monologue 2008.07

2008.01 2008.02 2008.03 2008.04 2008.05 2008.06
2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11 2007.12
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2008.07.31 thurs

7月はこんなスプラッター・シーンで幕を閉じるといたしましょう(^^;


美女の心臓に杭を打ち込むと・・・どばあああぁぁぁー


もう一回・・・さらにどばあああぁぁぁー



「今度やるときは新聞紙を敷こう」




2008.07.30 wed



ここ数日の間に手許に届いたDVDから―



なななななんですか〜このヘンな撮り方した写真は〜?ヾ(^o^;;もしかして、昨日の実相寺「セブン」の真似?

これじゃ、なんのDVDかわからんな(^o^A;




2008.07.29 tues



昨日はホンの「おまけ」のつもりだったんですが、別に隠すこともない、「ウルトラセブン」の第8話「狙われた街」ですね。初回放送は1967年11月19日。宇宙人は人気の高いメトロン星人です。この回の監督は同シリーズ初担当の実相寺昭雄、脚本は金城哲夫。



「ウルトラセブン」といえば、円谷プロダクション制作の特撮ヒーローもののなかでも特異な位置を占めており、とくにそのstoryは単純な勧善懲悪チャンチャンにとどまらず、いわばドラマ性が重視された内容にはファンが多いんですね。これは脚本の功績と言えば言えるんですが、どちらかというとシナリオ・ライター(複数人の持ち回りなので、とくにそのなかの一部のひと)の個人的な社会性とそれに基づく問題意識が前面に押し出された結果とも思えます。その意味で、これを鬱陶しいと感じるひとがいるのも理解できますが、Hoffmannはそれはそれで見応えのある内容であり、結構好きですね。



さてこの第8話のstoryも、人類相互の信頼関係というものに対して懐疑的というか、皮相なとらえ方がされている点では特徴的なんですが、それ以上に監督の画面(場面)づくりがきわめて個性的なんですね。


シルエットの多用―。



画面手前に入れた人を前ボケにして距離感や、あるいは「のぞき見」感などを演出しています。

ちなみに右下の場面はこのあと手前のアンヌにピントを移して・・・その横顔に(以下略)


とにかく「よく見えない」画面とすることで、観る側はどこか不安をかき立てるような緊張感を強いられますね。


昨日の最初の画像の直前―夕日を挟んだセブンとメトロン星人は、登場の際、まず川に映る映像で表現されています。なんとも凝ったカメラじゃありませんか。これが1967年の児童番組だというんですから、やはり実相寺昭雄というひとはタダものではありませんなあ。





2008.07.28 mon

先日来続けていた怪獣映画は、人形アニメーション(ストップモーション・アニメ)と巨大模型でしたね。あとはヌイグルミ怪獣(着ぐるみと呼ぶべきだったか)を取りあげれば一段落というところなんですが、Hoffmannはヌイグルミ怪獣(の映画)ってあまり興味ないんですよね(^^A;好みで言えば初代ゴジラあたりが第一候補となるところ、いま見直している余裕もないので、またの機会とします。

で、本日は「おまけ」画像ですよ。




史上もっとも美しい対決シーンじゃないでしょうか(^-^*

怪獣ものというより「特撮ヒーローもの」ですよね(^^;

このTVシリーズではねえ・・・この回を担当した監督の鬼才ぶりが見事に発揮されているんだよね


この監督、夕日にそうとうこだわったようで、ウルト○ホーク1号の発進もこれこのとおり。

ゆうめいなちゃぶ台のばめんがあるんじゃなかったんですかっヾ(・∇・?



花ちゃんが言ってるのはこのシーンだねヽ(^^*
きゃー♪(^∇^*(^o^*




2008.07.27 sun

中国で唐代の詩人、李白が北京五輪や四川大地震を漢詩で「予言」していたとするメールが、携帯電話やインターネットを通じ、中国国内で出回っているんですと。で、その詩というのがこれ―。

北暮蒼山蘭舟四
京無落霞綴清川
奥年葉落縁分地
運水微漾人却震


この各句の最初の文字を並べると「北京奥運(北京五輪)」、最後の文字を並べると「四川地震」となるというわけ。いうまでもなく、李白にこんな詩は存在しなくて、各句の最初の文字と最後の文字が変わっただけの「元ネタ」が存在するというお粗末。

これまでほかにも、上4文字が「日本去死(日本は死ね)」、下4文字が「小泉定亡(小泉は必ず滅びる)」とか、上4文字が「法国去死(フランスは死ね)」、下4文字が「家楽福亡(カルフールは滅びる)」なんてのも出回ったそうなんですが、いくらなんでも安っぽい(笑)幼稚すぎやしませんか。これなら山本モナの言い訳の方がまだしもです(笑)


偽作をでっち上げるなら、徹底的に「もっともらしさ」を演出しなけりゃいけません。いかがわしさも極まれば、「まさか・・・」を「ひょっとして・・・」に転換させることも不可能ではないし、細部まで作り込み、権威(たとえば大学教授とか)を騙しおおせれば、いっそ爽快ですらあるものです(このへんでメリメの「グズラ」あたりを思い浮かべたアナタは正解・笑)。ここでは、なによりまず李白なんて大物を引っぱり出してきたのがまずい(まして李白に予言詩なんぞ、あまりにも似つかわしくない)、そんな漢詩があったかどうか、素人でもウラがとれます。それに、当の漢詩も文字を入れ替えただけで意味が通らない。せめて詩としてできあがっていなけりゃ問題外の外です。さらに「北京五輪」や「四川地震」はともかく、「小泉」とか「カルフール」なんて話が小さすぎます。1200年も前に予言するなら、隣国でほんの数年間首相を務める(務めた)オッサンの名前なんぞ、あまりにもテーマとして細かすぎる。こういうのはね、思いっきりスケールを大きく、話を全世界的に拡げなければもっともらしさからは離れていくばかりなんですよ。

Hoffmannなら、どこぞの地方都市の大学教授の名をでっち上げて、そのひとの発言として「長年研究してきた唐代の漢詩人の某(もちろん架空の詩人)の詩のなかに、どうしても意味の解読できないものがあったが・・・」とやりますね。もちろん、元ネタの頭と尻の文字だけ差し替えるだけなんて無精しちゃいけません。問題の漢詩ももっと手の込んだやり方でとことん作り込みます。そうすれば、受け取る側だって「まさかね・・・」とは思いつつも、その作り込みに多少の味わいを得ることができるはず。場合によっては「ひょっとして・・・」の思いを完全には否定できず、判断を宙ぶらりんにさせてしまえば、ダマした側の勝ちです。

「もっともらしさ」の演出にはユーモア感覚と遊び心、アクロバティックな技法にひとを食ったしたたかさが不可欠だと思うんですが、ナショナリズムに根付いた発想に対して、これは無理な要求なんでしょうね。どうでもいいことですが、Hoffmannは李白が大好きなんですよ。

以上、書いてあることがすべて。書いてある以上の意図はありませんよ、念のため。

さて、以上の教訓をふまえて
「教訓」なんですか〜(^o^;「山本モナはかく語ればよかった」を構成してみましょう

「その車中、二人で飲みなおそうと言われましたが、適当な場所が見当たらず、タクシーが着いたのが五反田のホテルの前でした。ワタクシ、五反田はまずい、と思ったんですね。ところがそこからさらに前進すれば東方向へのガードをくぐらなければなりません。その日は東方向は火星が支配していることが分かっていたので、凶数の5(五反田の5)と火星は死をも意味する最悪の組み合わせだったのです。ですからタクシーを降りるにも降りられない状態でした。二岡さんには何度もホテルで飲みなおそうと言われ、もうズボンを下ろしてらっしゃるし、念のため二岡さんの生年月日をうかがってみたところ、なんと、この方が白羊宮の支配下に入っておられることが分かりました。ちなみにホテルの料金は9800円、9と8で17、1と7で8、白羊宮に8というのはそれ自体は逆さ吊りの男を意味するのですが、ワタクシの水瓶座の宮がこれを逆に転じることに気付いたのです。もちろん、飲み会のスタートが新宿2丁目で、二岡さんのお名前に2という数字が含まれていることが大きく影響していることは申すまでもございません。さらにタクシーのドアを開けばその正面、ホテルの入口は西北西、ワタクシには救済の水星が支配している水門の位置であり、ここでふたりが合体すれば・・・いえ、別に合体と言ってもヘンな意味じゃありませんよ、誤解なさらないでください。ともかく、そこでは本当にお酒を飲んだだけで、他には何もなかったのです。ただ、ワタクシは大宇宙の真理を司る意志の力に従って、ほかに選択肢もない状況にあって、路上で揉めるのも目立つと思い、やむなく入りましたことを天に誓って申し上げる次第でございます。えっ? こんなに大騒ぎになった原因ですか? それは『延長』してしまったために、宿泊料金が9800円ではなくなり、8という数字がズレてしまったためではないかと推察しております」

※ デタラメです(^^A;念のため




2008.07.26sat

しかしまあなんですな、Hoffmannは怨霊だのUFOだの、てんで信じちゃいないクチなんですが、たしかに世のなかには信じがたいことこともあるでもんでして・・・でもやっぱり信じられんことはたいがい事実ではないと。いえね、山本モナの不倫騒動ですけどね、山本モナの釈明たるや、「MJ-12文書」の方がまだしもモットモらしいというべき、荒唐無稽なものじゃないですか。

「その車中、二人で飲みなおそうと言われましたが、適当な場所が見当たらず、タクシーが着いたのが五反田のホテルの前でした。二岡さんに何度もホテルで飲みなおそうと言われ、お断りしましたが、路上で揉めるのも目立つと思いやむなく入りました。そこでは、本当にお酒を飲んだだけで、他には何もなかったと天に誓って申し上げます」

こーんなの「ああ、そうだったのか」なんて納得するのは、よほど高熱に浮かされた世間知らずくらいのものだろう、と思っていましたが、Hoffmannのような浮世離れが高熱に浮かされても、やっぱり「ありえない」釈明と見えますなあ。いくら苦しい状況とはいえ、もちっとましな言い訳は思いつかなかったんでしょうか。


(苦しい言い訳・その1)
「アッ、アナタッ! 秘書を部屋に連れ込んで、なにをしてらっしゃるんですかっ?」
「お、おまえ・・・いや、これはな、彼女が立ちくらみを起こして倒れたので、助け起こそうとしたときに、なぜか急に腕立て伏せをしたくなったんだよ・・・」

(苦しい言い訳・その2)
「アナタの手帳、先週出張とおっしゃっていた日のところに『のぞみ』と書いてありますけれど、いったいどこのホステスなんですかっ?」
「い・・・いや、それは、その・・・親戚の・・・死んだ兄の・・・いや兄貴はまだ生きているな・・・あの、母方の親類でな、えーと、こんど大阪の大学に進学することになって・・・? あれ・・・? おい、それは新幹線の『のぞみ』のことだぞ!」

(とにかく言い訳・その3)
「ワタシというものがありながら! これはいったいどういうことですかっ?」
「なぜなら・・・太陽が黄色かったから」
・・・なんてのもアリだな( ̄ー ̄*(^o^;古ぅ〜




2008.07.25 fri

Hoffmannさん、高熱でダウンです<(_ _)>

おかゆおかゆ〜ヾ(・∇・;)))(((;・∇・)/れーぞーこになにもありませんよ〜





2008.07.23wed

さていよいよ「キング・コング」“King Kong”(1933年・米)ですよ。メリアン・C・クーパー監督、ウィリス・H・オブライエンのストップモーション・アニメによる、まず知らぬひとのないトーキー初期の映画ですね。観ていないひとでもエンパイア・ステートビルを登るその映像はご存知なんじゃないでしょうか。あらためて観て、結論から言うとこれは古今の怪獣映画の「元型」とも言うべき大傑作です。



冒頭、「古代アラビアの諺」として次の一文が引かれます。

「そして預言者は言った―“見よ! 野獣は美女の顔を見て殺そうとして伸ばした腕を止めた。その日以来野獣は死んだも同然になった”」


ジャングル映画制作者カール・デナムは、スタッフ一同にロケ地もロケ期間も撮影内容も知らせず出航の準備中でしたが、ヒロイン役の女優が見つからりません。街へ出たデナムはリンゴを盗もうとした娘―駆け出しの女優アン・ダーロウを抜擢することにします。


アン・ダーロウはフェイ・レイですね(^^*



このジョン・ドリスコル君、唯一女性の乗組員であるアン・ダーロウ嬢に対して、はじめはなんともそっけない態度。やがてこれが愛に・・・というより、はじめから照れ隠しだったんでしょうな。いやはや、オトコというものはややこしい生き物ですなあ(^o^A;Hoffmannなんぞも胸におぼえがあるというか、身につまされますわい(笑)



「なにかの儀式だ、隠し撮りしよう」って、ぜんぜん隠れていません(^^;すぐに見つかってしまいます(^^;

一行は数週間の航海の後、スマトラ島の西南遥かに、海図には記載されていない孤島をついに発見します。この島には髑髏の形をした山と大きな城壁があって、コングという巨大なゴリラが棲んでおり、原住民たちは毎年ひとりの処女を生け贄として捧げる、一行が上陸したのは、なんとも都合のいいことに(笑)この祭典の真っ最中―。

このあたりの音楽は秀逸ですね〜(・・;


その場はどうにか平穏のうちに遁れたものの、金髪の美女を生贄に捧げようという原住民は、深夜、船までやってきてアンを攫ってゆきます。


二本の柱に縛り付けられてコングの花嫁とされるアン。まもなくコングがその姿を現します。










このようにロングで撮って、ズンズンと眼前に迫ってくる演出はほかの箇所にもあり。見せ方はさすがというべきでしょう(・・;うまいな〜


アンを手にジャングル奥地へ―興味深そうに衣類を一枚、二枚とはぎ取るコングの仕草は、あたかも着せ替え人形を与えられた幼児のようです。一方のアンはといえば、とにかくギャーギャーと悲鳴をあげてばかりいるのはトーキー初期ならでは?

このひと、ちょっと伏し目がちの方がかわいいんですけど、この映画では(当然)上目遣いばかりなんですよね(^^;

アンを救出するべく命がけの追跡に向かった一同は、ドリスコル君を除いて全滅。それでもドリスコル君はアンを船まで連れ帰ることに成功します。

以前に取りあげた、フェイ・レイ出演の「猟奇島」は、このジャングルのセットを流用したんですよね(^^*あれも名作でしたね


意外とこのジャングルでの追跡劇が長いんですが、中生代の恐竜も登場して、飽きさせず、手に汗握らせる演出は見事なもの。

恐竜の造形も、見せ方も見事なものですよね



追いかけてきたコングは、巨大な門を突破。

このシーンもロングショットではじめて、どんどん眼前に迫ってくるところですね。手前の人間の影(前ボケ?)で距離感を演出していますね



逃げまどう原住民たち―こんなシーンもあって、なかなか芸が細かい。



浜辺まで迫ってきたコングですが、ここでデナム一行の爆弾(ガス弾?)で気絶。船に乗せてニューヨークへと連れ帰ります。



ブロードウェイで見世物にされるコング。しかし報道陣のカメラのフラッシュに興奮して、鋼鉄製の鎖を引きちぎり逃走、街を大混乱に陥れます。

これはカメラがアンを撮影しようとして、フラッシュがアンを殺そうとする武器だと誤解した、ということ(設定)なんですよね



ビルの窓からアンを捕え―



エンパイア・ステートビルに登ります。


飛行機で銃撃されるコング・・・もともと愛嬌のある表情に哀感が漂います。


もうひとたび、アンを手に慈しむような動作をして、ついに落下―。


「飛行機が撃ち落としたんだ」「いや、美貌が野獣を仕留めたのだ」

冒頭の「古代アラビアの諺」と呼応するラストの台詞のほかにも、劇中、デナム氏は複数回「美女と野獣」という発言をしています。「美女と野獣」といえばルプランス・ド・ボーモン夫人のそれを思い出しますね。あの、ジャン・コクトーが映画化している物語です。あと、ゴリラと女性といえばポオの「モルグ街の殺人」。

女性(美女)と獣という組み合わせは、旧約聖書の蛇とエヴァの昔からめずらしくもない、これすなわちフロイトが指摘するところの「男根の有力な象徴」にほかならない。古代ギリシアはオリンポスの神々ならば人と獣の交婚(つまり獣姦ね)の例は枚挙にいとまないところですが、だからこそキリスト教世界ではこれが宗教的異端として断罪されたわけです。しかし禁制は障碍と誘惑という両義性を持つ。ここでは恐怖の対象として頑丈な扉の向こう側に追いやられていたキング・コングが、同時に原住民たちから崇拝の対象とされていたことにをお見逃しなく。「禁制は容易に近づけぬものを崇高化する」とはジョルジュ・バタイユの言。

さきほどの「旧約聖書のエヴァ」とはじつを言えばネタばらし。この映画で最初に登場したアンがリンゴを盗もうとしていたことにご注目。それでは禁制侵犯、すなわち扉を突破してこちら側の世界へとやってくるコングは、文明社会を犯す反文明の夢想、無意識下の獣性、性への渇望の浸食にほかならない。エンパイア・ステートビルディングが屹立する男根であることは申すまでもなく、ことここに至って興奮の絶頂、銃撃を受けて、その先端から滴り落ちるが如く落下するコングの姿について、いまさらなにをかいわんや。

いや、ちょっと待てよ、「モルグ街の殺人」ならオランウータンによる女性屠殺だが、コングはアンに殺意など抱いているようには見受けられぬが? そうそう、これはむしろ美女略奪の物語でしたね。その前にちょいとアタマをひねっていただきたい。彼の島におけるコングの無敵とも言うべき強大な力が、ニューヨークに連行されるやかくも惨めな落魄ぶりを示すのはなぜか・・・。彼の地、南海の島では獣性故に信仰され、神であったが故に抑えるべき性的衝動など微塵も意識することなく、ただ野性すなわち幼児性に従いアンを女王の如くやさしくていねいに扱い、そこでは性の官能も全霊的に自然そのもの。ところを変えてトコロテン、もとい摩天楼、鋼鉄の鎖に自由を奪われたコングはといえば抑圧されたリビドーそのもの。

(なんか、ノリノリで文体まで変わってきたがこのまま突っ走る・笑)

ニューヨークにおけるコングの行動を新婚初夜の花嫁略奪などと観るははなはだしき見当違いではないか。神獣コングはここに至って、ドリスコルと並んで媚態をみせる(カメラに? コングに?)アンに誘惑され、叫び、わめくしかない哀れな存在と堕している。すなわちアンこそエヴァにして(19)世紀末芸術が好んでテーマとした「宿命の女」(ファムファタル)、魅惑されたものの末路はこれご覧のとおり―むなしく追い求め、振り回され、己がとどまるべき地を踏み越えて破滅してゆく男性性としての存在。傷つき、虫の息となってもなお、我が身を魅了したアンに慈愛とも憐憫ともつかぬまなざしを注ぎ、甘美な陶酔のうちに絶命するコングを見よ!

・・・とまあ、こんな見方もできるあたり、大傑作だと思うんだよヽ(^o^*

わかりました! Hoffmannさんがはじめに「元型」とおっしゃったのは、怪獣映画のプロトタイプという意味ではなくて、フロイトやユングを想定してのことだったんですねΣ(・o・;だからカギ括弧をつけて「元型」とおっしゃったんですね

残念ながら画質はよくない。時代を考慮すればやむを得ない程度とはいえ、全体に褪色気味で画面上端にノイズが走っています。これだけの名作ですから、ぜひともひとつ手間暇かけて復元作業を施して、往時のスクリーン映像を蘇らせて欲しいものです。




2008.07.22 tues

さてさて、本日は“Them”「放射能X」(1954年・米)でございます。ニューメキシコ州に原爆実験の影響で巨大化したアリが現れ、さらに女王アリがロサンゼルスの地下水道へと移動、繁殖を食い止めようとする人間との攻防を描く、「エイリアン」にも影響を与えたと言われるSF怪獣映画の傑作です。監督はゴードン・ダグラス。



物語はニューメキシコ州警察のベン・ピータスン部長が砂漠をパトロール中、なにかひどいショックをうけたらしい5、6歳の少女を発見するところからはじまります。またそこからかなり離れたところで商店が襲われ、しかし現金には手が付けられておらず、なぜか砂糖が持ち去られています・・・。


警官がひとり残っていると、外から「キリキリキリ・・・」という音が。店から出て、窓の向こうを横切り、左側に姿が消えたところで銃声と悲鳴・・・このあたりの演出は秀逸です。

つまりここまでは姿を見せないで怖がらせるんですね


昆虫学者ハロルド・メドフォード博士と令嬢のパトリシア博士の協力を得て砂漠を調査中、ついに姿を現した巨大アリ。



ユーモアもちりばめられています。これは目撃者の証言を確認しているところ・・・なんですが

このひと、アル中なんですよね(^^;


ヘリコプター内で通信し合う父娘―通信にはいろいろ決まり事がありまして・・・「(ペラペラ)どうぞ」の「どうぞ(over)」を「なんでそんなこといちいち言わなきゃならんのだ?」と不機嫌なおとーさんです(^^*


巣から現れたアリが人骨をポイッとやると、転がっていった先には頭蓋骨と警官のベルトと拳銃が・・・

上手い演出ですね(・・;

とにかくよくできた映画だよね


終盤はロサンゼルスの地下水道での攻防。「繁殖前に焼き尽くさなければ・・・」

まさしく「エイリアン」ですね

まあ、その後世への影響は別としても、ここで指摘したいのは、この巨大アリが人形アニメーションでもヌイグルミでもなく、文字どおり巨大な模型であることだね。人形アニメーションのファンはいまでも少なからずいるだろうし、いや、ヌイグルミの方が迫力があるよと言うひともいる。でも、こうして人間と同じ画面に収まってみれば、やっぱり実物大は違和感がないよね

でも、模型だと動きなどは制限されるんじゃないですか?(^^;あまり本物らしくない・・・

それを言うならヌイグルミだって、なかに入った人間の、人間的、あまりに人間的な動きしかしないよ(笑)たとえばゴジラ映画は怪獣のプロレス映画になってしまったあげく、その怪獣はやがてアイドル化するに至ってしまったよね。そこにはいろいろな事情があるとは思うけど、ゴジラ(のヌイグルミ)は直立二足歩行で動作は人間そのものだから、もともと親しみやすい造形の生物だということもあるんじゃないかな

キングギドラなんかいかがですか?

いや、だからこそ敵役には「ありえない」造形の生物(怪獣)を考案しなければならなくなったのさ

今後はいかがでしょう? いまやCGが全盛ですけれど・・・

コスト的にも・・・どうだろう、手間暇を考えるといまやCGの方が有利なのかな。CGが新しい怪獣映画(に限らんが)を切り開く可能性はあるとは思うけど、観る側はスクリーンに映し出されているのが架空の生物やありえないシーンであることを承知の介だから、リアルになればなるほどこれは嘘なんだ、という思いも強くなるよね




2008.07.21 mon

ウィリス・H・オブライエンといえば
お次はレイ・ハリーハウゼンの人形アニメーションです。



北極に現れたリドサウルス。これは“The Beast from 20,000 Fathoms”「原子怪獣現わる」(1954年・米)です。核実験によって氷河のから放射能を帯びた恐竜が蘇り、やがてニューヨークへ上陸、街中を恐怖に陥れるというstory。



この種の映画で学者とその助手の女性が登場するのはセオリーですね。



灯台の明かりに引き寄せられて・・・たしかにレイ・ブラッドベリの短篇小説「霧笛」が原作、というよりこれを下敷にしていると分かりますが、この映画には原作の持つ豊かな詩情はありません。その意味ではただの怪獣映画です。



アメリカ人ってのは惚れて惚れられたオンナがいなけりゃstoryを進行させることができないんですな(笑)もちろんこの後ひしと抱き合います(^^;



場面によって恐竜のサイズが異なっているのはご愛敬。


最後は放射能アイソトープを打ち込んで退治・・・って、設定やstoryが「ゴジラ」とクリソツなことにお気づきでしょう。じっさい、「ゴジラ」はこの作品を元に作ったというのが定説なんですね。ところがこの映画の公開は1954年の10月で、「ゴジラ」は11月。本作品が公開される前から、東宝は情報を仕入れていたのかどうか・・・。

「ゴジラ」のヌイグルミと「原子怪獣」の人形アニメーションの、いずれが(映画として)すぐれているか、あるいはおもしろいか、そのあたりはまた後ほど考えてみることにします。


レイ・ハリーハウゼンでもう一作。“The Valley of Gwangi”「恐竜グワンジ」(1969年・米)。舞台は20世紀初頭のメキシコ、「禁断の谷」に生息していた恐竜グワンギをでカウボーイが投げ縄で捕らえるという、怪獣西部劇です。



ちとサイズが小さめですね。



やっぱり女性がいないとなにもしない、なにもできないアメリカ人です(笑)


捕らえられたグワンジはサーカスの見世物とされますが、呪いを恐れたジプシーたちによって檻が開けられます。逃げまどう群衆、怪獣が人間を銜えているシーンに陽気なブラスバンドの音楽が効果的。背を向けているために気付かないブラスバンドの指揮者がちょっとしたユーモア。


クライマックスは大聖堂で火に包まれるという最期。でもね、どうも迫力に欠けるんですな。カラーになったせいでチャチに見えるのか、はたまたstoryにも演出にもさほど観るべきものがない展開故なのか・・・。



ここで「原子怪獣現わる」の映像を・・・。どうです、なにが違うのか、お気づきになりましたか?ヽ(^^*

わかりました! はーい、はいヽ(^0^*

はいっ、わかりませんけど・・・ヾ(・∇・*




2008.07.20 sun



どかーんと火山の噴火の実写filmではじまるこの映画は“The Black Scorpion”「黒い蠍」(1957年・米)です。



火山の噴火によって太古の巨大サソリがメキシコに出現。火山洞窟に潜入した一行は、そこに古代の昆虫がうごめく異界を発見します。「キング・コング」で一世を風靡したウィリス・H・オブライエンのモデル・アニメーションが秀逸なSF怪獣映画ですね。


申し訳程度の人間ドラマ(笑)でもキャラクター造形はしっかり。

右の男の子はかわいいですね(^^*



サソリの造形―その顔面はなかなか愛嬌のある、というか、滑稽の一歩手前。やたらup映像が多く、いちいちねばつくよだれを垂らしているのがキモチ悪いと言えばキモチ悪い。


大都会襲撃。このへんは黒いシルエットをかぶせているだけですが、これはこれで充分。ここでは夜の闇に黒い影という、恐怖の存在感を際立たせており、ちょっと「ゴジラ」を思い起こさせますね。ただし「ゴジラ」のようなヌイグルミ怪獣と比較してしまうと、逃げまどう人々とは別空間とも見えるのは仕方がありません。ちなみに迎撃する軍隊も対サソリ作戦にのみ備えるばかりで、市民には一瞥もくれないのはどんなものでしょうか。

ヘリコプターをがっしと掴んで地面にたたきつけるあたりはなかなかの見せ場ですね〜(・・;

最後は電気モリで退治します。

特別な新兵器などではないのですね

それ重要! 日本の怪獣映画と異なるのがそのあたりで、敵は既存の武器で倒せる存在なんだよね。だから怪獣とのドンパチがstoryの中心ではなくて、それは最後の最後なの。むしろそこまでのプロセスが重要なんだな

するとその分ドラマを作り込んだり、あるいはこの映画の洞窟における場面のように、怪獣の生態を描いたりすることになるわけですね

これが日本だと超兵器を持ち出しての戦いそれ自体を延々と描くから、やがて怪獣は人間とは関わらなくなってしまう。ちょっと時代的に先走っちゃうと、日本の怪獣映画が怪獣のプロレスごっこになってしまったのは、このプロセスを描くことをなおざりにしていたからだと思うんだね

片やプロセス、片やプロレス・・・というわけですね(^o^*




2008.07.19sat

ドビュッシー蜜柑の歌劇「アッシャー家の崩壊」を聴いていて・・・

「未完」ですよ〜(^o^;

弦楽四重奏曲を聴きたくなりました(両方聴いたことのあるひとなら、この連想は納得されるでしょう。わからないひとは弦楽四重奏曲第4楽章の冒頭など・・・)。


左はDrolc Quartett、右はQuatuor Loewenguthの、いずれもDGG盤。


左からThe Parrenin QuartetのEMI盤、Quatuor Via NovaのErato盤、Quatuor EnescoのForlane盤。

演奏団体名はいずれもレコードの表記どおり。Quator Capetはどうしたんだという声が聞こえてきそうですが、カペーはまたの機会に。

以上5枚のレコードを聴いてみたものの、結局どれも聴き入っちゃって、どっちがいいの悪いのと格付けしてもしょうがないかな。聴く前は、これまでの記憶から、パレナンがいちばんよくてレーヴェングートがいい勝負、ドロルツもHoffmannの好きな団体ですから好印象なんじゃないかなと予想していたんですよ。それだけにヴィア・ノヴァやエネスコの健闘がうれしかったですね。




2008.07.18 fri



ワタシ、シベリウスのピアノ作品が好きなんですよ(^^*

こちらは舘野泉が1978年に録音したシベリウスのピアノ作品集のレコードだね。東芝から出た4枚組LPだ

強烈な主張はないんですが、ささやかで可愛らしい小品ばかりですよね。一般的にはあまり評価されることもなく、じっさい、house musicの域を出るものではないかもしれませんし、「仕事」で書かれたにすぎない作品もあるそうなんですが、ロマンティックとかセンチメンタルとか呼ぶことが陳腐に思えるくらいの純粋さがたまらなく魅力的ですね

曲名もおもしろいよね。「ピヒラヤの花咲くとき」とか、「孤独な樅の木」とか・・・

「樹」の組曲ですね。あと、「花」の組曲の「ヒヤシンス」、「カーネーション」、「あやめ」といった作品も、とても愛らしい音楽ですよね

花の音楽ですかっヾ(・∇・*


※ 「樹」の組曲、「花」の組曲はいずれも舘野泉による表題。原題はそれぞれ「5つのピアノ小品集」、「ピアノのための5つの作品―5つの花のスケッチ」。




2008.07.17 thurs



さてシベリウスの弦楽四重奏曲でよく知られているのはOp.56の“Voces intimae”すなわち「親愛の声」ですね。Hoffmannの大好きな音楽です。

上のお写真はFINLANDIAから出た“Jean Sibelius The Complete String Quartets’という2枚組CD―これには4曲の弦楽四重奏曲が収録されているんですが、はじめの2曲は1885年と1889年の作品で作品番号(Op)なし。次が1890年のOp.4。4曲目がこの1909音の作品「親愛の声」です。演奏はThe Sibelius Academy Quartet。

シベリウスはもともと15歳の年からヴァイオリンを学んでヴァイオリニストを志していたんですが、ヘルシンキ音楽院時代にコンサートで失敗、それでもこのころの作曲はほとんど室内楽作品でした。ところが音楽院卒業後ウィーンやベルリンに留学して、現地のオーケストラを聴き、管弦楽作品の作曲家へと転じたと言われていますね。

LP後期あたりから、BISをはじめとする北欧のレーベルが台頭してきて、近頃ではシベリウスの、ほとんど聴く機会がなかったという意味では秘曲ともいうべき室内楽作品が愉しめるようになったのはうれしいことですね。




2008.07.16 wed


左はエドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団による交響詩「伝説」、「タピオラ」。先日クーベリックのことを「これこそほんものの芸術家と思う」と言いましたが、ベイヌムもまた数少ない、同じ形容をしたい指揮者ですね。

カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団による交響曲第4番。カラヤンもフィルハーモニア管弦楽団を振ってEMI(Columbia)に録音を行っていた時期は、後に聴かれる流線型の音楽造りもそこそこ程度問題で、比較的まとも・・・なんですが、今回聴いてみて感銘を得るには至らず。どうも、こうした緊密に完成された作品となると、ちょっとした部分にも効果造りらしきイヤラシサが目立ってしまって、カラヤンの演奏は魅力に乏しくなりますね。作品は異なるながら、気品さえ漂うベイヌムの演奏と比較すると、これはもう格が違いすぎます。


先日、ひさしぶりにR.シュトラウス歌劇「薔薇の騎士」のDVDを観たんですよ(画像は省略)。1960年、ザルツブルク音楽祭におけるカラヤン指揮による演奏、好みを別にすれば同曲のあらゆるのdiscのなかでも歌手陣はもっとも豪華といっていいでしょう。カラヤンもこの時代はなかなか・・・と言いたいところですが、Hoffmannがカラヤンの指揮でいいと思えるものは晩年の「パルジファル」を例外とすれば1950年代前半以前に集中しておりまして、ここでの指揮も流線型の音楽作りには(相当)抵抗を感じます・・・ただし急いで付け加えると、このオペラの映像ではそのあたり容認できる範囲であるとも思います(たいがい、歌を聴いているから)。さらにR.シュトラウスの音楽にはこんな演奏が似合っているとも・・・。

1970年代の録音でDGGから出た「ドイツ行進曲集」という2枚組のレコードを聴いたときに思ったことなんですが―これは決してカラヤンへの皮肉でもなんでもなく―こうしたほとんど聴く価値もない内容空疎な愚曲・駄曲を指揮すれば、カラヤンはほかの指揮者には決して及ぶことのできない成果をあげることができる指揮者だと思います。

まあ、カラヤンがすばらしい、好きだ、という自称・他称マニアは山ほどいて、これがいい、あれがいい、というひとは後を絶たないでしょうから、これからもカラヤンのdiscはショーバイになるんでしょうな。ムカシから一部にアンチ・カラヤンなんて呼ばれるひとたちがいるおかげで―よくあることなんですが―Hoffmannの発言など、Hoffmann自身の考えではなくて、雑誌記事だかなんだかの受け売りとしか思ってもらえない(苦笑)まあ、そんなふうに思うひとは、音楽好きは雑誌記事を読んでいるもの(読んでいるはず)、と思いこんでいるんでしょうね。

(a)ダメだダメだと言うひとがいるからいいと反論するひとがいるのか、あるいはその逆に(b)いいと言うひとがいるからダメだと反論するひとがいるのか・・・だれしも自分の主張を押し通すためには(a)と(b)を自在に使い分けることができるという例です。

「カラヤンの指揮も、そろそろ再評価してみてはいかがですか?」・・・という声には?

そんなこと言ったって欠点が我慢できないひとにとっては大きなお世話だよ

それでは、「カラヤンの指揮も、そろそろその欠点や欠陥について、認めるべきときがきたのではないですか?」・・・というのは?

そんなこと言っ
たって、すばらしいと思って大好きだというひとには大きなお世話だろう。いずれにしろ、自分だけは正しいと思っている「上から目線」のいらぬおせっかいさ(笑)




2008.07.15 tues

新藤兼人監督の「鬼婆」(1964年・東宝)です。乙羽信子、吉村実子、佐藤慶ほか。音楽は林光。

戦乱相継ぐ南北朝時代、男手を戦にとられ芒ヶ原に取り残された中年の姑と若い嫁は、この湿原に迷い込んできた落武者を殺し、奪った鎧や刀を売って暮らしていますが、そこにひとりの若者が戦から戻ってきて、若い嫁を誘惑し深い仲になります。姑は己の満たされない欲望による嫉妬と生活の不安から、ふたりを引き離そうと、ある落武者から奪った鬼の面を着けて若い嫁を脅かすのですが・・・。



一面の芒ヶ原。晴天下での撮影によりコントラスト強めのモノクロ画面となっていますね。



商人は殿山泰司。



戦から戻ってきた男、八は佐藤慶。


極限状況における根源的な欲望としての食欲と性欲の強調。



なんといっても乙羽信子の文字どおり「鬼気迫る」演技がすばらしい。



いまどき、こんな役を演じる(ことのできる)女優がいるでしょうか。昨今の映画やTVドラマなんて(観ておらんが)、監督・脚本家・俳優女優のオ○ニーみたいなもんで、つまり自分たちがカッコいい話に酔い、カッコいい役をやることに酔うに過ぎず、ためにご都合主義による予定調和の世界(だから観ておらんのだが)。


ようやくさがしあてた芒ヶ原にプレハブの宿舎を建て、合宿形式での撮影。この小屋も監督が図面を引いて助監督が作り、世間は東京オリンピック開催に賑わうさなか、連日泥まみれになっての撮影だったそうです。名作。

・・・これこそ傑作の名にふさわしい日本映画ですね(・・;




2008.07.14 mon



ジョルジュ・ツィピーヌ指揮による、オネゲルの比較的めずらしいレコード。同時代、もしくはそれに近い時代ならではの共感と、現代では失われてしまったフランスのオーケストラならではのローカルな響きがいいですなあ。




2008.07.13 sun

Hoffmann家に飾られている小さなパネルの写真です。



夫婦は似る(似てくる)といいますが、男性の求める女性には母親のイメージがあり、女性の場合は父親のイメージ、だから結果的に夫婦の容貌は似ているのだ、という説もありますね。




2008.07.12 sat



おもしろい。



これはおもしろ杉(^o^;




2008.07.11 fri



続いて「ワルキューレ」。



驚いたことに、ノートゥンクを引き抜くのはジークリンデです。ジークムントが「やった!」てな顔してますね(笑)その演出意図、まあ多少想像はつくんですが、ジークムント役であるStig Andersenの歌がフラットに流れ気味でいささか弱いため、「そんなことだから力及ばず次の幕で殺されちゃうんじゃないか」と思えますね。


第二幕。ブリュンヒルデのIrene Theorinはいいですね。背中に翼を付けているのは過去にもある演出。ヴォータンは「ラインの黄金」のJohn ReuterからJamesJohnsonに交代。


死の告知の場面。通常は眠っているはずのジークリンデを絡ませています。このシーンはなかなか美しい。



ジークムント殺害後、ヴォータンが“Geh!”と言ってもフンディングは死にません。「ペッ」とつばを吐いて「ワハハ・・・」と笑いながら立ち去ります・・・にしては、ヴォータンの悲劇が胸に迫ってこないのは演出のせいか、ヴォータン役のJamesJohnsonのせいか・・・?


第三幕。ワルキューレはみなさん翼付き。各々の馬が喧嘩をしている・・・と歌われるところでは、ワルキューレ姉妹が「戦利品」をめぐってもめてますね。



ジークリンデに彼女が身籠もっていることを告げる場面。ここは通常ジークリンデもブリュンヒルデも感動にうちふるえているような演技をしていることが多いんですが・・・


「いとも気高き奇跡!」と高らかに歌うジークリンデは笑顔、対するブリュンヒルデも笑顔です・・・どうです? だんだん読めてきたでしょ(笑)



ブリュンヒルデのIrene Theorinの演技は、歌のみならず顔の表情に至るまで入念かつ効果的ですね。ヴォータンがいま一歩―というか、やや悪役声なのが残念ですが、ブリュンヒルデの魅力で充分保たせます。


このへんになると演出も常套的。



ここまでのところ、現・音楽監督であるMichael Schonwandtの指揮するRoyal Danish Orchestraはまあまあの出来でしょうか。Bayreuthのような厚みのある響きではなく、技術的にも超一流とは申せないものの、健闘してます。

問題はカメラで、これだけキャプチャするのにひと苦労。とにかくアップ映像が多すぎます。アップがあまり少ないのも多すぎるのも、それぞれの意味で隔靴掻痒の感あり。さらにめまぐるしくカメラが切り替わるのも、観ていて疲れます。

(おまけ)


まあ、特別な意図はないんですが(なくもないか)、こんな本の画像をupしておきましょうか。

この本についてはこちらのページにちょっとだけ書いてありますね

未だ「ジークフリート」、「神々の黄昏」はまだ観ていないので、後日取りあげますよ。




2008.07.10 thurs

さて、コペンハーゲンのWagner「ニーベルングの指環」です。
演出はKasper Bech Holtenというひと。



「ラインの黄金」、冒頭前奏曲はブリュンヒルデの無言劇。物語はブリュンヒルデの回想という枠組みのなかで展開されます。



ラインの乙女たちが酒場の女性ふうなのは、いまどきめずらしくもありませんが・・・


ラインの黄金は水槽の名かを全裸で泳ぎ回る男性です。アルベリヒの黄金強奪はその男の心臓(?)をえぐり出すというもの。



ヴァルハラ建設中、神々は仮設のテント暮らし?



巨人族のファーフナーはなぜか車椅子で登場。後でファーゾルトを撲殺する際は立ち上がるので、足が悪いわけではなく、たんなる肥満のせい?



ドンナーはハンマーではなく、ライフル銃を持ち出します。


指環はむしろ腕輪で、ヴォータンはこれを奪うために、ためらいものなくアルベリヒの腕をチョン切ります。たしかゲッツ・フリードリヒの演出では手首を切ってしまうんですが、ここでは鮮血がだらだらと・・・スプラッターというよりグラン・ギニョルか。



ローゲの扱い(演技)はわりあいよくあるパターンでどうということもないんですが、なんだかやたらタバコをふかしています。歌手なのになあ・・・(笑)



ただの銅線ですが、ローゲがスイッチを入れるとラインの乙女たちの嘆きが聞こえてきて・・・



歌い終わったローゲを、ヴォータンは槍で殺害・・・って、いいのかなあ(-_-;



幕切れのシーンですが、いろいろ意外性を狙ってくるわりには、ところどころフツーの舞台処理ですませてしまっているのは、不徹底な気もしますね。その意外性も思いつきの域を出ていないから? ちなみに歌手に関しては、総じてどうということもなし。まあ、「ラインの黄金」は序夜ということもあって、演出ではいろいろ工夫を凝らす余地があるものの、歌手にとってはあまり見せ場のない作品ですね。強いて言えばローゲ役の歌手が目立ちやすいので得なんですが、ここでの演出ではローゲの位置付け、ややもてあましているようでもあります。

・・・と、おっしゃいますと?

この演技のまま、ほかの演出に登場させてもぜんぜん問題なさそうじゃないか(笑)




2008.07.09 wed



輸入DVDの新譜、デンマーク王立歌劇場のWagner「ニーベルングの指環」です。2006年5月、コペンハーゲンでのlive収録。比較的マイナーな歌劇場ですが、DECCAからの発売。

このDVDを観る前に、我が家のレコード棚からこのオーケストラのdiscを探してみたところ、やっぱりというか、デンマーク出身の作曲家ニールセンの作品ばかり・・・(^^;



これはベルグルンド指揮のニールセンの交響曲全集(バラ)。“Royal Danish Orchestra”というのはこの歌劇場のオーケストラのことでしょう。ちなみにニールセンもベルグルンドもこのオーケストラの音楽監督を務めたことがあるということで、いわば「純血種」のdiscですね(^^;だからありがたいということではないよ


左も“Royal Danish Orchestra”の表記。バーンスタインがデンマークでの音楽祭に招かれた際の録音で交響曲第3番。このときの演奏は作曲家の娘をいたく感動させたということです。

右は交響曲第5番、これは別オーケストラかな・・・デンマーク放送交響楽団にラファエル・クーベリックが客演した際、1983年6月17日のlive録音です。

このなかでもっとも演奏がいいのは、疑いもなくクーベリックの第5番。ほかに1、2、3、5番(と協奏曲、管弦楽曲)は国際的に注目される以前のチョン・ミュンフンがエーテボリ交響楽団を指揮した録音もあって(BIS)、ときどき聴いています。




2008.07.08. tues


たしかもう何度かupした本ですが・・・Hoffmannの大好きな小説です。




2008.07.07 mon




これまた、いわゆる「モダン・ホラー」と呼ばれる小説ですが、表紙デザインの悪趣味ぶりも現代風です。



中央の丸形はくり抜き。手間がかかっています。やはり、古典的名作はそれなりの表紙で飾られますね・・・って、上のアメリカ風味とこちら大英帝国のセンスの違い?



しかしこんなデザインだとおもしろくもおかしくもありません。せっかくいい小説なんだから、もうすこし工夫が欲しいところです。




2008.07.06 sun



いまや本国でもあまり読まれてはいないようですね。



表紙も安っぽい悪趣味といったものですが、案外その小説にはふさわしいかもしれません(^^;




2008.07.05 sat



できる限り、ゆっくりゆっくり読んでいたが、本日読了。新潮社版、井上究一郎訳による筑摩書房全集版、この鈴木道彦訳の集英社文庫版と、3度め。




2008.07.04 fri




シベリウスは好きな作曲家で、たとえば古今東西のヴァイオリン協奏曲から好きな作品を選べと言われればシベリウスのそれをまず思いつきますね。弦楽四重奏曲でもそう。ピアノのための小品もよろしい。交響曲は、現在なら第4番を第一に挙げたくなりますが、中学生の頃から長い間、ずっと第7番がHoffmannのお気に入りでした。単一楽章による、シベリウスの結論のような作品です。

結論とおっしゃいますと・・・?

交響曲と交響詩が融合したような音楽だと思うんだよね

これはネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団、1984年録音のレコードですね

この指揮者とオーケストラが国際的に知られるきっかけになった、一連のシベリウス録音のひとつだね。演奏はこれがいちばん・・・というわけではなくて―もちろんダメなわけではないけど、初期のBISのレコードは音がいいんだよね(^^*


交響曲全集を二組・・・いずれもEMI録音なのはタマタマ。

左はバルビローリ指揮ハレ管弦楽団の演奏。1966年の録音。

レコードに聴くシベリウス演奏では、このあたりからフィンランドというローカルなイメージを脱して、ヨーロッパ音楽としての普遍的な魅力で説得力を持つようになったんじゃないかな。ハレ管弦楽団には美点もあるけれど、表現力がいま一歩なのが惜しい

節度と深い共感が感じられる好演ですね

右はベルグルンド指揮。このフィンランド出身のサウスポーの指揮者はシベリウスの交響曲全集を3回録音。これは1回めのボーンマス交響楽団との1973年の録音。

これは先のバルビローリとは逆で、リズムやフレージングがヨーロッパ音楽としての語法から自由になっている。その意味では「なんだこれ?」と言うひともいるかもしれないけれど、シベリウスならではの演奏になっている。ベルグルンドも、二回め、三回めの「全集」になると、なぜかこの傾向が薄れてきちゃうんだよね


たしかに、ベルグルンドはこの第一回めの録音がいちばんいいですね




2008.07.03 thurs



バルトークといえばこのレコード。




2008.07.02 wed



音楽を聴きつつ、Max Ernstなど愉しんでみたり・・・これは“L'oeil du silence”ですね。

このレコードはブーレーズ指揮BBC交響楽団によるバルトークの歌劇「青ひげ公の城」ですね

歌手はTatiana TroyanosとSiegmund Nimsgern、これは独盤。ちなみに国内盤も持っているけれど、ジャケットのデザインは同じだね

LP1枚ものなのに、独盤は函入りなんですね

解説書・対訳が20ページ近くになると海外盤は1枚ものでも函入りになるんだよね。このへんがコスト意識優先の国内盤とは造りが違うところだね




2008.07.01 tues



これを読んでいる合間に・・・



こんなのも引っぱり出しています。


Robert de Montesquiouですね

ドイツ語訳だけどな