080 「原色の街」 (「原色の街・驟雨」) 吉行淳之介 新潮文庫




 吉行淳之介の「原色の街」は第26回芥川賞の候補にあがるも受賞を逃し、第31回で「驟雨」が受賞。たしか4回目のノミネートであったはず。

 この新潮文庫には初期の「原色の街」「驟雨」「薔薇販売人」「夏の休暇」「漂う部屋」の5編が収録されています。私がはじめて読んだのは高校生のときで、当時吉行淳之介作品はほぼすべて読んだのですが、もっとも印象に残ったのは「原色の町」で、「なぜこのときに芥川賞を受賞しなかったのか」と感じたことを覚えています。

 「原色の街」は、戦後の娼婦の街で生きる女を描いたもの。中級家庭の女、あけみが両親を戦争で失い、生きる為に娼婦となっています。あけみは他者と自分を比較しながら、日々を過ごすのですが、とある日に出会った一人の男元木に惹かれる。
 その後、日々見知らぬ男との交渉を続け、心が閉じてしまっていたあけみは、心とは裏腹に体は彼を求めていることに気付く。
 元木の方は、恋愛に関心がない、というよりできない独身男。見合いで瑠璃子という良家の子女と婚約することになるのですが、その女を愛しているわけではない。また、その女のほうが、あけみよりもむしろ娼婦性を持っている。
 あけみはあけみで、他の男に求婚され、やがて了承しますが、その男はあけみから娼婦の匂いを消そうと必死で、あけみは失望を覚えます。
 最後は、船で婚約者が元木に手を振っているのを見て嫉妬したあけみが、元木に体当たりして、ふたりとも海に投げ出される。引き上げられた二人を見て、年配の水夫が「おい、見ろや、なんてまあ、よく似た顔をしてるもんだ。まるで、兄妹みてえじゃねえか!」と言う。
 そして、あけみはふたたびあの街に戻っていこうとしている自分の心を知る・・・。


吉行淳之介

 誤解を怖れず言えば、当時の公娼制度なんてどうでもいいのです。良くも悪くも、精神と肉体の二元論が幅を利かせていた時代の心理小説です。そそっかしい読者というのはいつの時代もいるもので、私が若かった1970年代あたりでも、こうした吉行淳之介の小説を読んで、「遊郭は人生の修養道場だ」「赤線を復活させろ」なんて言っている若者もいました。まあ、男というものは、とりわけ若い時分には微笑ましいくらいのロマンチストですから、そのあたりの話はほっといて・・・この時期の吉行淳之介の小説を風俗小説と見る向きもあって、もちろん、風俗小説ではなくて心理小説、観念小説だとするひともいたわけです。言うまでもありませんが、「性」の探究、考察の文学ではありません。

 ただし、もっと風俗小説として読んだ方がむしろ作品が古びないのではないか、というのが偽らざる私の感想です。正直なところ、今回読み返して水蒸気過多気味のウェットな感触にはいささか閉口しました。いや、文章自体はたいへん上質なんです。ところが、ウェットなところに若干の媚びを感じる。なるほど、女性のファンが多かったことも頷けます。言っては悪いかも知れませんが、作者の考察や思想は、この小説があからさまに表現したり、それとなく匂わせたりしたところに、歴として動かしがたく明確過ぎるくらい明確に述べられています。それがために、いま我々が読んでも、その考察はもはや著者や当時の読者のそれよりも深まることはありません。だから、あけみと瑠璃子という、吉行淳之介作品ではおなじみのふたつのタイプの女性で、精神と肉体の二元論を描いたもの、という以上の印象は持てないのです。

 これが、いっそ遊郭を描いた風俗小説であったならば、そうした時代の一コマに見出した特異な人間性を描いたものと言えるのですが、その場合、少々きれいごとに過ぎるとも思えます。いや、きれいごとに見えないよう、きれいごとにして書いている・・・だから、この作者は女性に人気なのです。あけみと瑠璃子というふたりの女性にしても、中心人物たる元木にしても、人間の「理想化された暗黒面」なのです。「暗黒面」は言いすぎかな、ある程度の社会性を持つべきオトナのネガティヴな面、でしょうか。血液型や星座の占いと同じで、誰が読んでも「これは私のことだ」とか「こうした面は自分にもある」と感じさせる、それも、ちょっと気取ったところで、そう感じさせる。読者の自尊心をくすぐるようにできているのです。


(Klingsol)


引用文献・参考文献

「原色の街・驟雨」 吉行淳之介 新潮文庫





Diskussion

Parsifal:さすがに、古くなった?

Hoffmann:それでも、吉行淳之介は比較的初期の「砂の上の植物群」「暗室」あたりまではいいね。「夕暮まで」になると、個人的にはもうダメなんだ。

Klingsol:たしかに、どんどん密度が薄くなっていったよね。「菓子祭」なんて、「奇妙な味」なんて言われたけど、エッセイに毛が生えた程度のものとしか思えない。

Kundry:女性に人気だったのは、女性が期待するような女性の心理を描いているからですよ。私たちの世代よりもう少し上じゃないですか?

Klingsol:男の側から女性が期待するものを書いているんだから、喜ばれるよね。

Kundry:でも、性を描いたものではありませんね。観念小説ですよ。だから晩年のショート・ショートではもうその良さが失われてしまっているんです。

Hoffmann:現実の女性はもっとはるかに先に行ってしまっているしね(笑)いや、Kundryさんのことを言っているわけではない。

Prsifal:たしかに、精神と肉体の二元論であって、それ以上のものではない。

Kundry:精神と肉体の二元論というのは?

Hoffmann:俗な言い方をすれば、女性が「私のカラダだけが目的だったのね」って男に詰め寄る思考回路だよ。

Parsifal:わかりやすい説明だ(笑)

Klingsol:現代では、もう「性」なんて深刻に論ずるに値するテーマではなくなってしまった。これは「性」を軽んじているのではなくて、精神的に生きることと、単純に対比すればいいという問題ではないということ。

Hoffmann:対比させるとしたら精神的云々より「母性」との対比だな。

Parsifal:これが風俗小説ではないというのなら、それを公娼制度という書き割りの中で描いたことに限界があるんじゃないか?

Hoffmann:公娼制度なんて人身売買だからね。美化してはいけない、きれいごとにするのもどうかと思う。

Klingsol:昔の文豪と呼ばれるような作家が、自分は女性とさんざん遊んだが、素人にだけは手を出さなかった・・・って、自慢しているよね。この小説には、そうした精神的背景の残滓がそこここに見られるんだな。だから、どことはなしに、発想に幼稚な印象がある。