#34 音楽を読む


今回、長いけれどdialogueに分けてません。

Hoffmannさんは音楽がお好きなのに、音楽雑誌などは読まないのですね?

たまには見るよ、広告だけ・・・(^^;)



いまどきそんなひとはあんまりいないと思うけど、たとえばヨハン・シュトラウス(U世)のウィンナ・ワルツといえば、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が本場物でいちばんいい、ほかのは駄目、なんていう意見がごくあたりまえのように信じられていた時代がある

シベリウスならフィンランドの指揮者、ラヴェルならフランスのオーケストラ、というわけですね

これ、使っている楽器や、奏法のこともあって、完全に否定することもできないかもしれないけれど、あまりにも短絡思考だよね

とくに現代では楽器も、団員の国籍も、さらに教育を受けた国や先生のことも考えると、世界的に平均化して、ローカル色はどんどん失われつつあるのではないですか?

ああ、それは音楽に限らず言えることだね



だいたい日本ではウィーンと名が付けば客が入るという傾向があって、日本在住の「外国人」の演奏家を適当に集めて「ウィーン○○合奏団」とか、「ウィーン××アンサンブル」なんていう名前にして、つまりその演奏会のための臨時の団体をでっち上げて客寄せする、なんていうことは結構最近までよく行われていたらしい

詐欺じゃないですか〜(・o・);;

まあ、近頃ではさすがにそこまでの権威主義も薄れてきたようではあるし、聴き手の側もそう簡単にはだまされなくなっているけどね。
でも、学生のとき、学校で今日は演奏会に行くと言って、それが日本のオーケストラだったとき、ひどく莫迦にされたことがある。ドイツをはじめ、ヨーロッパから来日した演奏家だって、ひどい演奏をする場合もあるし、日本人だから駄目ということもないのにね



いわゆる、評論家と呼ばれるひとたちの影響なんでしょうか?

評論家ってじつにいいかげんなんだよ。かつて大御所的存在だったある評論家が、新聞紙上である演奏家のリサイタルを酷評した。そこではある作品の演奏がいかにひどいものであったかが書かれていたんだけど、じつはその曲、その日のリサイタルでは演奏されなかったんだ。プログラムには載っていたんだけど、当日変更されていたんだね。つまりその評論家は聴きに行かずに批評を書いていたってわけだ

あらあら・・・(^^;)

このひとはその後、批評を依頼された音楽会があると、当日会場に電話して、プログラムに変更がないか、必ず確認するようになったということだ

・・・懲りないひとだったんですね(-_-;)

この評論家に酷評されて消えていった演奏家や作曲家だっているんだから、とんでもないことだよ



一般的に、ちょっと昔だと評論家って、左翼系のひとが多かったから、ソ連(当時)のオーケストラが来日すると絶賛して、アメリカのオーケストラは酷評する、っていう傾向が強かった。
ついでに言うと、アメリカの評論家はヨーロッパで成功したアメリカ人ならほめる。イギリスの評論家はイギリス人の演奏家をひいきする。フランスもおおむね同傾向。フランス人の書いた音楽史の本を読むと、モーツァルト、ベートーヴェンよりもフランスの作曲家の方にはるかにページを割いている。

それに日本って、昔からドイツ偏重の傾向が強くてね。
以前、韓国出身の女流ヴァイオリニストのことを、国営放送局のオーケストラの理事が「神聖なドイツ音楽をニンニク臭くするような演奏家とはウチのオーケストラは共演しない」なんて発言をしたんだよ

ドイツ音楽が神聖かどうかはともかく、日本人はぬかみそ臭くしないんですか? (-。-)/

我々日本人とドイツ人は特別だっていう発想だね。
まあ、こういう独善的なひとは結構多い。たとえば、「バッハを理解するのに信仰は必要か?」なんて疑問を呈するひとは、どっちにしろ自分はバッハを理解しているんだ、っていう前提に立っているし、「ブルックナーは自然を愛するひとにしかわからない」というひとは自分はわかってる、と言いたいわけだよ

とくにその「ブルックナー云々」は、「自分はわかる、わからないやつは・・・」という、ちょっと鼻持ちならないエリート意識を感じますね

ある種のスノビズムだよね、自尊心をくすぐるところがある。だから、評論家のそんなところにばかり影響されちゃうひとが多いんだよ

近頃は、みなさんそれぞれが評論家になっちゃったんですね(^^;)



結局のところ、ウィーンと名のつくものの権威にしても、評論家の権威にしても、じっさいの演奏がどんなものであるか、ということとはまるで関係ないんじゃないですか(-。-);;

たとえば、このレコード・・・(・_・)/◎

ドヴォルザークの交響曲ですね(・_・)

うん。アメリカのオーケストラと日本人の指揮者による1975年の録音で、これは日本での初出盤なんだけど、ジャケットの解説を読むと、高名な評論家が大絶賛だ。でもね・・・ちょっと第3楽章を聴いてみよう

〜♪

ara(・_・)?

・・・ね?

・・・いまのところ、ティンパニが落ちてますね

そう、はっきりわかるよね。いくらなんでも指揮者もオーケストラも気づかなかったわけはない。これ、テープ編集時のミスだと思うんだ。本来使うはずだったテープと部分的に入れ替わってしまったんだね。ところが解説者はこのことにまったくふれていない、どころか、この当時の雑誌の批評でも、この点について書いているひとは誰もいなかったみたいだね

と、いうことは・・・(^^;)

解説者も、批評家も、聴かずに書いていた、ってことさ・・・

・・・よくわかりました(^^;)

・・・だから読まない(^^)



それでは、なにか音楽書でいいものはありませんか?

作曲家の伝記や研究書はあるけど・・・それより音楽が扱われている小説なんてどう?

有名なSF小説の古典、アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」では、地球上で最後の人類となった男が電子ピアノでバッハを奏きつづける。
久生十蘭の「だいこん」では、終戦の翌日、主人公の女の子(だいこん)の家に、いつも水をもらいに来ていた神学生のような若い兵隊が挨拶に来て、ピアノを奏かせてくださいと言い、バッハやラヴェルを演奏する。そのあとに、「ファリャの〈火の鳥〉」なんて書いてあるのは・・・まあ目をつぶろう(笑)

「だいこん」は読みましたよ。おしまいの方で、主人公の女の子がバッハを奏く場面もありましたよね(^^)

ああ(笑)あの場面・・・第一主題が自分で、第二主題が求婚者、そこに第三主題が割り込んできて、しまいにはわけがわからなくなってしまうっていう、あれはおもしろいね。はっきり言って、久生十蘭がどんな音楽だかよくわからないまま書いているみたいなんだけど、これはこれでほほえましい(^^)

音楽に着想を得た小説というのはないんですか?

あるよ。ドビュッシーの「西風の見たもの」からヒントを得たという、五味康祐の芥川賞受賞作「喪神」。べつに小説のなかで音楽が扱われるわけではないけれど、これはいいよ。剣の道を極め、襲われても自分でも気がつかないうちに相手を倒してしまうほど強くなってしまった男は、自殺をしようとしても、その瞬間無意識に剣を放り出してしまい、そのことにすら気がつかない。この男が死ぬためには、自分よりも強い相手を育てなければならない・・・というプロットだ。
五味康祐は音楽・オーディオ関係のエッセイも有名だけど、さすがにいま読むと、いかにもな文学青年の嫋々たる嘆き節が鼻につく。それでもこのひとは身銭を切ってレコードを買って、それを熱心に聴いたんだからね



それから、研究書でもなく、評論家が書いたものでもないんだけど、植村攻というひとの「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」(東京創元社)という本がある。このひとは銀行員として1953年から959年まで海外で仕事をしていて、その間、400回以上のコンサートやオペラに接していて、その想い出を綴ったものだ。いまでは伝説となってしまった巨匠たちが総出演だよ

それは貴重な記録ですね

音楽会のこともさることながら、それだけじゃなくてね、この本には著者の青春の想い出もあわせて語られているんだ(-_-)

ザルツブルク音楽祭の切符が2枚手に入って、思い切って知り合いのコレットというフランス人の女性を誘ってみる。べつに何事があるわけでもないんだけど、いっしょに音楽を聴く愉しい旅をして彼女と別れた後、ひとりウィーンの丘を歩いていると、とある家の主人が迎え入れてくれる。そして集まってきた村人たちとともに遠来の客人を歓迎し、日本人のために、コレットのために、と乾杯をしてくれる・・・

またバイロイト音楽祭に赴いた際には、最後の演目に宿の娘さんを誘ってみると大喜びしてくれて、彼女のお父さんが心配して様子を見に来る、なんていう場面もある。汽車でバイロイトを発つときには、彼女が駅まで見送りに来てくれて、ホームでいつまでも手を振っていた、その姿が忘れられないと・・・



なんだか切ないような、でも、いい想い出ですね・・・すてきな話ですねo(^ ^)o

つまらない評論なんか読むよりも、ずっといいよ(^^)