#24 男と女 ― あるいは兄妹の宿命




それなら「とりかへばや物語」こそ、まさに兄妹の入れ替わりをテーマにしたものだね

いわゆる「源氏物語」の亜流とされる王朝物語のひとつですね

うん。中村真一郎がこの「とりかへばや物語」と「狭衣物語」「夜半の寝覚め」「浜松中納言物語」について論じている文章がある

 一条帝の時代、平安文明の極盛の後を受け、仏教でいう「末法の世」に入っていくにつれ、貴族社会はデカダンスの影が濃くなってくる。そして、「色好み」も盛時の快活なエピキュリアニスムの様相を失って、その否定面が次第に表面に現れだすようになる。

簡単にまとめると・・・

「狭衣物語」の主人公である狭衣大将には光源氏の闊達さはなく、その行動に何らの意志の働きも見られない、陰鬱な神経衰弱的人物であり、ここでは「色好み」は紳士淑女の遊びの手段から、人格の支配外の運命の偶然や無意識の衝動によって逆に人間を弄ぶものとなっている・・・

「夜半の寝覚め」ではひと組の男女が偏執的にお互いを求めて苦しみ続けるという希望のない世界を描いたもの・・・

「浜松中納言物語」は、将来への希望を失った社会が、現実から夢のなかに逃避するという現象を反映していて、主人公にとっては恋は生の真剣な目的でもなく、優雅な遊戯でもない、ほとんど夢のなかの行為である・・・





なんだか、現代人にはかえって受け入れやすいような主人公たちですね・・・というか、ほとんど現代文学の紹介かと聞こえますよ

そうだね(笑)
「浜松中納言物語」なんて主人公の父親が唐の国に生まれ変わっていて、その母親である唐の后はその後日本に、それも自分とは腹違いの妹の娘として生まれ変わって、主人公の愛人になろうとする。なんだか、三島由紀夫あたりが書きそうな話だな


荒唐無稽なファンタジーですね

でも、前にも言ったけど、もともと「源氏物語」の登場人物たちにもこのような、言ってみれば「近代的自我」の萌芽が見られるよね。中村真一郎は光源氏が「宿命的な情熱から遁れようと」「『色好み』の風習のなかに逃げこむことで」「生涯の危機を何度も脱していた」と指摘している。これはそのとおりなんだろうけれど、その葛藤の様は、たとえば清少納言あたりに見られるような「色好み」の軽やかさとは一線を画するものだ



さて、「とりかへばや物語」だけど、じつはこれには二種類あって、それぞれ古本「とりかへばや」と今本「今とりかへばや」と呼ばれている古本の成立は11世紀末頃、今本は12世紀末頃とされているけれど、作者はいずれも不明だ。
鎌倉時代初期の座談会形式の文芸評論書である「無名草子」のなかでは、古本の方はまったくの別作品として紹介されていて、これがなんとも非現実的で醜悪にして恐ろしく不気味であるとの評価を下されていて、一方今本の方は古本の醜悪さやストーリーの展開の欠点が克服されたと評価されているんだよ。古本は散逸していて断片しか残っていない。今日読むことができるのは今本の方だ

それでは「今とりかへばや」の方はあまり醜悪ではない、比較的明るい物語なのですか?

いや、これがなんとも陰惨でグロテスクでね、これではいったい古本の方はどれほどのものであったのかと思わせるような、デカダンの色合いの濃いストーリーだ

この時代の貴族たちの「色好み」の対象が、遂にソドムとゴモラのデカダンスの地獄にまで転落してしまっているということを示していよう。

権大納言で大将を兼ねていた有力な貴族が二人の妻によってそれぞれ男の子と女の子を持ったが、この兄妹のうち兄の方が女として育てられ尚侍として宮中に出仕し、妹の方が男として育てられ、元服して官吏となり右大臣の娘と結婚する。
兄は尚侍として内親王春宮の遊び相手となって、二人は同性愛におちいり、しかしこの尚侍は生理的には男性だから、その間に子供が生まれる。
妹の方は男女の夫婦に見えてじつは女性同士だから妻は処女のままでいるところに、夫の同僚の官吏と姦通して、やはり子供を産む。さらにこの同僚は夫である官吏がじつは女体であることに気づいて犯してしまい、こちらも妊娠してしまう・・・

・・・(・・;;

明るい喜劇などではない、おそろしく暗い宿命を背負った登場人物たちの奇怪な人生が、感傷的かつ暴露的に描かれたものなんだよ






まさにソドムとゴモラの頽廃ですね(・_・;;

なんというか、世紀末的だよね。「色好み」が行き詰まり、性の混乱と暴力による支配の前で登場人物たちはまったく無力な存在だ。ここでは人間精神が極端に矮小化されてしまっている

・・・といってギリシア悲劇の運命や宿命といったものとも違いますね

ギリシア悲劇の主人公は敗れるにせよ、運命と戦うよね。そこに不条理な運命に対する主体的精神の気高さと威厳を見て、感動が生まれる余地もあるけれど、この「とりかへばや物語」では、登場人物たちはただ陰惨な宿命に流されるだけだ

まるで悪夢のような小説ですね

ああ、その意味ではカフカ的といっていいかもしれないね
これは時代を写した風俗小説でありながら、結果として風俗小説の域を超えてしまったんじゃないかな。風俗小説って、一般にその時代においては結構さかんに読まれるけれど、後世においてはさほど高い文学的価値があるとは認められない、むしろその時代を知る資料として評価される、そんな小説だよね

風俗小説を超えてしまったというのは、登場人物たちの悲劇―というよりも、地獄が時代をも超越しているということですね

うん。つまり、「源氏物語」にも近代的自我の目覚めが見られたとすれば、ここでは現代人にとっては周知のものになってしまった、人間の日常的な儀礼や節度に隠された、むき出しの感情、あえていえば醜悪な欲望と倒錯が、「源氏物語」を支えていた良識(バランス)を犠牲にすることによって描き出されているんじゃないかな

だからこそ、現代においても読むに耐えるだけのものがあるというわけですね







引用文献・参考文献
「色好みの構造」 中村真一郎 岩波新書
新日本古典文学大系「堤中納言物語・とりかへばや物語」 岩波書店