026 「顔のない眼」 ”Les yeux sans visage” (1959年 仏・伊) ジョルジュ・フランジュ




 ジョルジュ・フランジュ Georges Franju の名作、「顔のない眼」”Les yeux sans visage”(1959年 仏・伊)です。


ジョルジュ・フランジュ、その名は有名ですが、我が国で公開されたのは本作が唯一? だから「カルト映画」なんて言われてしまうんですが、一定の評価を得ている名画なんですよ。

 あらすじは―

 高名な医師、ジェヌシエ博士の娘クリスチアヌは、交通事故で顔全面に火傷を負い、いまは森に囲まれた郊外の屋敷で仮面を着け、人目を避けて、父親と父の助手の女性ルイズとともに暮らしている。父のジェヌシエ博士はクリスチアヌの顔を元通りにするために、誘拐してきた若い女性の顔の皮膚を切り取って移植する。クリスチアヌは死んだことにされて、クリスチアヌはかつての恋人に無言電話をして声を聞いている。

 クリスチアヌは、一度は美しい顔を取り戻したが、移植した皮膚はやがて壊死を起こして除去せざるを得なくなる。一方、顔の皮膚をはがされた娘は逃げようとして2階の窓から飛び降り、死んでしまう。

 クリスチアヌは恋人に電話をして、ついに彼の名を呼びかけてしまう。一方、警察は女性の行方不明事件を受け、ポーレットという娘を使っておとり捜査に乗り出す。ある夜、ポーレットはジェヌシエ博士に捕らえられ、手術室に運び込まれる。しかしクリスチアヌは、ルイズを刺殺してポーレットを逃がし、犬の檻を開け放つ。博士は外に出た猛犬たちに噛み殺される。クリスチアヌは仮面を着けたまま、夜の森へと歩み去る。


医師ジェヌシエにピエール・ブラッスール、助手ルイズにアリダ・ヴァリ。おそらくダリオ・アルジェントはこの映画を観て、アリダ・ヴァリを「サスペリア」”Suspiria”(1977年 伊)のミス・タナー役に起用したのでしょう。

 原作は、映画のシナリオライターであったジャン・ルドンによる小説。監督として起用されたジョルジュ・フランジュとクロード・ソーテが脚本執筆に取りかかったが、監督のフランジュが企画に乗り気ではないため遅々として進まず。そこでプロデューサーは人気の推理小説家コンビ、ピエール・ボワローとトーマス・ナルスジャックに脚本への参加を依頼しました。彼らは当初予定されていた通俗怪奇映画路線から、クリスチアヌを軸にした抒情的な恐怖映画へ方向転換、これがよかったんですな。フランジュ監督もボワロー=ナルスジャックによって脚色された台本を読んで俄然ヤル気になったらしい。

 なお、この原作小説は19世紀末頃にフランスで流行した、グラン・ギニョルという見世物小屋的残酷劇の要素を多分に含んでいるわけですが、じっさいにパリのグラン・ギニョル劇場において演劇化され、1962年に閉鎖された同劇場の最後の年を飾る上演作品となったそうです。それぞれ脚色は異なれど、グラン・ギニョルとしては最終期、しかし映画としては、医療もの恐怖映画の草分けとなったわけです。

 
感動的な場面です。

 いや、原作ではグラン・ギニョルの素材となる、顔の皮膚を移植する手術などの、グロテスクでショッキングなシーンが見せ場であったのかもしれませんが、ボワロー=ナルスジャックの脚色によって、この映画の見どころは、クリスチアヌを演ずるエディット・スコプの、仮面越しに眼だけで演じてみせる可憐さや悲しみの深さとなったのです。

 
犬と鳥を解放します。

 クリスチアヌが解放した犬がジェヌシエ医師を噛み殺し、鳥(鳩?)の舞うなか、暗い森の中へと去って行くクリスチアヌ・・・犬は冥界に通じ、鳥は魂の飛翔でしょう。


森の闇の中へ・・・。

 グラン=ギニョル ”Grand Guignol” について

 パリはモンマルトル丘のふもと、シャプタル通りの路地の奥に、19世紀末から20世紀半ばまで存在した大衆芝居・見世物小屋で、グラン・ギニョル劇場 ”Le Theatre du Grand-Guignol” という、大衆芝居、見世物小屋がありました。そこで演じられていたのは「血なまぐさい」、あるいは「猟奇的な」「残酷な」「こけおどしめいた」芝居。転じて、グラン=ギニョルということばは、そうした芝居のこともさすようになりました。もともとこの劇場が礼拝堂を改装して作られた、というのもできすぎた話ですが、身の毛もよだつようなスリルを求めて詰めかけた観客の中には、あまりの恐怖に気絶する人もしばしば、介抱のために専属の医者が雇われたなどという噂もあったそうです。ちなみに我が国では大正時代からその作品が紹介されているモーリス・ルヴェルもグラン=ギニョル劇を書いており、「グラン=ギニョル傑作選」(水声社)で「闇の中の接吻」という作品を読むことができます。

 血なまぐさいこけおどし・・・などと言うと、現代のスプラッター映画などを連想しますか? よく、その起源をグラン=ギニョルに求める人がいるんですが、シェイクスピアや16世紀あたりのイタリア悲劇をお忘れなく・・・どころか、キリストの受難劇、ディオニュソス祭の流血や残酷趣味など、聖なる畏怖は古くから人類の歴史に刻まれているのですよ。我が国にだって、類似のものはありました。怪談芝居など、そのいい例です。時期的に、もとは概ね15世紀頃、田楽と猿楽の伝統から発したものと見ていいでしょう。

 グラン=ギニョルの舞台では、凶悪犯罪や猟奇殺人、殺人や拷問の場面では身体切断や血糊などの特殊効果もふんだんに用いられ、具体的で視覚に訴えるという方法で、観客の恐怖と動揺と嫌悪感をかきたてる題材が目白押し。となると、ことばよりも身体に多くを負う劇作となるのは理の当然。「医学演劇」と呼ばれる一連の作品もありました。どちらかというと、精神医学的な恐怖の方が多かったようですが、外科医が登場するものでは、騙された夫が外科医の立場を利用して、妻の愛人に脳手術を施して廃人にする、というものです。この例からもわかるように、正義の仮面をつけた恨みと、その名のもとに行われる復讐劇というジャンルが多かったようですね。懲罰と贖罪、サディズムとマゾヒズムの混淆です。いまも、Youtubeなどで、意地の悪い舅やマウントを取ってくる金持ちの知人に対する逆転劇って、よくあるじゃないですか。こうした古風な伝統は、絶えることなくいまも受け継がれているんですよ(笑)

 そもそも、グラン=ギニョルとは「大きい人形」という意味。ギニョルは18世紀にリヨンで生まれたもので、指人形芝居の主人公の名前で、同時に人形芝居のことも、人形そのもののことも指します。上から糸で操るのはギニョルではありません、あれはマリオネット(英:marionette、仏:marionnette)です。マリオネットは英語でもフランス語でも共通ですが、下から指を入れるのはフランス語のギニョルに対して英語だとパペットpuppet。さらに言うと、ギニョルというのはイタリアのロンバルディア地方のキニョロが語源です。どうやらキニョロからやって来た誰かが出身地で呼ばれてているうちにギニョルになまったのではないかと思われます。ギニョルのもととなる人形芝居はリヨンで始まり、近代演劇の主流である自然主義から派生した演劇として確立されることとなります。その自然主義の写実を過度に押し進め、本来、注目されることない、むしろ目を背けられるような暗黒面を拡大鏡をもって観察するという、意地の悪い自然主義がグラン=ギニョル劇だったのです。そう、じつはグラン=ギニョル劇場の創設者にして初代支配人、オスカール・メテニエが自然主義作家でもあったのです。

 ここで「医学演劇」の成立について補足しておきます。19世紀後半、ジョゼフ・ケアリー・メリック Joseph Carey Merrick 、いわゆるジョン・メリックは、全身が変形・膨張する奇病を患って、「エレファント・マン」として有名になりましたが、後にロンドン病院に収容されてその生涯を終えています。つまり、フリークスが神秘的存在から医学的存在へと変化したのです。ですから、彼の居場所も見世物小屋から病院へと移行することとなった。身体に対する執着の強いグラン=ギニョル劇が、美女を醜い怪物にするなどの身体改造storyを展開させるには、病院を舞台に、あるいは医師を重要な役回りに配するのも当然の成り行きだったのです。


 仮面について

 素顔で語る時、人はもっとも本音から遠ざかるが仮面を与えれば真実を語りだす。(オスカー・ワイルド)

 民俗学や人類学の貢献に頼らずとも、仮面というものが、人間がその踏み越えがたい限界を突破するための道具となることは明らかですよね。限界を突破するということは、日常現実の外に超脱することです。同時に匿名化の方法のひとつでもあります。

 顔面に怪我や火傷の跡があるひとが仮面を装着するということは、そうした怪我や火傷の残した顔貌から逃れ出るということ。それは周囲にいる人々と混じり合っても、見分けられることのない、注目されることもない、匿名化への願いでもあります。

 仮面をつける習慣をヨーロッパに広めたのは、16世紀ヴェネツィアの高級娼婦であるとされています。やがて仮面は一般人の間でも急速に普及して、18世紀のヴェネツィアでは貴族も市民も、男も女も、こぞって白昼に仮面を被って大道を闊歩していたことで知られています。年齢も性別も階級の差もなくしてしまう、だれもが自由と平等を謳歌することができたのです。

 現代の前衛演劇なんかですと、やたら顔面を白塗りにしたり、仮面をつけて、集団を形成している個々の人間の無個性化、均質化、画一化を風刺しているようなものがあります。しかしこれは短絡思考。本来仮面というものはそんな単純なものではありません。仮面は本来、自己韜晦のための手段であり、個々人が自らその人格を解体させる、そのような集団感情を抱くための道具であったのです。

 そう考えると、安部公房の「他人の顔」の主人公はどこで間違ったのか。仮面をつけることでなんらかの行動を取るのも、外界に対していかなる反応をするのも、すべては非日常の、幻覚の世界であると心得ておくべきだったのです。日常に非日常を持ち込むなど愚の骨頂。もしも、仮面のまま日常に戻って、非日常的な自分の密かな望みをかなえようとすれば、自らの人格が「解体」ではなく、「分裂」してしまう(引き裂かれてしまう)のです。

 仮面を装着したまま日常に戻ろうとするならば、オイディプスかマルセル・シュオブの「黄金仮面の王」のように、眼を潰して盲いた者となって、陽気な道化がすすり泣きに似た嘲り声を上げ、暗い顔の司祭が笑い声にも似た哀願のことばを発していることを見抜かなければならないのですよ。

 この映画では、クリスチアヌは死んだことにされて屋敷内に引き籠もっている状態です。日常に戻ることはできないわけです。これを、犠牲者の皮膚を移植するという方法であれ、新たな仮面をつけて日常生活に戻ろうとすれば、悲劇が待ちかまえている。従って、一度は手術に成功したかに見えて、一時の希望の光が見えた後に、最後のcatastropheに至るというstory展開は象徴的です。

 暗い森の中へと歩み去る・・・森というのは世界各地で、開墾された耕作地という「小宇宙」の外側にある世界をあらわすシンボルです。同時に「無意識」の領域でもあります。森の中に歩み入るということは、日常から(犬や鳥と同様に)解放されたということ。この時点で、父親であるジェヌシエ博士や助手ルイズは既に死んでいますから、屋敷は空っぽの抜け殻、これはクリスチアヌが自らの身体性を、ここで脱ぎ捨てているということなのです。


(Hoffmann)





引用文献・参考文献

「グラン=ギニョル 恐怖の劇場」 フランソワーリヴィエール、ガブリエル・ヴィトコップ 梁木靖弘訳 未來社
「グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇」 真野倫平編・訳 水声社