monologue 2010.08

2010.01 2010.02 2010.03 2010.04 2010.05 2010.06 2010.07
2009.01 2009.02 2009.03 2009.04 2009.05 2009.06 2009.07 2009.08 2009.09 2009.10 2009.11 2009.12
2008.01
2008.02 2008.03 2008.04 2008.05 2008.06 2008.07 2008.08 2008.09 2008.10 2008.11 2008.12
2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11 2007.12
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2010.08.31 tues

灼熱の8月も終わり。狂乱の9月へと続く―。


アチチチ・・・




2010.08.30 mon


たいして意味もなくお写真を並べてみたりして・・・(笑)

左のDVD、後半メディアが出てきてハッピーエンド、このあと悲劇が待ち受けている? ミュッセというとあのポルノ作品を真っ先に思い出しちゃいますが、あれ、エロティシズムと呼ぶほどの文学作品ではありませんな。なんだか無邪気な小説家。カ−ル・オルフは、その自作のための題材の選択が、じつにHoffmannの趣味に合っておりますわい。

金羊毛の映画の主人公は、「13日の金曜日」に出てくるひとですかっヾ(・∇・; (^o^;いや、損




2010.08.29 sun



もしも優れた作品を残した作曲家でなかったとしたら、ただの気難しいオッサンですな。


バルトークといえばHoffmannにとってはまず弦楽四重奏曲の作曲家です。弦楽四重奏曲のdiscはまとめて取りあげたことがありましたね。
そこで本日はこちら―「中国の不思議な役人」です。よく「バレエ音楽」なんて表記されていて、じっさいバレエで上演されることもあるらしいんですが、もともとバレエじゃなくてパントマイムのための音楽ですね。本来のパントマイム劇として上演されたDVDが出ないもんでしょうか。

上のお写真はすべてLP。左の小澤征爾指揮ボストン交響楽団のDGG盤のみ組曲版、同コンビが後に録音した全曲版よりも熱気あふれる演奏。録音もこの指揮者のDGG録音としては比較的上質。ジャケットのデザインはこのなかではダントツ。後の2枚は全曲版で、真ん中がクリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。ウィーン・フィルとは信じられないくらいオーケストラが機能的。逆に言うとウィーン・フィルらしくないんですが、さすがルーチン・ワークとならないドホナーニの統率力の故。右はアンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団。小澤、ドホナーニと比べて明らかな作品への共感。


CDでは小澤征爾の全曲版と若杉弘指揮東京都交響楽団の組曲版が手許にあります。このふたりの指揮者による「中国の不思議な役人」は、いずれも組曲版を生で聴いたことがあるんですよ。さすがにここでの東京都交響楽団は世界一流とは言い難いものの、日本のオーケストラとしては珍しいくらいの自発性を感じさせて好演。小澤征爾の比較的新しい録音ではDGGのヴァイオリン協奏曲やヴィオラ協奏曲のdiscがあります。ムターはさほどHoffmannの好きなヴァイオリニストではないんですが、このdiscなど、さすがに大物と思わせますなあ。しかし、小澤征爾は協奏曲となると、あまりにも独奏者のサポートに徹してしまって、決してスリリングな演奏とはならない、そのあたりが意外性もなく退屈といえば退屈。



小澤征爾のPhilipsからから出たCDは「中国の不思議な役人」の全曲版とオーケストラのための協奏曲を収録していますが、この指揮者による「中国の不思議な役人」なら上記DGGの組曲版の方が好き。ついでに言うと、「オーケストラのための協奏曲」にしても、1969年のシカゴ交響楽団とのEMI録音の方がのびのびと闊達でよほど好きです。お写真はそのLP。カップリングのコダーイ「ガランタ舞曲」も作品の持つローカルな個性と、ほどよく洗練された演奏とのバランスが絶妙。こういったうまさはその後の小澤征爾からは失われてしまいましたね。


さて、さらに協奏曲へ話をつなげようかと思ったんですが、なんだかどれも取りあげたことがあるような気がするので省略。お写真はメニューイン盤とセーケイ、メンゲルベルク盤を左右に、中央の石川静を挟んで並べたところがミソ(笑)




2010.08.28 sat

ここ数日の間に読んだ本―。

「バルトーク 晩年の悲劇」 アガサ・ファセット 野水瑞穂訳 みすず書房
「黄衣の王」 ロバート・W・チェイムバーズ 大瀧啓裕訳 創元推理文庫
「増訂 長安の春」 石田幹之助 平凡社
「音楽嗜好症」 オリヴァー・サックス 大田直子訳 早川書房
「魔術的リアリズム」 種村季弘 ちくま文庫
「ニーチェ ― ツァラトゥストラの謎」 村井則夫 中公新書
Irish Tales of Terror Edited by Peter Haining Bonanza
「アクティヴ・イマジネーションの世界」 バーバラ・ハナー 老松克博・角野善宏訳 創元社
「斬首の光景」 ジュリア・クリステヴァ 星埜守之・塚本昌則訳 みすず書房

「黄衣の王」、「音楽嗜好症」、「ニーチェ ― ツァラトゥストラの謎」が最近入手してはじめて読んだもの。あとは再読。拾い読み含む。オリヴァー・サックスおもしろかった。クリステヴァ、う〜ん・・・違うんだなー、imageについて語っているつもりなんだろうが、どうもピントがズレている。ユングの元型論に肩入れしたいHoffmannが、むしろその元型論に異論を呈するギンズブルクの主張を認めたくなってしまう・・・鼻面を引き回されとるなあ(苦笑)「長安の春」、“Irish Tales of Terror”、生きていればこういった本を読めるのだから幸せだ。






2010.08.27 fri


Hoffmannの好きな作家である山田風太郎へのインタビューをまとめた「風々院風々風々居士」で、インタビュアー(聞き手)である森まゆみという女が、山田風太郎のことをやたら「フェミニスト」だと言って(書いて)いる。「フェミニスト」ということばも、いまやその発言者が考えるところの厳密な定義を明らかにしてもらわないことには、軽々に使えることばではなくなってしまったと思うんですけどね。「フェミニスト」ということばから思い浮かべるimageって、ひとによって微妙に、しかし無視しがたい相違がありそうな気がするんですよ。そういったあたり手を抜くと、なんとも安易な「レッテル貼り」としか見えない。

音楽における批評言語においておや。いや、批評言語っちゅうのもいささかおおげさな、かなり低いレヴェルの話になるんですが、たとえば「ドイツ的な演奏である」と言った場合、発言者が「ドイツ的」と呼ぶのはどのような演奏なのか明らかにされていなければ、これは無意味な発言の見本。事実関係ならばともかく、ひとりよがりな「印象」や「感想」において、読者に共通の認識事項を期待するの筋違い、というより上から目線の透けて見える思いあがり。批評じゃなくてただの自己主張。

audio雑誌でも「高域のエネルギーディスパージョンが素晴らしく」とか「ジャズ的な気分が味わえる」、「ピアノの哀愁を帯びたハーモニーや抒情的なフレージングが音場に広がり」などと、まるで内容のない、単にことばを並べただけの、日本語と認識するのがやっとといった寝言で紙面を汚している、やたら「ぶったまげた」とか「ケッ、こんな○○で音楽が聴けるか、というような気分で・・・」と連発する、そのくせ自分の趣味を高尚なものに見せようとするプライドだけはもてあまし気味の、品性下劣な低脳が見受けられる。こういった手合いを心底軽蔑する。音楽評論、audio評論の質の低さはまったく絶望的だ。webを漂流していると、よほどまともな「批評」読めることがあって、それが救い。逆説的に言えば、シロートがプロの評論屋以下の駄文を開陳しているようでは問題外の外。

でも、HoffmannさんはCDやLPを取り上げて、それでいて演奏や作品には触れることなく関係ないお話をされますよね(^^;

だって、そもdisc批評なんかするつもりはないんだもん(笑)そんな義務なないでショ♪




2010.08.26 thurs




ヴィヴァルディの「四季」ですけどね、イ・ムジチのレコード―とくにフェリックス・アーヨがソロを奏いてるやつな―って、いまでも「歴史的名盤」とか呼ばれて、雑誌なんかでは「推薦」マーク入りで取りあげられているんでしょうか。

てなこと言うと、Hoffmannがイ・ムジチのレコードに否定的と受け取られるかもしれませんが、いや、あのPhilips盤はいま聴いてもいいレコードだと思いますよ。とくに録音がいい。なんならaudio機器の試聴に使ってもいいくらい。これまでaudio雑誌などであのレコードで試聴して記事を書いているひとを見たことがないんですけどね。

Hoffmannさんのいちばんお好きな演奏はどれでしょうか?(^^*

お好きっちゅうか・・・ビオンディ盤が出てきて、ほかのいっさいが霞んじゃったよね(笑)おかげでビオンディ盤以外となるとオリジナル楽器によるdiscよりもモダン楽器によるちょっと古めの演奏の方が手に取る機会が多くなっちゃった(^^;

お写真のレコードは録音はさほどでもないんですが、メンバーが豪華。



2010.08.25 wed




絶好調の(笑)audio装置で聴く、マッケラス指揮によるヘンデルの「メサイア」二種。左のEMI録音は音質最上級なれど、右のArchiv盤はモーツァルトの編曲版でこれも大好き。

いまやバロック音楽ともなるとオリジナル版こそが最善、編曲版はオリジナルに劣る、というのが一般的な風潮でしょうか。映画「アマデウス」ではモーツァルトは「編曲じゃ食えない」なんて言ってますが、これは嘘。モーツァルトは生活のために編曲の依頼仕事をしていたんですから話が逆です。この台詞には、編曲なんて仕事としては二流であろうという、現代人の感覚が反映しているんでしょう。でもね、編曲が低級な仕事だなんていう発想はモーツァルトの時代にはなかったはずですよ。

ここでのモーツァルトの編曲は、原曲になかったフルートやクラリネット、ホルンやトロンボーンを加えて響きを当世風に変化させ、あるいは調達可能な奏者で演奏できるようにトランペットの「突出」やオルガンを削除するといった、モーツァルトなりの芸術的な配慮及び現実的な要請を考慮したものなんですね。これは立派にモーツァルトの創造性のあらわれといっていいんじゃないでしょうか。

「資料」として以上の価値があるとおっしゃりたいのですね。でも、「現実的な要請」に従った点をも「創造性」とまで言い切ってしまいますか?

たとえば、オペラの間奏曲なんて場面転換のためにあるんだよ。その間奏曲が♪ドンガラドンガラとにぎやかなのも、大道具を移動させるのに物音がするからなんだよ。そうした要請とか制約に従いながら、鑑賞に堪える(という以上の)音楽をつくるのがプロの仕事ってもんだ

えー、それでは「メサイア」の編曲といえばビーチャムの録音があるグーセンス版はいかがでしょうか。あれはあれでモーツァルト版とはまた違った、そして同等以上の価値のある編曲―創造性の発露だと思われますか?

いやあ(笑)グーセンス版はあまり芸術とは思わないな。せいぜい「芸能」じゃないか?

モーツァルト版とどう違うのですか?

グーセンスのは、ありゃAV男優のse×だよ。自分が楽しむのでも、相手を楽しませるのでもない、「見せるためのse×」みたいなもんだよ(笑)つまり大向こう受けを狙ったパフォーマンスにすぎない。従って芸術には非ず、所詮キワモノだな。同じことはバッハ作品のストコフスキー編曲なんかにも言えるね

他人の作品を編曲することが別に低級な仕事でもなんでもなく、編曲者自身にとってみれば、その当人の創造性の発露の一形態として自覚されていた、あるいはバッハのように、旧作の編曲をあえてそれと断る必要もなく、鑑賞する人々に至っては、それを新作と受け取り、じつは編曲であったところで詐欺とも思わない―これはたとえば黒岩涙香や貸本漫画時代の水木しげるが海外の小説を翻案して、ことさらにoriginalityの有無や程度を問題とはしなかったことと共通する精神じゃないかな?

またさりげなく珍説を・・・(^o^;そうなると、ある時代、ある地域での精神風土ということになりますか?

いや、そんなふうに限定的にとらえちゃうと、「現代」の感覚への盲信を嗅ぎとるなあ(笑)なにも現代人が抱くoriginalityを軸にした創作行為の貴賤みたいな感覚が正しいとは限らない

それでは知的財産権についてはどう思われますか?

そんなのはどこぞの国がコピー商品で金儲けをするから問題になるのであって、創作とか創造行為とは関係がない。だから、絵でもマンガでも、パロディが訴えられたりするのは、どうも違和感を感じるんだよね




2010.08.24 tues


電源ケーブルといえばいまでは3pinの着脱式が主流のようですが、たとえばアンプで、アース線が接続されていない、つまりケーブルが3pinでもアースを落とせない機器が結構あるんですよね。アースというのはやってみないと結果がわからない(ハムを引いて悪くなることもある)ので、これ、必ずしもデメリットではないし、ケーブルのプラグはコンセント側が対応していれば3pinの方が接続は確実になるので無意味とばかりも言えないんですけどね。先日、あるshopで国産の某メーカーのプリメインアンプのガワを開けてみたら、アースが接続されていない。訊けば、なんでも電源タップにもじつはアースピンの浮いているものがあるとか。

Hoffmannの自宅の機器はアナログプレーヤーを除いてすべて3pin、アースを落とせるようになってSN比が向上したというメリットがあるんですが、機器次第では2pinでも問題ないんですよ。




2010.08.23 mon


自宅のaudio環境なんですけどね、電源工事を行ってめざましい効果が得られて後、いよいよこれまで手を出してこなかった、電源ケーブルを何本か導入してみました。各機器の電源ケーブルはこれまで付属のものしか使ったことがなく、マニアならこれを単体で販売されているもの、あるいは自作したものと交換するのが常識なのかもしれませんが、Hoffmannにとってははじめての経験です。



上のお写真は入手した2本のうちの1本。黒くて太くてカタイ・・・(笑)

えー、それはもう期待して自宅の装置につないでみたわけですよ。電源ケーブルといえば、まずは上流の機器で交換するのがセオリーだからCDプレーヤーに・・・あれ? たいした違いはないね。真空管の(phono)アンプでは・・・う〜ん、別に・・・。それではいっそパワーアンプでは・・・たしかに音は変わるけど、やっぱり電源工事の時ほどの「激変」ではないなあ。それともエージング不足かな、というわけで数ヶ月後にまた聴いてから、元の付属ケーブルに戻してみる。いかなる「対策」も、数週間あるいは数ヶ月後に元に戻してみて、我慢できないようなら「対策」の効果があるってことです・・・で、戻してみたら、ぜんぜん我慢できます(^o^;

ナーンダ、期待したほどじゃないなあ・・・てなわけで、上のお写真のケーブルは出稼ぎ先に持ってきて、ちょうどこちらで使用中の電源タップが同じメーカーのものだったので、その付属ケーブルと交換してみたところ、いきなりヴェールがはがれて低音が
どすーん♪

自宅は電源工事施工済みで既に改善されていたため、末端での影響が出にくい状態だったのでは・・・?

逆に出稼ぎ先はなにもしていない(できない)から、ふつうに壁コンセントにつないでいるだけなんだよね。それがかえって電源ケーブルの効果を際立たせたのかなあ。電源に関してはシプル・イズ・ベストは通用せず、途中の経路を強化するとそれなりの効果があるとはよく言われることだけど・・・そのとおりなのかもしれないね

電源環境に関しては未対策の方が、電源ケーブルによる改善の度合いははっきりあらわれる、もしくはわかりやすい、というわけですね

あくまでもHoffmannの自宅及び出稼ぎ先住居での場合だけどね

ちなみに、はじめに手をつけるべきは上流の機器、というセオリーについては、いかがでしょうか?

う〜ん、理屈の上ではそうなのかもしれないけれど、変化の度合いはパワーアンプのほうがわかりやすかったような気がするなあ。これ、audioの一般的な「常識」には反するのかもしれないけど・・・。あと、聴き慣れたそれぞれの装置の持ち味っていうのも変化しちゃうよね。それでもクォリティが格段に向上しているのなら、どちらをとるかの問題なんだけど。ただ、自宅のCDプレーヤーから「切れ込みのよい」「パンチのある音」なんて出てきて欲しくないし、そも「押し出しの良さ」なんて求めていないぞ(笑)

音が変わったからといって必ずしも改善したとは限らないわけですね。望まない変化ならいっそ付属のケーブルで十分ということになりますね

だからそのあたりの性質を変えないで、たとえば聴感上のSN比だけ良くなるようなケーブルだったら、おおいに結構なんだけどね(^^*というか、そういうの、見つけたよ(笑)




2010.08.22 sun


PCは復旧したけど、急用(休養?笑)でお出かけしてました。

なにも変化がない、のんびりとした人生を送りたいと願っているのに、これで案外とあわただしく変転著しい人生です。いずれロクなもんじゃないのはわかっているんですけどね・・・いや、ちかごろ流行りのつぶやきですから気にしないでください(;-_-)=3

いろいろとお疲れさまです(^^;

しかしなんだね、いかんともしがたい状況で、責めるとすれば自分を責めるしかないようなとき、たしかに音楽を聴いて救われるということは、あるのかもしれないね(-_-*

Hoffmannさんらしからぬsentimentalismですね〜(^o^;今日は妙に素直?

・・・とか言っておるが、ナーニ、人生なにが正解だかわかりゃしない。gameなら各々の分岐点でsaveしておいて後から試してみりゃいいわけですが、そうもいかないのが現実ってもんです。いくらHoffmannが無能でも、進もうとしなかった別な選択肢のその先に「シアワセ」を夢見るほどsentimentalではないよ。



Hoffmannさん、きょうはたのしそうですねっヾ(^∇^* (^o^;あらららら・・・




2010.08.19 thurs



てすとヾ(^∇^*



てすとヽ(^o^*



てすと(^^*




2010.08.14 sat



サルトルの「嘔吐」―これまた学生時代に読んだ本の再読。ただしムカシ読んだのは(もちろん)白井浩司訳で、上のお写真は鈴木道彦による新訳。ちょっと読み返してみたくなったんですが、白井訳はいま実家に置いてあるのでこちらを入手。表紙はデューラーの「メランコリア」と正攻法(笑)おかげで、どことなく哲学者の書いた小説というよりも、純粋に文学作品といった位置付けと感じられますね。

ただ、「メランコリア」へと遡る連想が働くと、せっかくなら削除された箇所や未定稿、ヴァリアントを収録した、プレイヤッド版を翻訳してくれていたら、と思うんですけどね。

プレイヤッド版に収録された削除部分って、澁澤龍彦が「マルジナリア」のなかでその一部を翻訳していましたね

強姦されて殺された少女について考えるところだね。あの箇所なんか、シュルレアリスムの影響があからさまだよね

むしろドストエフスキーの影響かと思いましたが・・・ところで、ひさしぶりに読み返されて、いかがでしたか?

まあ、こちらはその後のサルトル、結果的に「20世紀保たなかった『旗手』」としてのサルトルを知ってしまっているから・・・「実存が本質に先立つ」のはいいとして、そこから先、サルトルは人間を、世界とか社会とか、他者との関わりでしか論じないんだよね。それも観察したり考えたりするだけでは関わっているとは認めてもらえなくて「参加」しなきゃいけない(笑)なんかもう、20世紀も後半に至って相手にされなくなっちゃったのも無理はないよ。この「嘔吐」も、そんな「その後のサルトル」を思わせる小説だよね

当人の発言も、政治と関わりすぎているというか、あまりにactualに過ぎたのでしょうか?(^^;もっと内面に沈静するような、抽象的な哲学の方が・・・?

いや、哲学なんてそんなもんなのよ。その時代、その国の支配階級のため、あるいは階級闘争のある陣営のため、はたまた国力増強とか維持のために、あるべき人間とか社会の姿を想定しての理論付けが、じつは哲学というものの本質だと思っているんだけどね(その意味では「資本論」だって哲学書だ・笑)

なんだかミもフタもない見方ですね〜(^o^A;というか、さりげなくトンデモな発言をなさいますね〜

(笑)まあ、さっき言った「関わり」の思想家であるサルトルの場合はことさらにそうなんだけど、20世紀(以降)の哲学者なんて、19世紀以前のひとに比べたら賞味期限のうえではかなりのハンデを負ってるんだよ。謎がなさ過ぎて、折々の発言も、その矛盾点も、弁解の余地なく明瞭かつ赤裸々だもんね。考えてもごらんよ、たとえばニーチェが「この人を見よ」を書いた頃にTVのレポーターとか週刊誌の記者にインタビューを受けて、その映像なり記事なりがリアルタイムで公開されていたとしたら、いまごろニーチェなんか読んでるひとはいないんじゃないか?(笑)

♪ニ、ニ、ニーチェかサルトルか〜ヽ( ̄0 ̄*)/

ふ、古ぅ〜(^o^;;;なんでそんなの知ってるの?





2010.08.13 fri

Hoffmannさんはもともと本に関しては「再読」をよくなさる方ですけれど・・・

このところ読んでいる本は、かつて若いころに読んだ本の××年ぶりの再読。もはや「余生」であるから、ここらで人生の総決算でも・・・とかいうわけではないんですけどね(笑)

先日取りあげたシュペングラーの「西洋の没落」なんて、じつは買い直し。学生の時分に読んで、その後手放してしまい、いまは手許になかった本をまた入手したもの。そしてこちらの本も同じく再入手したもの―。



オットー・ヴァイニンガーの「性と性格」。女性蔑視、人種差別的(反ユダヤ主義)、さらにナチスとの関連でアカデミズムからはまったく相手にされていません。ナチスとの(微妙な)関係という点はシュペングラーの「西洋の没落」と共通するものがありますね。しかしナチスはヴァイニンガーの言葉尻を適当に切り取ってきて反ユダヤ主義に利用したに過ぎず、またヴァイニンガー自身がユダヤ人であるためもあってか、その著書は否定的に扱われているんですけどね。性差別や人種差別の視点も、たしかにここに見られることは否定できないんですが、決して女性蔑視が本質であるような論述ではないと思っています。「性と性格」は、むしろ時代を糾弾する著書であって、そのつもりで読むとユダヤ人というものはもとより、女性性とか男性性という区分も単なる看板の掛け替えであって、つまり性を超越した存在(以下略)

えーと、一度手放されたというのはなぜでしょうか?

「西洋の没落」、「性と性格」ともに「一度読んだら充分、手許に残す価値なし」と思ったんだよ。でも、いまでは若気の至りであったなあと思っているよ。それに、一般的な評価に影響されてそのように判断したのも否定はできないな(^^;

Hoffmannさんが他人の評価に影響されたなんて・・・そんな時期もあったんですね〜(^o^;




2010.08.11 wed

さて本日の「本棚占い」でございますよ。

金いろのウィスキーをのどに流し込みながら本棚に視線を移せば、そこにはブーレーズ・サンドラールの「黄金」、右には一冊おいてエレミール・ブールジュの「神々の黄昏」の「黄昏」の2文字が―。「黄金」と「黄昏」にはさまれた言語空間(笑)にはジャン・レイの「ウィスキー奇譚集」と、信じてもらえなくても仕方ないくらいおあつらえ向きの配置なれど、驚くのはまだ早い。その真下の棚にはクルト・クーゼンベルクの「壜の中の世界」が―。あたしゃ思わず飲みかけのボトルを手にとってまじまじとながめてしまいましたな(笑)

どうでもいいけど、かつて我が家(部屋)を映画や音楽を観賞・聴取すなわち観聴(カンチョー)する場ということで「無花果亭」と名付けたけれど、この無花果亭の主人たるHoffmannは、近頃この部屋ではもっぱら酩酊しておる有様なので、今後はこの部屋を「酩亭庵」と呼ぼうかどうしようか、思案中(笑)

(翌朝追記)
つまんないや、飲んでなくたって半ば酩酊しているような日常だし、「亭」と「庵」を重ねたところで意味がない。やっぱり、酔っぱらったときの思いつきってのはダメだね。




2010.08.10 tues

一昨日名前のあがったシュペングラーの「西洋の没落」について―。まともな評価を受けたことがない、というのはつまり歴史学界からはまるで相手にされない本ですね。ナチズムから賞賛された「過去」があり、おかげでますます悪評高くなって(ナチには入党しなかったのにね)、いまでもなぜこの研究書が無価値なのかということを説明している資料すら見あたらないありさまです。

Hoffmannなりにひと言で言えば、この本は、ニーチェの思想を方法として適用し、歴史を解読・構成しようという試みなんですね。そもそもニーチェの著作って、思想書とか哲学書というよりも、ほとんど文学書じゃないですか。つまり実践する思想であるよりも鑑賞する思想。シュペングラーの歴史解釈(展望、かな?)もそう、これは鑑賞するものなんですよ。そう思って読むと、後期ロマン主義の歴史学、といった印象のおもしろさがあります。

それにしても、翻訳(訳文)には少々問題あり。これから先も読まれてゆくためには、この翻訳にもそろそろ手を入れたほうがいいんじゃないか・・・いや、そこまでするほどの本かと言われると・・・(^o^A;



そうそう、ニーチェの名前が出て思い出したんですが、ちくま文庫のニーチェ全集、先日品切れだった巻が重版されましたね。全館揃えたいひとはいまがチャンスですよ。




2010.08.09 mon

歴史っちゅうのは、それぞれの時代に起きた出来事も、当事者の立場によって言い分も異なるし、やっぱり多面的なものなんですよ。それを教科書では単一の視点でのみ叙述するから、おかげで正統とは異なった捉え方による歴史小説なんてものが成立する余地があるわけですね。逆に言うと、教科書に載っているとおりの視点でダンドリを叙述しているような歴史小説には、これっぽっちの価値もないってことです。

「教科書に載っているとおりの視点でダンドリを叙述しているような歴史小説」・・・というと、これぞ見てきたような嘘というわけですね(笑)

そうそう(笑)嘘をつくなら徹底的に・・・その嘘によって、かえって一片の真実が見えてくる・・・そんなのが小説として出来がいいと言えるんだよ

えー、ワタシも2010.08.06 friのHoffmannさんにならって、「本棚占い」をやってみましたよ。たまたまミシェル・フーコーの「監獄の歴史」という本の「歴史」の2文字が目につきまして、そのまま本棚の下の段に視線を移してみたところ・・・

そこにはなんの本があった?

ガストン・バシュラールの「空と夢」でした。歴史・・・空、夢・・・と(-_-*

どれどれ・・・あ、「永遠の歴史」という本の横ちょには「悪循環」という文字も見えるよ(^^;




2010.08.08 sun

ここ数日の間に読んだ本―。

「〈病人〉の誕生」 C.エルズリッシュ、J.ピエレ 小倉孝誠訳 藤原書店
「黒死病 ペストの中世史」 ジョン・ケリー 野中邦子訳 中央公論新社
「性と愛情の心理」 フロイド 安田徳太郎、安田一郎訳 角川文庫
「現在と未来」 C.G.ユング 松代洋一編訳 平凡社
「西洋の没落」 第1巻・第2巻 O.シュペングラー 村松正俊訳 五月書房
Friedrich Nietzsche Werke in drei Baenden Hanser Verlag
「死と歴史」 フィリップ・アリエス 伊藤晃・成瀬駒男訳 みすず書房
「自殺論」 デュルケーム 宮島喬訳 中公文庫
「ギリシア悲劇全集」 第II巻 ソポクレス篇 呉茂一ほか訳 人文書院



シュペングラー、デュルケームは拾い読み。Nietzscheも。ちなみにニーチェのスペルをそらで言える(書ける)うちはまだボケとらんと判断してよろしかろう(笑)フロイトは必ずしも好きではないんですけどね、いーかげんな思想書なんぞ読むkらいなら、フロイトの一冊を読んだ方がいい。ユングの著作については少々「ハズレ」のものもあり、そこまで言えない。「現在と未来」はハズレではないが。「ギリシア悲劇全集」はあえて岩波書店版ではなく、Hoffmannの青春の書(^^*)である人文書院版で。読んだのはソポクレスの「アンティゴネー」。




2010.08.06 fri

生きるの死ぬのと大騒ぎをしたかのようですが、ナーニ、じっさいは成り行きまかせの風まかせ―死んじゃってもいいやなんてさらさら思わず、といって生き延びるんだぁーなんて執念もさらになく。これはHoffmannの老父が、かつて幾度か「すべては手術の結果次第」という際に、遺言の如く語っていたことが、出来の悪い莫迦息子の念頭にいまも生きているものか―すなわち、人間は病気や事故に死ぬのではない、寿命が来たから死ぬだけだ」―これはつまり手術が成功するとか失敗するとか考えるな、失敗したときは寿命がそこまでだったということなのだ」という意味なんですけどね。ともあれ、Hoffmannはまだ寿命が尽きていなかったというわけですよ。

じつは今日、知らせを受けたんですが、そのHoffmannが先月病院で、麻酔(痛み止め)の副作用で幻覚を見たり、スプーンがないのでレンゲでヨーグルトを食ったり、病院内のコンビニでウィスキーは売っていませんかと訊いて看護婦に睨まれたりしているちょうどその頃、知人のひとりが自ら命を絶っていました。たいへんな苦労人で、それでも自ら人生を精算してしまうとはにわかには信じられません。じっさいに、周囲の方々にも、その徴候等はまったく感じられなかったとのこと。当人の内面は第三者には到底計り切れぬものではありますが、しかし、生きているのが愉しいという思いがたとえ錯覚だったとしても、Hoffmannは寿命が尽きるまではその錯覚に従ってゆくつもりですよ。

そんなことを考えながら本棚の前に立ったら、あれれ、エリアーデの「生と再生」とツヴェタン・トドロフの「幻想文学 構造と機能」が並んでいる・・・どうしてこの2冊が隣りあっているんだろう? 不思議に思いながら目を閉じると、まぶたの裏に背表紙の残像が浮かび、いつまでも消えずに像を結び続けるそれは、それぞれの書名の最初のひと文字・・・。「生」、「幻」と―。






2010.08.04 wed

先日もちょいと書いたことですが、今回Hoffmannが得た病、かつての同級生が3年ほど前に同じビョーキで死んでるの。当時、Hoffmannは仕事で「行方不明」だったため、だれも連絡を取れず、知らせを受けたのは半年以上たってからのこと。ようやくHoffmannの居場所を探しあてて連絡をくれたのは、その死んだ男ともっとも仲の良かった某君。さすがにショックだった様子で、曰く「おれも死を意識するようになった」とか―。

某君の亡き友に寄せる思いを疑うつもりなどありゃしませんがね、「死を意識する」って、そうしてことばにした時点で真実味を失うような気がします。切実な思いであればあるほど、心に秘めて黙っているべきなのでは?(口に出さないで大事にしていることって、ありませんか?) そも死を意識するってぇことは、徹頭徹尾個々人の内面の問題であって、他人との会話のなかで触れるような問題ではない。安っぽいポーズにしちゃったら、肝心の当人にとっても、真実我が身に迫るその度合いが減じてしまうんじゃないでしょうか。

それはともかく、Hoffmannに関して言えば、もともとふだんから「死」を意識して、といよりも「死」から目を背けないように意識していたつもりなんですけどね。今般の入院(及びこれに伴う一連の)騒ぎによって、いまは死よりもむしろ生を意識するようになりましたよ。いやあ、生きているって愉しいなあ・・・(^^*

眉間にシワを寄せて人生の深刻な選択に、あるいは世界が直面している問題に苦悩する・・・な〜んてHoffmannさんにはぜんっぜんっ、似合いませんよね(^o^*

キホン的にらくてんかさんなんですよねっヾ(^∇^*おめで鯛? いや、むしろ「おめで怠」ヽ(^o^;




2010.08.03 tues

さてもこのmonologue、あえて副題を冠するならば、ここらあたりから「余生篇」というわけで―。

余りの人生というわけですか、 それとも人生の余り・・・?

死んじゃったらそれでオシマイなんだけど、そうなったときに強制終了でブチッとなるのは唐突にすぎるからさ、いまのうちに半分くらい終わらせておくの。現実に対して半覚半睡で、つまりはんぶん眠ったまんまあれこれ語るのを「芸」にする( ̄ー ̄*)♭

えぇ〜っ(^o^;なんだか、ボケ老人があらかじめ開き直っているみたいですね〜

ボケ老人とは人聞きが悪い、トボケ老人と呼んでくれ(笑)

Hoffmannさん、はいぼーるの用意ができましたよっヾ(・∇・*)))

ああ〜ありがとありがと(^o^*連日の猛暑でね〜夏はこれがいちばんだね〜玉露玉露♪

アル中ハイマーですかっヾ(^∇^*