006 「エクソシスト」“The Exorcist” (1973年 米) ウィリアム・フリードキン






  ホラー映画の記念碑的作品です。社会現象とも言える世界的な大ヒットとそれに続くブームにより、それまではホラー映画というと、ゲテモノ、B級、といったマイナーなimageを持たれていたところ、大手映画会社がこぞって扱う人気ジャンルとなる、そのきっかけを作った映画です。当時は「オカルト映画」と言われ、そのブームも「オカルト・ブーム」と呼ばれていましたね。不肖この私も、日本公開初日に映画館まで足を運び、行列に並んで観た映画なんですよ。

 周囲では、アメリカでの公開時には失神者が続出したとか、この映画を観たあと、悪魔に取り憑かれたという訴えが急増しているとかいった噂で持ちきりでしたね。ひどいのは、リーガンを演じたリンダ・ブレアが精神病院に入院したとか自殺したとか(もちろん事実無根)・・・あ、そうだ、日本でも試写会ではアイドル歌手の○○が失禁した、なんて話もありましたな(笑)

 「フレンチ・コネクション」で一躍注目された直後の気鋭ウィリアム・フリードキンが監督、原作者であるウィリアム・ピーター・ブラッティによる脚本で、出演はリンダ・ブレア、エレン・バースティン、マックス・フォン・シドー、ジェーソン・ミラー、リー・J・コツブほか。マイク・オールドフィールドによる主題曲「チューブラー・ベルズ」もたいへん効果的です。

 その後シリーズ化されて、「エクソシスト2」”Exorcist II”(1977年 米)は4年後を描き、「エクソシスト3」”Exorcist III”(1990年 米)は17年後を描いて、「エクソシスト ビギニング」”The Exorcist:The Beginning”(2004年 米)は逆に25年前を描き、これには監督違いの”Dominion:Prequel to the Exorcist”(2005年 米)もあります・・・が、やはり第一作の衝撃を望むのは無理筋。公開当時に観た人ならばなおさら、強烈な印象はもはや塗り替えることも難しく、初作の突出した地位は揺るぎません。2000年には公開25周年を記念して、公開時にラッシュ版からカットされた15分ほどのシーンを追加した”The Exorcist:Extended Director's Cut”も公開されて、リーガンがブリッジ姿勢で階段を降りてくるシーンなどが復活して、話題を呼びましたね。

 今回オリジナル劇場公開版とディレクターズ・カット版の両方をいずれも複数回観ました。あらためて観てみると、ショックシーンといっても近頃の映画によくあるような、突然なにかが画面に現れたり、音で驚かしたりするようなものではなく、惻々と恐怖感をあおり立ててゆくのが持ち味です。



 一応、storyを追っておきましょうか―

 冒頭は、イラク北部で古代遺跡の発掘現場。調査に参加していたランカスター・メリン神父は、悪霊パズズの像を発見して、この邪悪な宿敵と再び対峙する日が近いという予感にとらわれる。

 場面は変わってワシントンD.C.、女優のクリス・マクニールは体制側と対峙する若者を描く学園映画撮影のためにワシントン近郊のジョージタウンに家を借り、一人娘のリーガンと暮らしている。クリスは夫、すなわちリーガンの父親と別居しており、その父親はリーガンの誕生日にも電話もしてこない。リーガンはウィジャボードで「ハウディ船長」なる架空の人物と対話して遊んでいる。

 同じくジョージタウンに住むデミアン・カラス神父はギリシア移民。時おりニューヨークの貧民街のアパートに住む母親のもとを訪れている。母親は小さなアパートで一日じゅうラジオを聴いて孤独に過ごしている。精神科医でもあるカラス神父は、母の世話もできないことから、神父の仕事にやり甲斐を見出せず、信仰すら失いかけている。やがて母は体調が悪化して入院するが、「どうしてこんなところに」と嘆きつつ母は死亡、カラスは罪悪感にかられて自分を責める。

 クリスの家では屋根裏から原因不明の不気味な音が聞こえるようになり、やがてリーガンの行動に異変が現れる。病院で過酷な検査を受けるが、異常は見つからない。臨床検査でリーガンはカウンセリングに訪れた精神科医に暴力を振い、別人格のような声で罵る。

 クリスの友人(恋人)である映画監督のバーク・デニングズが、マクニール家で留守番中に、家の裏手の階段で転落死する。首が180度ねじ曲げられたデニングズの死に様に疑問を抱いたキンダーマン警部補は、怪死事件と教会の冒涜事件の関連を調べるため、カラスに会う。

 リーガンの治療方法が見つからない病院の医師は、患者が自分は悪魔に取り憑かれていると信じている場合には効果があるかもしれないと、クリスに悪魔祓いを提案する。

 リーガンの異常はますますエスカレートし、十字架で自慰行為をして、止めに入ったクリスを平手打ちしてその顔を股間に押しつけ、首を180度回転させて、デニングズの死を嘲笑する。

 ついにクリスは、カラスに悪魔祓いを依頼する。カラスは何度もクリスの家を訪れてリーガンの異常な姿を目にしつつ、真性の悪魔憑きであるか検証を試みる。ある夜、リーガンの皮膚には”help”の文字が浮かび上がり、カラス神父は大司教に悪魔祓いの儀式を行う許可を求める。儀式の責任者には悪魔祓いの経験のあるメリン神父が選ばれる。

 霧の立ちこめる夜、クリス宅を訪れたメリン神父とカラス神父は悪魔祓い儀式に臨む。二人の神父による悪魔祓いの儀式が続く。悪魔も神父たちの動揺を誘い、抵抗する。カラス神父は母の死に対する罪悪感を突かれて、メリン神父に外へ出るよう促される。しかし、メリンは持病の心臓病の発作を起こして急死。残されたカラスは、リーガンを殴りつけ、悪魔を自分の身体に乗り移らせた上で窓から飛び降り、自らの命と引き換えに悪魔をリーガンから引き離す・・・。




 ・・・と、もうみなさんご存知のとおりです。

 いやあ、この映画のテーマはたいへんわかりやすくて、もうあまり語ることもないんですよ。

 すでに語り尽くされたとは思うんですが、これはアメリカにありがちな家庭を描いた映画なんですね。リーガンの家庭は母子家庭。母親は女優で仕事に忙しく、あまり娘にかまってやれない。離れて暮らしている父親は誕生日に会いに来てくれるのではないかという娘の期待にこたえてくれないばかりか、電話すらかけてきてくれず、母親が電話してもつかまらない有様で、リーガンは寂しい思いをしている。そんな家庭で、次の父親候補であった男(母親の現在の恋人である映画監督バーク)はパーティで泥酔したうえ醜態をさらして父親失格とされ、娘(悪魔が憑依したリーガン)に、窓から放り出されて殺される。一方のカラス神父は年老いて痴呆の進んだ母親を病院に入院させたまま孤独死させてしまったことから罪悪感にさいなまれ、もはや信仰も失いかけている。
 すなわちここでは、自分は神父(father)として失格なのではないかと悩む男が、父親(father)不在の家庭を訪れ、ふたたび”father”たろうとする闘いを、悪魔祓いとして描いているのです。

 はい、おしまい。


 

 ・・・ではあんまりなので、もう少し考えてみましょう。

  これもよくある映画の見方なんですが、リーガンという思春期を迎えた少女の通過儀礼として見ることもできそうです。通過儀礼? それにしてはかなり過激だなあと思われるかもしれませんが、思春期の少女がですよ、母親の仕事の都合で友達もいない土地に移り住み、その母親は仕事で忙しくて、昼間は家で家庭教師で母のアシスタントでもあるシャロンという女性と二人きり。父親は別居していて、自分のことを気にもかけてくれない。家庭がすっかり崩壊してしまっているんです。


 

 女優である母親が、映画監督バークのもと、体制側と対峙する若者を描く学園映画撮影に臨み、威勢よく演説をしているシーンがありますよね。でもすべては母クリスという人格とは無関係な演技です。撮影が終わればバークと軽口をたたいている。映画雑誌ではクリスとリーガンの親娘がにこやかに微笑んでいる写真が表紙を飾っていますが、この母親は子供を巻き込んだ家族の崩壊に無自覚なところがあります。リーガンはウィジャボードで架空の人格「ハウディ船長」と会話して一人で遊んでいますが、いずれグレて、アルコールやセックス、ドラッグに明け暮れるような未来があってもおかしくないんです。

 だから、憑依されたリーガンは母親を平手打ちにして罵るのです。アルコールやセックス、ドラッグというのは妙に俗っぽく、話が大げさに聞こえますか? じっさい、さんざん(緑色の)反吐を吐いていますよねと言ったらこじつけに過ぎるでしょうか? 憑依したリーガンの猥褻語の連発や、十字架による自慰行為をごらんになったでしょう。麻薬については、憑依された後の、あたかも麻薬中毒末期患者のような顔貌を見てください。

 また、診察した医者のことばを振り返ってみてください。曰く「前思春期に起きる典型的症状」「娘さんは抑鬱の過剰反応です」「ご主人との別居が影響してるかも」と―。この医者は案外とよくわかっているんです。しかしクリスの返事は「精神科医のほうが?」というもので、思い当たる節がある様子でもなく、おそらく自分は日頃リーガンを気にかけている、そこに問題はないはずだ、とでも思っているのでしょう。




 そのような、かなりイレギュラーな状況での通過儀礼になりますが、”help”という内面の助けを求める声に気づいてくれたのがカラス神父(father)です。fatherが救いの手を差し伸べるのです。ちなみに、神父=聖職者であることはなんの力にもなりません。悪魔祓いを勧める前に、医者はクリスに尋ねています。「信仰はありますか? 娘さんは?」これに対して、クリスはいいえとこたえる。おまけに教会のマリア像は毀損されています。教会も崩壊している(ちなみにこのマリア像の胸や股間に付けられた突起は、リーガンが創った鳥の人形のクチバシとそっくりですね)。なので、カラスが神父であろうとなかろうと、リーガンの父親になれるかどうかは本人次第。



 カラス神父に父親たる資格があるのかどうか、試練が与えられます(バークの場合はパーティでの醜態で失格なので、窓から突き落とされたのです)。カラス神父への試練は母親を孤独死させたことの罪悪感を突いてくるものです。リーガンは母親の声色を使うなどして、カラス神父に揺さぶりをかけてきます。ことにカラス神父を動揺させたのは、悪魔祓いの中断後、部屋に入ったとき、ベッド見える母親の姿です。リーガンは父親にかまってもらえない不満を持っていましたが、カラス神父の母親は息子からかまってもらえない(世話をしてもらえない)不満を持っていたのです。寄る辺なき孤独な魂。



 カラス神父は母に対する罪悪感から、ひどく苦しみます。しかし、どうでしょうか? もしもここに至ってカラス神父が平然としていられたなら、彼もまた父親として失格の烙印を押されたのではないかと思います。その証拠に、「聞くな」「悪魔の言うことに耳を貸すな」と言っていたメリン神父は心臓発作を起こして死んでしまいます。

 

 メリン神父に促されて部屋から出ていたカラス神父は、クリスから「娘は死ぬの?」と訊かれて、はっとして、決然と、「いいえ」とこたえます。fatherになろう、fatherであろう、という決意です。ここはなかなか感動的な場面ですね。部屋に戻るとメリン神父は絶命している。その後は、あらすじの説明どおりで、カラス神父はリーガンを殴りつけ、悪魔を自分の身体に乗り移らせたうえで窓から飛び降りるのですが、その瞬間、窓にカラス神父の母親の顔が浮かびあがります。



 生前とはかなり異なる、穏やかな表情です。これは、カラス神父が許されたということではないでしょうか。その証拠に、ダイアー神父がこの親友の最期の告解を聞き、階段を転げ落ちて虫の息のカラス神父はその手を握り返すのです。

 では、なぜカラス神父は死ななければならなかったのか? これはリーガンの通過儀礼ですから、fatherの手助けはかまわないとしても、それでリーガンが父親に依存してしまってはいけない、なにがなんでも自立しなければならないのです。従って、儀式が完了したときそこに父親がいてはいけない、だから役目を終えたカラス神父は死ななければならなかったのです。

 もう一点、確認しておきましょう。これをリーガンの通過儀礼と言って、それでは憑依の前と後とで、リーガンはどのような成長を遂げたのか? ここでは、ただでさえ不安定な思春期を、家庭環境によっていっそう歪められたかたちで迎えていたこと自体が、悪魔の憑依現象として表象化されていたわけですから、これを乗り越えること自体がリーガンの成長だったのです。もちろん、後日、母親とともに家を出て新しい家に引っ越してゆくのは、通過儀礼が完了して新たな世界へ旅立つということ。




 いかがでしょうか?

 あとは、いくつか印象深いシーンなど取り上げてコメントを付けておきます。




 首が360度回ると言う人と、いやいや180度回るんだよと言う人がいますが、どちらも正解。この場面では180度ですが、悪魔祓いのシーンでは360度回ります。個人的には、二度もやらない方がよかったんじゃないかなと思います。

 

 ”Extended Director's Cut”版で復活したシーンは主に3ヶ所。左はリーガンのスパイダー・ウォーク、右は儀式の合間のメリン神父とカラス神父の会話。あとは、エンディングのダイアー神父がキンダーマン警部補と行き合わせて映画に誘われるシーン。個人的には、なるほど不要だな、と感じる蛇足だと思います。スパイダー・ウォークは前後とつながらない。しかも、憑依後、リーガンが自ら部屋を出てくるのはこのシーンだけなので、なおさら。儀式の合間の説明調の会話はまったくの蛇足。こんな説明は不要。エンディングのダイアー神父とキンダーマン警部補の会話はこの映画の世界には馴染まない。まるで別の映画から持ってきたシーンのように、ここだけが異質になります。

 
 

 ところどころでほんの数コマ現れる悪魔の顔。ちょっと回数多過ぎで、後半では「またか」と感じてしまいます。

 

 カラス神父は母親の孤独死の後、母親の夢を見ます。そこでは、地下鉄の出口から出てきた母親がなにか言っているのに、カラス神父には聞こえず、手を振るのですが、母親はまた階段を降りていってしまう・・・。たいへん印象的なシーンです。じつはこの場面で、上右の悪魔の顔が一瞬映ります。この夢は悪魔が見せている、ということかもしれません。

 というのは、夢のなかで母親が地下鉄への階段を降りてゆくのは、映画の初めの方で、地下鉄ホームで浮浪者がカラス神父に声をかけるシーンと関連していると思われるからです。「神父さん、年取った信者を助けろ。カトリックだ」と声をかける浮浪者を、カラス神父は無視してしまったのです。憑依されたリーガンは、カラスと初めて会ったとき、この浮浪者のことばを口にして、カラスの信仰心を攻撃しています。




 さらに深読みすれば、カラス神父の母親は生前脚を痛めていたんですね。それも階段を踏み外したためです。この夢の場面では包帯も取れているようで、母親がすでにこの世の人ではないことを示している・・・ばかりか、ひょっとすると、母親は、いずれカラス神父もまた階段を転落して命を落とすことを知らせようとしていたのではないか、そのことを伝えようとしていたのではないか、という気がします。



(おまけ)

 

 左は「エクソシスト2」”Exorcist II”(1977年 米)、右は「エクソシスト3」”The Exorcist III”(1999年 米)から―。

 「エクソシスト2」はジョン・ブアマン監督、「エクソシスト3」はウィリアム・ピーター・ブラッティが製作・原作・脚本に加えて監督も兼ねています。

 初作の衝撃は言うに及ばず、20世紀映画史に残る、後世に与えた影響も大なる記念碑的作品と比べるのがそもそも酷だと思いますが、第2作、第3作ともにあまり評判がよろしくない。「2」はショッキングなシーンもなく、善と悪の戦いを寓意的に描いたもので、その意味では宗教色が濃い。だから「観たけどよくわからん」と言うひともいるし、少数ながら初作よりいいと言うひともいます。「3」は犯罪サスペンス風味で、storyはオリジナルの続篇とも言うべきもの。ただ、20年以上も経ってから続きを作ろうということにそもそも無理があるわけで、これも賛否両論、否の方が多い。

 それでも、「2」で悪魔をイナゴの大群(のimage、と言うべきか?)に擬するのはユニークなアイデア。「3」は特殊メイクとか特殊撮影にばかり頼らないのはいいんですが、1990年ともなると、特殊撮影で怖がらせるというのは難しくなっていて、たとえば、病院の天井のおばあさんなんてむしろ滑稽に見えるし、ラスト近くの割れた床から現れる地獄なんて、目をみはらせるとしても、恐れおののかせる映像にはなりません。


 

 左は「エクソシスト ビギニング」”The Exorcist:The Beginning”(2004年 米)、レニー・ハーリン監督、右は”Dominion:Prequel to the Exorcist”(2005年 米)、ポール・シュレイダー監督。当初制作されたのは後者でしたが、どうも地味だというので、監督を交代させてハーリン監督で撮り直したもの。ところが批評家の受けが悪く、翌年になってお蔵入りしていたシュレイダー監督作品を”Dominion”として公開したという経緯があります。

 いずれにしろ地味。”Dominion”は妙に高踏的なところも。完成度はたしかに”The Beginning”の方が上かな。クライマックスで悪魔祓いの儀式が描かれるのもひさしぶりなんですが、もはやそれ自体でドラマを盛り上げることが可能な時代ではありません。ラスト近くは「八つ墓村」(1977年)を連想させます。地味になりすぎないようにアクション場面を入れたかったのでしょう。

 若き日のメリン神父が、戦時中の体験で失っていた信仰を取り戻すというのがドラマの軸でもあるんですが・・・4,000人を超えるカトリック聖職者が恒常的に万単位の少年少女に性的虐待を行ってきて、これをカトリック教会が隠蔽し続けていたというスキャンダルが明らかになったのは2002年のこと、その直後ですからね。信仰に疑問を持つ神父のドラマを制作するというのは、この時点では必然だったかもしれません。しかしながら、神父がことさらに深刻ぶって悩んでいる場合じゃない、信者の方こそ信仰を失って当然な状況じゃないですか。戦時中、バチカンはユダヤ人を助けるために指一本動かしてはいない。そうしたことへの自己反省がないままに、悪いことはなんでもかんでもナチスのせいにしておけばそれですむと思っているんでしょうか。だからカトリックは「腐敗」するんですよ。

 

 時代を戻して、「エクソシスト」の大ヒット後、数多制作された「パチもの」というか「バッタもん」というか・・・左は「デアボリカ」”Diabolica”(1973年 伊)。正確に言うと、これは「エクソシスト」と「ローズマリーの赤ちゃん」をミックスしてかき混ぜ、ついでに支離滅裂にした駄作です。
 首は回転するわ、緑色の反吐は吐くわ、空中に浮かぶわ、さらに妊娠して生んだ赤ん坊は・・・というわけで、ご丁寧にひととおりやっておりますなあ。制作者は本家「エクソシスト」の13歳の女の子に対抗して、こちらは大人の色気だ、と言っていたとかいないとか・・・なにしろこのメイクですから、色気もなにもあったものではありません(笑)

 右は「レディ・イポリタの恋人 夢魔」”L'Anticristo”(1974年 伊)。ただし模倣作とはいえ、これは「デアボリカ」よりもよほどまともな佳作。監督はアルベルト・デ・マルティーノ、出演者もメル・ファーラー、アリダ・ヴァリ、ウンベルト・オルシーニほか。演技派が脇を固めています。
 悪魔憑きらしい台詞を吐きますが、400年前に火あぶりにされた先祖の霊にとりつかれているという設定らしく、やや場当たりの感なきにしもあらず。悪魔祓いの儀式もあっさりめ。空中浮揚は昔ながらの合成なんですが、それでも充分。ちゃんとドラマになっています。
 このイポリタという女性は、幼くして父親の運転する車で事故に遭い、母を亡くしたうえに自らは脚の自由を失って車椅子の生活を余儀なくされており、この憑依現象は彼女の抑圧されたリビドーの発露とも見ることもできて、ドラマとしての奥行きもありますね(ちょっとホメすぎ?)。


(Hoffmann)

(追記)
 同年公開の「ヘルハウス」も続けてupしました。(こちら



参考文献

「バトル・オブ・エクソシスト 悪夢の25年間」 マーク・カーモード 上岡雅史訳 河出書房新社
 ※ 主に撮影の裏話、当初カットされて2000年に復活したシーンの解説などが語られています。

「バチカン・エクソシスト」 トレイシー・ウイルキンソン 矢口誠訳 文藝春秋
「エクソシストとの対話」 島村菜津 小学館
「映画で読み解く『都市伝説』」(映画秘宝COLLCTION) ASIOS 洋泉社