103 「草迷宮」 泉鏡花 岩波文庫




 小次郎法師は大崩の茶屋で気の狂った男に会う。この男は明神様の侍女と名乗る美女に助けられ、酔った勢いで取り縋ったところ、女が正体を現したのが発狂の原因だという。

 小次郎法師が回向を依頼されて訪れた秋谷屋敷には、亡き母が唄っていた手毬唄を探しているという青年葉越明が逗留しており、深夜、さまざまな怪奇現象が発生する。

 姿を現した悪左衛門は葉越の母の知己、葉越の幼友達であるという美女(たおやめ)菖蒲を紹介する。彼女は葉越が自分を慕ってしまうと魔界のものになってしまうと言い、手毬唄はいずれ聞こえるだろうと告げて屋敷を去って行く・・・。


泉鏡花

 幼な子の昔、亡き母が唄ってくれた手毬唄をもう一度聞きたい・・・手毬唄を探し歩く主人公の青年がたどり着いたのは、妖怪に護られた美女の棲まう荒屋敷。

 手毬唄と母が、女性が同一視されているところが、幼くして母を亡くした泉鏡花ならではですね。この小説は平田篤胤の「稲生物怪録」を下敷きにしていることは有名ですね。
 「稲生物怪録」は“いのうもののけろく”と読まれていますが“いのうぶっかいろく”が正しいとする研究者もいます。これは江戸時代中期の寛延2年(西暦1749年)に、備後三次(現在の広島県三次市)に実在した稲生正令(稲生武太夫)が16歳の時に体験したという、妖怪にまつわる怪異物語です。これを広く流布したのが平田篤胤、明治以降では泉鏡花がこの「草迷宮」で下敷きにしているほか、稲垣足穂の「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」も「稲生物怪録」に着想を得た作品として有名ですね。もっとも、泉鏡花が参照したのは篤胤本ではない、別系統の写本ではないかとする研究者もいます。

 ともあれ、当の「稲生武太夫怪物に逢う事」は稲生屋敷での怪異を描き、それは出雲の国からやって来た化物出雲国五郎左衛門が仕掛けた怪事なのですが、泉鏡花はこの五郎左衛門をモデルとした秋谷悪左衛門の背後に、というか、その上に、「令室(おくがた)」、「(手毬)唄の女神」を浮かび上がらせます。そこがまた母に執着する泉鏡花らしいところ。これは下敷きにされた方を読むと分かるのですが、泉鏡花は「お化け」は書いているけれど、グロテスクなもの、造形の珍奇な化物は避けているのです。手毬唄によって紡がれてゆく幻想譚、美しい怪異譚なのです。

 葉越明が拾ったという手毬は時空を超えて、つまり、空間も時間も超えて、主人公の行く手に「迷宮」を現出せしめる。葉越明という手毬唄の探索者がいて、探索者がいるからこそ、行く手に錯綜とした迷宮が現れる。その「迷宮」を際立たせるために、話のなかに話が入るという「枠物語」ふうの入れ子構造がとられています。そうして、読んでいると語り手が変わるという趣向が、この物語自体をも迷宮化しているわけです。

 その迷宮のなかで立ち尽くす葉越明は、夢のなかで小次郎法師を毒殺します。これは謂わば行動の思い惑っている自らの分身を抹殺して、行く手の扉を開こうとする、迷宮からの脱出の試みでしょう。この夢は悪左衛門が葉越明に見せたものであって、もちろん、当人は眠っているのでなにも起こりはしませんが、これによって葉越の母の知己、葉越の幼友達であるという美女、菖蒲が登場することとなり、迷宮のなかに道が開かれるというわけです。

「まあ、稚児(おさなご)の昔にかえって、乳を求めて、・・・あれ、目を覚ます・・・」

 ・・・と、美女に言わせているその眠りは、胎内回帰願望の表象化したもの。地上では決して叶えられぬ亡母憧憬、永遠の母性への憧憬のなかに眠り続けているのです。失われた美とは稚児の記憶であって、失われた手毬唄というのは亡き母の面影にほかならない。

 思い出して下さいよ、冒頭の茶屋の団子に「こっとりと円い」子産石からして、まあるいものが、見え隠れしていたことを。西瓜は刎ね上がるし、洋燈(ランプ)は廻るし、すべては円環を描き、手毬の乱舞というクライマックスに至るのです。美しくもnostalgicな妖気漂う、atomosphereということばがこれほどふさわしい小説もなかなかありませんよ。加えて、眼前にその極彩色の情景が浮かんでくるような、怪異のvisual的な面白さも味わえます。

 なお、今回は岩波文庫版を取り上げていますが、エディシオン・トレヴィル発行、河出書房新社発売による、2014年に出た画・跋文、山本タカトの「草迷宮」もおすすめです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「草迷宮」 泉鏡花 岩波文庫
https://amzn.to/4clbmIp

「草迷宮」 泉鏡花 画・山本タカト エディシオン・トレヴィル



Diskussion

Parsifal:典型的な幻想文学だよね。人々が怪異の存在を信じることなく、これを恐れる時代の小説だ。

Hoffmann:泉鏡花は信じていたんじゃないかな。

Klingsol:でも、「稲生物怪録」をベースにして、これほどまでの文学作品にしている。つまり、土着の奇談そのままではない、批評精神があって、そのうえで文学作品・芸術作品にしている。

Kundry:ランプの廻転については澁澤龍彦が書いていましたね。

Hoffmann:やっぱりね、怪異にこそ注目して欲しいところだね。atomosphereとかnostalgicとか言ってしまったけれど・・・。

Prsifal:「母恋し」に加えて、たしか泉鏡花が子供の頃に遊んでくれた、少し年上の女の子がいたんだよね。その「姉」的なものも投影されているような気がする。

Kundry:後半では葉越明は眠り続けていますよね。最後に「やあ、」と「飛んで縋」りますが・・・。

Hoffmann:眠っているのは無意識・・・ではなさそうだな。

Parsifal:女性が眠っていたら「屍体愛好」の匂いがするんだが・・・川端康成みたいな。

Klingsol:それはもう、幼児と母親の関係性だよ。「男根」に通じるような意味での「性的」なimageではないんだよ。

Hoffmann:atomosphereとnostalgicにもうひとつ、憧憬Sehnsuchtと付け加えるべきだったなあ。