#30 当たるが勝ち ― あるいは論争の時代




論争といえばいろいろあるけど、ある意味いまの時代に思い出されてもいいと思うのは、昭和31年の芥川賞受賞作「太陽の季節」をめぐる論争だな

「太陽の季節」って、あの、いまや東京都の・・・

(笑)そう。当時映画化もされたし、「太陽族」なんてことばも生まれるきっかけになった小説だ





当時芥川賞選考委員会で、これを受賞作として積極的に推したのが石川達三と船橋聖一、反対したのが佐藤春夫、丹羽文雄、宇野浩二。あとの瀧井孝作、川端康成、中村光夫、井上靖は欠点を認めつつも受賞に賛成だった

積極的支持の船橋聖一は・・・

・・・世間を恐れず、素直に生き生きと、「快楽」に対決し、その実感を用捨なく描き上げた肯定的積極感が好きだ。

一方絶対反対の佐藤春夫は・・・

僕は「太陽の季節」の反倫理的なのは必ずしも排撃しないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。

このふたりは選考委員会の席上でも相当激しくやりあったそうで、船橋が「美的節度の欠如って、どういうことですか」と問えば、佐藤が「それはキミが書いているような小説のことだよ」とやりかえし、その場はかなり険悪な雰囲気になったと伝えられている

・・・(・・;)

結局「太陽の季節」は芥川賞を受賞して、作者ともどもマスコミを騒がせることになった。
佐藤はその後読売新聞に「良風美俗と芸術家―不良少年的文学を廃す」という一文を寄せる。このなかには「太陽の季節」という作品名も作者名もあらわれないんだけどね・・・

ともあれ自由と放縦との区別さへつかなくなつたこんな国で良風美俗を足蹴にすることぐらゐは何も立派な芸術家魂を持たないで市井の不良少年が朝飯前にしでかすところであらう。

「太陽の季節」について語っているのは明白ですね(・_・)

すると船橋聖一が数日後、同じ読売新聞に「文学か道学か―若い世代の才能について―」と題する反論を寄せた。そこでは・・・

大正時代の春夫氏は・・・無名の一女優E・Y女(当時十八歳)と同棲されて、「病める薔薇」を書き、同六年、E・Y女と別れて、九月M・K女(当時二十歳)と同棲された。

と、佐藤の過去のプライバシーをことさらにあげつらっている。お年のせいで自分の不良時代をお忘れになっているのではないですか、というわけだ。そして性の遊戯は源氏物語から近松、西鶴、花袋、荷風、利一に至るまで描かれており、自分は快楽を邪悪視する思想を現代の迷信として戦い続ける、としている。
で、一週間後には佐藤の反論・・・

性的なことがいけないと誰が申したか。・・・検閲制度のクソやかましい時代にあれ(注…「太陽の季節」のこと)を書いたのなら僕も少しはその意義も認めたろう。―今日時勢に便乗して得々とあんな書を書くのでなければ。

・・・そして「船橋の頭ではわかるまいが」と結んでいる

ちょっと大人げないようですが、船橋聖一が佐藤春夫の私生活を暴露的に書きたてていることを考えると、感情的になったとしても無理ありませんね

論争の結果は、客観的にはその後の「太陽の季節」の作者の活躍ぶりを見れば船橋に軍配・・・というのは当時の一般的な受け取り方だけど、いまになってみれば、この作家のその後の小説はどれもたいしたことはない、ましてや文学史に残るようなものではないというのは大方が認めるところだろう。
言っちゃ悪いけど、船橋聖一もすっかり忘れられた作家となったのは、その残された作品を読めば理由はわかる・・・(・_・)majime






さらに、論争というやつは、もともと論争していたお二方とは別なところに波及することがあるのがおもしろい。ここでも、「太陽の季節」は佐藤や船橋とはまったく別な文芸批評家同士の論争を生んでいた。

それが亀井勝一郎と中村光夫の論争で、これも長いんだけど、要約すると、亀井が「賭博的作品の一典型―『太陽の季節』をめぐって」と題する論文で、戦後風潮のひとつとして無節度な若者に神経質な甘い大人が引っかかる、しかし無節度の根底には、当たるか当たらないかという賭博性がある、これは文学の敵だ、と論じたのに対して、それにかみついたのが中村で、真に独創的な芸術作品は賭の性質を持っている、とした


世間で認められるための作品、その執筆が独創性を生むというわけですね

そのとおり。この論争はその後亀井の中村個人攻撃にまで発展して、中村は亀井論文の巧妙なレトリックと仕掛けを分析するというものになり、はっきり言って、論争としては中村が圧倒的に優位に立っているように世間には受け取られた・・・

でも、個人的にはこれは亀井に賛成だな。つまりこの小説(その創作)は、芸術造りではなくて効果造りでしかないと思うね。
そしてそれ以上に、賭の性質―当たればいい、それではどこを狙うか―という(小説であるとの)亀井の指摘は、いまにして思えば、この「太陽の季節」の作者のすべてを言い表しているんじゃないかな。その後の行動を見れば、まさに当たるか当たらぬかという賭の連続だ・・・

佐藤春夫にしても、「太陽の季節」の作者に「ジャナリストや興行者」を見て、「時勢に便乗」していると指摘しているのは・・・さすがですね

そうそう(笑)「良風美俗」とか「快楽」なんて、もともと争点ではないんだよ

佐藤春夫って、当時大江健三郎とか、若い作家の才能を認めていますよね。その佐藤春夫が「太陽の季節」とその作者に文学とは異質なものを感じとったのですから・・・

考えてみれば・・・政治家の資質とは、時勢に便乗する鋭敏げな時代感覚だろう。昭和31年当時、この新進作家に文学とは別ものの、そんなにおいを嗅ぎつけた佐藤春夫の眼力にはまったく頭が下がるよね




ところで、Hoffmannさんは「太陽の季節」をお読みになってどう思われましたか?

読んでないよ、そんなもん

えっ(^^;)そうなんですか?

高校生の頃このひとの短編小説をひとつ読んだけど・・・くだらない流行小説ぐらいにしか思わなかったよ。そのころは佐藤春夫や亀井勝一郎の批判は知らなかったけど、これ見よがしなポーズが鼻について読むに耐えなかったな。だから「太陽の季節」は手にも取らなかった

私も読んでみたいとは思いませんけど(^^;

(笑)だいたい、ベストセラーになる本に、ロクなものはないんだよ(´-`)ノ
よく、ベストセラーになるとテレビドラマ化されたりするだろう。あれはもともとテレビドラマ並みの内容だからなんだよ


これまた新説ですね(^^;