084 「火の鳥」 《オリジナル版》 手塚治虫 復刊ドットコム




 「火の鳥」は言うまでもなく手塚治虫のライフワークと位置付けられているシリーズ漫画です。過去から未来へ、そしてまた過去へと、時代を前後して、また地球外の宇宙へと舞台を移動しながら、さまざまな登場人物が、懸命に、あるいは煩悩にまみれた生き様を展開する、壮大な物語です。


「ヤマト」編から―

 一貫して登場するのが(登場しない作品もあり)「火の鳥」(フェニックス / 不死鳥)で、あるときは登場人物にかかわり、あるときは介入せず静観している存在であるのも特徴のひとつです。

 私が最初に読んだのは虫プロ商事の「COM名作コミックス」シリーズで、「黎明編」「未来編」「ヤマト・宇宙編」の3冊。その後、続いて出た「鳳凰編」「復活編」も入手して、いまも持っています。小学生の時分ですからね、繰り返し繰り返し読んで、もうボロボロですが、それもまたよし。手放す気はさらさらありません。

 もちろんおもしろいと思って読んでいたんですが、小学生にして、「これは特別な、たいへんな漫画だな」と思っていましたね。子供心に、「未来編」の「ガイア理論」と「宇宙生命(コスモゾーン)」の概念はかなり印象的でした。また、物語が円環構造をなしており、「未来編」のラストが「黎明編」に回帰するところなど新鮮でしたね。もちろん小学生ですから「円環構造」なんてことばが思い浮かんだわけではありませんが、当時通っていた学習塾の先生(女性)と「火の鳥」の話をして、「過去、未来、過去、未来、・・・と続けていって、最後は現代を書くらしいよ」と教えられたのを覚えています。じっさい、手塚治虫は「自分の死亡時刻」を現代として、「現代編」を死ぬ瞬間に1コマ程度描くと公言していたそうなのですが、それは叶わなかったのですね。

 一応、ここで残された作品の全貌を見渡しておきましょう。調べればもっと詳細にわたる解説があると思いますので、ここでは概略のみ―

 雑誌「漫画少年」―

「黎明編」 出版社の倒産で未完

 雑誌「少女クラブ」―

「エジプト編」
「ギリシャ編」
「ローマ編」

 雑誌「COM」

「黎明編」
「未来編」
「ヤマト編」
「宇宙編」
「鳳凰編」
「復活編」
「羽衣編」
「望郷編」 雑誌休刊で未完
「乱世編」 雑誌休刊で未完

 雑誌「マンガ少年」―

「望郷編」 「COM」連載版とは異なる新規story
「乱世編」 「COM」連載版とは異なる新規story
「生命編」
「異形編」

 「マンガ少年」が休刊となり、次が小説誌「野性時代」―

「太陽編」


 一応「COM」連載の「黎明編」から「野性時代」の「太陽編」まで、そこから未完の作を除いたものを連作として捉えておけばいいでしょう。

 細かいことを言えば、登場人物の行動につじつまの合わないところもあるし、そしてこれはよく言われることなんですが、火の鳥の人間に対するアクションが一定していないところもあります。あるときはなにもせずに静観しており、あるときは人間に積極的にかかわって、未来のビジョンを見せたり、不死の身体にしたり、罰を与えたりする。おそらく、プロット、人物設定をあらかじめ綿密に練りあげていないままに書かれているのでしょう。これは雑誌連載であったためかも知れません。もっとも、書いているうちに多少の矛盾が生じることなど、いくらでもありそうです。

 これを弁護するならば、火の鳥の、善悪をはじめとするその判断基準などを、人間の基準と同一に考える方がおかしい。神であろうが悪魔であろうが宇宙人であろうが、その善悪その他の思考を、人間の考える尺度で理解することなど出来ないと考えれば、それまでのこと・・・。

 しかし、火の鳥はそこここで、人間のことを愚かな生き物だと言っている。いや、たしかに愚かですけどね。でも、その判断基準はとても人間的。非介入なら非介入らしく、偉そうに上から目線で人類を見下すような感想を漏らすべきではないし、あるいは介入して罰を与えたりするならば、ときには正しい道へと導こうとしてくれてもいい。そのときの気分で(?)対応を変えて、ことあるごとに人間が駄目な存在だと言っている・・・みなさんはこのあたりのこと、どう思われますか?

 それでは、一作ごとにコメントしてみます。


「黎明編」

 たしか、白土三平の「カムイ伝」に刺激されて書き始めたんでしたっけね。連作のスタートとして力が入っているのだと思いますが、あまり設定を練っていない印象も。猿田彦は悪くないキャラクターですが、ナギには感情移入できません。それにしても、邪馬台国の女王卑弥呼と聞くと、どうしてもこのマンガのヒミコを思い浮かべてしまいますね(笑)

「未来編」

 先に述べたとおり、「ガイア理論」と「宇宙生命(コスモゾーン)」の概念は、はじめて読んだとき、子供心にはかなり印象的でした。ラストが「黎明編」に回帰する円環構造も新鮮。不定形生物ムーピというのもいい着想だと思いますが、キャラクター的にはか弱いだけの女性と同じで魅力に乏しい。キャラクターの魅力ではロックがいいと思います。

「ヤマト編」

 殉死に反対する主人公などは、まるで現代人の善悪判断基準で動いているようで、ちょっとご都合主義に感じられます。じつに単純な、言わば盲目の正義感で読者をねじ伏せようとする印象も。

「宇宙編」

 牧村の過去のご乱行にもナナの自己犠牲的献身にも、やや無理があるのでは? そもそも人間は愚かなものだと分かっているのなら、牧村にだけ未来永劫に続く罰を与えた理由がわかりません。コマ割りはたいへんユニークです。猿田にも共感できないし、なんだか全体の雰囲気がすさんだ印象です。

「鳳凰編」

 傑作。善と悪が入れ替わる―というより、なにが善でなにが悪なのか、単純にはこたえられない世界観。登場人物の人格の変化も納得できるstory。背景の権力闘争による地位の入れ替わりも、政治と仏教の相互利用も、すべての要素が広がりつつ、中心となるテーマに凝縮してゆく展開は、他の作を圧しています。すべてのキャラクターが魅力的です。

「復活編」

 主人公の目に、ロボットであるチヒロが人間の姿に見えるというアイデアは秀逸ながら、そのチヒロに自我が生じるというのは、これは主人公の思い込みではなくて、本当に自我が生じているという話になっているようです。だとすると、このテーマでもっと掘り下げることができたのではないかと思います。ロビタは魅力的に描かれていますね。

「羽衣編」

 intermezzoという感じで、とくにどうというほどのことはありません。この連作の中で、どうしても必要なエピソードでしょうか?

「望郷編」

 主人公の地球へ帰りたいという思いがどうも共感しづらい。各エピソードもただ並べただけと見えて、いまひとつstoryが展開しない印象です。また、この「望郷編」ばかりは、雑誌連載時の方がいいと思います。単行本収録時に付け加えられた牧村の「星の王子さま」の朗読は、単なる「思いつき」ではないでしょうか。これのおかげで結末がすっかりsentimentalに堕してしまう、まったくの蛇足だと思います。

「乱世編」

 火の鳥が登場しないstory。友情で結ばれたふたりが敵対するようになる変化はいいとしても、その過程は単純に権力闘争。政治や宗教によって翻弄されることに悩んでいるでもなく、ただただ人間は愚かな生き物だということでしょうか。それはもうここまでにさんざん書いてきたことですよね。登場人物たちは、ひとりを除いて、紋切り型というかあまりにもステレオタイプ。直情的というより単に粗野なだけ。長いわりには感銘が薄いのが残念です。唯一、ヒノエのキャラクターがすばらしい。戦から帰ってきた弁太を迎えるシーンは感動的です。

「生命編」

 クローン人間をハンティングするTV番組なんて、さすがに荒唐無稽。いくらなんでも、クローン人間なら殺そうがどうしようが問題ないという世界は想像できません。もう少し考えなさいと言いたいですね。たとえば、クローン人間が被差別者となるという設定ならまだしも納得できるところです。ラストは雑誌掲載時のバッドエンドも、単行本でのエンディングも、どちらでもありでしょう。個人的には単行本の方が手塚治虫らしいかなと思います。

「異形編」

 この比較的短い物語一編で、「火の鳥」という連作の全体を凝縮してしまったようなところがあって、ユニークです。伝説の八百比丘尼を登場させたのもおもしろい。「太陽編」と関連させたのもいいアイデアです。余談ながら、フロイト的に解釈すれば、鼻の病というのは性器の疾病を象徴していますよね。それを治療させまいとするのが男装の娘であるというstoryはきわめて象徴的です。

「太陽編」

 7世紀と21世紀というふたつの時代で、それぞれの主人公が交互に夢を見るというユニークなアイデアです。しかも21世紀の登場人物は7世紀における登場人物の生まれ変わりであることを示唆しています。狼の頭部を持つ少年というのもおもしろいですね。もちろん、人間離れした能力を身につけていることをあらわすのに最適な設定です。しかし、未来の格差社会と宗教戦争はやや発想が陳腐な印象もあります。そのためか、7世紀はじっくり描いているのに、21世紀はどうも駆け足と見えます。

 一作ごとにコメントすると、以上のようにやや批判的になってしまうものもあるんですが、それぞれが全体の一部であることを前提とすれば、やはり「火の鳥」は名作なのだと思えます。

 それでは、最後は「鳳凰編」から我王のことばで締めくくりましょう。


「生きる? 死ぬ? それがなんだというんだ
宇宙のなかに人生など いっさい無だ! ちっぽけなごみなのだ!」


「鳳凰編」から―

 私が現在読み返すために手許に置いているのは、その後まとめて入手した角川文庫版全14巻セットと、雑誌連載時の《オリジナル・バージョン》を収録した復刊ドットコムの全12巻セットです。後者は貴重なものではあるかもしれませんが、単行本化されるときに手塚治虫が手を入れた箇所は大小あるものの、これから読もうという人は、この異同をあまり気にする必要はないと思います。カットしたコマやページなどは、「なるほどな」と思えるものです。「生命編」などは救いのない結末が変更されているのですが、これも好みの範疇かと思います。従って、これから読もうという人は入手しやすい版を選べばいいでしょう。ただし文庫本では小さすぎると感じる人がいるかも知れません。


(Hoffmann)



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 それでは代わりまして、私、Klingsolから不死鳥、フェニックスについて少しお話しいたします。

 不死鳥、phoenix(フェニックス)について

 不死鳥、すなわちphoenixは、しばしばサギを思わせる姿でimageされる想像上の鳥で、不死と復活をあらわす重要なシンボルです。おそらく原型はエジプトの聖鳥ベヌであろうと言われています。このベヌというのは、アオサギの姿で描かれ、泥の中から出現した原初の丘の上に最初の生物として舞い降りた、太陽神の化身です。500年に一度姿を現すとされていました。


古代エジプトで描かれたベヌ

 古代ギリシア、ローマにおいて、これにさまざまなモチーフが加えられて、フェニックス伝説が形成されていったようです。自ら炎の中に身を投じて灰と化し、3日後に新しい命を得て甦るとか、羽は金色または4色という伝承も、このあたりから。この3日後に甦ったというところに注目したのがキリスト教で、この鳥を、十字架にかけられて3日後に甦ったキリストの復活のシンボルと見なしたわけです。

 ギリシア語のphoinix(ポイニクス)について説明しておくと、これには「華麗な色」と「ヤシの木」のふたつの意味がありました。神話では、この鳥は果実や草は食わず、香木の樹脂(乳香)やミョウガの汁を常食として、500年生きて、その寿命を全うするときにヤシの木の最も高いところに巣を作って、そこにカシアの樹皮と甘松(ナルド)と肉桂の枝と黄色の没薬(ミルラ)を敷いてその上で往生を遂げる。この親鳥の亡骸から1羽のphoinixが生まれ出るとされていました。そのほかの異説では、雛は両親の灰の中から生まれ出るとか、鳥に孵る前は幼虫だとかサラマンダー(火蛇)に例えられて、成長すると翼を持つ蛇となるというものもあったようです。命数に関しても、500年から12594年までさまざまな説があり、普通は雄とされていましたが、両性具有説もありました。

 ユダヤの伝説にもミルヒャムという不死鳥が登場します。これはエヴァが禁断の木の実であるリンゴを口にしたとき、ほかの動物にもこれを食べるように誘惑したのですが、ミルヒャムだけはこの誘いに乗らなかったので、神は褒美として、死の天使に、この従順な生き物に死を与えてはならないと命じたとされています。ある伝承では寿命は千年、巣から火が出て卵が1個だけ残り、それが孵ってまた生き続ける。別な伝承では身体がしなびて羽が生え替わるので、雛になったように見えるだけとされています。

 不死鳥は従来からロック鳥、孔雀、ヤシの木のある太陽の都ヘリオポリスの霊鳥コウノトリと重ね合わされてきました。シェイクスピアでは「アントニーとクレオパトラ」において、香料の国アラビアと結びつけられています。中国古代においてはフェニックスと同様の役割を持っているのが鳳凰ですね。中国の一角獣である麒麟と同じく、陰と陽という相反する二元原理を併せ持ち、一体化した存在です。なので、夫婦間の絆をもあらわし、結婚のシンボルともなっています。

 象徴としては太陽崇拝をあらわし、復活、不滅性、永遠の青春、貞節、節制、自己充足、自己犠牲。キリスト教ではキリストの受難と復活を象徴し、錬金術では完全な変成(消滅と新生)を象徴するものです。心理学分野では、瞬間から瞬間へと死と再生を繰り返す人間の「意識」「夢」「変化」をあらわすものですね。


(Klingsol)


引用文献・参考文献

「火の鳥」 全12巻 復刊ドットコム
「火の鳥」 全14巻 角川文庫






Diskussion

Kundry:やっぱり名作だと思いますよ。

Klingsol:手放しで絶賛とはいかないかも知れないけど、一度は読んでおきたいね。

Prsifal:正直、底が浅いかなと思うところもないではない。でも、ちょっと類例のない漫画だよね。

Kundry:「生命編」の結末ですけど、たしかに手塚治虫は「火の鳥」に限らず、救いのない結末を避ける傾向がありましたね。未完で絶筆となった「ネオ・ファウスト」でも、結末をどうするか、決めかねていたようです。

Hoffmann:火の鳥が人間に罰を与えたり、静観していたり、態度が一定していないのはどう?

Parsifal:Hoffmann君の言うとおり、人間の判断基準では測れないと思えば・・・あまり気にしたことはないなあ(笑)

Kundry:ちょっと「上から目線」だとは感じますけど、まあ、描かれている人間が愚かですから(笑)

Klingsol:こうした長い年月に書かれたものに対して、最初に完璧に設定しておくべきだというのは酷じゃないか。小説でも漫画でも、作者がコントロールする以上に、(火の鳥も含めた)登場人物たちが動き出してしまうということもあるだろう。

Parsifal:どの登場人物も感情移入しにくいところがある。叙情詩ではなくて叙事詩なんだよ。ましてや描かれている時代もさまざま、群像劇として読めばいいんじゃないかな。

Klingsol:それが、最初は火の鳥、または飲めば不老不死になる火の鳥の生き血を巡る群像劇だったものが、途中から火の鳥の存在にこだわらなくなっている。そのあたりから、物語が自在に動き出したようにも思えるんだよ。

Hoffmann:「火の鳥」は連作として評価するべきなんだろうけど、それぞれ、好きなものを挙げてみてくれないかな・・・個人的にはいま話したとおりで、「鳳凰編」と「異形編」だ。

Klingsol:同じく、「鳳凰編」だ。

Kundry:どれかひとつと言われれば「未来編」です。「復活編」も捨て難いですね。悩めるロボット(ロビタ)というのも、なかなか斬新ですよ。

Parsifal:「黎明編」かな。やはりドラマとしておもしろい。ヒミコの衰えと死を挟んだ構成はよくできていると思う。それから、「太陽編」の7世紀の話、ここでの仏教と土着信仰の八百万の神との戦いがいい。先頃亡くなった池田○作だけじゃない、キリスト教だって仏教だって、権力を蓄えて世界制覇を目指す、それが宗教というものなんだ。「布教」と言えば聞こえはいいけど、その本質はすべてマインドコントロールだ。民衆の純粋な信仰なんてものは、歴史上の土着信仰以外には存在しないんだよ。


(追記) ストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」(1910年版)のレコードから upしました。(こちら