088 「愛の嵐」 "Il Portiere di notte"(1974年 伊) リリアーナ・カヴァーニ




 「愛の嵐」"Il Portiere di notte"(1974年 伊)です。リリアーナ・カヴァーニ監督当時36歳。シャーロット・ランプリング、ダーク・ボガード主演。文学的・・・と、これは映画なんですが、それでも、これは文学的審美主義が昂じた映画ですね。

 storyは―

 1957年、冬のウィーン。とあるホテルで夜番のフロント係兼ポーターとして働くマクシミリアン(マックス)は、戦時中はナチス親衛隊の将校で、現在は素性を隠してひっそりと暮らしていた。ある日、客としてアメリカから有名なオペラ指揮者が訪れるが、その指揮者の妻ルチアは13年前、マックスが強制収容所で弄んだユダヤ人の少女だった。ルチアもまたマックスに気付いて困惑する。



 ルチアは夫に早くウィーンを発とうと促していたが、出発の直前になってなぜかひとりで留まると告げる。彼女はウィーンの街をさまよい歩きながら、強制収容所での体験を回想する―収容所に入れられた当初からマックスに目をつけられ、彼の倒錯した性の玩具として扱われたこと―。

 一方で、弁護士のクラウスやバレエダンサーのバートら、元ナチの面々がホテルの一室に集まっていた。彼らは戦後のナチ残党狩りを生き延びるために、証人の抹殺も辞さなかった。彼らの会合で、ルチアの存在が取り沙汰される。会合を盗み聞きしていた彼女は、身の危険を感じてすぐに出発しようと、ホテルで荷造りをはじめる。

 そこにマックスがやって来て、いきなりルチアを殴りつけ、詰問する。「どうしていまさら、目の前に現れたんだ」と―。しかしマックスは、彼女の腕に残る囚人番号の入れ墨に、思い出したように唇を寄せる。ふたりは激しくもみ合ううちに、笑いながら交わっていた・・・。



 題材といい、その残酷で洗練された扱いといい、ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」"Die Verdammten"(1969年 伊・西独・瑞)を連想させる・・・というより、その影響下にある、たいへんすぐれた作品です。



 無視してはいけないのが時代背景です。

 マックスの人生はオーストリア現代史の縮図です。オーストリアは1942年の時点で、国民のおよそ10 %にあたる68万8478人がナチ党員でした。その比率はドイツ側の7%を大きく上回っています。この数値からオーストリア国民のナチ政策への加担は極めて大きかったことになります。彼らの一部は親衛隊に志願し、ユダヤ人の摘発、移送や東方のドイツ占領地域にあった強制収容所管理業務等において重要な役割を果たしていたのです。

 そもそもユダヤ人迫害の責任者になったアイヒマン親衛隊中佐はオーストリアで育っており、彼は部下たちの大部分をオーストリア人から募集していたのです。

 この映画では、オーストリア人親衛隊将校だったマックスの配属先は強制収容所。戦後、マックスはカール・マルクス・ホーフと呼ばれる左翼向け集合住宅に住み、親衛隊員としての過去を隠蔽して暮らしているという設定になっています。この、画面にも出てくるカール・マルクス・ホーフは、第一次世界大戦後、オーストリア社会民主党がウイーン市政を支配していた時期に建設された社会主義労働者向けの集合住宅です。

 映画の舞台になっている1958年は、オーストリアが戦後独立して再出発した頃。平和を愛する中立国家を看板にしたオーストリア社会民主党とオーストリア国民党の連立政権が成立したばかりで、ナチス支配下の時代を忘却しようとしていた時代。しかし、じっさいにはこの映画のように、ナチスに積極的に加担し、戦後社会の片隅で身を潜めて暮らす元親衛隊員たちが大勢いたわけです。

 「愛の嵐」が製作されたのは1974年。当時オーストリアではもっぱら自分たちはナチスの犠牲者であったと主張する「犠牲者論」が主流で、加害者としてのオーストリアが語られることは少なかったんですね。なので、この映画は公開当時、猛烈な反発を受けました。ナチスに積極的に加担したオーストリアの実像が本格的に語られ始めるのは、1986年のクルト・ヴァルトハイム大統領選出前後からです。

 この映画において、主人公マックスをはじめとする元ナチ党員たちが孤立せずに、横のつながりを持ちながら生きているのは、事実に則しています。いわば秘密互助会。オーストリアの元ナチ党員たちは横の結束を保ち、彼らの利益を代表する政党であるオーストリア自由党を持つに至っています。この党は国政選挙においても一定の支持を集め、2006年において17.54%の得票率を得て第3党になっています。隣国ドイツにも極右でナチズムに親近性のあるドイツ国家民主党が存在していますが、ドイツでは国政選挙において議席を獲得出来るほどの支持を集めてはいません。じつは極右はドイツよりもヒトラーの母国であるオーストリアで強い支持を得ているのが実情なのです。

 クルト・ヨーゼフ・ヴァルトハイムKurt Josef Waldheim(1918年12月21日 - 2007年6月14日)についてお話ししておきましょう。ヴァルトハイムはオーストリアの政治家で、第6代大統領。また、第4代国際連合事務総長も務めていました。任期は1972年1月1日から1981年12月31日でしたね。当時我が国のニュースなどでは「ワルトハイム」と表記・発語されていましたね。

 このヴァルトハイムが、1986年の大統領選に出馬した際、じつは第二次大戦中、ドイツが併合したオーストリアで国家社会主義学生同盟とナチス突撃隊に所属していたという事実が判明しました。このときのニュースはよく覚えています。かなりのスキャンダルでしたね。このため、第二次世界大戦においてドイツと戦った旧連合国のアメリカ合衆国やイギリス、フランスなどはヴァルトハイムが大統領となることに反対を表明。しかし、オーストリア国民はこれを内政干渉と反発して、結果的にヴァルトハイムは大統領選で当選しています。しかしその後6年間、大統領職にあるにもかかわらず、外国への公式訪問をほとんど行わず、とくにアメリカでは元ナチ党員及び関係者の入国を拒否しているため、「要注意リスト」に挙げられていました。

 その後の調査によって、ヴァルトハイムは大戦中の1943年にユーゴスラビアで残虐行為を働いたドイツ国防軍の部隊において通訳を務めていたことが明らかになり、しかし戦争犯罪には無関係であったとされたのですが、次の1992年の大統領選挙には立候補せず、再選を断念することになります。

 晩年に至ってヴァルトハイムは突撃隊であった事実を認め、2007年6月14日に心不全のため88歳で死去。死後にユダヤ人コミュニティに対する釈明文が残されていたことが判明しています。



 この映画、一般的には倒錯した愛とエロスの映画だと言われることが多く、なかにはポルノだと思っている人もいる始末。描かれているのはルチアとマックスの、血と痛みと飢餓を伴った、出口のない倒錯した愛欲です。ナチス時代の回想シーンがまた病的にして頽廃的な世界。おそらく、ナチス帽に、痩せた胸の上半身にサスペンダー、裸足で歌い踊るシャーロット・ランプリングの姿は、多くの人に強烈な印象を残しているに違いありません。ことばどおりの意味で、歴史に残る名シーンでしょう。

 いやあ、このリリアーナ・カヴァーニの問題作について語るのは難しい。試みに検索してみると、「倒錯した愛」「エロス」「倒錯した愛憎の嵐」「頽廃の愛」「死の美学」「頽廃と純愛」といったキーワードが目白押し。どれも間違いではありません。おそらくこの映画に言及しようという人なら、ノーマルとアブノーマルの境界などに意味はないこと、そもそもエロティシズムには連続性、すなわち死への欲動が秘められていることなど、とっくの昔から了解事項でしょう。一応補足しておくと、つまり「エロスとタナトス」です。プラトンにしてもフロイト理論にしても、これを持ち出すとどうしても二元論になってしまうんですが、「死の欲動」は「生の欲動」と表裏一体です。性行為すなわち「生殖」という有機物を(再)生産する過程には生の核心が宿っているわけですよ。そうした性欲動、すなわちエロスに対置されるのが、無機物への回帰であるタナトス(死)への欲動です。ルチアとマックスの愛欲は死への迂回路としての生(の欲動)なのです。

 ルチアにとってはマックスとの愛欲こそが自らが求め、選び取る唯一のもの。たとえその先に死と破滅しかなかったとしても―。マックスはナチスの残党として身を潜めて生きてきた。これから先もナチスの残党という過去を隠して生きるならば、「証人」であるルチアを始末しなければならない。しかし、マックスのもとにルチアが戻ってきた。マックスは組織に背を向ける。念のため付け加えておくと、マックスは組織を裏切ったのではありません。筋金入りのナチスの残党への「忠誠」を捨てたのでも裏切るのでもない、ただルチアとともにいるマックスにとっては、もはやナチスも無意味なものであるというだけのことです。



 ここで、「倒錯」愛を描いているもっとも秀逸な場面を指摘しておきましょう。

 この映画のなかで、モーツアルトの歌劇「魔笛」の上演シーンがありますよね。第1幕のパミーナとパパゲーノの二重唱「愛を感じる男の人には・・・」のあたりから、タミーノのレチタティーヴォと弁者の対話があって、離ればなれのタミーノとパパゲーノが笛を吹き交わし、パミーナとパパゲーノたちがグロッケンシュピールの音色でモノスタトスら追っ手をかわして「この上もない和合のなかに/ただ友情のなごやかさが/わずらわしさを和らげてくれる。このような共感がないのなら、/この世に幸福はない」と歌いあげる・・・たいへん無垢で美しい音楽です。



 しかし、この映画で「魔笛」のこの場面が持ち込まれているのは、どんなシーンかというと・・・いまは高名な指揮者の妻となっているルチアが、夫の演奏する「魔笛」の舞台を観客席で聴いている。薄暗い舞台ではパミーナとパパゲーノ(歌唱はフィッシャー=ディースカウ)が、「甘い愛の本能を感じ取るのは、/女の第一のつとめ」「私たちは愛の喜びを感じようとし、愛によってだけ生きる」とことばを交わしている。ルチアの後ろには、親衛隊時代、彼女を異常な性愛の対象としていたマックスが座ってる・・・舞台での清らかな歌唱のなかで、情景はかつてのナチスの収容所へと変わり、まだ少女であったルチアの目の前でふたりの全裸の男が同性愛に耽っている様子を、長々と写し続ける(TV放送だと必ずカットされるシーンです)。またタミーノがパミーナへの思いのたけを切々と歌う舞台へと戻ったかと思うと、その情景は、今度は収容所でマックスがルチアに指を銜えさせ、それを性行為のように前後に動かしている場面になります。



 「魔笛」のなかの無垢にして美しい音楽を、悲痛でやりきれない場面へと変貌させているわけです。この場面は、作品全体で、きわめて重要な位置を占めています。モーツアルトを聴きながら、かつての暴力的で頽廃的な主従関係を回想しているのは、ほかならぬ当のふたり、ルチアとマックスなのです。清純な愛のことばが、そのまま不健全な性愛の体験へと変質していく。現在と過去も、健全な愛と不健全な倒錯も、貨幣の表と裏にすぎないということを、この場面で「魔笛」の歌詞以外の台詞には一切頼らずにスクリーンに映し出してしまったリリアーナ・カヴァーニには敬服するほかありません。



 次に、マックスの回想シーン、シャーロット・ランプリングがサスペンダーで歌い踊る有名な場面についてお話ししておきましょう。

 あれはね、制服のエロティシズムなんですよ。もちろんフェティシズムを媒介しての話です。制服には高位のもの(軍人、聖職者、教授など)と下位のもの(メイド、ウェイトレス、運転手など)がありますが、いずれにしても権力と関係があります。権力があればそれを見る者には服従を象徴することもあります。



 制服というものは、着用する者にある種の権威を与えます。ラテン語でpraestigium、すなわち権威とは、策略、魔術による幻想という意味です。どんなものであれ、制服は見せかけのもの、つまりフェティシズムと関係があるわけです。制服を着用すれば威厳が身につく。少し乱れているのがもっともfetishであること、わかりますか? 焼き鳥屋なら前掛けに焼き鳥のたれのシミがあった方がそれらしいし、手術の腕がいいと言われる外科医なら、白衣に少しくらい血がついていた方が外科医らしく見えるかもしれない。患者だって、スーツにネクタイで隙のない身なりの医者よりも、くたびれた白衣を着た医者の言うことの方を信用してしまうのではないでしょうか。



 権力と服従ですからね、なかでも軍服というのは、見ている者に称賛を抱かせ、服従させるんですから、それを収容所の入所者が着ているのは、謂わば服装交換です。そんなところにも、倒錯性が匂わされているわけです。



 最後、ルチアとマックスは夜陰に乗じて車を出して橋を歩き、射殺されます。このとき、マックスはナチス将校の制服を着て、ルチアは収容場に入るときに着ていた幼い服を着用しています。このふたりは過去の一時の、しかし人生を支配することとなった記憶のなかに沈んでいったのです。



 余談ながら、「ルチア」Luciaという名前は、ラテン語で「光」を意味する"Lux"に由来します。イタリア語では「光と幸せ」を意味することばで、光り輝く(幸福な)人生を期待して付ける名前ですね。この映画のヒロインの名前を「ルチア」としたのは、たいへんな皮肉だと思いませんか?


(Klingsol)


 ※ 今回私が観たのはThe Criterion Collection版DVDです。以前国内盤も出ていましたが、現在は容易に入手可能なBlu-ray、DVDがありません。



引用文献・参考文献

 とくにありません。