#10 永遠の救済


結局このレクイエムは絶筆となったわけだけど、前金をもらっていたので、どうしても作品は完成させなければならない。そこで未亡人コンスタンツェははじめ、モーツァルトの弟子のひとりであるヨーゼフ・アイブラーに補作を依頼したんだが、アイブラーはほとんど手を付けず、その後もうひとりの弟子、フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーが全曲を完成させた。これが長らく演奏されてきた、もっとも人口に膾炙している版だ。

このジュスマイヤーによる補作には多くの批判があって、近年ではジュスマイヤー版に修正を施したフランツ・バイヤー版、ジュスマイヤーの加筆部分を破棄して独自の補作を試みたリチャード・モーンダー版などがあらわれて、それぞれ録音もされている





モーツァルトのレクイエムの構成を見ると・・・

イントロイトゥス(入祭唱)
キリエ
セクエンツィア(続唱)
オッフェルトリウム(奉献唱)
サンクトゥス(聖なるかな)、ベネディクトゥス
アニュス・デイ(神の子羊)
コンムニオ(聖体拝領唱)

・・・この7章で構成されているわけだ

ええと、ここにある本によると・・・モーツァルトが完成させているのは・・・

イントロイトゥス(入祭唱)―全曲
キリエ―歌声部と低音パート、器楽パートの主要音型
セクエンツィア(続唱)―歌声部と低音パート、器楽パートの主要音型
オッフェルトリウム(奉献唱)―歌声部と低音パート、器楽パートの主要音型

・・・ということですね、たしかに半分もありません・・・どころか、完成されているのはイントロイトゥスだけなのですね

そうなんだ。で、最後に手がけていたのはセクエンツィアの最後の部分であるラクリモーザ(涙の日)で、モーツァルトの筆はこの冒頭8小節で途切れている。

その結果どういうことになったかというと・・・

通常カトリックにおける死者のためのミサ曲は厳粛と悲哀から救済と解放へと至るものなんだけど、モーツァルトのレクイエムでは、サンクトゥスからがジュスマイヤーのオリジナルで、以後、後半に向かって音楽が尻すぼみになってゆくんだね。
そして最後の聖体拝領唱で、ジュスマイヤーはモーツァルトによるイントロイトゥスとキリエの音楽を再現させている・・・ために、この「死者のためのミサ曲」は、ついに救済と解放は得られないままに全曲が締めくくられることになってしまったんだよ

最後のイントロイトゥスとキリエで、厳粛と悲哀に引き戻されてしまうということですね。たしかにイントロイトゥスでほっと息をつけるのですが、キリエで終わるというのは唐突と言うか、妙に堂々と終わってしまう印象ですね

だからこそ、例の灰色の男の伝説、そんな超自然的なエピソードがこの作品にまつわるものとして有名になったのも、わかるような気がする

むしろそんなエピソードがふさわしい作品ですね



でもね、これ、言いだしたらきりがないんだよ。たとえば、冒頭のキリエには、モーツァルトのものと思われる筆跡が二種類あって、インクの色が違うんだけど、一方はじつはジュスマイヤーの補筆ではないかという説があとから出てきたもので、かつてはモーツァルトがふたつの時期にそれぞれ別のインクを使って書いたものだとされていたんだ。

あるいは、ジュスマイヤーが全曲書いたというサンクトゥスからアニュス・デイまでのうち、声楽部の一部は、ジュスマイヤーにしては出来過ぎ、ジュスマイヤーのほかの作品には見られない発想で書かれていることから、じつはモーツァルトのスケッチが残されていたのではないか、というのがバイヤーの説だ

でも、そんなことは(笑)・・・Hoffmannさんは?

どうでもいいと思ってるよ(^^)
版の問題や、オリジナル部分の特定も研究者にとっては重要な問題なんだろうけど、そんなことよりも、完成された作品を聴いて、感ずるものがあるということのほうがずっと大事だと思うんだよ

じっさい、ラクリモーザなんて、とても感動的な音楽で、モーツァルトが作曲したのではないという理由で8小節めまでしか聴かない(あるいは演奏しない)なんて、私にはできませんね

まったくそのとおりだね。さっき、優美が灰色の服の男のエピソードがふさわしい作品だと言ったけど、作品を聴けばこそ、そう思えるわけだろう?

ええ、それはラクリモーザに限りませんよ。全曲を聴いて、死の深淵を垣間見せる神秘的な音楽とさえ思えます

ある学者は、救済に到達しない構成となっていることから、「暗く救いのない作品となってしまった」と言っているけれど、個人的には、むしろしのびよる死の影を前にしての、神への親愛が印象的に聴きとれるものと思っているんだけどね。ここで言う神というのは、偉大にして恐れるべき絶対的な存在として描かれているものではないし、そもそもカトリックの神ですらないのではないかな



私もそう思います。救いがないのか、暗いのか、ということは、そんな理屈で判断するものではないですよ(・o・)

キリスト教芸術としては異例のものながら、これはこれでたいへん美しく感動的だと思うんだ

この作品は、キリスト教芸術としては異例なものであることで、かえって宗教音楽というジャンルを超えてしまったのですね。だからこそ、時代も地域も宗教をも超えて、私たちの心をうつのではないでしょうか(・_・)

ああ・・・そうだね、そのとおりだよ。優美のおかげで、いい結論が出たな(^^)

(*^ ^*)po