032 「M」 ”M : Eine Stadt sucht einen Moerder” (1931年 独)






 フリッツ・ラング監督のドイツ時代の名作、「M」”M : Eine Stadt sucht einen Moerder”(1931年 独)です。ラングの初のトーキーにして代表作であると同時に、サイコスリラー映画の草分けとしても高く評価されている作品です。また、後のアメリカの犯罪もの映画(フィルム・ノワール)に大きな影響を与えたことでも有名ですね。

 storyを簡単に紹介しておくと―

 1930年代のベルリンで少女ばかりをねらった連続殺人が発生する。警察の必死の捜査にも犯人の手がかりはなく、日々犯罪者組織の取り締まりが厳しくなり、犯罪者たちは自らの生活を守るために独自に殺人犯の捜査に乗り出す。

 なかなか手がかりがつかめないなか、被害者のひとりが誘拐されたときに聞こえた口笛を耳にした盲目の売り子は、その口笛を吹いている男にチョークで「M」(殺人者を意味する”Moerder”の頭文字)のマークを付ける。男は追い詰められた末捕らえられて、殺人犯として犯罪者たちによって裁かれることになる・・・。

 

 フリッツ・ラング監督初のトーキーとあって、つまりこれ以前はサイレント、やはりサイレント時代の名残はあって、「フォーゲルエート城」と同様、場面場面の映像としての出来栄えたるや、現代の映画がほとんど無視してしまっている、言わば絵画的な美的完成度の高いもの。

 現代の映画が無視・・・というのは、現代の映画がstory―物語を紡ぐだけで、映像作品としての審美という映画の一面を、またそれを利用する手段をすっかり忘れてしまっているということ。音楽にたとえれば、横の線―つまりメロディが流れ、前進していくだけ。重層的な響きがつくり出すもの(これは瞬間の意外性)なんかすっかり忘れて関心の外・・・。絵画的に完成されたシーンというのは、瞬間のものですからね。それこそゲーテじゃありませんが、「時よとまれ」と呼びかけたくなる、つまりフィルムの定着させるのにふさわしい映像。

 

 小道具を映したカットによって、カメラの外側で起こっている出来事が目に見えるような気がします。

 

 影の使い方も巧みで、どこをキャプチャしても絵になります。

 

 トーキーを活かした効果、たとえば、しばらく無音の状態が続いて、唐突に・・・なんて、音の使い方も見事なものです。

 そして、なんといってもここではピーター・ローレの異貌、その鬼気迫る怪優ぶりにご注目。

 
 
 

 サイレント時代のおおげさな演技がこの時点ではまだ観られるという人もいるようですが、結構抑制気味ではないでしょうか。たとえば上の6つのカット、ここでの顔の表情は、決しておおげさにつくっている表情ではなくて、殺人犯の狂気を内面からにじませたものになっていると思います。

 私が観た紀伊國屋書店版DVDの110分の修復版の画質はきわめて良好です。

 

 映画の脚本は監督であるラングと、当時彼の妻であった女流作家のテア・フォン・ハルボウが執筆。主人公の殺人犯は、「デュッセルドルフの吸血鬼」と呼ばれたペーター・キュルテンをモデルにしたとも言われていますが、ラング自身は、キュルテンのような実在の殺人鬼たちは映画製作のモチーフにはなったものの、作中に登場する殺人犯のモデルと言えるような存在ではないと否定しています。これは当然でしょう。映画に登場する殺人犯の標的は少女であり、キュルテンと共通することろは特段見当たりません。一方で、作中で犯罪者たちのシンジケートや乞食の組合が登場するあたりは、ベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」からの影響ではないかとしばしば指摘されています。

 ユニークなのは、映画のなかである人物がしゃべっている台詞を、他の場所にいる別の登場人物がそのまま引き継ぐ演出でしょう。具体的には、犯罪者たちの会合と刑事たちの捜査会議が同時進行するところ。初のトーキーでこれをやってのけるというのは驚くべき革新性です。

 そうした演出によって、犯人は一般社会の代表たる警察からも、犯罪者集団からも追われる身であることが強調されるわけですが、警察と犯罪者集団というのはひとつの集団、つまり社会の表と裏でしょう。怪しい人物を犯人と決めつけてリンチにしようと暴徒化する市民とか、形ばかりの裁判を行う犯罪組織の面々は、社会における群集心理による過激な世論そのものをあらわしているものと思われます。なので、この映画は公開2年後に成立するナチス政権を予告していると言われるのですね。もちろん、この映画の制作の時点で、フリッツ・ラングがそこまで考え、見通していたとは思えませんが、じっさいに本作はナチスによって上映禁止になり、ユダヤ人であるフリッツ・ラング監督は亡命を余儀なくされることになったのですから、いろいろと暗示的なものがあると考えずにはいられません。

 いずれにせよ、一般市民は烏合の衆、警察の捜査にも非協力的で、その警察からして市民の共感を呼ぶ存在ではなく、殺人犯を追いつめるのはこれまた清廉潔白とは言いかねる犯罪者集団。すべては相対化され、大衆心理と連続殺人犯の異常心理と、どちらが裁かれるべきものなのか。そもそも善悪二元論で整理できるものなのか、フリッツ・ラングは明確な態度を示してはいないのです。

 

 念のため、この映画で描かれているより少し後の時代に、ナチスが行ったことを確認しておきましょう。ナチスの蛮行といえばユダヤ人の大量虐殺ばかりではありません。民族浄化と称して行った障害者の殺害はユダヤ人虐殺よりも先にはじまっています。殺害されたのは20万人超ともいわれており、殺されないまでも強制的に断種すなわち不妊手術を施された人たちも大勢いるのです。そしてこの映画で犯人の肩にチョークで記された「M」のしるし、これはナチスがユダヤ人に身につけることを課した「ダビデの星」と等価のものとは思えませんか?

 なお、この映画が制作された時代背景に、第一次世界大戦の多額の賠償や、世界恐慌の影響によるドイツの経済危機があることを指摘しておきたいと思います。第二次世界大戦が勃発しなければ、ドイツが負っていた第一次大戦の賠償金は、1980年代まで支払い続けられていたはずなのです。そのような閉塞状況にあったからこそ、ドイツ国民は強力な指導者を待望していたのです。おまけにこの時期のヨーロッパ各国の指導者が間抜け揃いであったため、その隙を突いてヒトラーのような山師が台頭することができた・・・と、これはまた別な話。そのあたりのことはA・J・P・テイラーの「第二次世界大戦の起源」(中央公論社)をご参考にどうぞ。


(Hoffmann)




参考文献

 とくにありません。