051 「ヒトラー ~最期の12日間~」 ”Der Untergang” (2004年 独) オリヴァー・ヒルシュビーゲル 「ヒトラー~最期の12日間~」”Der Untergang”(2004年 独)。オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督。ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺を遂げるまでの約2年半、その個人秘書として働いていたトラウドゥル・ユンゲの手記をもとにした映画です。 このDVDを買ったときには、邦題からしてヒトラーが主人公の映画かと思って観はじめたのですが、違いました。観ているうちに、これはベルリン陥落を叙事詩的に描いたものかなとも考え直して・・・これも違いましたね、歴史的事実を並べたわけでもない。添付の解説書には評論家が「第三帝国崩壊を目前としたナチスの面々の群像劇」と書いてますが、この映画をひと言で説明するにはそんなところが妥当でしょうか。 ヒムラー、ゲッベルス夫妻、エヴァ・ブラウンなど、写真で見ることのできる当人たちと、なかなかよく似ています。ところが、ヒトラーを別にすると、その他の面々の描き方は通り一遍で、格別深くも鋭くもなし・・・群像劇というには少々物足りません。マグダ・ゲッベルスが6人のわが子たちを次々と毒殺していく無言劇はひじょうに印象的だったんですが、それだけにヨーゼフ・ゲッベルスの描き方などはあまりに紋切り型で類型的、これにはかなりがっかりです。 どうも焦点が定まらないといった印象なのは、この映画がもともとヒトラーの秘書による手記を原作にしているためかもしれません。つまり、映画を観ていてたびたび秘書の視点に引き戻されるのを感じるんですね。 言うまでもなく、この映画で賞賛されるべきはヒトラーを演じる俳優ブルーノ・ガンツでしょう。このひとのおかげで、なんとか邦題負けしないですんだのではないでしょうか。 地下壕を歩いたり、部屋を移動したりする人物を追うカメラワークは、はじめのうちはおもしろいと思っていたのですが、延々と繰り返されると「またか・・・」の感も。 原題の”Der Untergang”とは、没落、滅亡、破滅といった意味ですね。 やはり、ドイツ人がナチを題材にして映画を制作するとなると、いろいろな問題に直面するのでしょう。つまり、次のようなことが問われてしまう― ナチス・ドイツと当時の社会情勢についての制作側の歴史認識はどうなのか? 自分たちがかつていかに大きな過ちを犯し、その歴史をどれだけ反省しているか? 併せて、ユダヤ人の大量虐殺をはじめ自国民を巻き込んで、おびただしい無辜の人命が失われた(人命を奪った)ことについて、どのような認識をもっているのか? ・・・こうした問いに、作品でこたえなければならない。明確な意思を表明することが否応なく求められるのです。ましてや、ヒトラーを題材にするのならばなおさらです。ですから、制作者側は、内外からの厳しい批判の眼をあらかじめ想定し、それらに対する回答を周到に用意しておく必要があるわけです。するとどうでしょうか、自分たちがどのような思想に基づきどういう映画を撮りたいかという以前に、どのような映画を撮らなければならないかが最初から決まってしまっているようなものではないでしょうか。 そうした前提のもとで撮った映画がどのようなものになるのかというと、こうした散漫な、焦点の定まらない映画が出来上がってしまうよりほかにないのです。ヴィスコンティの「地獄に落ちた勇者ども」”La caduta degli dei”(1969年 伊・西独・瑞)、リリアーナ・カヴァーニの「愛の嵐」”Il Portiere di notte”(1974年 伊)のような映画を作ることは当初から不可能な立場におかれているのですから。これはある程度やむを得ないことなのでしょう。 しかし、だからといってこれでいい、とはお世辞にも言えません。気になった点をいくつか― 包囲されたベルリン市内に留まり市民や負傷者の救済に奔走するエルンスト・ギュンター=シェンクをナチの良心の代表のように描くのは、かつて強制労働や親衛隊の栄養食の開発ために数多くの人体実験を行い、死亡者まで出している彼のいかがわしい経歴を考えると相当疑問です。もちろん、どんな卑劣な人物であろうと、国家存亡の時、死に瀕した人々を目の前にすれば人道的な行動をも取り得ることは一面の事実かもしれません。しかし、映画ではそこまで表現されてはいません。 ヒトラー・ユーゲントの少年たちの描き方などもかなり常套的、陳腐です。戦争の悲惨を経験し人間的に成長した子供たちに未来を託する気持ちをあらわしたかったのかも知れませんが、安易にすぎるうえ、「戦後」の言い訳、アリバイ造りのように見えます。最後の自転車の場面などは、度し難いsentimentalismで、正視するに耐えないほど俗悪な幕引きに堕しています。はじめて観たときには、ヌーヴェルヴァーグの青春映画に切り替わったみたいだと思いましたよ。 sentimentalといえば、音楽も感傷的かつ紋切り型で、正直言ってこれまた聴くに耐えないほど。制作者が自分で自分に酔っているのではないかとさえ思われます。 阿鼻叫喚を極めた市街戦や、崩壊寸前の街並み、傷病者のひしめく地下室の場景などは、いかにも作りものめいていて実在感に乏しく、たとえばフォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」”Die Blechtrommel”(1979年 独・仏)とくらべれば迫力の差は歴然としています。 多少同情的に弁護すると、現代ではそれまでの先人の作品を了解事項としているところがありますよね。つまり、鑑賞する側にも予備知識がなければならない。エルンスト・ギュンター=シェンクの経歴なんかはいい例で、「描き方が一面的」との非難は当然であり、しかし「一面的」という鑑賞する側の反応がなかったら困ってしまいます。こうなると、映画もそれ自体で完成・完結したものを制作するのは相当困難と言わざるを得ません。もしもこの男の内面を、万人が納得できるように描いてしまったら、それこそ「見てきたような嘘」で、非難囂々だったでしょう。Hoffmann君が言うように、「人間の人格は統一的でない」とすれば、この人物の扱いはいっそ「不可解」のままでもかまわないかな、と考えるのですが、それは観ている側にエルンスト・ギュンター=シェンクが人体実験を行ってきたなどの予備知識あってのことなのです。 ドイツのある高等学校では、授業の一環で生徒たちにこの映画を見せたとのことですが、いったいこの映画のどこが教育的に有益と考えたのか、理解しかねます。 映画のラストで、元秘書のトラウドゥル・ユンゲ本人が登場して、ナチスのしたことを自分は知らなかったが、若かったということは言い訳にならない・・・と言っていますが、この映画で描かれている内容とはなんの関連も見出せません。仮に、ホロコーストのことをまったく知らない人がこの映画だけを観て、この台詞を聞いたならば、「この人はなにを反省しているの?」と思うのではないでしょうか。 ここでもしもヒトラー役にブルーノ・ガンツが得られなかったとしたら、この映画には一片の価値もなかったでしょう。問題はそのガンツ演じるヒトラーが、これまた一面的にnegativeに描かれていること。べつにヒトラーに肩入れするわけではなくて、その否定的な描かれ方が、どこかの企業の無能な管理職みたいな矮小さであることです。良くも悪くも人間的といえばあまりに人間的ではありますが、ヒトラーを「誰にでもわかりやすく」矮小化してとらえることに問題はないのか、という疑問もあります。逆に言うと、ヒトラーをただの無能な独裁者として矮小化して描くことで、世間の非難をかわそうとしているだけではないのか、と思えるのです。 さらにもうひとつ―この作品では、公開後予想される輿論に対する言い訳がましい台詞が多すぎることも、却って偽善的に感じられて、不快感を催さざるを得ませんでした。 いささか不謹慎な発言になるかもしれませんが、この映画はentertainmentの域を脱していないのです。やはりドイツ映画がヒトラーを取りあげるとなるといろいろ制約が多くて、結果的にこうなってしまったものなのか・・・これが本当にこの監督が描きたかったとおりの完成品なのか、たいへん疑問に思います。 ブルーノ・ガンツには、できればこんな映画には出演してほしくなかったですね。このひとが出ていなければこんな映画は観なかったでしょうから。 (Klingsol) 参考文献 とくにありません。 |