#46 エロティシズム各論 ― 造物主の性






現実に両性具有というのは存在したのですか?

性器が男女両体である例は、日本でも古くからたびたび記録されている。明治時代には新聞記事にもなっているようだ。日本語では「二形(ふたなり)」「はにわり」「半陰陽」なんて呼ばれていたんだよ。

まあ、擬性半陰陽の類は、幼少時代を過ぎるとどちらかの性に傾くので、女子が男子になったといった報告は概ねこれにあたるとみていいだろう

ヨーロッパでもそういった例は報告されていたでしょうから、「オーランドー」の執筆にヒントを与えたのかもしれませんね

いずれにせよ、現実の両性具有者は異常者として扱われ、奇形として処遇されたことは否定できない

やはり現実の医学的両性具有となると、観念としての両性具有とは別ものと言うべきなのでしょうね



ヨーロッパでは、いわば人工的なアンドロギュヌスが存在したよね

宦官のことですね

そう、それにgallery#44dialogue#25でとりあげたカストラート歌手もそのひとつだね

去勢歌手ですね

思春期前に睾丸摘出の処置を施され、このため性腺機能が廃絶されるので、男性ホルモンの分泌が止まり、その結果声帯が発達せず、変声期を迎えることがなくなるという・・・

だからその声は子供のときのソプラノやアルトのまま保たれるんですね


あと、人工的なアンドロギュヌスといえば、ローマ皇帝ヘリオガバルスが有名だ

2世紀頃のローマ皇帝ですね。たしかとんでもないデカダン皇帝だったとか・・・(・・;

頽廃期のローマに現われたデカダン少年皇帝だね。ヘリオガバルスが去勢手術を受けた―つまり男性性器を切除したという証言はその信憑性が不確実ながら、アレクサンドリアから医者を招き、最新の外科手術で下腹に女性器を穿たせたことは間違いないという・・・もっとも、この少年皇帝の場合は別に妻もいたとはいえ、アンドロギュヌス願望というより、今風に言えば性同一障害の気味があるね。詳しくはアントナン・アルトーの著書か、それを換骨奪胎した澁澤龍彦のエッセイを読んだらいい



アンドロギュヌスへの憧れって、ひじょうに観念的なものだということは分かるのですが、本質的にはどういった欲求なんでしょうか?

カストラート歌手を主人公として描いたドミニク・フェルナンデスの小説「ポルポリーノ」では、「カストラートに対する嗜好は、人間の根源的な欲求のひとつのあらわれ」であるとされている

やはりプラトンを思わせますね

たとえば結婚願望が強いひと(最近は男の方に多いようだけど)は、男性性または女性性という単一性に固執するタイプだよね。これに対して、複数の性(の融合?)への憧れをもつひとがいる、これがアンドロギュヌス願望者だね。いいかえれば、より理想の異性を獲得したいという欲望と、より理想的な自己を実現したいという欲望の違いかな

前者は、いわゆるエロティシズムということとはまったく無縁の存在と思えますね

そうだろう(笑)ジョルジュ・バタイユが「エロティシズムとは失われた連続性への郷愁である」と定義した、この「失われた連続性」というのは原初の男女の統一性であり、それへの郷愁というのはアンドロギュヌス憧憬と同質のものだからね。

アンドロギュヌス願望者は支配・被支配、あるいは求める者と与える者といった図式のなかにおさまることができない精神の貴族なんだよ

それぞれの欲求に優劣があるとも思いませんけれど・・・でも、性差別なんて、決まって前者が引き起こすものですね

まあ、「精神の貴族」と言っても、べつに褒めたり讃えたりしているわけじゃないんだよ(^^ )

ミルチャ・エリアーデはアンドロギュヌスという性の普遍化された存在が、神々と交流する能力を持つシャーマンのなかに伝承されていると主張したけど、これは日本でも、神事を司る、たとえば巫女なんかが性差を超えた存在であるのと似ているね

そういえば、「古事記」でも須佐之男命(すさのおのみこと)と対決する際の天照大神は男装しますね

倭建(やまとたける)も熊曾征伐に臨んで女装しているよね。これは異装によって両性具有となり、聖性を高めようという意図だろう



そこで文学をはじめとする芸術作品におけるアンドロギュヌスおよびアンドロギュヌス憧憬を俯瞰すると・・・男装・女装も含めれば、日本には「とりかへばや物語」があるね

権大納言で大将を兼ねていた有力な貴族が二人の妻によってそれぞれ男の子と女の子を持つ・・・この兄妹のうち兄の方が女として育てられ尚侍として宮中に出仕し、妹の方が男として育てられ、元服して官吏となり右大臣の娘と結婚するという、おそろしく暗い宿命を背負った登場人物たちの奇怪な人生が、感傷的かつ暴露的に描かれたデカダンの色合いの濃いストーリーでしたね

あと、男装といえばゴーチエの「モーパン嬢」も前にちょっとだけ話したよね

こちらは貴族の孤児である娘が、結婚する前に男性の正体を知ろうと思いたって、剣と乗馬を習い、男装して遍歴の旅に出るという、恋と涙と冒険の物語でしたね(^^*

「オーランドー」は20世紀文学、「セラフィタ」は19世紀初頭(1834)だけど、ヨーロッパで両性具有のテーマが、文学や絵画の分野でもっとも好んで取りあげられたのは、なんといっても19世紀末だろうね。レミ・ド・グールモンとかジョゼファン・ペラダンの小説、それにロートレアモンの「マルドロールの歌」、絵画ならギュスターヴ・モローとか・・・。

さらに、19世紀末にはこのアンドロギュヌス趣味が(ちゃんと)男装・女装としてもあらわれている。若い頃から50歳を過ぎてもなお、男(青年)役を演じたサラ・ベルナールなんかはその代表だな


さきほどお話に出ました、神を司る巫者が性差を超えた存在であり、この巫者の系譜が後の各種の芸能につながるものと言われていますから、サラ・ベルナールなどは俳優(女優)としては先祖帰りのような存在かもしれませんね

なるほどね、そう考えると芸能における異装なんて、改めてとくに指摘するようなものでもないのかもしれないね

あと、さきほどHoffmannさんが「精神の貴族」とおっしゃったときに思い浮かべたのがポオの「アッシャー家の崩壊」なんですが・・・

ああ、以前話したときに、優美が「双子の愛と合一って、もっとも純粋にして完璧な愛のかたちかもしれませんよ」と言っていたっけね。文学に描かれた近親相姦っていうのも、アンドロギュヌス憧憬という面から読み解くことができるかもしれないね

ローベルト・ムジールの「特性のない男」とか・・・

ウルリヒとアガーテの兄妹だね。「君が何であるか、いま判ったよ。君はぼくの自己愛なのだ!」と・・・





リリアーナ・カヴァーニ監督の映画に「善悪の彼岸」(1977)というのがある

ロシア生まれの女流哲学者ルー・サロメと哲学者フリードリヒ・ニーチェ、さらに彼の弟子格であったパウル・レーとの愛と思想の妄執を描いた映画でしたね

うん。そのなかで、降霊会の場面なんだけどね、死んだパウル・レーの亡霊を呼び出すと、彼は「ぼくは女になりたかったんだ」と言って笑いだす・・・つられてルーも笑うというシーンがあった・・・

・・・(・・;

はじめて観たときは、こんな冗談なんだか本気なんだか分からない、意味深といえば意味深な場面(と台詞)を唐突に入れるあたり、いかにもリリアーナ・カヴァーニらしいなと思ったんだけど・・・

“AL DI LA DEL BENE E DEL MALE”(1977)

そういえば、ラクタンティウスの言う「創造主は両性具有である」って・・・なにかで読んだ記憶がありますね

20世紀初頭に活躍したオーストリアの画家、アルフレート・クービンが生涯にただひとつ書いた小説「対極」だよ。この小説の末尾の一行だよ

造物主は半陰陽だ。







参考文献
「オーランドー」ヴァージニア・ウルフ 杉山洋子訳 国書刊行会
「セラフィタ」オノレ・ド・バルザック 蛯原徳男訳 角川文庫

「ポルポリーノ」ドミニク・フェルナンデス 三輪秀彦訳 早川書房
「エリアーデ著作集 第六巻 悪魔と両性具有」宮治昭訳 せりか書房
「ヘリオガバルス」アントナン・アルトー 多田智満子訳 白水社
「異端の肖像」澁澤龍彦 河出文庫

「対極」アルフレート・クービン 野村太郎訳 法政大学出版局
“Die andere Seite” Alfred Kubin Ellermann Verlag Muenchen

ほか