monologue 2008.11

2008.01 2008.02 2008.03 2008.04 2008.05 2008.06 2008.07 2008.08 2008.09 2008.10
2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11 2007.12
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2008.11.31 Σ( ̄□ ̄;



どなたですか、この方は?(・・?

このhomepageに関する話ではなく、まったくよそ様でのやりとり(の記録)を読んでいて思ったんですが、書いてあることを書いてあるとおりに読まないひとって多いんですね。同意しようと、異論があろうと、そんなことはどちらでもいいんですが、書いてあるとおりに読むことって、そんなに難しいことなんでしょうか・・・。




2008.11.30 sun


フランスもののオペラ・オペレッタなど聴いているうちに眩暈の11月も幕。明日より哄笑の12月に突入。



しかし、フランスのオペラって我が国では人気がないんですなあ。いや、べつに人気なんかなくたってかまわないないほうがいいんですけどね(笑)

まあ、人気とはひとが気にしないですむ唯一の侮辱である・・・って、言いますからね(^o^*




2008.11.29 sat


オカッパ対決。



このひともそうですよ〜ヽ(^o^*



このおじさんもオカッパですよっヾ(・∇・*




2008.11.28 fri



昨日は首尾よくJean Cocteauの名前が出てきたので、同じくCocteau台本によるバレエ「エッフェル塔の花嫁花婿」の音楽です。

これもまた以前、たしか2種類のレコードを取りあげましたよね。フランスのいわゆる「6人組」の合作、ただしルイ・デュレは不参加、でしたね

以前取りあげたのレコードはDarius Milhaudの指揮したものと、Geoffrey Simonの英Chandos盤だったね。今回はJea-Claud Casadesus指揮Orchestre National de Lilleの演奏、ナレーションがDaniel Maeguich、Herve Furic、Jean-Claud Casadesusとある

演奏は過度に洗練されておらず、ローカルな訛を残した節回しが心地よいものですね。ところで、Hoffmannさんはこのバレエの舞台になっているエッフェル塔には行ってみたいと思われますか?

それほどでも・・・



地下鉄の方がいいな(笑)




2008.11.27 thurs



昨日に続いてFelicity Lottの歌にGraham Johnsonのピアノで、これは英hyperionから出た“Voyage a Paris”、Francis Poulencの歌曲集です。ほかにThe Songmakers' Almanacのメンバー、Ann Murray、Anthony Rolfe Johnson、Richard Jacksonが参加。ジャケットのデザインがマリー・ローランサンとは、やや陳腐かな(^^;




Felicity LottのPoulencといえばこちらも最近入手、
“La Voix humaine”「人の声」です。Armin Jordan指揮Orchestre de la Suisse Romandeの演奏。harmonia mundi France。

別れた男性と電話で会話している女性によるひとり芝居という、Jean Cocteau台本のオペラでしたね。以前にも2種類のdiscを取りあげましたよね

いい作品だよね。でも、このdiscはshopで見つけるまでその存在を知らなかった(^^;

HoffmannさんはLottはお好きなんですよね

Jordanも結構好きだよ(^^*でも、残念ながら以前取りあげたdiscを超えるまでには至らないかな・・・Lottって、酸いも甘いも噛み分けた・・・といった老練さがありながら清潔感のある声で、感情表現も達者なんだけど、その達者なところがかえってこの女性の割り切れない心情の余韻を、そこはかとなく感じさせる余地を失わしめている・・・ような気がする(^^;

ずいぶん贅沢な要求ですね〜うかがっていると、これはよほどすぐれた歌唱なのかなと思えてきますよ(笑)

いや、もちろんいいんだけどさ、以前の2種類のdiscで歌っている歌手が特別すぎるんだな




2008.11.26 wed



昨日は突然仏蘭西に飛んでしまいましたね、本日も引き続きこちら―。

これはジャケットの絵を見ただけで見当が付きますね、Baudelaire関連のdiscですよね

“Melodies sur des Poemes de Baudelaire”と題されたdisc、すなわちBaudelaireの詩による歌曲を集めたものだね。曲はHenri Duparc2曲、Gabriel Faure3曲、Pierre de Breville、Deodat de Severac、Henri Sauguet、Pierre Capdevielle、Emanuel Chabrier各1曲、Claude Debussy5曲と多彩。Felicity Lottの歌でピアノはGraham Johnson、harmonia mundi Franceの、たぶん廉価盤だ

聴いていて飽きない、好企画のdiscですね

Baudelaireをもじって言えば、「discのなかには神さまがいらっしゃる」んだよね、きっと(笑)






2008.11.25 tues



ジャケ買いじゃありませんが、お写真大きめに(^^*

ジョルジュ・オーリックとジャン・フランセの室内楽作品。日本では人気なさそうだし、見つけたときに入手しておきませんとね。

いつぞやもupしたことがありましたね(^^*“Blue Bells”の・・・



monologue2008.03.17 monだったね。
ついでだからこれも大きめにupしておこうか(笑)




2008.11.24 mon

一週間ぶりにバッハのdiscです。



J.S.バッハの「マルコ受難曲」、トン・コープマンアムステルダム・バロック管弦楽団ほかによるCDです。バッハは生涯に5曲(少なくとも3曲)の受難曲を作曲したと言われていますが、完全な形で残っているのは現在聴くことの出来る「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」。「マルコ受難曲」は1731年の聖金曜日に聖トーマス教会で初演されたということまで分かっているのに、楽譜が失われて歌詞だけしか現存していないんですね。通常はカンタータBWV198、BWV54あたりから復元されるんですが、コープマンは現存する作品を転用して、レチタティーヴォの多くを自ら作曲しています。

シャーロック・ホームズもののパスティーシュだって愉しめるHoffmannです、このdiscを愉しめないわけがありません。



こちらは同じくコープマンによる「クリスマス・オラトリオ」。「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」では、劇的な緊張感よりもintimateな暖かさが勝って、イエスの受難を描いた音楽としてはやさしすぎるかな、と思えるコープマンの演奏ですが、この作品ではそうした不満もなく、むしろ古楽器演奏がここまでの自然体に到達したのかと思われてきます。愉悦感あふれる、といいたい生き生きとした演奏。



どうも派手な外装ですね(笑)アーノンクールの「クリスマス・オラトリオ」です。かつてはひたすらトンガって、刺激的な演奏を繰り広げていたアーノンクールですから、楽隠居は似合わないし、どう歳をとってゆくのかなと思っていたんですが・・・。




2008.11.23 sun



スピーカーケーブルを交換して早1ヶ月。上のお写真はH社のSP用に購入したもの。これまではちょいと短めだったので、今回は長さに少し余裕を持たせて

同じメーカーの製品のなかでも(たぶん)2番めくらいにお安い価格。真ん中に置いてあるのは単4乾電池、その細いことがよく分かりますなあ。ケーブルはやや硬めなんですが、細いことと、やや長めにしたことで取り回しは比較的楽。出てくる音はすっきり系。もともとH社のSPはややソフトフォーカス気味といった傾向があり、良くも悪くもその輪郭が整えられる印象。



こちらはS社及びK社のSP用に購入。バイワイヤリングで使いたいので片chあたり2本、両chで4本必要なんですな。これもいままで使っていたケーブルはちょいと長さに余裕がなかったため、今回は少し長めにと思って、しかしあらかじめ必要な長さを測るのも面倒くさいもんですから(^o^;30m巻を買っちゃいました。メーカーやshopではAV用(4〜7.1chとか)にどうぞ、って製品ですね。SPケーブルとしては買いやすいお値段、なんとなく(笑)割安感もありますなあ。

こちらは柔らかめで取り回しも楽ちん。chあたり2本使うんですから、これは重要。

先日AV雑誌をながめていましたら、このケーブルについての評論屋のコメントが見つかりましたが、毒にも薬にもならんことが書いてありましたな。曰く、「○○であり(これはホメてる)、しかし××だ(これは欠点の指摘)、△△に使えばいいかも(と、留保を付ける)」・・・深読みしなくても、これはたいしていいとは思っていないんだな、ということが分かります。もっとも、数十本のケーブルの試聴記事なんて、全部別なことを書かなけりゃならんとは難儀でしょうな。せいぜい読者はこれを精読して購入の参考にしてくれなければ、評論屋も浮かばれないってもんです(^^;


あのー、私はこのケーブルに替えて、音がどう変わったのかよく分からないんですが・・・(・・*

Hoffmannにもわかりません( ̄o ̄*以前のものより安いケーブルで、しかも長くなったんだよ。それで違いが分からないのは、歓迎すべきことだよ(笑)



ずいぶん余ってます(笑)




2008.11.22 sat



i以前取りあげた「原子怪獣現る」The Beast from 20,000 Fathoms”(1954米)はレイ・ハリーハウゼンの人形アニメーションでしたが、同じユージン・ローリー監督が我が国の「ゴジラ」を観て、「よっしゃ、ウチもやったるか」と膝をたたいたかどうかは分かりませんが、イギリスでメガホンをとったのがこれ―「怪獣ゴルゴ」“Gorgo”(1959英)です。
Hoffmannが観たのはRegin Allの米盤ですが、字幕入りの国内盤も出ているようですね。

「原子怪獣現る」が「ゴジラ」の元ネタで(制作年から多少疑問はあるにせよ、一応それが通説ですよね)、今度はその元ネタの監督さんが「ゴジラ」を模倣したというわけですね。海外にはめずらしいぬいぐるみ(着ぐるみ)怪獣であり、また随所で「ゴジラ」を参考にしたと思われるシーンを観ることができますね

なによりぬいぐるみ怪獣というところが逆輸入だな。さらにその後、日本の「大巨獣ガッパ」(1967)はこの「怪獣ゴルゴ」を下敷きにして造られているんだよね

相互に影響し合っているということですね

アイルランド沖合いで海底火山が爆発、深海から出現した怪獣“ゴルゴ”が捕獲され、ロンドンへ輸送、サーカスの見世物とされますが、じつはこれがまだ子供で、さらに巨大な母親怪獣が子供を取り戻しに後を追って来ます。英海軍の猛攻撃もなんのその、巨大ゴルゴはテムズ川から上陸して花の都ロンドンで大暴れ〜♪


冒頭のシーンからしてどこかで観たような・・・



海底で怪獣を目撃したり・・・デジャヴみたいですね(^o^;でも、よく考えたら海底シーンは「原子怪獣現る」の方が先。



この映画、怪獣の造形がよくないとはよく言われることなんですが・・・。

たしかに、頭と手が大きすぎてバランスが悪く、ヘンな形の耳が付いていて、目が赤く光っているのも・・・でも、どことなくかわいいのが、その後のstory展開を思えば、これはこれで悪くはないかなと思います



見世物にするという発想は「キングコング」からこの方、よくある展開。



母親の巨大ゴルゴが暴れるシーンは結構いいですね。カラーであることを最大限に活かしていると思います。

いろいろな意味で細部まで観ていて飽きない名場面ですね。実写との合成もまずまず、なかなかすぐれた特撮だと思います。とくに破壊される市街のミニチュアは、リアルな重量感という点で、ひょっとすると東宝映画以上かも・・・


ありゃ、また・・・実況中継がはじまっちゃいましたよ(^^;やっぱりゴジラを思いましますね

群衆が逃げ惑うシーンも、明らかに「ゴジラ」を意識しているようですが、むしろこの映画の方がエキストラの演技は真に迫っていますね



高圧電流で進行を阻止しようとするのも・・・さらに、海外の怪獣映画としてはめずらしく、軍隊の武器(兵器)がてんで通用しない無敵の存在であることも、ゴジラをはじめとする日本の怪獣(映画)と同様です。

このシーンでのカメラのズームなどは、迫力を演出するのにたいへん効果的ですね


最後は子供を連れて海に帰って行くんですが、これはその後「ゴジラ対メカゴジラ」(だったかな?)に逆輸入されていますね。



怪獣を見世物にしようという人間の身勝手のようなものはあまりどぎつく描写されてはいませんね。日本だったら、たとえば「モスラ」のように、これでもかの悪役が登場して周囲の顰蹙を買うところですが、これはこれで充分。

しみじみとゴルゴを見送る男の子がいいですね

怪獣映画もイギリス産となると違ったもんで、いい雰囲気・・・と言いたいところなんですが・・・



先程のアナウンサー(ニュスレポーター)、ほとんど台詞のない終盤、ひとりでしゃべりまくっています。

まるで台本のト書きのような存在ですね(^^;



・・・まだやってます(笑)結局、その徹頭徹尾蛇足と言うべき実況中継はラストシーンに至るまで止むことなし。あろうことか、締めのひと言もこのアナウンサーの口から聞かされます。

これさえなければねー(-_-;

これは例の「ゴジラ」での「いよいよ最後、さようならみなさん、さようなら」・・・からヒントを得たのかもしれませんが、台詞のない終盤、storyをわかりやすくしようとして入れたのではないでしょうか。ここまでまったくドラマに絡んでいないひとですから、どうも思いつきの次元を出ていないと感じるのですけれど(^^;

「原子怪獣現る」もそうなんだけど、監督の演出はたいしたことはない。特撮に関しては観るべきものがあるという以上に、上質の出来と言っていいだろう。ぬいぐるみ怪獣であることと、よくある主人公と仲睦まじい若い娘が出てこないことが、海外の怪獣園画にはめすらしいな(いや、じっさいオンナなんか出てこなくよかった)。子供が出てくるのはむしろ、「その後」の日本特撮映画の特徴となるんだけど・・・


捕獲された子供ゴルゴを逃がそうとしたり、母親ゴルゴの上陸をむしろ歓迎するような表情で見守っているんですね

日本の怪獣映画に出てくる子供ってのは妙に小賢しくって嫌味なガキばかりなんだよね(笑)だから個人的には怪獣映画に子供なんか出てこない方がいいんだと思っていたけど、必ずしもそうじゃなかいんだな。この男の子なんかは、格別美少年というわけでもないんだけど、じつに素朴で健気な愛すべき少年だよね。



とてもいい笑顔ですよね(^o^* 
( ̄∇ ̄*po〜




2008.11.21 fri



果たしていづれの音樂がより廣く、多くのひとに聽かれてゐるんでせうか?




2008.11.20 thurs



引き続き実相寺昭雄監督作品、「D坂の殺人事件」(1997年)。原作は・・・というより、脚本は江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」や「心理試験」を基に脚色されたもの。出演は真田広之、嶋田久作、吉行由美、岸部一徳ほか。音楽が池辺晋一郎です。

昭和2年、東京市本郷区団子坂にある古本屋・粋古洞の女将・須永時子は、伝説の責め絵師・大江春泥の「不知火」の贋作作りを蕗屋清一郎という美術品修復家に依頼します。蕗屋は、見事に「不知火」の贋作を拵え、その出来映えに満足した時子は、続けて春泥の「明烏」を拵えるよう蕗屋に依頼します。しかし原本のない、吉原の遊女を折檻する場を描いた「明烏」の贋作作りは蕗屋にも難しく、モデルを使うも一枚も仕上がらず。結局彼はモデルに着せていた衣裳を我が身にまとい、鏡に映る自分の姿を見て、自らをモデルにすることで「明烏」を完成させます。そして完成した「明烏」を届けに粋古洞を訪れた蕗屋は、そこであることに気付き、後日報酬を受け取りに再度訪れた際に時子を殺害します・・・。



冒頭ほか、ところどころに挿入される模型による街並み、dioramaです。storyの進行・展開を支えるというより、物語そのものを昔語りと感じさせる、あるいは寓話化してしまうような効果があります(いいか悪いかは別問題として)。


古書店・・・というより古書肆店内、またまたHoffmannのfetishismがふるえる場面ですなあ(^o^*



映画のなかの蓄音機画像―これはstoyの舞台となる古書肆の向かいにあるカフェー。



明智小五郎は前作に続いて嶋田久作。登場時は退屈な生に倦み疲れた様子で、これはこれで悪くないと思ったんですが・・・



事件解決にあたり、こうも颯爽と登場されちゃうと、いささかご都合主義と予定調和の感否めず。

あらあらあら・・・(^o^;


贋作師・蕗屋を演じているのは真田広之。狂気と言うより偏執狂じみた妄執に取り憑かれた贋作師を淡々と演じています。

この右のシーンの目つきなどはむしろ例外的で、終始ほとんど内面を外にあらわさないような、平然とした表情なんですね



こちら粋古洞の女将、時子。あまり演技がどうとか判断できないのは、途中で殺されてしまうからではなくて・・・



・・・このひとが登場するシーンに限ったことではないんですが、とにかく監督による独特の映像造りが目を引くため。


これは時子の方が「あること」に気付いたシーン・・・だからってどうということもないと思うんですけどね。



事件後、市井の様子や警察の捜査などは一切描かれず。捜査の進行状況はいくつかの新聞記事であらわされ、証言をとっているシーンも証言者のひとり芝居で、取り調べ側の台詞はなどはまったくなし。さすが、うまいもんです。

よけいなものを排除して、さらに映像の効果もあって、高められた緊張感が持続していますね



予審判事役の岸部一徳は台詞が棒読みながら、これはこれで効果的?

私は「ツィゴイネルワイゼン」の梅田敏八を思い出しちゃいました(^^;



これは「小林少年」。すげー美少年、と思ったら、三輪ひとみという女優さんでした(^o^A;

Hoffmannさんは男装している女性に弱いんですよね(笑)



こうして並べちゃうと、さすがにやりすぎと見えるかもしれませんが、この映像センスこそが実相寺監督の個性ですからね。

逆光だらけで、Hoffmannさんが撮られた写真みたいですね(^o^*


蕗屋逮捕後、小林少年がその衣装を着て唇に紅を塗り・・・。少年役を女優に演じさせるというのは、ちょっとアマチュア臭くてほとんどの監督なら避ける? それをあえてやったのは、このラストシーンを撮りたいためだったのかも・・・。

それは考えすぎじゃないですか?(^^;

さて、この「D坂の殺人事件」もいい雰囲気の作品に仕上がってはいるとは思うんですが、Hoffmannはどちらかというと昨日の「屋根裏の散歩者」の方が完成度は高いかなと感じています。ひとつには乱歩ならではのfetishな道具立てがいまひとつ。責め絵とかそのモデルの緊縛シーンなんてそれだけのもの、さほどの効果が期待できるものではありません。その先が、ない。また、明智小五郎が私立探偵として生きてゆこうという決意をしたとたんの颯爽と洗練された紳士への変身は、あまりにも陳腐に過ぎます。登場人物、とくにヒーローをかっこよく扱うのは三流ドラマ。だからせっかくの個性的な映像造りが妙に浮いてしまった印象なんですね。さらに、池辺晋一郎の音楽は神経を逆なでするようないい効果があるんですが、ちょっと主張が強すぎて、ときどき画面よりも音楽の方に注意が向いてしまうこともあります。いろいろな意味で、あらゆる要素がそれぞれ別な志向を持っているようで、結果チグハグになっているんですね。

まとまりという点では「屋根裏の散歩者」だな。たぶん、こちらの方が予算もかかっているんだろうと思うけど、「屋根裏・・・」で言った大道具・小道具の巧みな扱いがここには観られないんだよね

ドロドロした人間模様とか、過激なエロティシズムというものはあっさり扱われているんですが、別なfetishismが不足しているということですか? 真田広之の抑えめの演技はよかったと思いますけど・・・

その先が、ない(笑)




2008.11.19 wed



実相寺昭雄監督の「屋根裏の散歩者」(1992年・TBS&バンダイ/アルゴ)ですぞ。

「ですぞ」?(^^;

もちろん原作は江戸川乱歩。出演は三上博史、宮崎ますみ、加賀恵子、嶋田久作ほか。DVDケースには<完全版>とあります。以下ケースから引用―

---ここから---
「屋根裏の散歩者」<完全版>は77分のインターナショナル・バージョンと同じです。74分のR指定版は94年の3月の初公開当時、映倫管理委員会の指示により一部性描写などが削除されました。同年4月にはスタッフの尽力でインターナショナル・バージョンとして、カットされた箇所を復元した77分版も劇場公開されています。本DVDではこのインターナショナル・バージョンのタイトルを実相寺監督自らの提案により<完全版>としました。
---ここまで---

8854ですね(^^;

偶然自分の部屋の押し入れに屋根裏への入り口を見つけた郷田は、そこから屋根裏に上がり遊民宿に住む他の住人たちの部屋の覗き見をする・・・という覗き見という倒錯行為を描いたものですが、主人公はあまり覗き見そのものに深入りするよりも、さっさと行動を起こして(つまり殺人)しまうんですね、しかし描き方が巧みなので、これで充分と見えます。



全篇にわたり、カメラワークは実相寺ワールド全開といった印象で、どこもかしこもキャプチャしたくなります。



昨日の画像右側、その眼鏡の前の展開されている光景。


画像左側の眼鏡の前はこちら―。モデルは同じ女性で、上の画像はスケッチしているところですが、こちらは写真を撮っていたところなんですね。



そのカメラがこちら―ひさびさの「映画のなかのカメラ画像」。いわゆるバルナック・ライカ、アイレットも距離計もなくて・・・型はたぶん「あれ」かな(笑)レンズは当然Elmar50mmF3.5ですね。

室内撮りで50mm超えの画角はちょっとキツそうだなあ(・・*

なにもそんな心配をなさらなくても・・・(^o^;


このシーン、悪くはないんですが、ちょっと長すぎてくどいですね。

私は、クライマックスを間近に控えて、静かに緊張感を高めてゆく、したたかな計算による巧みさを感じましたけど・・・



この部屋は蔵書(古書)の山、Hoffmannのfetishをシゲキしますなあ(^o^*〜♪ 部屋の主は嶋田久作扮するところの明智小五郎

なんというか美しいほどに「整然と」雑然としていてますね(^o^*



屋根裏からこんな表情で現れるもんですから、もともとの異貌がさらに際立って、悪役のように見えてしまいますね。しかしこの飄々とした明智小五郎も、効果的かつ魅力的です。

意外とこの時期の原作のイメージには近いかもしれませんね



屋根裏での、犯人との会話のシーンは美しくもあり、忘れがたい印象を残しますね。

光と影、その陰影の効果は特筆ものですね。どちらかというと、夜の闇よりも薄明に幻想味があって、ここではいわゆるエログロが残虐・怪奇に化けかかっているんですね

小道具や大道具の使い方も計算されたものだろうけど、その「計算」が透けて見えるようなことがなくて、とにかく効果的なんだよね


三上博史の変質者ぶりが見事でしたね。いかにもな変態ではなくて、常人がふとしたきっかけから倒錯と狂気にとらわれていく様が、これこそ乱歩の世界をデフォルメすることなく伝えているのではないかと感じました

静かな狂気、だよね。わざとらしさがなくて、日常とほんのわずかな境目しかない「あちら側」の世界へ踏み込んだだけであることがよくわかる。その意味では嶋田久作の明智小五郎も「あちら側」の世界に知悉しているタイプと見えて、上手いキャスティングなんだなと思うね



ただ、この宮崎ますみ演じるヴァイオリンを奏でるお嬢さん、ちょっとなくもがなの感あり。いや、エピソードとしては本筋の脇でそれなりの効果を担ってはいるんですが、設定や描き方が少々陳腐です。

あと、その映像はかなり凝りまくりの「実相寺ワールド」と先程言いましたが、やや気になったのは、やたらカメラを傾けるんですね。効果的だとは思うんですが、あまり多用するとちょっと嫌味な印象も。やりすぎの感なきにしもあらず。


ただしそのへんは些細な問題、全体としては乱歩の世界にふさわしい、いいatmosphereを醸し出しており、傑作と呼ぶべき乱歩映画ですね。

はは〜ん、ここ最近upしていたdisc写真がおかしな撮り方になっていたのは、この映画を観たからなんですね(^0^;




2008.11.18 tues



映畫における眼鏡の時代考證―。戰前であれば鼻パッドがなくて、レンズにコーティングがないことなどですが、前者はともかく、コーティングに關しては、反射しすぎてその眼鏡をかけてゐる目がまるで見えないやうでは撮影にも不便でせうね。そのあたりはどう處理してゐるんでせうか。

右のシーンなどはレンズの反射を逆手にとつてゐるんですね(^^*

さて、このふたりは、なにを見てゐるのでせうか?




2008.11.17 mon

バッハのdiscを取りあげている間にだぁーれも来なくなっちゃいましたな(^^;・・・って、べつにバッハのせいだとは思っておりませんが、それはともかく、本日は知名度のわりに「好き」だというひとのいない、はやいハナシがあまり人気のない作曲家のdiscですよ(笑)



ヒンデミット(ヒンデミート)ですね。このCDはHoffmannさんにしては新しめの録音ですね

聴くとすればもっぱらオペラだから、たしかにめずらしいお買い物ではあるな

・・・って、またまたヘンなお写真ですね〜(^o^A;どうして素直に撮らないんですか?



こっちの方がよかったかな(笑)




2008.11.16 sun

10日間もバッハの宗教曲(のdisc)を取りあげていて、もちろん好きなdiscも気に入らないdiscも登場したんですが、どうも未だ核心に至らず。とりあえず一段落とします。



これは器楽曲。ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ。



これはMichael Gielen指揮SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburgによるブルックナーの交響曲第6番のdisc。Hoffmannはブルックナーの交響曲のなかでは第6番はとくに好きなんですが、いまこのdiscを取りあげたのは、バッハのオルガン作品、前奏曲とフーガBWV552のシェーンベルクによるオーケストラ編曲版が併録されているから。後期ロマン主義的気宇壮大タイプのバッハなれど、さすがシェーンベルク、スットコなんとかいう指揮者の編曲とはエライ違いです(笑)




2008.11.15 sat



「マタイ受難曲」の古い録音をもうひとつ―ブルーノ・キッテル指揮ブルーノ・キッテル合唱団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1942年の録音です。福音史家はワルター・ルートヴィヒ、イエスはF.ドリッセン、ほかにティッラ・ブリーム、グスタ・ハマー、ハンス=ハインツ・ニッセン。

ブルーノ・キッテルは1980年、現在のポーランド、ホルストハウス・エンテンブルッフ生まれ。ベルリンで音楽を学び、1896〜1901年の間、宮廷楽団のヴァイオリン奏者を務めた後宮廷劇場の指揮者となって、1902年に自身の名を冠した合唱団を設立して、戦前のドイツで活躍したひと。この合唱団はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が合唱を含む作品を演奏する際には常にパートナーに選ばれていたそうです。


フルトヴェングラーの大戦中(1942年)のベートーヴェン第9交響曲でも有名ですね

この「マタイ受難曲」にはかなりのカットがあり、また児童合唱などは決して高い水準の出来とは言いかねるものの、悪い演奏ではありません。指揮は実直ながらバッハ演奏としてとりたてて指摘するほどの特徴もなく、しかしだからこそ、おそらくこの時代の(教会ではなくて)コンサートホールにおける一般的なバッハ演奏だったんじゃないでしょうか。

ライプツィヒの教会付属聖歌隊とは違って、都会的な洗練が際立っていると思います。分厚い響きで遅めのテンポ、その意味ではロマン的解釈の時代なんですが、意外と引き締まって聴こえるんですね

そのあたり、福音史家のワルター・ルートヴィヒが主情的になりすぎず、記者としての分に徹しているのが大きいかも・・・

なお、このdiscは新星堂オリジナル企画による3枚組CDで、同じ指揮者・団体による1941年録音のモーツァルトのレクイエムを併録。かなりゆったりめのテンポで、ていねいと言えばていねいなんですが、スケールを拡大するには至らず、ものものしい進行。




2008.11.14 fri



聖トーマス教会の合唱団(聖歌隊)による受難曲と言えばこれ―ギュンター・ラミン指揮による「マタイ受難曲」。オーケストラはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で、大戦中1941年の録音。福音史家はカール・エルプ、イエスがゲルハルト・ヒュッシュ。PREISERのCD。

現代のバッハ演奏から(残されている録音で)その源流をたどってこのラミン盤にたどりつくことについては、おそらく大方異論はありますまい。メンゲルベルクやフルトヴェングラーの演奏は、おそらく当時としても、多くのひとからはスタンダードなバッハ演奏という受け取り方はされていなかったのではないかと思われます。現在でもふつうにバッハを愉しめる演奏ですね。録音の古い順番に聴いてくると、ここではじめてバッハの音楽にポリフォニーを意識させられます。惜しいのは歌手が弱いこと。エルプはメンゲルベルク盤でも福音史家をつとめていたひとなんですが、ここでは63(64?)才を超えた年齢で衰えは隠せず。


メンゲルベルク盤を聴いて、当時のバッハ演奏はこうしたもの、と思っているひともいるかもしれませんが、メンゲルベルクと同時代にして、これだけバッハへの明確な志向を持った演奏が行われていたんですね



こちらは同じくラミン、ライプツツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、聖トーマス教会合唱団による「ヨハネ受難曲」。1954年の録音、エルンスト・ヘフリガーの福音史家、フランツ・ケルヒのイエス。ほかにアグネス・ギーベル、マルガ・ヘフゲン、ハンス=オラフ・ヒューデマン。Berlin ClassicsのCD。

上記「マタイ受難曲」の13年後、戦後の録音とあって演奏はより近代化。これは福音史家にヘフリガーを得たためもありますね。弟子のリヒターがこの延長線上にあるということが納得できますね。ラミンの音楽造りには、そこはかとなくトーマス・カントルとしての自信、あるいは迷いのない確信が感じ取れます。

先の「マタイ受難曲」よりも録音が良好な分、聴き応えがありますね




2008.11.13 thurs

バッハの受難曲、ミサ曲のdiscを取りあげはじめてこの方、だーれも来なくなっちゃいました(^o^;が・・・これまであえて取りあげることを避けてきた作品(disc)であるためか、なんとなく気分がノリノリなのでもうすこし続けちゃいます。



とか言いながら(笑)これは以前取りあげたことのあるレコード―「ヨハネ受難曲」、淡野弓子指揮ハインリッヒ・シュッツ合奏団、同合唱団。歌手は福音史家に鈴木仁、イエスに川村英司、ほか嶺貞子、菊池洋子、下野昇、池田直樹。1977年3月23日東京カテドラル聖マリア大聖堂における収録。コジマ録音AL-16〜18の3枚組LPです。

鈴木雅明、バッハ・コレギウム・ジャパン以前、それも1977年の時点でこれだけの成果をあげていた団体が日本にいたということが驚きでもあり、うれしくもあります。よって立つことのできる伝統というものがなくても、ひたむきな求道精神がここまで深い感銘を与える演奏を可能にしたことは特筆すべきでしょう。

これは感銘の度において、ほかの多くの有名な盤と互することのできる演奏ですね



これも以前取りあげたことのあるレコードですね。ハンス・ヨアヒム=ロッチュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団による演奏。1975〜76年の録音で、はペーター・シュライアーで、イエスはテオ・アダム。ほかアーリーン・オジェー、ハイジ・リース=ベルトルート、アルミン・ウーデ、ジークフリート・ローレンツ。

ロッチュはもともと歌手だったんですが、ヘンな声を出すひと。しかしながら合唱団のトレーナーとしてはなかなかの腕前? オーケストラの響きは重厚で、やはりトーマス教会の合唱団はこれこそ本物といった真摯な歌いぶり、とにかく伝統という重みを感じさせる質実な演奏が貴重ですね(ついでに付け加えると、これが1960年代ではなく1970年代半ばの録音であるのが、東独ならでは)。しかし、先の淡野盤とは逆で、どことなく伝統に安住してしまっていると感じられないでもない。作為のない素朴さと言えば聞こえはいいんですが、反面、これといった主張も感じられないんですね。いや、ひとり気を吐いているのが
エヴァンゲリストのシュライアーで、どうもこのひと、このあたりからその歌唱をことさらに劇的に演出しはじめたみたいです(その後指揮者・福音史家を兼務した「マタイ受難曲」の録音で、その演出は頂点に達します)。このレコードに聴ける「ヨハネ受難曲」の司会・進行はシュライアーですね。

たしかにシュライアーはちょっと浮いちゃってますね。そのほかの歌手はアダムのイエスをはじめ、みなさんとてもいい出来なんですけれど、どことなくルーティン・ワークと聴こえないでもないのは、やはり指揮者のせいでしょうか

シュライアーの福音史家って、感情移入ともまた違うんだな。持てる芸とテクニックを駆使した実況中継みたいな感じ・・・(^^;どことなくマンガ的なわかりやすさというか・・・

今日のふた組のレコードはいずれも国内盤ですけれど、カートンケースのデザインは、どちらも簡素にしてセンスのよいものですね(^^*




2008.11.12wed

昨日カラヤンによる「ミサ曲ロ短調」を取りあげたので、本日は「マタイ受難曲」、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を振った1972〜73年録音のDGG盤について―ただしお写真は省略。

演奏は大筋昨日述べた「ミサ曲ロ短調」DGG盤とほぼ同傾向。どろどろとしまりなくたれ流し状態のオーケストラの響きはより徹底されています。やっぱりこれを(批判的な意味で)「美しい」とコメントするひとが多いんですが、Hoffmannはきったないヘドロを連想します(というか、すっかり混濁しており、とうてい美しいなどとは思えないのです)。レガートに満ち満ちたコラールはテクストに無関係のオブリガートと聴こえ、こってりねっとり厚化粧を施した熟女というより大年増風(笑)に官能的なアリアはほとんどパロディの域。

私もこれはいただけません(^o^;すぐれた歌手を集めたところで、これではむなしさを通り越して滑稽と言わざるを得ませんね

断っておくけど、この演奏が神(あるいはキリスト)への冒涜だとか言ってるんじゃないよ。単にバッハの音楽に対する無理解、またははなはだしい誤解、もしくは勘違い、さもなきゃ・・・(以下略)



さて、大指揮者―それもバッハ(の音楽)とは距離がありそうなタイプということで、こちらはレナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックによる1963年の録音。

冒頭からまるでニューヨーク喧噪のような響き。歌が英語訳によるものなので違和感いかんともしがたし。それでもよく聴くと、さすが作曲家ならでは(?)、バッハあるいは「マタイ受難曲」を研究したうえでの演奏らしく、リズムの刻みはきっちり、カラヤンのように一様にダイナミクスの(なめらかな)変化でごまかしたりなどしていません。ただ、情熱は感じられるんですが、ものの見事に空回り(^o^;英語訳の歌詞はともかく、またかなりのカットも大目に見たとして、さらに米プレス盤らしいささくれたような高域上がりの音質も問わないとしたところで、合唱もソリストも品位を欠いて、ひたすら「絶叫」するばかりなんですね。歌唱がどうこうという以前の問題。もっとも、バーンスタインの(とくにアメリカでの)録音って、ソリストの人選に首を傾げたくなるようなものが結構多いんですけどね。

なんとかパークの近くを通りかかったら新興宗教か政治活動家のアジ演説が聞こえてきた、といったイメージで、これはやっぱりニューヨークの喧噪ですね(^o^;




2008.11.11 tues



カラヤンの指揮によるバッハのミサ曲ロ短調といえば、ベルリン・フィルを振った1974年録音のDGG盤がありますが、なんともモノモノしい全合唱にはじまって、あざといくらいにコントラストを効かせてふわふわの木管が歌い出すという、バッハの音楽もここまで下品になるものかという演奏ですね。合唱はテクストの内容に無関心、言ってみれば合唱というオブリガート付きのオーケストラのための幻想曲といったところ。その責任は指揮者に帰せられるべきところですが、それでなくてもこの合唱団は下手。一方オーケストラの響きときたら、レガートでべったり厚塗りのまるでホステスの厚化粧、これを「美しい響き」とか「官能美の極致」なんて言うひとがいますが(ただしたいがいこの演奏に否定的な意見としてそう言われているんですけどね)、Hoffmannの耳にはリズムのない、旋律線もボケボケの濁ったキタナイ響きとしか聴こえません。

上のお写真は1952〜53年のmono録音。この独プレス盤には“Chor und Orchester der Gesellschaft der Musikfreunde Wien”ウィーン楽友協会合唱団・管弦楽団と表記されていますが、オーケストラはウィーン交響楽団だそうです。ソロにはフィルハーモニア管弦楽団のメンバーも参加。カラヤンもこの時期だとそんなに嫌らしくはありません。でも、やっぱりこれ、バッハを演奏しようという意気込みとは別な方を向いているようですね。もっと言ってしまうと、カラヤンにはバッハを指揮する才がないんじゃないでしょうか。

後年にくらべれば、さほど過剰な演出臭が感じられないあたりは悪くないと思うんですけど・・・



こちらはロリン・マゼールのベルリン放送交響楽団時代、1965年の録音。合唱はRIAS室内合唱団。歌手はテレサ・シュティヒ=ランダル、アンナ・レイノルズ、エルンスト・ヘフリガー、ジョン・シャーリー=カーク、ヴァイオリン・ソロが当時このオーケストラのコンサート・マスターだった豊田耕児。

マゼールこそ、あざといほどににコントラストを効かせた表情付けが特徴なんですが、この時期のマゼールはその表現意欲にあふれんばかりの才気をそそぎ込み、その意味では直球勝負、でありながら斬新で意表をついた変化にも富む、たいへんすぐれたバッハ演奏になっています。繰り返しますけどこの録音、1965年のベルリンにおけるものですからね、これなら同市のオーケストラでカラヤンなんぞがバッハに手を出す幕じゃありません。こういう演奏だと、大オーケストラに規模大きめの合唱団でも、古いと感じさせないのがおもしろいですね。

トンがっているくせにかえって純情なアプローチと聴こえるのは、若さ故の特権かもしれませんよ(^o^*




2008.11.10 mon



トン・コープマン率いるアムステルダム・バロック管弦楽団による「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「ミサ曲ロ短調」のセット。じつは「マタイ受難曲」だけはずっと以前に聴いたことがあったんですが、このセットは比較的最近入手。もともとかなりのお買い得価格がさらに半値以下になっていたんですな。

コープマンといえばバッハに限らず、生き生きとして聴く側ばかりでなく、演奏する側も愉しんでいるような、とにかく愉悦感あふれる(はじける?)演奏を聴かせてくれるひとですね。優秀な古楽器奏者というのは、その演奏が古楽器によるものであることをことさらに意識させないという点で、アーノンクールやガーディナー、ホグウッド以上に時代を画したひとではないかと、Hoffmannは思っています。

ここでもintimateな雰囲気はコープマンならではの個性を発揮したものと言えるんですが、ちょっと受難曲としてはやさしすぎる気もします。室内楽的なアンサンブルの妙が、暖かいなごみ系に傾いて、もうひとつ緊張感に至らないもどかしさが残るんですね。その意味では、ふたつの受難曲よりもロ短調ミサの方がよくて、さらに、ここには写っていないんですが、「クリスマス・オラトリオ」が聴いていて愉しい、そんなところにコープマンの長所も短所もあらわれているような気がします。

ここに聴くことのできる声楽もすばらしいとは思うんですが、私はコープマンさんなら器楽系の作品の方が好きですね。とくにバッハのチェンバロ協奏曲集が大好きなんですよ

仏Eratoから出ている全集?

いえ、それより前に録音されたPhilips盤ですね。2〜4台のチェンバロのための協奏曲集です。大胆な表現意欲が空回りせずにここまで成果をあげるのは、古楽器演奏がすっかり身に付いているからこそだと思います。なんというか、ノリノリのswing感があるんですよ(^^*




2008.11.09 sun

光源氏の色好みみたいに、対象は幅広く受け入れちゃったほうが人生は愉しめますな・・・なんてことは言いません、言ったらご都合主義が過ぎます。その楽曲や演奏を愉しめるかどうかとなれば、どのみち厳然たる判断基準があるのは当然ですからね。


ちなみにこちら2点のdiscに関しては、Hoffmannは大喜びで愉しんじゃう方です。


左は「マタイ受難曲」のメンデルスゾーンによる蘇演を忠実に再現したというdiscですね

「マタイ受難曲」は1829年のベルリン上演版ではなくて、1841年のライプツィヒ上演版をベースにしているとされている。もちろん、当時の楽器を使っていて、歌手の音域を考慮したとおぼしき、「改訂」というより「妥協」もそのまんま。演奏は装飾音がかなり省略されていて、それならもっとフレーズの要所要所にアクセントを効かせるくらいの配慮はあってもよかったと思うな。その意味では、このメンデルスゾーン版をまた別な演奏で聴いてみたいと思わせるおもしろさはあるよ

右は「ヨハネ受難曲」のシューマンによる改訂版ですね

1851年にデュッセルドルフでの演奏を再現したもの・・・といっても、当時カットされた楽曲もここでは演奏されている。アレンジはかなりロマンティックで、もともと劇的な福音史家のレシタティーヴォがますます劇的になっているね。演奏は主体的な表現意欲を感じさせるもので、このdiscの価値を資料的なレヴェルにとどめるばかりではない。ただし、一部の歌手と合唱は弱いな

# 演奏者(団体)名の記載がないが、忘れたわけではないよ。




2008.11.08 sat



「マタイ受難曲」のレコード、古いといってもこのあたりの盤となると、また別な意味を持っていますよね

ウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団による1939年4月2日のlive録音だね。もともと有名なレコード(録音)ではあるけれど、高名なバッハ研究者が、そのバロック音楽・バッハ演奏の様式との隔たりに対して「途方に暮れる」だの「うんざりする」だの言うもんだから、かえってこの演奏への賛辞も目に付くようになってきた

Hoffmannさんはこの演奏がお好きなんですよね

このレコードが好きだという現代の聴き手を軽蔑したってかまわんよ。でも、軽蔑されるべきはこの演奏者たちや当時の聴衆の感動を否定する、「おれさまは教授様だぞォ」という高慢な独善主義だと思うね。まあ、現代は学問・学説というものの更新も加速度付きに早いから、ほっといたって「教授様」の主張もあっというまに古くさくなって黴が生えてくるにきまってるさ。いずれそうなったときにも、メンゲルベルクの録音は必ずや輝きを失うことはないと思うよ



それでは、こちらのフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による1954年のlive録音は・・・? これはCDですけれど、ほかにLPも2組お持ちですから、やはりお気に入りなんですよね?

そうでもない(笑)複数持っているのはCDでは一部収録曲のカットがあって(以下略、適宜検索してくだされ)




2008.11.07 fri



いずれもJ.S.バッハの「ヨハネ受難曲」のDVD。

J.S.バッハといえばほとんど神格化された作曲家であり、その作品のなかでも「マタイ受難曲」、とりわけカール・リヒターによる第一回目の録音はまず例外なく神棚にまつりあげんばかりの賛辞が繰り返されていますね。Hoffmannもその演奏がたとえようもないほどの高見に達していることについては(あたりまえすぎるくらい)異論はありません。異論はありませんから、別にコメントすることもありません。ただしひと言だけことわっておくと、その演奏を神格化したり神聖視したりするつもりはありません。

リヒターの録音では「ヨハネ受難曲」も、これは「マタイ受難曲」以上に緊張感漲る凄絶な演奏なんですが、そのレコードとは別録音のDVDなど鑑賞していると、やはり古いなあと思わないわけにはいかないんですね。いや、リヒターの演奏に対してそんな印象を抱くようになるとは、かつては予想もしていなかったことなので、自分でも驚いているんですよ。

こrまで、「ヨハネ受難曲」のレコードはほんの2、3のレコード取りあげたことしかありませんでしたね。「マタイ受難曲」に至ってはまったく・・・


あまり気軽に取りあげたくないんだよね

やっぱりHoffmannさんも神聖視・・・とまで言わなくても、特別扱いしているんじゃないんですか?

いや、「マタイ受難曲」も「ヨハネ受難曲」も好きだし、偉大な作品だとは思う。でもね、宗教音楽は好きだけど、キリスト教に限らず宗教ってのはキライなの(笑)

バッハの研究書など参照しますと(するまでもなく?)、キリスト教信仰や神への思いを抜きにしてバッハは語れないのではないですか?

それが妙な神格化だと思うんだよ。バッハの時代のヨーロッパ人なら、王族から貴族、一般市民だってあたりまえのこととしてキリスト教を信仰していたさ。そのこと自体を特別視して、相手ががたまたま神だもんだから、現代の日本人までがことさらに深刻ぶって、その音楽作品まで神聖視して―言っては悪いんだけど―「わかったふり」をしているのが嫌なんだな。そういった主義とか信仰とかよりどころとされている価値観なんて、その主体となる人々が、生きている時代故に身にまとったある種の「病気」みたいなものだよ。その意味で、人間の悟性とか精神のレベルでは、キリスト教の信仰だろうが反ユダヤ主義だろうが、はたまたナチズムにしたところで、その本質部分に違いはない

「信仰=風土病説」ですか・・・(^o^;




2008.11.06 thurs



ずっと以前から入手しようと思っていながら、いつでも手に入れられそうなものはつい優先順位が下になって、そのままになってしまうことがあるのはCDに限らないんですが、おかげで発売からある程度の年月を経たおかげで、突然思いがけないほどのお買い得なお値段になって、目の前に現れることがあります。

長いセンテンスですね〜(^o^A;

鈴木雅明、バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハの6大宗教曲のBox Setで、収録曲は「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「ミサ曲ロ短調」、「クリスマス・オラトリオ」、「復活祭オラトリオ」、「昇天祭オラトリオ」、同団体による「バッハ・カンタータ全集録音が40巻(全体の3分の2)まで進んだことを記念して」の限定発売だそうなんですが、CD10枚組で6千といくらか(忘れた)というのは、このなかのひと組やふた組所有していたとしても、これ買ってまだお釣りが出そうであるばかりでなく、瑞BISの盤であることを思えばいよいよもって驚異的な価格ですね。

ますます長いセンテンスですね〜( ^ 〇 ^ A ;ワ、ワタシの顔が・・・



これは「ヨハネ受難曲」のDVDから―。

「ジョンの情熱」ですかっ?ヾ(・∇・*




2008.11.05 wed



エラソーなことを言うつもりではないが、なかなか鋭いことを言っているものもあれば、通り一遍でまったく参考にも刺激にもならないものもあるのは、どんなテーマに関する本でも同じこと。

ただ、イタリアやドイツの映画も英訳の題名しか表記していないと、これは不便。さらに邦題は原題とはまるで異なる場合が多いので、外国語の文献はその点がつらい。もっともジャンルが自分の得意な(笑)ジャンルに程度限定されていれば、おおむね既知のものではある。



映画に関する日本語の文献は、映画の題名を邦題のみしか表記していない場合、たいへん不便。巻末の索引に原題を併記しておくなどは当然のことながら、やはりいちいち索引を参照するのは面倒。やはり文中に併記されていたほうが助かる。




2008.11.04 tues



Hammer Film Productionによる1968年の作、「悪魔の花嫁」“The Devil Rides Out”(1968英)です。テレンス・フィッシャー監督。デニス・ホィートリーによる同名の小説を原作に、リチャード・マシスンが脚本を担当。ちなみに原作は平井呈一の翻訳が「黒魔団」という表題で出ていましたね。

オカルト学者ニコラス・リシュロ公爵(ド・リシュロー公爵)とその友人レックスは、空軍時代の同僚の息子サイモンがモカタ(モケータ)率いるカルト教団に入信して黒魔術に手を染めようとしていることを知り、その教団の儀式に乗り込んで、サイモンと女性信者タニスを保護します。モカタは魔術の力で、儀式に必要なサイモンとタニスを奪還しようとします。

クリストファー・リィがリシュロ公爵と、先日の「ゴーゴン」同様善玉を演じているんですね


対するモカタにチャールズ・グレイ。大物なんですが、演技はあまり・・・。


ヒロイン役のタニス嬢はニケ・アリギという女優さん。この時期のHammerの映画に登場する女優さんって、平均的美女というよりもexoticなタイプが多いんですね。



原作は決して格調高い文学作品というものではないにせよ、entertainmentとしてよくできた小説なんですが、この映画ではその魅力がかなりスポイルされてしまっています。原作は長篇で、盛りあげてゆく過程がなかなか重厚で愉しめるんですが、やはりそのあたりを活かすには、低予算ぶりが露呈して、story展開も妙に駆け足と見えます。そもそもモカタはいったいなにをたくらんで手間暇かけて儀式を行おうとしているのか・・・悪魔を呼び出す? それから? おかげでなんともスケールの小さいキャラクターとなって、おまけにstoryもちんまりとまとまってしまっていますね。ラストの大団円もご都合主義に過ぎます。リシュロ公爵の最後の台詞には耳を疑う(字幕だったら目を疑う、か)ものです。

これじゃ「スーパーマン」並だな(-。-;


奇蹟で締めくくるには、そこまでの過程を入念に描いておかないと滑稽になってしまうといういい例ですね(^^;


どんな役もこなすクリストファー・リィですが、やはり悪役の方が似合うと思うのは先入観?(^^;




2008.11.03 mon



これもアントニオ・マルゲリーティ監督による作品、「顔のない殺人鬼」“La Vergine di Norimberga”(1963伊)です。昨日の「幽霊屋敷の蛇淫」“Danza Macabra”(1964伊仏)の方が1年後の公開なのにモノクロであったのは、あれはあえてカラーにしなかったということですね。

第二次世界大戦終結から十数年後のドイツはライン地方の古城が舞台。夫の所有する古城の一室で眠っている若妻は若い女性の悲鳴で目を覚まします。ここには中世の数々の拷問具の展示室があって、彼女はその展示品のひとつ、いわゆる「鉄の処女」のなかに両目のつぶれた女性の死体を見つけ、気を失います。

「鉄の処女」って、なかが空洞の人型の棺桶のようなケースで、その蓋の内側に釘が植えられているものですね、この映画のなかでは「ニュルンベルクの処女」と呼ばれていて、これがそのまま原題となっていますけど・・・

16世紀にニュルンベルクで作られたとされているものがとくに有名なんだよ。ただ、じっさいには当時こんなものは使われていなくて、後世の空想・伝説によって再現(?)された拷問具だという説もある。ついでに言うと、看板に偽りありで(笑)ほとんどは釘と蝶番以外は木製なんだよね



さてこの展示品、夫の先祖が死刑執行人だったためということなんですが、日頃はやさしい夫といい、もと父親の部下だったという顔に傷跡のあるエーリヒ、女中のヒルダといい、だれもがなにかを隠している様子。やがて展示室にあった衣装をまとった死刑執行人が現れて・・・


これは攫ってきた女性の顔に鼠の入った籠を被せているところ。これも拷問具ですね。いまの目で見ればたいしたスプラッターシーンじゃありませんが、思わず目を背けたくなるシーンです。

犠牲者が危害を加えられるのは徹底して顔(面)なんですね(・・;



古城に女性ひとり、なにかを隠している夫、謎めいた執事に女中、さらには地下室に拷問具と、ゴシックロマンスお約束の道具立ては満載の鈴なり状態ですなあ。fetishなオブジェ志向もたいへん結構。これで雰囲気が悪いわけがない(^o^*


・・・って、ニコニコしてちゃおかしいですよ〜(^o^A;


これよりネタバレ。

死刑執行人はじつは夫マックスの父親。かつて第二次大戦中にヒトラー暗殺を画策して捕らえられたうえ、外科手術によって顔面を髑髏の如くに改造(?)され、発狂してしまった悲劇の将軍。


ここで実写filmも挿入されるんですね

ここんとこ、やや違和感がないでもない。怪人の正体は超自然ではないというのが、これはこれでかまわないんだけど、結局戦争が、ナチスが悪いんだ、という話では・・・ないはずだと思うんだけどね。この悲劇の将軍自身も、もともとはナチスなんだし。ところがエーリヒについてのマックスの台詞は「戦争が彼を変えてしまった」だとか、どうも制作者(脚本家?)が戦争に対して被害者ぶっているような立場とも受け取れるのがちょっと気に入らないなあ


女中も殺害され、あわやメアリも「鉄の処女」のなかに・・・もはや我が子も判別できない狂気の父親。



エーリヒ役はクリストファー・リィ。かつての主人に愚直なまでに忠実な男を演じて、脇を引き締めています。さすが。

死刑執行人の衣装や残虐なシーンなど、この映画をカラーで撮っただけの説得力があると思います。その色彩は渋めですけれど、Hammerあたりのカラーとは異なった、まるで色を塗り重ねたような「こってり感」がありますね。それと、カメラワークもよくて、これは「幽霊屋敷の蛇淫」は段違い、なにかが起こりそう・・・というスリルをうまく盛り上げていて、さらに闇と照明の使い方も巧みだと思います。
惜しいのは音楽ですね

登場人物の動作とか物音とかに合わせて、いちいち音楽が鳴るんだよね。とにかくしつこいくらいドラマに寄り添っていて、説明的でくどい。はじめのうちは「古風でいいねー」なんて思っていたんだけど、延々と繰り返されるとさすがに鬱陶しくなってくる

タイトルでジャズが流れるのはいかがですか?

解説書に掲載されている対談では、冒頭のシーンはゴシック風でも「これは現代ですよ」ということなのだろう、と書いてあるけど、1960年代のヨーロッパの映画にはわりあいよくあるんじゃないかな

「死刑台のエレベーター」“Ascenseur pour l'echafaud”(1957仏)あたりからの影響というか、当時の流行だったのかもしれませんね




2008.11.02 sun

本日はポオの登場する映画ですね


といっても、storyの外枠だけなんだけどね



「幽霊屋敷の蛇淫」、これまたアレな邦題ですなあ。原題は“Danza Macabra”すなわち「死の舞踏」、1964年伊仏合作映画です。監督はアントニオ・マルゲリーティ。なお、国内DVDはフランス語版で、台詞はすべて俳優とは別人で吹替えられています。

ロンドンにアラン・フォスターというジャーナリストがやって来て、エドガー・アラン・ポオに取材を申し込みます。ポオは自分の怪奇小説はすべて事実に基づいている、とこたえますがフォスターはこれに懐疑的。彼は同席していたブラックウッド卿から、11月1日に自分の所有する城で一夜を明かすことができたら100ポンド払うという賭を提案されます。フォスターは100ポンドでは負けたとき自分には支払えないと、金額を10ポンドにして賭は成立。


左がポオ、右がブラックウッド卿ですね。ブラックウッドという名前はまた・・・(^^;

ポオは似ていないこともないけど、もっとアル中っぽいダラシナサがあったほうがイメージに近いなあ(笑)ちなみにこの場面、ブラックウッド卿の後方でパイプをくゆらしているのはマルゲリーティ監督だね



誰もいないはずの城ではチェンバロの音楽が聞こえ、ドアの向こうでは何組かの男女が踊っています。ふと、肩をたたかれて振り返るとそこにはイタリアのホラー・クイーンと呼ばれたバーバラ・スティールが・・・じゃなくて(笑)ブラックウッド卿の妹エリザベスが立っており、彼女は自分の死後、兄は毎年こうした賭をしているのだ、と言います・・・。

つまりエリザベスは亡霊なんですね



さらに医師カルムスが現れ、フォスターの眼前ではこの城で過去に起きた殺人事件が再現されます。その事件そのものはいわゆる痴情による殺人と、なんだかズイブン俗っぽいんですけどね(^^;

たしかに、三面記事ふうですね

そのカルムス医師もじつは亡霊。唐突に姿を消して、フォスター君「イシャはどこだ?」と逆方向に進行する機関車に乗って金太郎飴売りのおばあさんに・・・ヾ(^o^;;嘘ですよ〜


「次はお前の番だ」と、亡霊たちのセリフも意外と月並みですなあ(^_^;ただひとり、エリザベスのみが追われるフォスターを救おうとするのですが・・・。



バーバラ・スティールって、その出演作は本邦未公開のものが多くて、少なくとも我が国ではいまひとつメジャーになりきれなかったのはちょっと気の毒なんだけど・・・ただ、意外といい映画にも出ているかと思えば、B級を通り越してZ級映画にも顔を見せたりしているんだよね

Hoffmannさんはバーバラ・スティールはいかがですか?

ちょっとキツそうで苦手なタイプ(笑)


翌朝、馬車で迎えに来たポオとブラックウッド卿。賭に勝った卿はフォスターの懐から財布を取り出し、賭金を抜き取って・・・



ポオは「これを小説に書いても誰も信用しないだろう」

この映画、「あえて」モノクロで撮影されていることも含めて、そんなに悪くはないと思うんですけど、ポオを登場させる必要があったんでしょうか?

なかったと思うな( ̄_ ̄;キッパリ

ドラマそのものはちょっとひねったgohst storyですよね

いや、典型的な幽霊屋敷ものじゃないか? 医者が出てきて妙な理論を開陳したりするけど・・・ポオの世界とはまったく異質だなあ。少なくともポオが書いた(あるいは書きそうな)小説は、もっと幾何学的なまでに明晰な精神を感じさせるものだよ




2008.11.01 sat



かくて狂乱の10月から眩暈の11月へ・・・って、酩酊の11月だね、こりゃ。

にんまーめーあ・・・ヾ( ̄∇ ̄*