粧鏡(おくにごぜんけしょうのすがたみ)」で同じことをやっているので、「東海道四谷怪談」のこの場面はその再現です。しかも立ちすくんで息が絶え、さらに倒れかかったところに脇差しがあって喉を貫かれるといった念の入った死にざま。それだけ、成仏に至ることのできない死であったということを強調しているのです。

 お岩の死の直後、宅悦の眼前で、鼠が猫を食い殺す場面も有名ですね。これはお岩が子年生まれであることを意味しています。大詰・蛇山庵室の場、すなわち蛇山の庵室では伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられる場面があります。これには被害者が加害者に転じるという象徴でもあります。

 続いて、お岩と小平の死体を戸板に打ち付け、川に流すところですが、これは当時、「山の手辺に住む、ある旗本の妾が、中間と通じて露見し、男女は一枚の戸板に釘づけにされ、なぶり殺しにされて、神田川へ流された話」と「砂村の隠亡堀に、固く身体を結び合った心中者の死骸が流れ着き、それを鰻かきが発見して大騒ぎになった話」というのふたつのゴシップがあり、それを取り入れたものです。ちなみに、戸板に釘で打ち付けるのも、小平の指を一本一本折っているのも、再び肉体が蘇生することを封じる、呪術的な意味合いがあります。これにより、三幕目、砂村隠亡堀の場の戸板返しの場面、すなわち岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたものが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見たときに、(封じ込めたにもかかわらず亡霊となって現れた)死者の執念に驚く場面が大きな見せ場となるわけです。ちなみにこの、肉の崩れ落ちたお岩の死骸が現れ、戸板を裏返すと藻を被った小平の死骸が現れるという凄惨な場面、屈辱と醜悪の形をになったこの戸板が流れてくるのは日暮れ時です。つまり、ヒルとヨルのそれぞれの秩序が入れ替わる、一日の内でもっとも無秩序な黄昏時というわけです。

 戸板を川に流す直接の実行犯は、秋山、関口という伊右衛門の家来。伊右衛門は、たったいまお岩が死んだ家にそのまま残り、内祝言をあげたお梅を迎え入れます。しかも、初夜の床は先ほどまでお岩が寝ていたもの。ここで、葬礼と婚礼が渾然一体となっているわけです。で、お梅が顔を上げるとお岩の顔で、驚いた伊右衛門が首を打つとお梅の顔に戻っている、伊藤喜兵衛は小平に見えて、これも切ると落ちた首は喜兵衛のもの・・・というのはみなさんも御存知ですね。もちろん、「四谷雑談集」には見られない場面です。

 一方、お袖は宅悦からお岩の死を知らされ、もはや頼りとするものはあれほど嫌であった直助権兵衛しかなく、仇討ちの助太刀を約束させて、肌を許します。その直後に現れたのが死んだと思っていた佐藤与茂七。与茂七は奪われた廻文状の行方を追っていたところで、直助に対して、廻文状を返してくれるのならお袖は熨斗を付けてくれてやろうと提案します。与茂七はあくまで義士なので、許嫁であるお袖のことが第一ではないのです。直助は直助で、小悪党ですから簡単に廻文状は渡さない。ここはお袖にとっては天を恨みたいような展開で、与茂七のために操を捨てたその直後に死んだと思っていた当人が現れて、このありさま。フェミニズム評論家だったら、ここに男どもの身勝手さ故に抑圧され、排除された女性を見て、怒り出すことでしょう。

 お袖は、この情けない状況に絶望したか、あるいは夫(許婚)がありなかがら仇討ちのために直助に肌を許したとあっては生きていけないと、倫理に殉じようとしたのか、与茂七、直助の手にかかって死ぬのですが、ここで、お袖が直助の実の妹であったことが判明します。お袖は「元宮三太夫の娘」、兄である「元宮三太夫の伜」とは直助であったのです。しかも、直助は奥田将監の家来であり、直助が佐藤与茂七と間違って殺したのは将監の嫡男庄三郎。つまり直助は主殺しのうえ、実の妹と契ったことになり、出刃包丁を腹に突っ込んで、血を吐くような最後のことばで人生を悔いながら死んでゆきます。

 ここで、ちょっと考えてみて下さい。そもそも、この直助の悲劇はなにによる報いなのか。たしかに直助は小悪党です。しかし、この一件に関しては、お袖をも犠牲にしており、お岩の祟りとは考えにくい。直助が殺した庄三郎の祟りでもない。直助が主殺しももちろんのこと、実の妹と契ってしまうという巡り合わせは、我が国の怪談における因縁話の典型をなぞっているようにも見えますが、直助の小悪党ぶりに対しては、少々重すぎる報いであるような気がします。ましてや、義士たる佐藤与茂七のお袖に対する扱いとくらべて、まだしも直助の方に、それなりに純情な愛が垣間見えるあたり、ちょっと同情したくなりますね。

 つまり、これは「忠臣蔵」の外伝なればこその設定と展開なのです。鶴屋南北は、主家とか、家の存続とか、仇討ちだとかいった、武士階級の約束事や欺瞞を醒めた目で、あるいは皮肉な冷笑を持って描いているところがある。ちなみに、南北は賎民の出と言われています。この、お袖と直助の自死は、まず「四谷怪談」映画などでは再現されることがないエピソードです。しかし、私の個人的な見解を言えば、このエピソードにこそ、鶴屋南北ならではの「四谷怪談」の本質があらわれているのではないかと思えるのです。


(Klingsol)







引用文献・参考文献

「東海道四谷怪談」 (新潮日本古典集成) 鶴屋南北 郡司正勝校注 新潮社

「実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』」 横山泰子・序 広坂朋信・訳・注 白澤社発行 現代書館発売
「お岩と伊右衛門 『四谷怪談』の深層」 高田衛 洋泉社
「四谷怪談 ―悪意と笑い―」 廣松保 岩波新書
「新釈 四谷怪談」 小林恭二 集英社新書
「さかさまの幽霊」 服部幸雄 ちくま学芸文庫



Diskussion

Parsifal:南北賎民説はほぼ定説になっているようだね。

Klingsol:少なくともそれに近い出自だったのは間違いなさそうだ。ただ、賎民ということは被差別民であることには違いなけれど、芝居の興行に関してはそれに課税する権利、ただで見放題という特権も有していた。ちょっと以前の芸能人(の興行)とヤクザの関係には、こうした歴史の事情があったわけだ。

Hoffmann:たしか、南北の出生は日本橋乗物町説と元浜町説があるんだよね。

Klingsol:そう。どちらも紺屋(こうや)だ。染物屋だよ。昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人、すなわち賎民と関係を結んでいた職業だ。すべての紺屋が、というわけではないけれど、中世には墓場の非人が紺屋を営んでいたという記録がある。

Kundry:すると、紺屋は被差別民だったのですか?

Klingsol:西日本では差別視されていたようだけど、東日本ではそれほどでもなかったらしい。ただ、賎民と関係が深かったことは間違いなさそうだね。

Parsifal:だから賎民を描くのは得意だったんだな。伊右衛門も非人の一群とともに登場するし。

Hoffmann:浅草寺境内を根城にしている非人たちだね。

Klingsol:あと、あまり話をややこしくしたくなかったのでふれなかったけど、ここで付け加えておこう。じつは「四谷雑談集」と「於岩稲荷由来書上」との関係も微妙なものがあってね。「四谷雑談集」が1727年の奥付と言ったのは、高崎の矢口丹波記念館所蔵品が発見されたためなんだけど、次の写本は1846年(弘化3年)で、じつはこちらが初版ではないか考える人もいるんだよ。だとすると、「四谷雑談集」のほうが後になってしまう。このあたりは今後の研究の進捗を待たなければなんともいえないところだ。

Hoffmann:「四谷雑談集」のstoryも結構有名だよね。こちらをもとにして「四谷怪談」を翻案している作家もいる。

Parsifal:於岩稲荷田宮神社も2箇所あるよね。ひとつは四谷左門町。ここは道を挟んで於岩稲荷陽運寺もある。もうひとつは中央区新川にも、同じ名前で於岩稲荷田宮神社がある。

Kundry:「四谷雑談集」の「雑談」というのは「実録」という意味ですよね。実録小説ということにしては、事実と異なるところがあるんですね。

Klingsol:いまの時代の感覚でノンフィクションという意味での「実録」ではないんだ。あくまで「事実」として流布していた伝聞を記録したもので、巷説、巷の噂話レベルの話もあるんだよ。

Parsifal:さらに、写本しか残っていないから、途中で脚色されている可能性もあるよね。

Klingsol:そもそも零細な家、容姿の醜い跡取り娘、婿の裏切りなどといった要素は少なからぬ類話があって、それを参考にして取り入れた可能性を指摘する研究者もいる。

Hoffmann:だからこそ、怪談話の「元型」のようなところがあるんだな。「集合的無意識」が結実したみたいな(笑)

Parsifal:初演が1825年か。イギリスのゴシック文学に目を向けるとメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」が1818年。「東海道四谷怪談」は科学とか哲学的思考には至らず、どうしても因縁話に傾くけれど、むしろ怪談芝居として、後のグラン=ギニョルに通じる流れのなかにあるんだね。


(追記) 「『東海道四谷怪談』 (1959年) 中川信夫 その他の『四谷怪談』映画から」 upしました。(こちら