064 「血ぬられた墓標」 ”Black Sunday” (1960年 伊) マリオ・バーヴァ






 マリオ・バーヴァ監督の「血ぬられた墓標」(1960年 伊)です。原題はDVDには"Black Sunday"と表記されていますが、本編中では"The Mask of Satan"となっています。

 イタリアン・ホラー映画父と言われるマリオ・バーヴァの本格的な初監督作品であり、歴史的な名作です。アメリカでも興行的に大成功、この作品をもって、バーバラ・スティールは世界的なホラー・クイーンとなりました。



 マリオ・バーヴァと言えばゴシック・ホラーとジャッロのいずれをも撮ることができた人・・・というよりも、両ジャンルを確立した人ですね。ちなみにこの作品はゴシック調。原作はニコライ・ゴーゴリの「ヴィイ」・・・なんですが、言われなきゃ分かりません・・・どころか、言われたって納得いきません(笑)どうも、原作と比較されるのが嫌で、大幅に改変したらしいのですね。そんなところは案外と手堅い。

 その換骨奪胎ぶりは、18世紀の魔女狩りシーンをプロローグとして、世代を超えた復讐譚に仕立て上げたところによくあらわれています。とくに、過去の魔女裁判の審判長と魔女が血のつながった兄妹と設定したあたり、慧眼と言うべきでしょう。つまり、この監督の作品によく見られる家庭内権力闘争のtasteが加わっているのです。つまり、家庭内で抑圧される存在である女性が、恐怖をもたらすというわけ。これも後のホラー映画にしばしば見られる構図ですが、これまたマリオ・バーヴァがその嚆矢ではありませんかな?


Mario Bava

 しかし、マリオ・バーヴァは気難しいタイプの監督ではなく、撮影現場でも笑顔を絶やさず、冗談好きだったそうです。冗談好きといえば、インタビューでも、自作の映画のラストシーンについて訊ねられて「覚えてないな」とか、「私の映画がフランスやアメリカで人気があるのは、彼らがイタリア人より馬鹿だからだ」なんて、言ってるんですよね。いや、どうもイタリア本国でいまひとつ評価されなかったので、こうした自嘲的な発言にはそんな不満が垣間見えるようです。時代も時代、ホラー映画というのは一段も二段も低く見られていたんですね。しかし、後の、たとえばダリオ・アルジェントがあるのは、その基礎をマリオ・バーヴァが築き、固めてくれたからなんですよ。もっとも、写真で見ると穏やかそうに見えるんですが、じっさいは結構コワモテだったという話もあります。

 

 現在の目で見れば、陰惨な場面といってもさほどショッキングなものではありません。ましてや、正統派ゴシック調ですからね。それがまたモノクロ効果で、さらりと観せてくますのでね。storyの展開もテンポがよく飽きさせません。さすがイタリア怪奇映画の父と呼ばれるマリオ・バーヴァならではといったところです。

 

 見どころは、やや抑えめの残酷描写などではなく、バーバラ・スティールの二役ですね。可憐なカティアと復活した魔女アーサと、メイクも変えているとはいえ、見事に演じ分けています。上がカティアで下がアーサですね。




 バーバラ・スティール Barbara Steele について

 イタリア映画界が生んだ世界的なホラー・クイーン。それまでのホラー映画におけるヒロインといえば単に金切り声の悲鳴をあげてヒーローの助けを呼ぶか弱い存在でしかなかったものを主役級にまで進化させたのが、このバーバラ・スティールであったと言っていいでしょう。長い黒髪に彫りの深い顔立ち、そして大きな目は、勇敢で気高いお姫様から魔性の女まで、幅広くこなすことができるアイコン。じっさい、「血ぬられた墓標」では、純粋無垢な娘カーチャと邪悪な王女アーサの二役を演じ分けて間然するところがありません。

 バーバラ・スティールはイギリスはチェルシャー州バーケンヘッドの生まれ。両親はアイルランド系らしいですね。祖母が演劇好きで、早くから演劇への道を志し、ロンドンの演劇芸術アカデミー、チェルシー美術学校で学び、さらにはソルボンヌ大学に留学してして美術も学んだそうです。そして舞台女優となり、映画デビューするも個性が強すぎて役に恵まれず。その契約は20世紀フォックスに受け継がれ、ハリウッドに向かうのですが、仕事がない・・・やっぱりこの女優をどう使ったらいいのか、分かりかねていたようです。そんな不満があってのことか、ようやく決まったハリウッド・デビュー作の撮影現場で監督と大喧嘩。彼女はフォックスとの契約を破棄してしまいます。

 そんな折に舞い込んだのがイタリアの映画会社からのオファー。すなわち「血ぬられた墓標」のヒロイン役でした。これが大成功して一躍大スターに。続いて出演したのが「幽霊屋敷の蛇淫」"Dansa Macabra"(1964年 伊)、「亡霊の復讐」"Amanti D'oltre Tomba"(1965年 伊)。どうもイタリアは気に入ったみたいなんですが、ホラー映画ばかりの仕事には辟易してしまって、1968年には再び活動の拠点をアメリカに。ところが1969年には脚本家ジェームズ・ポーと結婚して、バーバラ・スティールのために用意された役柄にも妊娠したことによって出演できず、半引退状態になってしまいました。その後の出演作は端役ばかり。1978年には夫と離婚してプロデュース業に軸足を置いたところ、TVシリーズなどでヒットを飛ばし、久々に女優としても活動するなど、それなりに楽しくやっていたようで、それならそれで欣快に堪えませんNA。


(Hoffmann)



参考文献

 とくにありません。



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