075 「シャーロック・ホームズの素敵な挑戦」 "The Seven Percent Solution" (1976年 米) ハーバート・ロス




 「シャーロック・ホームズの素敵な挑戦」、原題は"The Seven Percent Solution"(1976年 米)。原作はニコラス・メイヤーによるパロディ小説、「シャーロック・ホームズの素敵な冒険」という表題で邦訳も出ていました。ホームズもののパスティーシュやパロディについては、以前、少しお話ししましたね。



 コカイン中毒が高じたホームズは、一介の数学教師モリアーティ博士を「犯罪界のナポレオン」呼ばわりして、その言動は異常の度を極めています。ワトソンはホームズの兄マイクロフトに相談して、ホームズをウィーンのフロイト博士のもとに連れて行き、治療を受けさせることにします。

 

 ホームズ役はニコル・ウィリアムソンNicol Williamson。先日取り上げた「恐るべき訪問者」にも出演していた名優です。あまりホームズらしく見えないかもしれませんが、ここでは「弱き」ホームズを演じてなかなかの適役じゃないでしょうか。対するワトソン役はロバート・デュヴァルです。マイクロフト・ホームズにはチャールズ・グレイ。このあたりは特段意外性はないんですが、ワトソン夫人役にはこれまた驚きのサマンサ・エッガー。しかし私にはどうもデヴィッド・クローネンバーグの「ザ・ブルード/怒りのメタファー」"The Brood"(1979年 加)のimageが強くって・・・いや、シェイクスピアの舞台からキャリアをスタートさせて、カンヌ国際映画祭女優賞とゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞しており、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた女優さんですからね。本来なら「ザ・ブルード」の方で驚くべきなんですが(笑)

 

 「私が犯罪界のナポレオンだなんてそんな・・・」と、すっかり困り果てた体のモリアーティ博士。なんと、演じているのはローレンス・オリヴィエ。ここではかつてマイクロフトとシャーロックの家庭教師であったという設定です。

 

 若きフロイト博士を演じるのはアラン・アーキン。シャーロック・ホームズとは時代も合っているし、なにより依頼人及び関係者を座らせて(横に寝かせて)洗いざらいしゃべらせる、そうしたうえで一見矛盾するような行動によってきたるところを言い当ててみせる・・・ある意味フロイトもdetectiveしているひとなんですよね。だからここに登場してホームズの向こうを張ったとしても、違和感はないわけです。え? フロイト探偵にかかると、真犯人はいっつも「父親」じゃないかって? まあ、そこはそれ、ということで(笑)

 

 フロイトのもとでコカイン中毒の治療を受け、ようやく回復の兆しが見え始めたときに、フロイトの元患者であった女性が誘拐されるという事件に巻き込まれます。



 機関車による追跡。このあたりアクション映画も顔負け・・・ですが、つねにユーモアを忘れません。

 

 この場面、バックに流れているのが、これはツィンバロンでしょうか、ウィーンふうでもあり、どことなくハンガリーふうでもあり、なかなか楽しいですね。

 

 事件解決後、ホームズのコカイン中毒も完治して、しかしフロイト博士は「まだ意識の奥になにかがある」として、ホームズに催眠療法を試みます。そしてホームズの口から語られた少年期の事件とは・・・。



 この結末は、ちょっと陳腐ですね。モリアーティが少年時代の家庭教師で、さらにフロイトが登場・・・と。この時点でほとんど読めてしまいます。

 

 そしてホームズはロンドンへ帰らず、休養のために旅に出ます。2年間の「失踪」というわけですね。


 ちょっとした時代考証など

 この映画はホームズの1891年から「3年間」(字幕による)の失踪に至る真相を描いたという体裁になっています。シャーロキアンの研究によると、ホームズがモリアーティ教授の組織を粉砕したのは1891年。そしてライヘンバッハの滝でモリアーティ教授に襲われるも、「バリツ」によって逆にモリアーティを滝壷に叩き落として、そのまま身を隠した。これが「最後の事件」。この後、2年間チベットを旅して回り、ラマ僧と会見。シガーソンという偽名を使い探検記を発表したりなどして、メッカ、フランスを経由してベイカー街に戻ったのが1894年です。これが「空き家の冒険」。つまりこの空白が生じた事情を、描いているわけです。

 一方ジークムント・フロイトは、1885年、29歳のときにパリに留学。パリから帰国したのが1886年。論文「男性のヒステリーについて」を医師会で発表して猛反発を受けています。そして1886年、30歳でウィーンへ帰り、パリで学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践しはじめます。そうして治療経験を重ねるうちに、自由連想法に辿り着き、これを施すことによって患者は抑圧されていた記憶を思い出すことができると考え、ここに精神分析"Psychoanalyse"が成立したわけです。ヒステリーの原因が幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表したのは1895年、39歳のとき。抑圧された記憶を回想して言語化することができれば、症状が消失すると考えるに至ります。

 さて、こうして並べてみると、この映画で「宿敵モリアーティ」に対する強迫観念めいた執念を燃やすホームズが、1891年にウィーンで若きフロイトから(コカイン中毒の)治療を受ける、という設定は矛盾なく可能ですね。フロイトは35歳という設定です。


1890年代のSigmund Freud

 ちなみに前回の「(おまけ)」で示したクリストファー・リィ主演の「新シャーロック・ホームズ ホームズとプリマドンナ」におけるフロイト博士は、ホームズの前に現れるにはやや歳をとりすぎているようですが、あのTVMのホームズは56歳という設定(演じているリィは当時69歳)。ホームズの生年は1854年1月6日とする説が有力ですから、56歳なら1910年。フロイトは1856年生まれなので1910年には54歳ということになるので、そんなにおかしくはありません。

 コカインとフロイトの関係について説明しておきましょう。コカインの性質が理解されていなかった頃には、依存性がないと考えられたために、他の薬物依存症の患者に対し、コカインを処方することで治療できると考える医師もいました。そのひとりがまさしくジークムント・フロイト。自らもこの薬物を使い、憂うつ感や性的不全を治療する強壮剤として、コカインの使用を幅広く推進した最初の人でした。その「利点」を推奨する「コカインに関して」という論文を発表したのは1884年。ところがこのために、患者のみならず、フロイト自身もコカインの依存症に苦しむことになりました。

 ちなみにフロイトはコカインに舌を麻痺させる性質があることに気付いてはいたんですが、麻酔薬としての使用法を発見したのは眼科医カール・コラーです。コラーはフロイトから「コカインって、舌を麻痺させるよ」という話を聞いて、自分の目にコカインの溶液を注して角膜をピンセットで突くという実験を行ったところ、圧力以外は何も感じなくなったことから、1884年、コカインを用いた局所麻酔による手術に成功してこれを発表。この局所麻酔は「コカ・コラー」と呼ばれるようになりました。「コカ・コーラ」と間違えちゃいけませんよ(笑)

 参考までに「コカ・コーラ」の話もしておくと、これを発明したのは、1880年代、南北戦争に参加して重症を負っていたジョン・ペンバートンという薬剤師。この人は長年モルヒネを服用していたところ、モルヒネ中毒になってしまったので、痛みを和らげ、依存性がないものを探しました。それで発明したのがコカ、ワイン、コーラ、芳香植物の葉であるダミアナなどを混ぜた「フレンチ・ワイン・コカ」。翌年、禁酒法によってアルコールが制限されることになって、ワイン使うのをやめて、薬局で売り出したのがコカ・コーラです。当時は鬱やヒステリー、消化不良や心身の疲れ、モルヒネやアヘンへの依存、精力増強や頭痛に効く万能薬であると宣伝して消費を伸ばしています。従って、コカ・コーラには20世紀初頭までコカインの成分が含まれており、コカ・コーラ社が、コカインの使用を中止したのは1903年です。以来、コカ・コーラには大量の砂糖とカフェインが用いられるようになりました。

 ちなみにそんなこととは関係なく、私はペプシ・コーラの"ZERO"を好みます(笑)


(Hoffmann)



参考文献

 とくにありません。




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