monologue 2007.12

2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2007.12.31 mon


毎度のことながら、まとまった休みの前には本だのレコードだの、CDやらDVDだの、買い込んできてしまいます。上はここ数日の間に入手した本の一部。とくに意図はなく適当に選んで並べただけです。

ついつい「やわらかめ」の本を選んでしまい、後悔するのも毎度のこと。このなかには愚にもつかぬ駄書も混じってました(^_^;

おっと、このなかにはHoffmannが10代の頃に読んだ「青春の書」があるんですが・・・バレバレですね(笑)


・・・で、買ってきた本をほっぽりだして、本棚からこのへん選んで読んでみたり・・・2冊とも同じ出版社の本なのはタマタマ。


そうそう、どうせまとまりのないmonologueだし、ついでに2007.12.23 sunで語ったベートーヴェンの交響曲第9番のdisc、ここでひとつ追加しておきます。

左のorfeo盤CDはラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団による1982年のlive録音。野性味さえ感じさせる、しかしこれ見よがしな効果造りに堕することない、誠実としか言いようのないすばらしい演奏です。中央の、同じくorfeoから出たベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」(1977年live)、右のaudite盤ブラームス「ドイツ語によるレクイエム」(1978年live)、ここ数日、以上3点のdiscでクーベリックの芸術に浸っていました。「名演」とか「名盤」なんていまや手垢がついたどころか、低級低俗マスメディア(雑誌とかムック本のこと)がふりかざすばかりの、ほとんど裸の王様の衣装にすぎない概念と化していますが、それでもこのようなdiscを聴くと、これこそ名盤の名にふさわしいものと思えてきます。

・・・てなこと言ってるうちに、午前0時をまわりましたな。さらば、2007年( ̄- ̄)

Hoffmannさん、おそばのびちゃいますよ〜ヾ(^o^*

はいはい〜♪((((*^o^) ヾ(^∇^*)はやくはやくはやく・・・




2007.12.30 sun

(唐突に、2007.12.26 wedからの続き)
なんだかんだで、とにかく購入しましたよ(^o^A;正月の餅代がぁ〜;;;


今年最後のお買い物ですね(^^*



向こうのクルマのドアもバリアングルしてますね(^o^*



じっしゃそくほーですねっヾ(^∇^*

まあ、画質はこんなもんかな・・・(・・*




2007.12.29 sat

ひさしぶりにマーラーの交響曲「大地の歌」コレクションに1点追加―。



パウル・クレツキ指揮ウィーン交響楽団による1954年11月12日のlive録音。ソロはオラリア・ドミンゲスとセット・スヴァンホルム。同日のブラームスの「アルト・ラプソディ」も収録されていて、こちらのソロもドミンゲス、ウィーン楽友協会合唱団も参加。

クレツキは1900年ポーランド生まれの指揮者、若くしてベルリンに留学したもののユダヤ系であるためナチス政権から逃れてイタリア、ソ連、スイスへと亡命を重ねたひと。たしかクレツキにはEMIの「大地の歌」の録音がありましたが、これは偶数楽章がバリトン、Hoffmannの嫌いなF=Dが歌っているため、入手していません(聴いたこともない)。ここではアルト歌唱なので購入しました。感想はいずれこちらに―。

それにしても、この音楽からは、たとえば第1楽章のほんの一節で、心動かされるものがあります。やはりHoffmannにとってはもっとも好きな音楽なのですよ。



もう1点、同時に購入したCD―小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツァルト・アルバム第3弾、交響曲第41番と潮田益子のソロによるヴァイオリン協奏曲第5番です。交響曲が2006年、協奏曲が2003年のlive録音。

前の2枚は2007.07.27 friにとりあげて、あまりいいことを言いませんでしたね。ですからさほど期待もせずに聴いたんですが、やはり同じような印象―表現が単調でリズムが重く、聴いていて退屈しちゃいます。ヴァイオリン・ソロもつまらない(若い頃のシベリウス、ブルッフの方がずっといいぞ)。

以前、小澤征爾がベートーヴェンの「田園」交響曲についてでしたか、「室内楽みたいにやらなきゃいけないから難しい」といったような発言をしていた記憶があります。おそらくモーツァルトについても似たようなアプローチをしているんじゃないかと思うんですが、「室内楽みたいに」というのはことばのアヤとしても、あえて終始平坦な表情を保っているかのようで、神経質かつ窮屈なまでにこぢんまりとまとめたせせこましさばかりが印象的です。「隠れファン」としてはあまり悪いことは言いたくないのですが、このひとは、(長調のおだやか系)古典派音楽の演奏(さらに室内楽というもの)について、なにか根本的に勘違いしているんじゃないでしょうか・・・。

この指揮者の場合、概して♪ドンガラドンガラ・・・といった後期ロマン派の音楽の方が冴えるようですね

その点、師匠のシャルル・ミュンシュそっくり(^^;いや、ミュンシュよりは緻密なんだけど、歳とともにだんだん自然な・自在な闊達さが後退して、妙に神経質でせせこましくなってきたなあ




2007.12.28 fri



いま、Hoffmannさんが読んでらっしゃる本ですヽ(^^*

いや、図版だけ見ながら拾い読みだ(笑)



こちらは花ちゃんが読んでいる本ですよ〜ヽ(^^*

表紙をみてるだけです〜(〃∇〃)



私が読んでいる本はこちらヽ(^^*

どれも翻訳が出ているんだけどね〜(^o^;




2007.12.27 thurs

「映画のなかの映画」画像です。


「マトリックス・リローデッド」、“The Matrix Reloaded”(2003年・米)から。背後のTVに映っているのは「吸血鬼ドラキュラの花嫁」、“The Brides of Dracula”(1960年・英)ですね。

Hoffmannさんが「マトリックス」なんて意外ですね〜(^_^;


こちら「ケン・ラッセルの白蛇伝説」、“The Lair of the White Worm”(1988年・英)。青年貴族ジェイムズ・ダンプトン卿(ヒュー・グラント)が観ているのは・・・。

これは古典ですね



これもケン・ラッセル、「ボンデージ」、“Whore”(1991年・米)から―看板にご注目(笑)上記“The Lair of the White Worm”が上映されている映画館です。

この映画、「ボンデージ」という邦題はどうかと思いますけど、主演のテレサ・ラッセルがいいんですよね




2007.12.26 wed

さて、以上のような選択基準を念頭において、shopへ行ってみましたよ。Hoffmannはこうした買い物をするにあたって、いつもなら雑誌やwebで念入りに下調べをする方なんですが、今回はwebでちょっと調べた程度。あとはshopでいじってみる、説明書を読まなくてもある程度の操作は直感的に理解できるようでなくてはダメです。

となると、やはり使い慣れた「観音」が有利なんですね。じっさい、バリアングル液晶モニタとアクティブAFフレームという必須条件により、観音の二機種が有力候補にあがっていました。Power Shot S5 ISと同じくPower ShotシリーズのA650 ISです。ところがどちらもやや大きい。とくにS5 Sはグリップがこれでもかとばかりに張り出しているうえに、レンズはキャップ式。横ちょに並んでいたG9の方がデザインもサイズもいいんですな。もちろん、現用の「爺さん」の(はるかな)後継機種である点もたいへんよろしいんですが、惜しいことにバリアングル液晶モニタをやめちゃったんですね。う〜ん残念。単に露出計として使うだけならG9で決まりなんですけどね。一方、A650 ISは不具合が出ていったんリコールされ、最近また対策後の製品が店頭に並びはじめた模様。デザインはあまり好きではありませんが、S5 ISよりは小型軽量。比べてみれば、グリップの張り出しもFカップとCカップくらいの違い(^0^*はありま・・・
(((メ-_-)σ)~0~)/プニッ♪

いろいろいじりまわしてみると、操作性に関してはS5 ISの方が「爺さん」に近いものがあり、店員氏は「こちらはちょっとまとまりが悪くて・・・」と評するのに反して、Hoffmannにはわかりやすいんですね。A650 ISはボタン類は少なくなって背面などすっきりしている分、2度押しを要する局面などあってやや面倒。Avモード(絞り優先)時の絞り値変更など、「爺さん」ならダイヤル操作でカメラを構えたまま即座に変更できたのに、十字キーで操作しなければならないのはややストレスになりそう。その十字キーも小さくて右手親指では押しにくい(じっさい、いじっている最中に何度か誤操作)。

S5 ISにしてもA650 ISにしても、昨日あげた条件はほぼ満たしているものの、いざ操作してみると、こうしたスペックにあらわれない部分がいろいろと気になってくるものですね。あとは、これ以上のことになると、自分のものにしてある程度の期間使ってみないことにはわかりません。あれにもこれにも、さらにこんな使い方もしたい、と欲張ると、なかなか帯に短し・・・で、すべての条件を満たすのは困難となり、あとはどこでバランスをとるか、ということになります。(続く鴨〜)

ここまで引っ張っておいて、「今回は見送り」なんてことにはならないんでしょうね(^o^;そうなったら石が飛んできますよ〜

いや、いまではほとんどのひとがデジタルカメラでも一眼志向だろう。いまさらコンパクト機の選定に注目しているひとなんて、あまりいないと思うよ




2007.12.25 tues

いまやデジタル一眼レフも手許にあり、画質最優先ならばそれを使えばいい。それでも、使い勝手を考慮して、一眼レフではできない、あえていえばデジタルカメラならではの機能と操作性を求めて、バリアングル液晶モニタとアクティブフレームコントロール可能な奇襲を選択する・・・ここでHoffmannにはもうひとつの目論見があります。

新規導入するデジタルカメラを、我が家の銀塩クラシックカメラで撮影を愉しむ際の、露出計に使えないか?

以前デジタル一眼レフと「来夏」を持って撮影に出かけたとき、単体露出計を使わず、デジタル一眼レフを露出計代わりに使ったところ、これがたいへん役に立ったんですね。単体露出計だとスポット測光で、これはこれでHoffmannには慣れた測光方式です。でも、観音の(デジタルに限らず銀塩でも)一眼レフの評価測光って、なかなか優秀なんですよね。じつははじめて使ったときはわざわざスポット測光に設定して、適宜露出補正したり、測光位置を選択していたりしたんですが、あるとき評価測光にしてみたら・・・「ナンダ、素直にこれで撮ってればいいんじゃんないか」(笑)しかしながら、「来夏」やそのほかのクラシックカメラで撮影に出るとき、いちいちデジタル一眼レフまで荷物に加えていたらたまりません。そこで、コンパクトデジタルカメラで露出計代わりに使えるものがあれば、これは便利でしょう。そうなると、今回の機種選定には、次の条件を加えることとなります。

マニュアル露出可能、絞り優先AE可能であること(プログラムモード、つまりオートでしか使えないものは論外)。
ISO感度も任意に設定できて、当然ISO100、ISO400には設定できること(80、160、320・・・なんて半端な数値では不便)。
シャッター速や絞り値はもちろん、できればISO感度も常時モニタで確認できること。さらに撮影後にはヒストグラムも確認したい。
レンズは広角側35mmからで充分(28mmの必要はない)、ただし開放F値は少なくともF2.8であること。ズームしてもある程度まではF2.8を維持してくれればありがたい。
望遠側は100〜200mm程度で充分ながら、開放F値はF5.6まで、それ以上暗くなっては不便。
評価測光の精度が優秀であること、ただしスポット測光にも切り替えられること。
できるだけ小型軽量であること。少なくとも上着のポケットに入れられるサイズと重量であること(グリップが大きく張り出しているものは避けたい)。
レンズは使わないときは沈胴してほしい。さらにレンズバリア式が望ましい(キャップは面倒)。
言うまでもなく、写りが良ければそれに越したことはない。

動画の記録・再生機能とか、最近流行の顔認識AFなんてどうでもいい。
RAWモードによる記録と手ブレ補正機能はあればあったでいいが、必須ではない。

・・・と、こんなところでしょうか。(さらに続く)




2007.12.24 mon

いよいよデジタルカメラがいけなくなってきました。このhomepageをはじめたときは200万画素機、その後400万画素の、当時で言うところ「高級コンパクト機」を導入、そいつが言うことを聞かなくなって、いや、まったく使えないわけではないんですが、ソッポを向く寸前といったところ。これまで当homepageを読んでこられた方ならば、Hoffmannがさらに数台のデジタルカメラを購入し、いちばん新しいものはデジタル一眼レフであることにもお気づきかもしれません。でもね、この「高級コンパクト機」がとても使い勝手がいいんですよ。べつに機種名を隠すほどのこともありません、観音の「爺さん」なんですが、バリアングル液晶モニタと、AFフレームを任意に移動できる操作性は、我が家では、室内撮りでシャッター速1.0秒なんてあたりまえですから、三脚上でひじょうに便利に使えるのです。その意味では、一眼レフは少々使いにくいんですね。

それでは修理に出すか、いやいやもはや旧世代の機種、ましてデジタルカメラです。修理代払ってまで使い続けるのもいかがなものか。既に充分モトはとったでしょう。そこでデジタルカメラを新規導入するとして機種選定するならば、上記の機能―すなわちバリアングル液晶モニタと、アクティブAFフレームはぜひとも欲しい・・・となると、選択の幅はかなり限られてきますね。(続く)




2007.12.23 sun


12月だからベートーヴェンの第9交響曲を聴く、というほど純情ではありませんが、まあ、shopにはいろいろ並んでいるもんですから・・・(^^;

左は1951年、バイロイト音楽祭の再開の年にフルトヴェングラーが指揮した公演のlive録音ですね。古くから有名な演奏ですけれど、これは新音源なんですね

バイエルン放送協会の所蔵のtapeだそうだ

右は1942年4月19日、ヒトラー生誕記念前夜祭の公演のlive録音ですね

オーケストラはもちろんベルリン・フィルだね

やっぱりHoffmannさんもフルトヴェングラーには特別の思い入れがありますか?

そうでもない(笑)バイロイトの方は、多くのひとが特別な演奏として賞賛しているけれど、ふつうにいい演奏だと思っているよ。でも、戦中の演奏は・・・健康を害する前のフルトヴェングラーはすごいね

ついでに手持ちのなかから、Hoffmannの好きなdiscをいくつか紹介しておきましょう。



これは1963年バイロイトでのlive録音。カール・ベーム指揮、オーケストラと合唱はもちろんバイロイト祝祭管弦楽団と合唱団。ソロはグンドゥラ・ヤノヴィッツ、クレース・バンブリー、ジェス・トーマス、ジョージ・ロンドン。

演奏の充実ぶりは随一ですね! 新即物主義の洗礼を受けたベームですが、機能的な正確さとロマン主義的な情熱が高度な次元で融合しているといった印象です。それに、合唱指揮者ヴィルヘルム・ピッツ率いるバイロイトの合唱団のすばらしさ!

monoだけど録音も優秀、ベームについて語るなら、晩年の演奏よりも’60年代以前の演奏を聴いて欲しいよね



ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ交響楽団と合唱団によるレコード。よくわからんが、たぶん1960年代の録音。

私は、これこそ「ふつうにいい演奏」と聴きましたが・・・

これは晩年に至って(なぜか)人気沸騰したヴァントへの、その世間の風潮に対するアンチテーゼとしてあげておきたい(笑)



フリッツ・ブッシュ指揮デンマーク放送管弦楽団、同合唱団による1950年9月9日の公演のlive録音。

聴き始めは地味かな〜と思っていたのですが、効果造りを排してなおこれだけの充実ぶりはさすがですね

これ見よがしにアピールするような派手さのある演奏ではないから、大衆的な人気は得られないのかもしれないけれど、聴いたことのないひとにはぜひ一度耳を傾けてほしいな



カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロンドン交響楽団、同合唱団の1972年頃の録音。

これは合唱団の人員が少なめで、歌詞がよく聴き取れますね。それでいて、オーケストラはゆったりたっぷりのジュリーニ流で・・・重量感がありながら、演奏は細部まで神経が行き届いていて、録音もそうした演奏にふさわしく、見通しのいいものですね

ジュリーニの第9なら、晩年のベルリン・フィルとのdiscよりもこちらだろう



小澤征爾指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の1974年録音のレコード。Hoffmannがとくに気に入っている演奏です。

キビキビとしためりはりのよさが印象的ですね。小澤さんというと、どうしてもボストン交響楽団やシカゴ交響楽団との録音が思い浮かぶのですが、これはいかにもヨーロッパのオーケストラらしい音色と感じました(DGGではなくPhilips録音なのも幸運だったのでは?・笑)。その点も含めて、この指揮者の若き日の、いい意味での他流試合ですね

この演奏を聴いて、いまの小澤征爾ならさらに・・・と言うひとが多いと思うんですが、Hoffmannの考えはもちろん(以下略・笑)

この国内盤2枚組LPの第4面にはリハーサル風景が収録されていますね。小澤征爾さんの英語が・・・なんというか、ほほえましいですね(^^*




2007.12.22 sat

世のなかには、まだまだ常識や科学では解明できない、不思議な現象が多々見られるものです。

ど、どうなさったんですか?(・・;

デジカメ(一眼じゃない、コンパクトの方だよ)が調子悪いので、まあこのhomepage開設後すぐに入手してかなり長く使ってきたし、元は取ったということで、新しいのを買いに行ったんだよ・・・で、帰ってきたら、バッグのなかにはこのレンズが・・・(((*^o^)σ)~0~)/プニッ♪



今年はもうレンズは買うまいと思っていたんだけどね〜(^o^A;

なんのお話かと思いましたよ〜もう!(^o^*

今回入手したのは左側のボディに装着してあるレンズ。左側はボディもレンズも戦前型。右は戦後型の組み合わせ。ボディはともかく、この85mmF2.0のレンズは途中でレンズ構成も変わったそうで、外観の仕上げの違いも含めると、大雑把に分けても戦前・戦後を通じて8種類はあるんですね。もとよりHoffmannは全部揃えようなんてマニアではなく、だいいち中古市場にもそうそう出てくるものでもありません。

やはり、戦前型のボディに戦前型のレンズを組み合わせたっかた、というわけですか?

うんにゃ(笑)ずっと以前から、コーティングのないタイプが欲しかったんだよ。そしたら意外と状態がよくて、しかもセール期間中でお安く売られていたの(^^*

♪ぞなぞなぞ〜な〜ぞおな〜売られてゆくよ〜ヾ( ̄∇ ̄*)/




2007.12.21 fri



今日は優美が我が家に来て、五周年の記念日だよ(^^*

おめでとうございますっヾ(^∇^*

ありがとうございます〜(^o^*



例によって古いお写真・・・。

優美お姉ちゃん、このころは痩せてましたかっ?ヾ(^∇^*


えっ?(・・; 
えっ?(・・;

# 上の写真もちょっと以前の(-_-;;じつはデジカメ不調(あたらしいの、買うか?)




2007.12.20 thuer



ハマー・プロのホラー映画路線を支えた二大俳優、ピーター・カッシングとクリストファー・リィです。ここでカッシングが演じているのはシャーロック・ホームズ、リィはヘンリー・バスカヴィル、すなわちこれは「シャーロック・ホームズ バスカヴィル家の犬」“The Haund of the Baskervilles ”(1959年・英)です。

1959年といえば「フランケンシュタインの逆襲」(1957年)や「吸血鬼ドラキュラ」(1958年)で共演した後ですね

監督もその前二作と同じテレンス・フィッシャーだよ


ピーター・カッシングのホームズはすばらしいですね。じっさい、イギリス本国では好評だったそうです。なぜか日本では未公開で、videoもDVDも発売されていません。


リィさんも、役柄が要求している若々しい未熟さと、貴族的な気品を演じて見事ですね



衣装などは原作どおり・・・というよりも、イラストや舞台で人口に膾炙したもの―まあ、よく知られているホームズのイメージどおりですね。残念なのはいまひとつワトソンの影が薄いこと。



スタジオのセットですが、なかなかハマーらしい、いい雰囲気の映像に仕上がっています。

(おまけ)


Hoffmannさんもパイプ喫ってみませんかっヾ(・∇・*

花ちゃん、Hoffmannさんは
その昔、Brenford大学でLeolinus Siluriensis教授のもと、Fumifical Philosophyを修めたのよ(^o^*

(おまけ その2)


昨日upした映像―カッシングとリィが並んでいるのを見ると、カッシングがずいぶん小柄に見えますが、これはリィの身長が193cmもあるため。「007 黄金銃を持つ男」(1974年)でも、リィとロジャー・ムーアが並べばこれこのとおり―。




2007.12.19 wed

先日、アメリカから届いた玉手箱から一本―


これは、ハマー・プロの「吸血鬼ドラキュラ」(1957年)から、ピーター・カッシング演じるヴァン・ヘルシングと、クリストファー・リィのドラキュラの対決シーンですね

そう。でも、今回入手したのはこちらρ(^o^*



これもピーター・カッシングとクリストファー・リィですね(^^*)なんだかずいぶん友好的に見えますけど・・・これはなんという映画の場面ですか?



大ヒント(^^)字幕にご注目!

ぽぉ〜( ̄∇ ̄*

花ちゃん、どうしたの?

このおじさま、と〜っても、すてきですね〜ヾ( ̄∇ ̄* (^o^*(^o^*どのひと?




2007.12.18 tues



誰も来ないけど、更新はしておく(^^;

♪Voi che sapete Che cosa e amor〜ヽ( ̄0 ̄)/




2007.12.17 mon



いくら小説は長ければ長いほどいい、という長篇小説好きのHoffmannでも、800ページになんなんとする大作が横文字となると、さすがに挫折することもしばしば・・・(^o^;なかなか読み通せないなあ・・・

Robert Shea & Robert Anton Wilsonの”The Illuminatus! Trilogy”ですね

長いだけではなく、一人称と三人称は交錯するし、ジョエイムズ・ジョイスばりの意識の流れまで挿入されて、おまけに登場人物の数が並じゃないから、いいかげんな読み方をしていると、しまいにわけが分からなくなってきちゃう・・・(^^A;

ストーリーは1970年代のニューヨークで左翼系雑誌の事務所が爆破され、編集人が失踪するというミステリふうの発端から、やがて世界転覆をもくろむ秘密結社の存在が見え隠れしてきて・・・

・・・そのうちSFか超自然の領域にまで到達する・・・以前、galleryページで取りあげようとしたんだけど、そのときのテーマの焦点が拡散してしまいそうなのと、読破していなかったから、やめたんだよね(^^;どこのgalleryか、わかる?

# この小説を紹介したのが、昨日とりあげたレコードからであることにお気づきの方はおられましたかな?(笑)

Hoffmannさん、だれもおいでになってませんよ〜(^o^;




2007.12.16 sun



レコードの整理をしていたら、またしても同じものが出てきました・・・(-_-;英盤と仏盤

スペインの作曲家ファリャによるカンタータ「アトランティダ」ですね


ひさしぶりにモーツァルトの後期交響曲集など聴いてみましたよ。


左はジャン=フランソワ・パイヤール指揮イギリス室内管弦楽団の仏Erato盤、右は以前にも紹介した、ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ交響楽団による仏Musidisc盤ですね

Hoffmannの好みは、この二種類の盤ならパイヤールの方。ちなみに、パイヤール盤は仏盤と国内プレスLPでかなり印象が変わります。国内盤は高域が丸く、低域の量感が意外なほど豊か・・・というか低音ボワンボワン(笑)これはイコライジングで強調しすぎているようです。おそらく小型のシステムで聴かれることを想定しての音造りと思われます。仏盤だと低域の強調感はなく、さわやかさが前にたちます。




2007.12.15 sat



アルド・チッコリーニの、めずらしいルーマニアElectrecord盤です。フランク、ドビュッシー、シャブリエを収録。おそらくルーマニア客演時の録音? ドビュッシーのベルガマスク組曲は後にEMI(VSM)にstereo録音しており、Hoffmannは同曲の演奏ではそのチッコリーニ盤がもっとも好きなんですが、このmono録音の演奏もいいですね。

(参考)



こちらEMI盤。

オディロン・ルドンの絵がジャケットに使われているということで、以前にも紹介しましたね




2007.12.14 fri

最近、ちょいとお高い買い物をしたんですが、もとよりdollではなく、レコードでもカメラでもaudio装置でもなく、まあ、ここに紹介するようなものではありません。

Hoffmannは少々値の張る買い物をするとき、それが古いレコードとかカメラとか、購入する(それを売っている)shopが決まっている場合は別として、どこで買ってもいいものは、まずできるだけ汚ったない格好をして見に行くことにしています。もちろん汚いといったって、外を歩くのに問題があるほどじゃありませんけどね。で、次にきちんとした身なり―たとえばスーツを着てネクタイも締めて靴もきれいに―で同じ店に行ってみます(逆の順序でもいい)。これをやると、たいていの場合、なんともわかりやすい店員の反応を見ることができますね。普段着だとケンもホロロ、まるで相手にされないのに、服装が違うと、これが同じ店員かと我が目を疑うほどの対応ぶり―。こういう店では絶対に買い物をしません。例をあげると、百貨店系はほぼ全滅、とくに女性の店員がダメ。なかでも
「○」と「魔艶」はひどい。買い物じゃありませんが、航空関係の「蛇婁」の客室乗務員(というのか?)も、服装による客扱いの差は相当なものですね。

Hoffmannの知人のaudio shopの店長―扱っているのが50万円から数百万円の製品だからという理由ばかりではなく、彼はどのような客にも、見ていて「そこまでやるか」というほどの対応をする男です―によれば、「高級そうなスーツに腕時計、ピカピカの革靴って客は必ずと言っていいくらいひやかし」なんだそうですが・・・。




2007.12.13 thurs

小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」を再読しました。前回読んだのはもう十年以上も前のこと。小説は長ければ長いほどいい、という長篇小説好きのHoffmannですが、かつて読んだときと同様、今回もこの巨大作品を愉しむことはできませんでした。日本の探偵小説史にその名を残すであろう特異な作品であることに異論はありませんが、この衒学趣味にはついていけません。ときどき誤りが散見されるのはご愛敬、そんなことはかまわないんですが、これは膨大かつまったく不要な「注釈」を本文のなかに組み入れただけと見えます。Hoffmannは小説でも評論でも、わりあい律儀に注釈に目を通し、これを愉しんでしまう方なんですが、この小説では、「性器」を辞書で引いたら「生殖器を見よ」とあり、「生殖器」を引けば「性器を見よ」と書いてあるようなもので、比喩に比喩を重ねて読者の鼻面を引き回すばかり・・・肝心の(まっとうな)論理はつねに飛躍する・・・。「注釈」といえば、「なんとなく、クリスタル」って小説がありましたよね。あの小説の注釈を本文に組み入れたら、あら不思議、「黒死館殺人事件」に早変わり・・・なわけないか(笑)まあ、つまりHoffmannにとってはそんな程度ということです。

学生時代、アルバイト先の女性事務員が小栗虫太郎と澁澤龍彦と五木寛之の大ファンだったことを思い出します。五木某はともかくとして、小栗、澁澤とくれば「私はちょっとふつうの女の子とは違うのよっ」と主張したい婦女子がいかにも好みそうなタイプですね。


Hoffmannさん、ファンの方々に殺されますよ〜(^o^;

ついでに・・・小栗虫太郎についてはバラしちゃいましたが、夢野久作、久生十蘭、このふたりの作家を、Hoffmannは好きでしょうか、嫌いでしょうか?(笑)




2007.12.12 wed



またまた紀伊国屋書店の「クリティカル・エディション」、F.W.ムルナウの「最後の人」(1924年独)です。



ベルリンの大ホテルのポーターが主人公。彼はこの仕事とその威厳を象徴するフロックコートに誇りを持っていましたが、支配人によって洗面所の清掃係にされてしまい、この哀れな老人は、家族からも近所の人々からも軽蔑される身となります。



なんと、この映画は手紙と新聞記事を除いて、文字の挿入がなく、すべてが映像でのみ表現されています。



その分カメラワークの役割が大きく、またそれが効果的であるとはいえ、やはりここで特筆すべきは主人公を演じるエミール・ヤニングスですね。



これ新聞記事。この物語の結末は・・・。

(おまけ)



メアシャム(海泡石)のパイプですね。これは使い始めは汚れやすく、いちどついた汚れはもう落ちないので、手袋をしたり布や皮で包んだりして使用するひとが多いんですが、こうして無造作に使われてこそ、愛用の道具と言えるんじゃないでしょうか。




2007.12.11 tues



セルゲイ・M・エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」(1925年露)です。2007.11.24 satに紹介したF.W.ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1924年)と同じく、紀伊國屋書店から出ている「クリティカル・エディション」版。


2005年ベルリン国際映画祭で上映された復元版(マイゼル版)によるものとされています。




画質は
きわめて良好で、以前Hoffman観たvideoとはまったく次元の異なるものですね。


新しい映画が公開されるたびに、さまざまな賛辞(宣伝)が寄せられては忘れられていくわけですが・・・いろいろな意味で―たとえばカメラワーク、ぜんぶこの時代に全部やっちゃてるじゃないですか(・・;

(おまけ)



かわいい猫ですねっヾ(^∇^* (^o^*(^o^*




2007.12.10 mon

最近、知人と話していて気が付いたんですが、宮崎某というひとのアニメ映画、あれ、Hoffmannもいくつか観たことがあるんですが、知人は「すばらしい」と言い、Hoffmannは「さほど・・・」という意見でした。ちょっと補足すると、何となく違和感があるんですね。登場人物が近代小説の主人公みたいに描かれている―つまり、解釈の余地がなさすぎるんですね。その行動も、内面も、きっちり描写されていて、登場人物というよりも「登場自我」になっている。なぜそれが違和感に通じるのかというと、Hoffmannが該当の映画(物語)を「おとぎ話」だと思って観ているからなんですよ。あまり個性的な自我よりも、「元型」が登場して行動する方が、世界(観)は広がるのではないかと思うんですね。




2007.12.09 sun

スプラッター・ムーヴィについてひと言。

別に血しぶきや内臓がどぴゅどぴゅ飛び交うからといって、低級な映画だとは思いません。そうした描写は、いわゆる正統派怪談から得られる惻々とした恐怖感とは異なる、キモチ悪さをもよおさせるものであるとしても、それはそれで結構。醜いもの、穢れたものに蓋をして、あえて目にふれさせないのも、平穏な市民生活を営むにはこれもある種の知恵でしょう。でも、映画や文学といった虚構の世界に身を投じるならば、あえてそうした世界にも目を向けてみれば、そこにはなんらかの真実が見出せるかもしれません。

いま、はからずも文学なんて言ってしまいましたが、文学の世界においては、いわゆるゴシック・ロマンス発祥の時代には、残虐血みどろ内臓ぐちゃぐちゃなんて、めずらしくもなかったんですよ。言っときますけど、18世紀のハナシですからね。転じて日本に目を向ければ、江戸川乱歩なんてアナタ、ありゃ上品なもんです。西欧のミステリ同様、怪奇味の強い作品が多数書かれた戦前・戦後には・・・(中略)・・・そんなのに比べたらいまどきのSM小説なんざ、修身の教科書みたいなもんです。

・・・で、そんなゴシック小説や猟奇小説は、見事に埋もれ、忘れ去られてしまいました。いまに読み継がれているものは、古典となるべくしてなった、まっとうな、すぐれた作品ばかり・・・もう少し具体的に言えば、そこにあらわされた恐怖というものは、類いまれにして高貴な(上品という意味ではない)想像力によって、形而上にまでおしすすめられているものなんですよ。対して、忘れ去られた側の、その忘れ去られた理由は? なに、つまり古典の反対なんですね。さらに、残酷だから、猟奇的だから、ではなく、小説として出来が悪かったり、ストーリーが御都合主義だったり、肉塊や血しぶきが単なる見せ物でしかなかったり、あるいは書いている当人がその世界に溺れて自己陶酔していたり・・・といったところだと思うんですよ。

スプラッター・ムーヴィは当然そのメディアが映像ですから、よほど周到な計算のもとに扱わないと、それこそ「見せ物」で終わっちゃいます。見せ物がいかんというのではありません。でもね、Hoffmannも結構観ているんですが、どれも類型的で陳腐なんですな。上に述べたように、そもそも血しぶき・肉塊なんてのはとっくのとうに手垢のついた材料となっており、独創性に欠けたものなんですよ。そこへもってきて、さらにその扱いがどれもこれも似たようなもので、ありふれたパターンと、どうにも貧困なimaginationしか感じさせないとなると・・・。

ここでマンディアルグによるエロティシズム文学の定義を思い出していただきたい。ちょっとこちらのページから引用―

エロティシズム文学といわゆるポルノグラフィとの質的な相違はまず文体と独創性にある。エロティシズム文学は、構成上の独創性、言語における独創性、作品構築の上での独創性によって、高貴な文学として存在する・・・ポルノが主題にするのはごく日常的な性の営みであるのに対して、真のエロティシズムはある種の不可能性によって自らを他と区別している。ありきたりの男女の手にはまるで届かない世界を、事物のうちに描き出す、強力にして鮮明な作家の創造的空想(ファンタジー)にもとづいている。

したがってマンディアルグのような作家たちが関心を抱くのは、精神の創造行為であり、驚異に満ちた人工的産物、すなわち文学というわけだ。法(のり)を超えて進む過激さと、禁制と障害の破壊、限界の踏み越えの先に、作家は自由を見出し、すべてを可能とする未知の領域が開かれる・・・

ホラー映画・スプラッター・ムーヴィだって同じなんですよ。「貧困なimagination」というのは、ここで言うポルノ小説と同レベルってことなんです。




2007.12.08 sat

どーもご無沙汰です。体調を崩して寝込んでおりました。まだ本調子じゃないんですが、いくらか快方に向かってきたので、ひさしぶりの更新でございますよ。

職場でも、「体調のよくないとき、仕事に追いまくられているときほど気分がハイ」になる言われているHoffmannらしく(笑)病み上がりに取りあげるにふさわしい映画はこちら―。



ポール・モリセイ監督の「悪魔のはらわた」、原題”Flesh for Frankenstein”(1973年伊仏)。アンディ・ウォーホル監修ということで、「アンディ・ウォーホルのフランケンシュタイン」とも呼ばれているようですが、じっさいには単なる名義貸しで、ご当人は製作にはまったく関わっていないそうです・・・というのはあれこれ調べて分かったこと。じつを申せばHoffmannはこの「うぉーほる」つーひと、ぜんぜん尻魔栓(^o^A;無知でスマンね


一見、ヨーロッパの名画風・・・


・・・しかしてその実体は内臓(ハラワタ)どばどばのタイヘンな変態映画です。いや、ただのスプラッター映画じゃなくて・・・というのはオリジナルが3D映画で内臓がスクリーンからこちらに飛んでくる(どうやって避けようか?)、というハナシではなく、ウド・キア演じるフランケンシュタインの内臓(と屍姦)への偏愛ぶりだけで成り立っているようなストーリーなんですね。



精力絶倫男の頭部を求めて、取りいだしたるは巨大なハサミ!・・・てのも、これは笑いを取ろうとしているのかと・・・。



ところがやっとこさ手に入れた頭部のホスト・・・つまり元の持ち主は、精力絶倫どころか同性愛者で、女人造人間の誘惑にピクリとも反応せず(どこが?・・・って、助手がちゃんとのぞきこんで確認してますな)。なんたるこっちゃとフランケンシュタインが”Kiss him, Kiss him・・・”と執拗に繰り返すあたり、これで笑わないほうがどうかしているんじゃないでしょうか。



台詞だってたいしたもので、主人公の嘆きたるや「内蔵(はらわた)がすべて出てしまった」、「内蔵が全部出たら元には戻せない」ときたもんです。



それではただの内臓どばどば映画、下品でクダラナイだけの愚作なのかというと、どうも捨てがたい一作なんですね。なーんか、(監督の眼が)醒めているんですよ。決してやる気のないまま撮った映画でもなく、登場人物のfetishな性向に共感して溺れるでもなく、すまして撮ったような淡々とした視線が、この映画をホラーともコメディとも異なった地点に着地させていて、その中途半端さ加減がなかなか得難い特徴を与えているような気がします。


フランケンシュタインとその姉の間にはふたりの子供がいるんですが(つまり心筋梗塞・・・じゃなくて近親相姦ね)、この兄妹はつねに無言で、フランケンシュタインの行動を見つめているんですね。人造人間同士を交配させて美しい優秀な人種を造りだそうとしていた主人公の野望は、こんな形で結末を迎える・・・そのラストシーンは、なかなかに印象深いものがあります。

いや、三流には違いないんですが、こうしたジャンルにおいては三流作品もそれなりに重要だってことです。



ちなみに姉のカトリン役はモニク・ヴァン・ウォーレン。じつはかなーり以前、ほかの映画に出ているシーンをupしているんですが、わかるかな?(笑)

#どうせ見に来るひともたいしておらんので、(いかにもつくりものでございといった・笑)内臓噴出場面をupしてもいいんですが、そこまではできないのがHoffmannの限界ですね(^o^;hahaha・・・

さて、アンディ・ウォーホル監修、ポール・モリセイ監督という組み合わせでもう一本―。



「処女の生血」、原題”Blood for Dracula”(1974年伊仏)です。ここでも怪優ウド・キアが主演、なんともなさけない吸血鬼を演じています・・・でも、どちらかというとこのひとは(どうせ映画が下品な作風なら)レンフィールド役の方が向いていそうですね。


このドラキュラは処女の血でなければ受けつけず、非処女の血だと拒絶反応を起こしてしまうというグルメ軟弱ぶり。故国ルーマニアから、自動車に棺を積んではるばるイタリアまで来たものの、処女だという自己申告はいずれも偽り、おかげでドラキュラは衰弱するばかり。退治される(まるでいたぶられているかのやうだ。同情に堪えん)まで、てんでいいところなしの、これぞ史上最弱(さいよわ・笑)の吸血鬼ですね。

この監督は(ほぼ同じスタッフで)フランケンシュタイン映画とドラキュラ映画を立て続けに製作したわけですが、上記”Flesh for Frankenstein”の方には全編に漂う不思議な静けさが捨てがたい雰囲気を醸し出していたものの、こちら”Blood for Dracula”はやたら猥雑なだけでつまらないとしか言いようがありません。パロディにすらなっていないし、徹頭徹尾下品でキタナらしい。



はじめの方の酒場のシーン、ちょい役ですがロマン・ポランスキーが出演していました。

そういえば、Hoffmannは以前「ポランスキーの吸血鬼」をつまらんと言いましたが、あれ、わりあい世評は高いんですね。でも、Hoffmann的にはポランスキーもこのモリセイも、その退屈度においては同レベルです。

しかしまあ、なんですな、Hoffmannも会ったこともない遠い親戚のおじさんの遺産が舞い込むとか、どこかの洗面所で抱きとめた資産家が息を引き取り、その資産家の遺言で莫大な財産を相続するなんてことになったら(さっきまでムルナウの「最後の人」を観たていたんだよ♪)、いっちょうフランケンシュタインものとドラキュラものの2本を製作総指揮してみたいもんですね。

そうなったら配役は―フランケンシュタインに仲代達矢か夏八木勲、クリーチャーが原田芳雄と草刈正雄(2体出そう)、イゴールに中尾彬・・・ドラキュラは天本英世か西村晃、血を吸って若返ったら小林薫(例の事件の犯人じゃないよ。俳優の、だよ)、ヴァン・ヘルシングに天知茂、レンフィールドが佐野史郎・・・(^^*

鬼籍に入られている方が紛れ込んでらっしゃいますよ〜(^o^;