078 「恋愛と贅沢と資本主義」 ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫




 同時代に書かれた、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、経済発展の要因をプロテスタント的な禁欲とそれによる貯蓄という、倫理にありとする本。対して、この本の著者は、資本主義発展の要因を、恋愛、とりわけ姦通や売春(正確に言えば売買春)及びそのための奢侈、贅沢にあったとしています。経済発展を文化的・社会的側面から考察していることから、経済学や社会学の研究における参考図書として取り上げられることも多い本です。


Werner Sombart

 私が注目したのは次の点―中世にも奢侈はあったけれども、それは公共的だった。近代における奢侈は屋内的、即物的で消費的要素が強くなったという指摘です。つまり個人主義的になったということ。そりゃそうですよね、パーティや恋愛、ましてや娼婦に対して用意される贈り物なんて、きわめて個人的で屋内的です。宮廷趣味が小型化したというよりも、個人主義的になったということです。

 即物的な豪奢というのは、手がかからない、思い立ったらすぐに手に入るということ。そのためにはその奢侈をどんどんつくりだす職人の存在が求められ、やがては商工業が必要になる。あらゆる贅沢品は海外の植民地で生産されているから、結果的にそれを取り扱う商人が新たなブルジョワジーとして台頭し、やがて大都市を形成して資本主義が発展した・・・と。大きな流れとしては理解できますが、必ずしもこの順番ではなくてブルジョワジーの台頭により、さらに豪奢、贅沢が加速したのであって、個人主義の広がりとブルジョワジーの台頭はパラレルなんでしょう。こうして即物的奢侈のニーズが資本主義的生産力の一翼を担うことになったというわけです。

 「恋愛」に関していえば、ナポレオン以来、個人の人権が重視されるようになって、「自由にやんなさい」ということになると、恋愛も自分で勝手に勝ち取らなければならない、そのためには詩を書いて表現するものいいけれど、そんな教養がない者は手っ取り早く物品で相手の関心を引こうとする。そうなると、贈り物を受け取る側の女性の豪奢に対する意識も変化して影響を及ぼしてくる。これが奢侈の感性化、あるいは繊細化と呼ぶべきもので、奢侈のための製品や商品は恋愛にふさわしい品質でなければならなくなるのです。

 しかも、そのような恋愛作法の変質によって、高等娼婦という職業も成立した。かつては宮廷で、教養ある貴族たちが極度に洗練された作法をもって行っていたことを、ブルジョワジーなどの「新貴族」が見よう見真似で模倣した。宮廷風俗が都市風俗になり、また新たな発展をはじめたということです。

 ゾンバルトによれば、男たちはこの都市風俗の中で恋愛に資金を注ぎ込み、女たちは女たちでそのような男たちの資金を「評価」して、愛妾としての能力を高めていった・・・ここに「愛妾経済」ともいうべき動向が生まれて、資本主義の発展に寄与した、ということになります。

 そうなると、享楽に対する姿勢も変わってきます。個人主義的、室内的ということばとは一見矛盾するようですが、かつては忍んで享楽に耽ったものが、今度は享楽をひけらかすようになる。なぜなら、そもそも奢侈・贅沢とは必需品を上回るものにかける出費のこと。豪奢・贅沢は目に見えなければ認知されない。さらに言えば、昆虫の求愛行動のように、派手に目につかなければならない、つまり富はひけらかさなければならないから―。よく「成金趣味」なんて言いますけどね、成り上がりが自分の富をひけらかすのは、昆虫の求愛行動と似た、承認欲求のなせる技なのです。


Max Weber

 ヴェーバーとの比較をすれば、ウェーバーが資本主義と禁欲という逆接の論を主張したのに対して、著者は資本主義と奢侈という順接によってこの因果関係を論じています。言い換えれば、ヴェーバーは資本主義の発達を生産(供給)的側面にもとめ、ゾンバルトは消費(需要)的側面にもとめているということ。

 貴族階級の愛妾の存在に注目したのは、部屋の装飾や砂糖菓子の普及といった、それ自体はいささか矮小と思える要素が大都市の大商人の発達に寄与していることを見逃さなかったということ。しかし、その拠って立つところは、早い話が食欲と性欲です。これも矮小な要素・・・ではないかな(笑)

 ただし、部屋を豪華にしたり豪奢な衣服を身につけるというのは、女性の特性というよりも、近代的個人が自室や衣装を自分自身と同等に考えるようになったためではないでしょうか。つまり、文字どおり、近代的自我が個人的で屋内的になったということ。ルネサンスにかけて恋愛結婚は増えて、また婚外恋愛が盛んになったということは、近代的自我の確立と個人主義的権利意識が広まったことで説明できると思います。メリメの「カルメン」だって、アルフォンス・ドーデーの「アルルの女」だって、近代的自我と自由な恋愛なくしては、成立し得ないstoryですよね。そうでなかったら、ホセは母親も期待しているようにミカエラと結婚したであろうし、フレデリは舞台に登場もしないアルルの女のことなんか忘れて、ヴィヴェット結ばれていたはずなんですよ。

 資本主義は買わなくてもいいものを買わせたり買わされたりするものですから、マックス・ウェーバーの言う節倹と勤勉よりも、著者の言う恋愛と贅沢がその原理となるという説は説得力があると思います。


(Parsifal)


引用文献・参考文献

「恋愛と贅沢と資本主義」 ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫

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Diskussion

Klingsol:食欲と性欲が近代の経済組織を建設したというわけか。

Hoffmann:「ジェントルマン」なんて言うと有難味がないでもないけど、貴族階級だって金で買えたんだしねえ・・・あ、だからこそ、か。


Parsifal:愛は宗教的な愛から世俗的な愛へ、自己中心的な愛にされた、そうしたのがほかならぬ貴族階級であったと。

Hoffmann:サド侯爵やレチフ・ド・ラ・ブルトンヌの果たした役割も、なかなか意義深いものがあったということだ。とくにfetishismの台頭という点では・・・(笑)ただ、中世の騎士道の人妻への従属的・献身的な愛というのも、実態はそんなに精神的なものばかりというわけではなかったんだけどね。

Klingsol:いや、一応表向きはそれがおおっぴらではなかったわけだから・・・(笑)

Kundry:砂糖、コーヒー、紅茶にケーキはわかるのですが、衣料品で木綿(コットン)の話は目から鱗でしたね。

Klingsol:インド木綿とかアジア方面から輸入されてきた木綿製品が17世紀から18世紀のインド貿易の主要な品目であったことは知っていたけど、最初はもっぱら上流階級に取り入れられたんだね。

Hoffmann:香辛料から綿製品に変わっていったというのが、たしかに豪奢への変化だ。


Parsifal:地元の生産者と対立して、イギリスなんか、国がコットン使用を禁止までしていたんだよ。フランスではポンパドゥール夫人が綿布輸入禁止法案を却下しているんだ。

Kundry:綿製品を見直してしまいました(笑)

Parsifal:金儲けを恥ずかしいこととする道徳律はどこにいったのやら、聖職者や貴顕から庶民までこぞって世俗的な富を求めて狂奔していくさまが・・・若干の皮肉とユーモアを交えて語られている本だよ。

Klingsol:ただ、それがゾンバルトがいうところの「愛妾経済」によってのみ促進したなどといえるのかとなると、ちょっと疑問だね。

Parsifal:ゾンバルトはそのような疑問や反論が出ることを予想して、さまざまな消費傾向の数字の例をあげている。

Hoffmann:でも、近頃は腕時計だとかライターだとかいったものの、かつてのstatus symbol的な意味合いは失われてきていないかな。それに代わるものが・・・あ、いまならタワーマンションか(笑)

Klingsol:現代の場合は、そこに、かつての「甘味品」や「女性優位」と「資本主義」のような比例関係で結びつく要素があるのかどうか・・・。ことにいまの時代の「女性優位」が資本主義を押し進める要素になっているのかな。だいいち、資本主義もかなり行き詰まっていると思うんだけどね。

Hoffmann:資本主義が行き詰まっているかい? どこかの国の実態が、看板に掲げている「人民共和国」や「民主主義人民共和国」ではないように、我が国も、いまや民主主義国家として機能しているのかどうか・・・とは思うけど、政策はほとんど大企業の保護だよ。もっとも保護されるってことは、足下が危ないということかもしれないけど、それは資本主義の問題というよりも、「大企業病」の問題だから。

Kundry:いまの時代、恋愛と贅沢くらいでは変化しないのではありませんか? コロナの方が余程短期間のうちに影響を及ぼしますよ。