048 「ゴジラ」 (1954年) 本多猪四郎




 さて本日取り上げる映画は1954年東宝の「ゴジラ」です。本多猪四郎監督、特殊技術は円谷英二、音楽は伊福部昭。日本のみならず海外でも評価の高い、日本が世界に誇る怪獣映画ですね。



 上の画像はゴジラじゃありませんよ(笑)これは女性代議士役の菅井きん。さすがにお若いですね。



 映画の冒頭は貨物船「栄光丸」が原因不明の沈没事故に見舞われるシーン。これは第五福竜丸事件を意識したものですね。



 平田昭彦による芹沢博士と河内桃子の山根恵美子。映画ですから人間ドラマは必要なので、ちゃんとメロドラマをからめています。ここで「メロドラマ」と呼んでいるのは別に低級なドラマという意味ではありません。ハリウッド以来の伝統に則ったメロドラマそのものであるという意味です、念のため。



 一般にはこの下の、山から顔を出するシーンがゴジラのscreen初登場とされていますが、じつは前日、嵐の夜の民家崩壊シーンで、足だけ写っているんですね。



ちなみにここで山根博士(志村喬)が手にしているカメラはバルナック型Leica(またはNicca、Leotaxといったそのコピー)のようですね。



 当時、造船疑獄などで国民の間では吉田内閣による政治への不信感が高まっており、この国会議事堂破壊シーンでは観客が立ち上がって拍手をしたということです。それなら、いまブッ壊しても拍手されそうですね(笑)

 じつはこのあと、ゴジラは皇居の手前で方向転換をして勝鬨橋方面へと向かうのですが、その点についてはユニークな解釈があるので後述します。



 おそらく私なんぞよりも「ゴジラ」映画に詳しいひとは大勢いらっしゃると思われますので、以下、たいして新味のある話じゃありませんよ。

 原作の香山滋はそのエッセイのなかでゴジラのことを「核の脅威を形にしたもの」と言ってます。ここで歴史をおさらいしておくと、遠洋マグロ漁船第五福竜丸が、アメリカのビキニ環礁における水爆実験の結果、多量の放射性降下物(死の灰)を浴びて被爆(及び被曝)した事件が1954年3月1日。映画「ゴジラ」はこの事件をきっかけに制作され、同年11月3日に公開されたものです。ちなみに新藤兼人監督がこの事件を描いた映画「第五福竜丸」を発表したのが1959年。

 ただし、映画に関してはこれだけが制作の動機ではなくて、前年にアメリカ映画「原子怪獣現る」”The Beast from 20,000 Fathoms”(1953年 米)が大ヒットしていたので、これが念頭にあったことも間違いありません。これも水爆実験で恐竜が出現するという設定です。しかし、ゴジラがビキニ環礁での水爆実験と切り離しては成立しないことも確かです。とはいえ、ゴジラ=水爆ではありません。水爆が意志や本能を持っていて動くわけではないのです。人間の制御を超えて暴走する科学技術が、この怪獣を目覚めさせている。だから、山根博士はゴジラは水爆実験の「被害者」であると言い、芹沢博士は化学兵器オキシジェン・デストロイヤーを開発したことを公表したがらないのです。

 またこの映画を反戦映画と見る向きもあるようです。これは日本人が核兵器(原爆)投下を、さらにもちろん敗戦を経験した国民であるからこその見方でしょう。じっさい、登場人物の口からも、ゴジラを避けて「疎開」するか、という発言が聞かれ、あるいは子供を抱え、あるいは大八車に家財を積み上げて逃げ惑い、一夜明けて、負傷し家を焼け出された人々の姿は戦時中の一般市民・民間人の姿と重ねられ、ゴジラの襲撃によって火の海となった東京は空襲を受けたかつての東京の光景そのままと言っていいものでしょう。

 

 映画の制作者に反戦のメッセージがあるのならば、それはそれで尊重したいと思いますが、しかしこの映画はそれだけのものではありません。ゴジラはジュラ紀の恐竜という設定です。映画の中では山根博士がジュラ紀を200万年前と言っていますが、正しくは2億年前です。しかも進化のせいだということで、水中と陸地の両方に棲息できる両棲類とされています。つまり、これはもはや恐竜ではなくて、竜、すなわちドラゴンなのです。なので、これを倒すには神話や伝説の常道に従って、英雄の登場を待たなくてはならない。その英雄が芹沢博士なのです。芹沢博士が片目を失っているのは、英雄として能力を得た代償です。言わば「聖痕」。これは柳生十兵衛や丹下左膳でおなじみの設定ですね。



 そこからさらにゴジラにアメリカという大国に重ねるひともいますよね。これも一面、理解できるところです。というのは、このあたりの時代までのアメリカの怪獣映画というと、これは既存の生物が巨大化したものなんですよ。たとえば蠍とかカマキリとか蟻とか・・・。これはほぼすべて既存の武器・兵器で退治できるのです。たとえば火炎放射器とか電気モリといった、ふつうの兵器です。従ってアメリカの怪獣映画は軍隊が出動すればなんとかなっちゃいます。あとはくどくならない程度のstory展開で大団円。

 ところがゴジラは既存の生物ではなく、未知の生物で、なにしろ口からは放射能を吐くという、無敵の存在です。既存の武器など通用しません。やはりここには日本の敗戦体験が影を落としているんじゃないでしょうか。つまり、日本人は全力で戦っても絶対に倒せない強大な敵というものが存在することを知ってしまいましたから、相手は既知の生物の巨大化したものではなく、既存の武器など通用しない未知の生物なのです。よって、自衛隊のドンパチが長い、延々と続く、しかしゴジラは倒せない。これを退治するには「英雄」の異能、新たに開発された武器、すなわち架空の武器、ここではオキシジェン・デストロイヤーなんてものが必要になるわけです。さらに、こだわるわけじゃないんですが、芹沢博士も神風特攻隊的な行動をとりますよね。これでようやく相手を倒すことが出来る、というわけです。

 「英雄」が神風特攻隊的なんて、これは口が滑ったのではありませんよ。この映画ではメロドラマ部分に、山根博士の娘、恵美子を巡る三角関係を設定しています。そのひとりが南海汽船の子会社でサルベージ作業に携わっている尾形(宝田明)、もうひとりが芹沢博士です。ふたりとも恵美子を守ろうとするのですが、芹沢博士は英雄物語の主人公ですから自分の命を賭して事に当たり、結果命を落とします。だから恵美子と結ばれることはない。しかし尾形はあくまでメロドラマの主人公、結婚と幸せな生活が約束されています。これは加藤典洋が指摘していることなのですが、ゴジラに挑む際、潜水服を身につけるふたりの鉢巻は、尾形が漁師のアンチャン巻きで、芹沢は特攻隊の巻き方なのです。

 

 一方で、太平洋戦争との関わりでは、ゴジラを海で死んでいった兵士たちの帰還であるとするとらえ方もあります。ゴジラは皇居の手前で方向転換して、勝鬨橋方面へと向かっていますが、これを川本三郎は、「天皇制の呪縛力」のせいで海で死んでいった兵士たちの帰還であるゴジラも「皇居は破壊できない」としています。また、赤坂憲雄は皇居に住んでいるのが戦後人間宣言をした天皇なので失望して帰ったとし、加藤典洋は、それならもっと北に進んで靖国神社を破壊するべきだった、と主張しています。

 やがてゴジラはその理不尽な凶暴さを失い、子供にとってのアイドルとなって、ついにはあろうことか地球外からやって来た生物(キングギドラとか)と戦って、地球を守る善意の怪獣となり果ててしまったのはどちらさまもご存知のとおり―そのころには、怪獣はもはやドラマを形成する力もなく、ただひたすら対戦相手とプロレスを繰り広げるだけの、無能なファイターにすぎない存在と堕してしまうのですね(プロレスを見下している意図はありませんよ、念のため)。そのあたりの事情には、日米安保条約とか、日本が経済成長を遂げて「戦後は終わった」と言われる時代に至ったことも影響しているのかもしれません。

 以前、Parsifal君が話した「オルレアンのうわさ」と同様、「戦後」であるという意識が人々のなかから失われてゆくと、またぞろ差別とか暴力とか破壊とかいったものに対する感性が麻痺してくるわけです。人間は歴史になんか、なにも学ばないんですよ。もちろん、不幸もかつてと同じ顔をして現れるわけではありません。


(Hoffmann)


参考文献

「ゴジラの精神史」 小野俊太郎 彩流社

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