097 「弾左衛門と車善七 江戸のエタ頭と非人頭」 塩見鮮一郎 河出文庫




 小学校で習った江戸時代の身分制度は「士農工商」でした。いまはどうか知りませんが、私が小学生の頃は非人については教わりませんでしたね。私自身は当時白土三平の「カムイ伝」を読んでいたので、「非人」は知っていました。もっとも後に分かったのは、「カムイ伝」では「非人」と呼ばれていますが、描かれているのは「穢多(エタ)」であったということ。

 今日、いわゆる同和問題とされているのは、もっぱらこの穢多関連です。これはかつては地域によって多様な名で呼ばれていました。たとえば、関東では「長吏」、大阪・・・じゃなくて、この場合は大坂ですね、大坂では「カワタ」など。これを江戸中期あたりに幕府が「穢多」で統一を図ろうとしたものらしい。「穢れが多い」という差別感を抱かせる呼称です。なので、一応今日では「エタ」とカタカナ表記をするべきとされており、歴史的な記述の場合のみ「穢多」と表記されているようです。いまは、歴史的記述なのでご寛恕願います。

 穢多というのは、皮革職人のこと。農耕民族にとって内や馬は欠かせない存在ですが、死ねば穢れたものとなる。人間だって死ねば死穢が生じるので塩で清めるわけですよね。だから牛馬が死ンでも自分で処理はしない。そこで、牛馬の死骸の皮を剥いで肉を食するのが穢多でした。

 穢多ということば自体は中世の頃からあったようで、鎌倉時代に成立した「塵袋」によれば、「餌取(エトリ)」を早く言おうとして「エタ」になったとあります。「餌」とは肉の塊で、鷹狩りに使う鷹の餌のこと、「餌取」はそれを取る者のこと。つまり生き物を殺して売る、と理解されていた者です。餌取が賤視されるようになったのは、もちろん仏教がさかんになって、殺生を忌む風習が瀰漫したため。キリスト教に限らず、宗教というものは、歴史上それまでになかったような差別意識をもたらすものなんですよ。もっとも穢多の語源説としては、「餌取」で確定というわけではありません。皮なめしの仕事上、皮など水のそばに住んでいたので、エタの「エ」は「江」ではないかとする説もあります。ちなみに先ほど「穢多」を「穢れが多い」と言いましたが、じつは「穢」は戉(まさかり)で肉を切るという意味、「多」は肉のことだと主張する研究者もいることを申し添えておきます。いずれにしろ、語源をたどるという作業は、必ずしも正解にたどり着けるとは限らないものの、戦後の一時期主流となった(そしていまでもこれを振りかざす研究者がいる)マルクス主義に汚染されていないので、自由な発想で、謂わば知的遊戯を愉しむことができますね。

 現在考えられている意味での穢多は13世紀頃には成立していた模様で、河原者も含むらしい。造園職や獣医を兼ねる者もいたようで、これが織田信長時代になると死牛馬の処理をしている者たちを「かわた」「革屋」と呼ぶようになる。「かわた」を「皮太」、「皮多」と表記している文献もありました。参考までに、「た」は「太」でも「多」、「田」と表記しても同じこと。「よた」は愚か者、「めんた」は女性に対する蔑称、これらの語の「た」と同じです。

 いずれにせよ、文字資料で見る限り、中世において既に穢多は皮革職人ということになります。牛馬の皮革の最大の用途は武具と馬具ですから、戦乱期には武士階級の間で需要が高まるもの。

 これは一般論ですが、差別感情というのは近畿以西に強く、関東より東、たとえば東北あたりにはあまりない。皮革職人を賤視する文化も東北にはなかった模様です。ところが皮革技術の先進地は近畿。ここから皮職人を呼び寄せたことで、職人差別も移植されてしまったのです。

 明治になって人口調査がされたとき、日本の全人口は30,089,401人。内、穢多は443,093人、割合は1.47%ですね。これによると、穢多は北海道を除く全国に広く分布しており、西日本に多かったということです。数では京都、大阪、東京に多く、人口比率では福岡、姫路が多い。

 それでは、その呼称については「カムイ伝」でもお馴染みの「非人」はどうか。これはなぜか「人に非ず」という差別語にもかかわらず、カタカナ表記すべしともされていませんが、江戸時代の身分制度の中では、穢多よりも下、最下層でした。

 この身分は流動的で、一般人が非人に落とされることもありました。たとえば、町人の男女が心中を図って片方が生き残ると、非人に落とされる。そして数年間非人として暮らした後、元の身分に戻る。これを足を洗うと言います。もともと「足を洗う」というのは、非人から一般人に戻ることを意味することばだったのですよ。

 また、芸能者も非人でした。これはそれこそ足を洗うことが出来るようになっても、「河原乞食」などと呼ばれて蔑まれる対象でした。ほかに、乞食、舟渡し、刑場や火葬場の雑用、神社などの清掃(キヨメ)をする者も非人です。これが地域(あるいは資料)によっては穢多と重なるので、話がややこしくしてなってしまうところ。非人はまた「番太」と呼ばれることもあって、これは村や集落のお巡りさんのこと。我が国独特の派出所(交番)という制度のルーツは、この番太制度にあるのです。舟渡しなどはよそ者に対する警備も兼ねていたわけで、これを非人身分が務めていたわけです。いいですか、「よそ者に対する警備」ですよ。余談ながら、穢多・非人の多かった地域というのは、現代においても、地元民とよそ者の区別・差別意識が目立つようで、私はその理由がこんなところにあるのではないかと推測しています。

 ちなみに「カムイ伝」では非人が死馬牛の処理のほか、犯罪者の処刑や死体引き回し、河原での犯罪者の火葬を行っており、町中に暮らしてはおらず、集落を作って集団で暮らしています。これを見ると、ここに描かれている夙谷非人村の「非人」は非人ではなくて穢多なんですね。

 このように、穢多と非人は異なるものでありながら、地域によっては非人が穢多の仕事をしていたり、その逆もあったようなのですね。たとえば、穢多の生計は皮革生産だけによっていたわけではなく、猿引(猿回し)その他いくつかの仕事を兼ねていた可能性が高いとされています。さらに領主の城や城下を清掃する役目、井戸掘りなども実例が指摘されており、これは先に述べた非人のキヨメのことですね。ただ、一般には穢多と非人は仲が悪かったようで、とくに江戸では非人は穢多の支配下にあったのですが、非人の総大将、車善七は穢多の総大将、弾左衛門と何度か主導権争いをしています。

 弾左衛門

 さて、いい按配に弾左衛門と車善七の名前が出て来ました。

 弾左衛門というのは江戸時代、西は広島、東は東北地方にまで影響力を持っていた穢多の総大将です。浅草に広大な屋敷を構えていたので浅草弾左衛門とも呼ばれます。現在の都立浅草高校のあたりですね。その広さは14,042坪、ここには湯屋も髪結床も呉服屋も牢屋もあり、治外法権。弾左衛門の屋敷の敷地は740坪です。その邸宅の周囲には417軒もの配下の穢多とその家族をおいて、非人もまたその支配下にありました。とくに関八州における影響力は強く、現在も関八州の路地の多くに白山神社が祀られているのは、弾左衛門が白山信仰をもっていて、これを作らせたためだと言われています。

 弾左衛門の由来は徳川家康が江戸に入ったときに、自らの由緒を述べて、穢多・非人の支配者になることを申し出たためです。このときの弾左衛門の主張は、先祖は摂津国池田(大阪府池田市)から鎌倉に下ってきた者で、源頼朝公より長吏から下の身分を支配してよいという証文をもらっている、というもの。つまり鎌倉幕府の時代から、ということですね。このとき、弾左衛門にはライバルがいて、小田原の太郎左衛門という者が同じく長吏の支配を任されていると、後北条氏の証文を持って家康に訴え出ていました。結局家康が穢多頭に任命したのは弾左衛門。彼は二本差しを許され、江戸城にも自由に出入りできたと言われています。ちなみに長吏とは穢多のことであり、交番のお巡りさんくらいの意味。皮革職人であり、刑場の仕事もする立場です。

 ここで、江戸弾左衛門と鎌倉弾左衛門のふたつの系統について検討の余地があるのですが、後者については有力な史料がないようなので省略します。ちなみに鎌倉は金山にも白山神社がありますが、これがいつ頃作られたものなのかは分かっていません。東京都練馬区の練馬白山神社の方は、浅草の弾左衛門家との縁戚関係があります。

 ともあれ、家康から穢多頭に任命された弾左衛門という名は世襲制になりました。途中で世継ぎが途絶えたときは配下の内から出来の良いのを選んで継がせており、なかには現在の長野県や広島県から呼び寄せられた者もおり、その影響力の広さがうかがわれます。最後の弾左衛門は13代目で、明治以降は弾直樹を名乗っていましたが、明治4年の解放令で弾左衛門職は廃止されました。


第十三代目弾左衛門、弾直樹(1823年(文政6年)- 1889年(明治22年)7月9日)

 車善七

 車善七というのは非人頭です。弾左衛門と同じく浅草にいましたが、吉原遊郭に附随する形で屋敷がありました。近くには非人溜と呼ばれる非人町がつくられており、車善七の手下は寛政12年(1800年)の時点で368軒。吉原というのは周囲を「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀と塀によって区切られており、遊郭の外では営業できず、また遊郭の出入りは与力や同心たちによって厳しくチェックされていました。そして吉原の治安維持を担当していたのが車善七の手下たちです。

 また、車善七の持ち場は吉原だけではなく、北は千住、南は新橋あたりまで。仕事の内容は刑場の手伝いから遊行芸人や乞食の管理、死体の片付けなど。非人頭というのは車善七だけではなく、江戸には他に深川の善三郎、品川の松右衛門などがいたのですが、もっとも大きな勢力を誇ったのが車善七です。

 弾左衛門のルーツには頼朝の証文という伝説がありますが、車善七のルーツにかかわる伝説もなかなかスケールが大きい。なんでも秋田藩主佐竹義宣の元家老、車丹波守義照が家康のために磔になったのを恨んだ息子の善七郎が、家康を殺そうとして捕らえられたが許されて、非人頭に任命されたとする伝説があります。もっとも、家康が江戸に入ったときにはもう浅草に小屋を作っていたために任命されたとする説もあり、本当のところは分かりません。わかっていることは、慶長13年(1608年)には車善七が非人頭に任命されており、その非人は穢多よりも下の身分だったということ。ただしこれは江戸での話。大坂では非人は独立した存在でした。

 ちなみに車善七の配下には乞胸(ごうむね)頭である仁太夫がおり、芸人たちを支配していたのですが、この仁太夫は「カムイ伝」にも登場しています。乞胸というのは芸をして胸すなわち寸志を乞うという意味であると言われており、つまり江戸市中などで、曲芸や踊りなどをして金銭を乞う者のこと。ひと言で言えば大道芸人です。乞胸をする場合は非人頭から鑑札をもらって、一定額の上納金を納めなければならなかったんですよ。なかには乞胸に無断で寄席を営業していた例があって、仁太夫は北町奉行所に訴えて勝訴、寄席側が金を払っています。このような構造が、かつて芸能人などが地方巡業などするときに地元のヤク○に挨拶に行っていた、そのルーツなのです。

 話のついでなのでふれておくと、乞胸というのは芸をしている間だけ非人で、芸をしていない日常生活では町人であるという、複雑な身分でした。これは仁太夫の出自が武士であり、もともとはリストラされた武士(つまり浪人)を束ねる機関であったためと言われています。江戸時代に廃絶された大名家で解雇された武士たちは職を求めて江戸に集中していたのですね。そうした浪人救済のために全国で一揆を起こそうとしたのが由井正雪です。由井正雪は事前の発覚によって捕縛されて自害しましたが、幕府もさすがに懲りたのか、浪人問題の深刻さが身にしみて、以後改易を少なくしたようです。おっと、話が横道に逸れすぎてしまいましたね。

 江戸に限った話ではないのですが、先に述べたとおり穢多と非人はとかく仲が悪く、たとえば享保4年(1719年)には車善七が「弾左衛門の支配下から出たい」と北町奉行所に訴え、翌年には弾左衛門の側から車善七が訴えられています。この争いは3年後に車善七の敗北で決着が付くのですが、手下の非人たちはこの決定に不満だったのでしょう、江戸市中に放火して、非人236人が島流しになっています。これはかなりの数で、残された非人たちの側もさることながら、受け入れ側である伊豆七島もたいへんだったんじゃないでしょうか。いずれにしろ、その後も小競り合いは頻繁に続くこととなります。

 今回取り上げる、塩見鮮一郎による「弾左衛門と車善七 江戸のエタ頭と非人頭」は決して読みにくいような本ではありません。ただ、この本は「弾左衛門とその時代」と「江戸の非人頭 車善七」の合本であるため、穢多と非人、両者の相違や相対的な立場などをあらかじめ知っておけばより理解が深まるものと思われ、予備知識として上記のようにまとめてみたものです。


※ 歴史上の事実について語っているため、現代では差別的な意味を持っていることばもそのまま使用しています。これらのことばは、その歴史性や文脈を無視して無批判に用いれば、そのまま人を傷つける差別のことばになります。差別は決して過去のものではありません。あえてタブーを廃して被差別民の真実の姿を知ることは、歴史を「過去の過ぎ去った一時」としてではなく、現在に連なるものとして考えることにつながり、そこに意味があるためです。この点をご理解願います。


(Parsifal)



 白山信仰について

 白山信仰とは、加賀国、越前国、美濃国、すなわち現在の石川県、福井県、岐阜県にまたがる白山に関わる山岳信仰です。


白山

 白山は日本海側随一の分水嶺であり、古くから富士、立山と並んで「日本三名山」のひとつに数えられていました。手取川は金沢の西を流れて海へ注ぎ、九頭竜川は福井の東を通って三国港へと流れ込んでいます。また、長良川は太平洋水系として伊勢湾へ。この豊富な水が広く田畑を潤してくれるおかげで、人々の生活と農事が成り立っていたわけで、古代から白山は水神や農業神として、山そのものを神体とする山岳信仰の対象となっていたのです。

 修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として開山したのが奈良時代。泰澄が登頂して開山、熊野修験に次ぐものとなりました。もっとも熊野の修験と羽黒の修験が提携していて、白山はちょうどその間にあるため、山伏の争覇が絶えなかったとも言われています。同じ名前の神様を祀っておきながら、どうも山伏というものは、「千日行をやったおれさまがいちばん」とか、「みどもは木食行をやったぞよ」などと、ありあまる自尊心で無闇に尊大ぶっているところがあって、たいがい内部抗争で亡びてしまう傾向がありました。なんのための修行なんだか(笑)宗教が差別意識を助長するというのも納得ですね。

 さきほど泰澄の名前が出ましたが、この人の伝記によると、求聞持法(ぐもんじほう)をやったとあります。これは虚空蔵菩薩を本尊として記憶をよくする法です。なんでも100日目に明星が天降った夢を見れば成就、見なければやり直しというもので、1回で成就した人もいれば、6回やり直してようやく成就した人も。泰澄はこれをやった。この人は福井から西の方の海岸に近い越知山という山にいて、ここで私度僧になり、虚空蔵求聞持法をして、それから白山に登ったらしいのですね。

 泰澄は非常に法力の強い人で、石を呪文で飛ばしたり、止めたり転がしたり出来たという伝説があります。また、飛行自在でどこへでも飛んで行けたとも。もっともこれは役行者(えんのぎょうじゃ)にも見られる「よくある」伝承ですね。それに、飛鉢(ひはつ)といって鉢を飛ばす。いつもゴロゴロ寝ていて、鉄鉢を飛ばしてどこかから米をもらってきたとも伝えられています。養老6年(722年)には元正天皇の病気を、天平9年(737年)には疱瘡が流行ったのを祈祷で治したなどとも伝えられており、ほとんどの山伏に関しては、実在も疑わしいような荒唐無稽な記録が多いなか、泰澄の記録に関してはかなり信憑性があるとも言われています。


泰澄大師坐像

 そもそも山岳信仰とはなにか。これは簡単に説明すると、山には死者の霊がいるという信仰です。白山妙理権現や白山妙理大菩薩は、社伝では菊理姫(きくりひめ)と泉道守者(ちみちもりひと)という神様。前者は女神ですね。死の穢れを祓う神様です。後者は黄泉国へ行く道を守っている、つまり死者の国の穢れがこちらへ来ないように守っている神様です。これが祭神になるのは、山の上に死者の霊があり、その霊を清めてくれるから。死者の霊は清められなければ、いつまでも死出の旅路を歩かなければならないので、それを法華経なり密教なりの功徳によって清めてやる。あるいはその霊に代わって自分が苦行する。すると死者の穢れは清められ、死後の苦しみから逃れることができる。そういう信仰から、穢れを清める神様が山にいる、とするわけです。ちなみに泰澄も神格化されて別山大行事権現というものになっています。だいたい開山の山伏が比丘形の三神のひとつになるものなんですね。従って、白山妙理権現、越南知権現と大行事権現が三神です。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「弾左衛門と車善七 江戸のエタ頭と非人頭」 塩見鮮一郎 河出文庫
https://amzn.to/3wbbl9n

「部落史入門」 塩見鮮一郎 河出文庫
https://amzn.to/42vdMiU

「江戸の貧民」 塩見鮮一郎 文春新書
https://amzn.to/49sEtHy

「カムイ伝」 全21巻(ゴールデン・コミックス版) 白土三平 小学館
 ※ 「第一部」と呼ばれるものです。

「私家版 差別語辞典」 上原善広 新潮選書
https://amzn.to/3UAA1Ca

「賎民と差別の起源 イチからエタへ」 筒井功 河出書房新社
https://amzn.to/3SRBRML

「山の宗教 修験道案内」 五来重 角川ソフィア文庫
https://amzn.to/3SQgkF6



Diskussion

Hoffmann:「カムイ伝」も取り上げて欲しいな。

Parsifal:いろいろな切り口があるから、機会を捉えて、そのたびにふれていったら面白いんじゃないかな。

Klingsol:「カムイ伝」の第1部に関して言えば、山にはじまり、農村を舞台に、後半で海へ・・・荒れ狂う海で幕を閉じるんだ。階級闘争の物語でもあり、とにかく登場人物が多彩でそれぞれに魅力的なんだね。「非人」といいながら「穢多」を描いているのは、大目に見てもいいだろう。

Parsifal:さらに言うと、穢多と非人は仲が悪かったけれど、農民と穢多は「持ちつ持たれつ」の関係であったようだね。「カムイ伝」は良くも悪くもマルクス主義的な歴史観だと思う。ちょうど、学園紛争の時代に書かれていたことも影響しているんじゃないかな。

Hoffmann:差別感情を持って賤視していたことはたしかだろうけど、ことあるごとにいがみ合っていたわけでもなさそうだよね。

Klingsol:そしてまた、江戸時代も後期になると、戦(争)がないから武士は軍役がないために農民や町人に吸収されていって、身分制度も形骸化しつつあったから・・・。

Kundry:たとえば、イギリスにはメイド喫茶がありえませんよね。じっさいにメイドが存在するんですから。それと同じことで、身分制度がはっきりしているだけに、身分を超えてまで、いまどきのマウントを取り合うような「見栄っ張り」な人はあまりいなかったのではないかという気がしますね。

Parsifal:TVドラマのような、ひたすら武士階級が農民や町人に対して威張り散らしている搾取の構図というのは、マルクス主義の歴史観にあてはめたものだろう。

Klingsol:士農工商ではなくて、「士」のなかでの階層、「農」や「工」、「商」、それぞれのなかでの階層、つまり上下関係の方が実体のある身分制度だったんじゃないかな。非人が皮革職人であったように、盲人は鍼灸、按摩などの職業を独占できたわけだし、機会平等でなかった代わりに社会的な分業体制は確立されていたと見てよさそうだ。

Kundry:明治時代になると、東京をはじめとしていわゆる貧民がスポットライトを浴びるようになって・・・というのは、政府がその存在に気付いたということですね。

Prsifal:そう。それはいま話した、その次の時代ということになる。個人的には、穢多や非人という階級を引きずっていたのではなくて、一度断絶があって、維新後や戦後はまた新たな賤視が生まれているような気がするんだな。

Hoffmann:現代に生きる我々としては、戦後以来現代に続いている差別意識の方が問題だからね。

Kundry:そのあたりのお話にも関心がありますが、山の話が出たので、次は山に生きる人々を取り上げてみてはいかがでしょうか。

Parsifal:ああ、だいたいテーマは見当が付くけど、適当な本があるかな(笑)いまさら三角寛ですませるわけにもいかないし・・・。

Hoffmann:とっかかりとしてはいいんじゃないかな。そしてKlingsol君が・・・

Klingsol:「説教強盗」の解説をするのかい?(笑)