#34 官能愛と精神愛


つまりこの「タンホイザー」というオペラは、精神的な愛と肉体的・官能的な愛の対立を描いているわけですね

そうだね〜(笑・アイマイ)たしかに、このオペラにはいくつもの対立関係が見て取れるね。
ヴェーヌスベルクとヴァルトブルク、古代の異教世界と中世のキリスト教世界、官能愛と精神愛・・・まあ、ワーグナーもはっきり音楽で描き分けているね。
この、いずれの世界にも通じていて、同時にいずれの世界にも安住できないタンホイザーを、自由の名の下にタブーに挑戦する革命児、あるい芸術家として描こうとする演出家もいる


古典的な前期ロマン派の音楽でヴァルトブルクを、より斬新な後期ロマン派の音楽でヴェーヌスベルクを描いているのですね

だから、音楽的にはヴェーヌスベルクの勝利とみえる(笑)これは誰も異論のないところだ



でも、劇としては精神愛の勝利ですよね。明確なコントラストですね・・・?

でも、そんなに単純化できないんだよ( ̄ー ̄)ニヤリ
タンホイザーと再会したエリーザベトが歌う歌詞には、ちょっとあやしげな件があるし、歌合戦の場でも、ト書きによれば、彼女はタンホイザーの享楽を讃える歌に賛意を示そうとさえしている・・・


・・・そうですか(・_・ )? タンホイザーがヴェーヌスベルクから戻るときには、聖マリアの名を呼ぶとヴェーヌスベルクが消滅しますよね。それにタンホイザーの罪を償うために自分を犠牲にしようとするエリーザベトが祈りを捧げるのはやはり聖マリアですから・・・官能の女神ヴィーナスと処女マリアの対立構造とみてもいいのではないですか?

タンホイザーがヴェーヌスベルクから戻ったとき、最初に耳にした牧童の歌に感動しているよね。あの牧童の歌は春の神ホルダを讃えるものだけど、ホルダっていうのはヴェーヌスのゲルマン名だよ・・・

えっ、そうなんですか?

それに、第三幕でヴォルフラムが、タンホイザーの罪の償いに自分の命を捧げようと祈るエリーザベトを見送って、「夕星の歌」を歌うよね?

ええ、とても美しい歌ですよね

夕星って、金星だよ。つまりヴィーナスだ・・・

・・・あっ(・o・)



タンホイザーはなぜ歌合戦の場でヴェーヌス賛歌を歌ったのか、タンホイザーが我を忘れて楯突いたのは、因習的で偽善的な歌手たちだよね。
彼らの歌う愛とはどんなものかというと、愛は清らかな泉であり、その泉を汚してはならないとか、その泉の徳は心を暖かくするものとか、清らかな愛こそ騎士に武器と勇気を与えるとか・・・いってみれば愛とはかなわぬ理想であるという歌ばかりなんだよ

(笑)

まあ、単純に考えればタンホイザーの憤りは偏狭な禁欲主義への反抗、というところだね

なんか、それじゃ模範解答ですね(^^;)



純粋に理論家としてのワーグナーは性愛について、どう考えていたのでしょうか?

う〜ん、「タンホイザー」以後の作品やワーグナーの著書にもあたらなければいけないんだけど・・・ワーグナーはフォイエルバッハやショーペンハウアーの影響を受けているから、感情による理解を超越したところに・・・まあ、哲学的な解決を求めるんだな

形而上学というわけですね

同時に芸術家でもあるから感性で真理を表現しなければならない。だから、至高の愛といえど、地上的・現実的な愛によって充足されなければならないと考えた。つまり、哲学者の玩具でもなく、肉欲的な愛でもない、愛の境地とはいかなるものか、と。

そこで考えたのが両性具有なんだな・・・あ、これはプラトン的な意味だよ。これこそ互いのエゴイズムを排除・消滅せしめたものであると理想化することができるものだ。
つまり意志的な男性性と無意識的な女性性の融合、というより和合―これがワーグナーが至高の愛とする性愛なんだな


・・・なんか強引じゃないですか〜(^^ )いえ、Hoffmannさんじゃなくて、ワーグナーさんが、ですけど・・・

ワーグナーの理論はいつも強引だよ(笑)でも、詩人を男性的なもの、音楽家を女性的なもの、としてその和合が未来の芸術であるとするワーグナーならではの発想だね。いや、この比喩の方が後からできたのかな・・・



でも、「タンホイザー」の場合は、死によってしか実現されなかったのですね

うん・・・それでね、まあ、ワーグナーの劇が死で終わるのは毎度のことなんだけど・・・

はい・・・?

・・・はからずも、窮極の連続性である死によって救済が成就されている、とみることができると思わない?

Σ(・o・ )エロティシズムですね!