#19 くまぐすが見た紫の花




南方熊楠は1867年、慶応3年に和歌山に生まれた。
幼くして学問を志したものの、生家は富裕ながら、商人で倹約家だった父のもとで多くの書籍を購入することはかなわず、古本屋で立ち読みしては自宅に帰ってすぐに筆記して、その繰り返しで「本草綱目」「大和本草」「和漢三才図会」などを14歳までに(ある書簡では「12歳までに」と言っている)書写したという努力家だ

「本草綱目」「大和本草」って、薬物学の本ですよね

「和漢三才図会」は当時の百科事典みたいなもので全105巻、これには3年かかったというからまったく驚くべき少年だね



そして20歳のときに大学予備門を退学して洋行、はじめサンフランシスコに渡って、商業大学、次いで農業学校に入学した。ところが寄宿舎でアメリカ人学生2名、日本人学生2名で宴会の末、酔っぱらって廊下で素っ裸で寝入ってしまい大騒ぎとなる(笑)義侠心ある熊楠は後の3人に迷惑をかけまいと、雪のなかを脱走した。

その後は各地を放浪、肉屋の店員をしながら植物を採集したり、曲馬団(サーカス団)の象使いの助手となってキューバに巡業した際には独立戦争の市街戦に飛び入りして、負傷したこともあるという。もっともこれは伝説で、じっさいは見物しただけらしい。
ちなみにこの曲馬団にいたときは団員の娘に寄せられたラブレターを読んで返事を代筆するアルバイトなどやって学問を続けたそうだ

さすが語学の天才ですね(^o^)

明治25年にロンドンへ渡り、ここで実り多い8年間を過ごすことになる。
ロンドンでは馬小屋の二階などに住まい、大英博物館で独学し、懸賞論文で学界に認められ、科学雑誌“Nature”にダーウィンと並んで論文が掲載されるようになる。“Nature”への寄稿は多数に及び、学界に貢献したものも少なくなかったんだよ

(・・;)たいへんなひとだったんですね〜

大英博物館では並み居る学者連を論争でうち負かし、ために恨まれいやがらせを受けたりもした。そしてついには乱闘のすえ、相手の鼻に噛みついて大英博物館を追放されてしまう

乱暴者のような印象ですが、むしろ当時の日本人が海外で堂々と自分の意見を主張したということが立派ですね

たとえ相手が高名な学者でも一歩も譲らずその誤った説を打破した。その相手が熊楠を「無礼」よばわりするので、逆に相手に謝状を出させたなんてこともあったそうだ。
いやいや、たいしたものだね(-_-)あやかりたいものだ

Hoffmannさん、あやかるのもほどほどにしたほうがいいですよ(^^;)

熊楠が帰国した一週間後に、同じくロンドンに留学した夏目漱石が神経衰弱になって毎日下宿でめそめそ泣いていたのとは大違いだね。おまけに漱石は官費による留学だぞ。漱石が千円札なら熊楠は十万円札クラスだ( ̄− ̄)ohon



ロンドン大学事務総長はケンブリッジまたはオックスフォード大学に日本学の講座を新設し、熊楠に講義をさせるつもりだったが実現に至らず、結局1900年(明治33年)34歳のときに帰国する。

帰国後は熊野で隠花植物の採集調査など行い、その後田辺に移って結婚(熊楠このときまで童貞)、この地に定住することになる

このころから民俗学を二次的な研究にして、微生物学、とりわけ粘菌の研究が中心になるのですね。なぜ粘菌を選んだのでしょう? そもそも粘菌ってどんな生物なのですか?

粘菌というのは朽ちた倒木の樹皮などに寄生する微生物だ。胞子の段階では細胞が厚い膜におおわれていて動かず、構造や機能はキノコに似ているので植物といっていいものだが、いったん生長をはじめるとほかのバクテリアを捕食して、何度も核分裂を繰り返しながら巨大なアメーバ状の変形体をなしてゆく。このあたりは動物といっていいものだ。したがって分類不能な不思議な生物なのだね

はあ(・o・)・・・不思議ですね

イギリスのある学者はこれを「他の星界よりこの地に墜ちて来て、動植物の源となったもの」ではないかと言っている。
熊楠が粘菌に関心を持ったのも、このような動物学的な面からで、生物の繁殖遺伝に関する研究をするには粘菌の原型体をその対象とするのがよい、という考えがあったのと、さらに粘菌によって人間の生死の哲学まで思索していたようだね。

採集調査のときは、夏など暑いので丸裸になり、自分でもそのことを忘れて田植えをしている20人ばかりの婦女子に出くわして、みんな逃げ出して大騒ぎ、なんてこともあったらしい(笑)



このころの熊楠の活動でとりわけ重要なのは神社合祀令(神社を合併して一町村一神社とするという法令)の反対運動だ。これによって内務部長、郡長を恐れさせるとともに、その恨みをかうことになる

「猫楠」でも、ある座談会では巡査6人と乱闘して会所の床が抜け落ちたと書いてありましたね。でも、酒を飲んでいたというので罪にはならなかったと・・・

ところがその後、県知事代理として内務部長が出席している某講習会に乱入して、ついに「家宅侵入」の罪で18昼夜収監の憂き目を見ることになる

神社合祀令って、「神狩り」と呼ばれて当時から反対のひとは多かったようですが、南方熊楠はなぜ反対したのでしょうか?

ひとつには、山林の乱伐による生態系の破壊が生物学上の弊害を生じること、また、神社の閉鎖が考古学上の資料の亡失にもつながること、という生物学的な面と精神的な文化面の双方から反対したんだよ

生物学的な面が当時としては卓見でしょうね。いまで言うエコロジー思想につながるものですよ

熊楠収監の報を聞くや町中の「子分」たち、百姓、漁夫、職人から芸者までが郡長の家宅に侵入して敷地内の夏みかんをことごとくちぎり取っては投げつけ、また警察署へ突入しては巡査をほうりなげるという乱暴狼藉をはたらいたそうだ(笑)

人望があったのですね(^^)

「子分」たちに慕われる人気者のガキ大将といったところだね(^^)
すすめられても保釈など金権によるものと断り、あくまで反対の立場を貫いて、この反対運動はその後もかなり官僚を脅かし、内務省から貴族院まで動かしたというからたいしたものだ。

のちに熊楠は自宅の柿の木から新種の粘菌の発見して、「ミナカテルラ=ロンギフィラ」と、その名を学名に冠されているけれど、この収監中にもめずらしい粘菌を発見しているというからじつに研究熱心だったんだね





生涯官職に就かず、在野の研究家としての生活を貫いたのですね。まさに「無冠の大学者」ですね

そういえば國學院大學で講演したことがあるんだけど、このときは控室で飲酒、その場にいた某教授に向かって「君のはげぶりは年の若いのに似ず実に立派なものだね」と扇でその頭をあおいでふざけ、講堂では300人の聴衆の前で酒をがぶがぶ飲んでいろいろ奇妙な百面相をしただけで、なにもしゃべらずに立ち去ったそうだ(^^;)

これは、國學院大學の学長がその前年の著書で熊楠の説を多数転載しながらそのことにふれていないことに不信感を持っていたためともいわれているが、まあ、単なる恥ずかしがりのあらわれなんじゃないかな。とにかく子供みたいなひとだったんだよ

そういえば水木しげるの「猫楠」でも、柳田国男が会いに来たときにも、柳田国男の宿泊している宿まで出かけながら、そこで酒を飲んで酔っぱらってしまい、まるで話もできなかった様子が描かれていますよね

宿につくなり「初めての人に会うのはきまりが悪いから」と言って酒を飲んだらしい。翌朝挨拶に来た柳田に、布団のなかから顔も出さずに話をしたというのも「猫楠」に描かれているとおりだ。
いずれにしろ、相手が外国人(西欧文明)であろうと、大学教授(官僚、権威)であろうと、なんのコンプレックスも感じることなく、生涯アカデミズムとは無縁で、無邪気な子供のように振る舞う自由人だったのだね

澁澤龍彦がその博覧強記を「権威によって拘束されない、無私の情熱、無償の情熱の結果なのである」と言っていますね

うん、そう言う澁澤龍彦自身もそうだったね。人として正しき道だ(-_-)un

私も・・・Hoffmannさんにそういうひとでいてほしいです

ん・・・なに?(・_・)

あ、いえ、なんでもないです(*^-^*)





しかしいいことばかりではない、決して生活は楽ではなかったし、やがて生涯最大の不幸が熊楠を襲うことになる(-_-)

それは・・・(・_・;)

長男熊弥の発狂だ。熊弥が高等学校受験のために高知へ向かい、高知上陸と同時に精神に異常をきたしたんだ。その発作はときに激しく、最後まで手元に置いて面倒を見ようとしたがついに断念、病院に入れている

水木しげるの「猫楠」で、娘の文枝が父の泣くのをはじめて見た、というところですね(-_-)

そしてあれほどの酒豪が禁酒して生涯酒を断ち、しかしそんな不幸のさなかにあっても学業は捨てなかった



逆に熊楠の生涯最大の幸福が昭和4年に田辺湾の神島で天皇を迎え、召艦長門艦上で生物学の進講をしたことだな

天皇陛下のたっての希望だったそうですね

この進講で披露、進献したのは、若き日にキューバやフロリダで採集した菌類や、この日にあわせて採集した海に住むめずらしい蜘蛛とその巣、本州ではめずらしい、海に生まれて陸に上がり、昼は山の樹にのぼるヤドカリなどだったそうだ(そんな蜘蛛やヤドカリがいるの、知ってた?)
このとき粘菌の標本をキャラメルの箱に収めて進講を行ったことは有名だね(^^)

天皇というのはもちろん昭和天皇ですね

このときの進講のことは、その後宮中でもときどき話題にのぼったそうだ。
民俗学者にして蔵相の渋沢敬三によれば、終戦後のある日、天皇陛下が・・・

「南方には面白いことがあったよ。長門に来た折、珍しい田辺附近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上といふと桐の箱か何かに入れてくるのだが、南方はキヤラメルのボール箱に入れてきてね。それでいいぢゃないか」

・・・と、ニコニコされながら仰せられたことがある、ということだ

天皇陛下もよほど深く印象に残ったのですね

さらに天皇陛下は昭和37年にこの地に行幸した際に、33年前を懐かしんでこんな歌を詠んだそうだ

雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

天皇の御製に民間人の個人の名が詠み込まれるのはきわめてめずらしく、当時の和歌山県知事が感激して、これが南方熊楠記念館設立のきっかけとなったということだ

いい話ですね、感動的です(^^)

この進講から12年後の昭和16年、亡くなる前日、死の床にある熊楠に娘の文枝が「お医者さんをお呼びしましょうか」と問うと・・・

「もういい。この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者が来れば、この花が消えるか
ら呼ばないでくれ」

・・・とこたえ、深い眠りに落ちていった。これは、あの天皇への進講の日に咲いていた紫の樗の花を想っていたのかもしれない・・・(-_-)

・・・(-_-)







参考文献・引用文献 水木しげる「猫楠」角川文庫ソフィア、笠井清「南方熊楠」吉川弘文館、南方熊楠「南方熊楠随筆集」筑摩叢書、紀田順一郎「日本博覧人物史」ジャストシステムほか