#21 「晩夏」




優美は、この小説のどんなところが退屈だった?

ストーリーに起伏が乏しい・・・というより、ストーリーがありませんよね。それに、いっさいの悪が排除されていて、「立派なひと」「いいひと」しか登場しないんです。マイナス要因がまるでないんですよ。主人公とナターリエの恋にもまったく障害はなく、なにひとつ不自由のない境遇でめでたしめでたし、ですからね(^^;)

たしかにそうだね。小説のはじめの方で、話者(主人公)が両親のことをこんなふうに語っている・・・

母はやさしいひとで・・・(中略)・・・一点の非の打ちどころもない父と同様に、尊敬すべき善の規範であった。

自分の父母なんだから尊敬するのは結構だけど、ここまで完全無欠な人物として両親を紹介するような男って、魅力ないよね(^^;)

魅力ないどころか、批判精神の欠如した世間知らずの若者とみえます。それにこんな完璧な善人や道徳家なんて、小説のなかではあまりに現実味に乏しいですよ。こうした登場人物たちの「幸福な」生活を延々と語られたら、退屈しないほうが不思議です(^^;)

(^^)ラスコーリニコフやヒースクリフのほうがよほど魅力的かな?

魅力的というか(笑)・・・生彩がありますよね

リルケが「この小説は、物静かな穏やかな人によって、ゆっくりと朗読されなければなりません」と言っているそうだ。この小説は時の流れにそって書かれているんだよ、だから特有のリズムがある。そのリズムに合わせてゆっくり読んでごらん。そうすると退屈しないよ(^^)

わかりました、ゆっくり読むんですね(^^)



ただ教養小説と呼ばれる作品にはあまり親しめないものを感じるのも事実だ。
結局ね、人間が齢を重ねるに従って精神的に深まり、高められてゆく、という近代精神の信仰がそもそも間違いだったんだよ。

音楽の世界でも、ある演奏家が年月を経てある作品をレコーディング(再録音)すると、必ずといっていいくらい、やれ表現が深まったの、やれ演奏の奥行きが増したのと、ほめられるよね。でもね、若い頃の方がずっといい演奏をしていた音楽家だっているんだよ

人間は成長し、発展するものだという盲目的な信仰があるのですね

そういうことだ。だけど、人間精神はそんなに前途洋々たる希望に満ちたものでないことはいうまでもない。たとえば、20世紀のナチス・ドイツがいい例だ

ナチスの悲劇のことですか?

いや、それよりも、人間の人格はそんなに統一的に一貫したものではないということだよ

どういうことでしょうか?

ナチス親衛隊長ヒムラーが相当な腕前のバッハ奏者だったことは有名だし、また、チェコで残虐行為を行ったハイドリヒにはモーツァルトを聴いて涙を流したというエピソードがある(・_・)

(・_・)・・・

それはほんとうにバッハやモーツァルトを理解してはいなかったのだろう、なんて言うのは音楽好きのご都合主義だよ(-_-)

Hoffmannさんは、バッハやモーツァルトの音楽がこのひとたちの心を動かさなかった、と言いたいのではないのですね

マックス・ピカートに言わせると、ナチスの世界で音楽は・・・

・・・宙に浮いているのである。なるほどモーツァルトの音楽はある、しかし、それが聴かれている一瞬間だけ存在しているにすぎない。

 ここでは殺人行為さえもが堕落している。絵画と殺人行為とがともにその品位を貶されているのだ。瞬間を埋めるものがたとえ殺人であれバッハであれ、或いはまた瓦斯攻めであれヘルダーリーンであれ、かまうことではない。今の瞬間にひとりの子供の腕をやさしく撫でているヒムラーのその手が、次の瞬間には死の部屋へと毒ガスを吹き送るハンドルのうえを撫でるのである。ここでは万事が瞬間を埋めるための単なる充填物にすぎない。

これは、殺人もバッハも、それぞれの人間の、たとえば人格に深く根ざしていないということですね

ここでマックス・ピカートは悪あがきをしていると思うんだよ。
そこにバッハやモーツァルトが混じっていたからといって、ナチスの世界ではすべてのものが真の価値を発揮することがない、刹那的なものだったと断定する理由はないんだ。殺人者と、歴史上の貴族と、いまの時代に生きている現代人と、誰がほんとうにバッハを理解しているかなんて、そんなこと誰にも決められないし、わかるわけがない。バッハやモーツァルトは、ちゃんとバッハやモーツァルトとしてヒムラーやハイドリヒを感動に導いていたのかもしれない。その同じ人間が大量虐殺を行う、どちらもがその人間の真実の姿だ。これはつまり人間の人格はもともと統一したもの、一貫したものではないということさ





作家の中村真一郎の回想に、戦時中にナチスを賛美していた少女が、戦後に会ったら、オランダにおいて逮捕されたユダヤ人の一少女の記録「アンネ・フランクの日記」の愛読者となっていた、というエピソードがあった。

中村真一郎によれば、多数の知識人は時代の風潮の変化と微妙に歩調を合わせて変節して、いつの時代にも、その時代の要求する思想をうまく主張しているということだ。
すなわち満州事変から第二次大戦に至る緩慢なファシズム化の時代には、いつの間にか左翼主義者が右翼になり、敗戦となれば一朝にして民主主義者に変貌する、という按配だね。

また、著名な某哲学者は倫理学の著述において、戦前に刊行された上巻では個人の人格を倫理の根本に置き、戦時中に刊行された中巻では国家が倫理の最高目的であると説き、戦後の下巻では、その国家は民主主義でなければならず、そこにおいて個人の人格の伸長と社会とが調和すると説かれているという・・・

まるで奇術師の軽業ですね(-_-)ある意味、つねに時代の先頭に立っているわけですね

・・・しかもその個々の著作は、それぞれになかなか説得力のある名著だということだ

つまりそれぞれが学者として誠実な研究の成果であり、すなわち人格は統一的ではないというわけですね・・・

単純に、たとえばその中巻だけを現代の感覚から批判することはできないだろう。現代人だってこのいくつもの変節の結果しか知らないだけなんだ



でもその哲学者や知識人と呼ばれるひとたちの場合は、つねに周囲と同じことを考えて、同じ行動をとっていなければ不安であるという、日本独特の「村構造」から発する変節なのではないですか?

そうかもしれないね

もちろん、いずれにせよ嘆かわしいことですが・・・

でもそうなると、ゲーテのような、つねに発展成長し続けようという精神には価値を認めざるをえないと思うんだ。人格的な統一が最良の目標であるかどうか、必ずしも断定はできないとしても、孤高を貫こうとする姿勢はやはり立派なものだ

だからそれが、たとえばこの「晩夏」という小説が近代人の視点で書かれた記念碑的な小説だとおっしゃる理由なのですね

そう。まあ、記念碑といっても、すでに失われた希望へのメモリアムかな



引用文献・参考文献
シュティフター「晩夏」(集英社版世界文学全集31)藤村宏訳 集英社
マックス・ピカート「われわれ自身のなかのヒトラー」佐野利勝訳 みすず書房
中村真一郎「人生を愛するには」文藝春秋社
中村真一郎「愛と美と文学」岩波新書