monologue 2011.03

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2004.12




2011.03.29 tues



しばらく休みますよ。




2011.03 27 sun

いままで、夜の街は明るすぎたのではないか、三度の食事の内容は、さほど贅沢をしているつもりもなかったんですが、それでもまだ豪勢すぎたのではないか、なんて思っています。

さらに、Hoffmannがいま居るこの地方のひとたちは、とても親切で友好的、他人を思いやる気持ちは感動的なまでのもので、驚くほど礼儀正しいということを、あらためて思い知らされています。

これまで、いかなる災難であろうと、過ぎてしまえばたいがいのことは「これもいい経験」と思うHoffmannも、さすがに今回の震災は「いい経験」とは思えません。自分も、またこの地方のひとたちも、いや誰もが二度とこのような災害に見舞われることのないように祈るばかりです。しかし、それでもこの震災によって、この災害がなかったとしたら、知らぬ間にすれ違っていたに違いないひとと、縁が結ばれたということがありました。

「いかに生きるか」なんてことはまるで考えたことのないHoffmannなんですが、それでも子供のころ、「人生は生きるに値するか」と考え、「しかし生きている以上はそんなことを考えたって仕方がない、寿命の尽きる段になって結論に至ったところで意味がない」、そこで「それなら生きるに値する人生はどんなものか」と思ったんですね。「生きる」ってことはつまり先を見ている状態なわけですから、「楽観」することなんですよ。これを「希望」と呼ぶひともいますが、それもまたよし。「お先真っ暗」な状態というのは生きていることにはならない。Hoffmannはいよいよ御陀仏となるその瞬間までは、一秒後を、一分後を、一日、一年先を「楽観」しています。




2011.03.26 sat

Roksan(ロクサン)というメーカーによるアナログプレーヤーにXerxes(ザクシーズ)といモデルがありますね。これはペルシア王クセルクセスの英語読み。いや、プレーヤーはどうでもいいんですけどね、ちょっと、クセルクセスのことを思い出していました。

どうしてクセルクセス王を・・・?

よくもまあ飽きもせずに毎日毎日大地が揺れるもんだからさ、はじめのうちは「また大きいのか?」ってドキッとしてたけど、だんだん腹が立ってきた・・・

あ、わかりました、その連想




2011.03.24 thurs

今日聞いた話なんですが、とりわけ被害の大きかった被災地ながら、高台にあったため家も家族も無事であったご家庭で、震災から数日後、audioマニアであり音楽好きでもあるご主人がひさしぶりに音楽を聴いた・・・すると、ふだん音楽なんぞ聴かない奥様が感動のあまり泣き出してしまったとか・・・。

かくいうHoffmannも電気が通じてこの方、節電節電とは思いながら、毎日聴いていた、聴かずにはいられなかったのが、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」でした。いや、そもそもこのdiscを選んだのは、たまたまCDプレーヤーの横に転がり落ちていたのがベートーヴェンの交響曲全集のBox Setだったからなんですけどね。これがどうしたものか、聴けば聴くほどに、回想となり、祈りとなり、また慰めでありながら日々の力にもなってくれるのです。

「いまはベートーヴェンでなければならないんだ・・・」

常日頃、好きな作曲家は、と問われて即ベートーヴェンの名前を出すわけでもなく、とくに好きな音楽に「英雄」交響曲を数えあげることもないHoffmannなのに、これは不思議なことなんですが、しかし同時に「やっぱりなあ」という思いがあることも否定できません。




「ガハハハ・・・」という、いつもながらの明るい声で励ましの電話をくれたS嬢、同じく電話をくれて「まぁー、泣けてくるよー」と我が身のことのように感じ入ってくれるK嬢、ありがとう。

深夜、こんなHoffmannのことを思い出して「大丈夫ですか」とお見舞いの電話をかけてきてくれたEちゃん、連絡、うれしかったよ。ありがとう。
Hoffmannはどこにいても、いつでも、君の幸せを祈っているよ。




2011.03.23 wed

いやはや、まいりました。今回の地震では、津波に襲われなかったのが最大の幸運。よって家屋倒壊はまぬがれたものの、家ンなかはめちゃめちゃ。避難所生活2日間、それでも2日ですんだだけまだしも。国道沿いに近い家屋だったおかげか、避難所から部屋に戻って寝ていたら、早々と電気と水道が復旧。ガスは当面絶望的ながら、これはコンロがあるのでなんとか。ニューヨークは職場にシャワー室あり。問題は食糧で、コンビニ、スーパーに3時間超えの行列をしましたな。それでも慣れというものは恐ろしい、そんな生活にもさほどの不便を感じなくなりつつあり、このところようやく食料、備品の調達も落ち着いてきた模様。仕事は仕事で大車輪。連絡の取れない関係先多数。捜さなけりゃならない相手も。そこにお上から「生活が第一、疲れがたまっていることでもあろう、交代で休暇をとるべし」との声が。これ、半強制(・・・というのがありがたいところ)。そこでなんとかかんとか足の手配をして、帝都の我が家へ一時帰宅しておりました。

なにせこちらではstandからスピーカーがダイブして、アンプとCDプレーヤーは崩れてきた本の山に埋もれている状態だったので、我が家ではどんなことになっているかと心配&覚悟していたんですけどね、幸いなことにスピーカーもアナログプレーヤーも無事でした。ほとんどなにも入っていなかった本棚が1本、その軽さの故に倒れていたくらい。両親もまったく怪我もなく、もっとも老母はギックリ腰で寝込んでいましたけどね(しっかりしろ、おツタ)。Hoffmannの自宅のある地区は計画停電の予定はなかったものの、帝都はいずこも節電に相務めていることとて、音楽を聴くのもほどほどに。そして本日再び出稼ぎ先へ戻ってまいりましたよ。この2週間、とにかく書ききれないほどの出来事があったわけですが、そのへんのことはまたあらためて。あまり仕事が忙しい忙しいとは書きたくないんですけどね、いろいろ先に控えていることもあるので。

Hoffmannさんが醤油ラーメンしかないけど、味噌ラーメンが食べたいなあって・・・(*^^)(・∇・*)フムフム・・・

昨年は救急搬送され、今年は震災に見舞われ、それでもHoffmannはどうにかこうにか生き延びておりますよ。

Hoffmannさん、ミソラーメンのスープをつくってみましたよっヾ(^∇^*




あらためて、今回の震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災されたみなさまにお見舞いを申しあげます。

地震の翌日に、まるで見知らぬHoffmannにカレーライスを食べさせてくれた小母さん、貴重な飲料水とおにぎりを分けてくれたお兄さん、ほんとうにありがとう!

避難所で、あるいは道ばたで知り合い、つかの間ことばをかわした数多くのみなさん、お互い合言葉のように「がんばりましょう!」と声をかけあったことを、Hoffmannは生涯忘れません。




2011.03.10 thurs

 

これも映画「魍魎の匣」から―。こんな場面を観てよろこんでいる場合じゃないんだよなー。



翻って見れば・・・ため息が出る(;-_-)=3




2011.03.09 wed



邦画2本観たんですけどね、どうも我が国の映画って、演技の下手な、役者とも言えないようなのが、所属事務所の思惑で、そのキャラクターを売るための「カッコイイ」役柄を演じるばかりといったご都合主義に支配されているという印象が強いんですね。演じている方もなんだか自分の役柄に酔っているのが透けて見えて、ばかばかしいとしか感じられない。最近観たこの2本も概ね同じ路線と思えます。それでも、上の画像のような、古書が山積みになっているシーンなどはHoffmannのfetishをシゲキしてちょっと「うれしい」んですね。

左は「姑獲鳥の夏」、右は「魍魎の匣」からのキャプチャ画像ですね。いずれも京極夏彦の小説が原作ですが、Hoffmannさんはこの方の小説をお読みになったことは・・・?

ないんだよね。結論から言うと、「姑獲鳥の夏」はミステリーとしてはわりあい早いうちに底が割れちゃうんだけど、それでもおもしろく観た。でも「魍魎の匣」は退屈だったなあ。だいたい若い娘が「ボク」なんて言いながら登場した時点でうんざりだ(苦笑)・・・よっぽどそこで観るのをやめようかと思ったくらいだよ

 

fetishといえば「魍魎の匣」から、こんなシーン・・・というか、道具立ても・・・これはきっとHoffmannさんのお気に召すのではないかと思っていたのですが・・・?(^^;

いやあ、これはあまりに狙いすぎだろう(笑)



むしろ、幕切れのこんな場面の方がずっと印象的だったね

これは誰しも江戸川乱歩の小説を連想するシーンでしょうね

それからもうひとつ言っておきたいことがありまして、とにかく聴きとれない台詞が少なくないんですよね。子役の舌っ足らずな台詞なら多少はやむを得んとは思うが、いいオトナの台詞が、日本語だてぇのに、大声だろうがささやき声だろうが、何度再生してもなんて言ってんのかわからないことが結構あるんですよ。なかでも、このひとのしゃべりは聞き取りにくい・・・ってのが、いる。これ、演技が上手いとかヘタとかいう以前の、もっとも基本的な問題だと思うんですけどね。いまどきの俳優・女優は発声練習なんかろくすっぽやらないんでしょうか。


(おまけ)



「姑獲鳥の夏」から―。

この紙芝居を子供たちの後ろで見ている復員兵が水木しげるさんという設定なんですね(^^*そしてそれを演じているのが・・・(笑)




2011.03.06 sun



なにもこんなときに本を買ってこなくてもよさそうなもんだとは思うが・・・(-_-;

「こんなとき」って、どんなときなんですか?(・・?

あのね・・・・・・・・・Σ(・o・;ええーっ!




2011.03.05 sat



フリッツ・ライバーの「妻という名の魔女たち」、この創元推理文庫版の訳者あとがきに、1962年に“Burn,Witch,Burn”という映画が制作されており、リチャード・マティスンとチャールズ・ボウモントが脚本を担当してかなり原作に忠実なものであるとの記載があるんですが、現在出ているDVDはタイトルが“Night of the Eagle”となっています(たまにゃひとさまの役に立ちそうなことも書いておかんとね・笑)。

小説を読んでいて感じられる軽妙さがスポイルされているものの、たしかに原作に忠実。たまたま最近、「日本沈没」とか「オリエント急行殺人事件」といった映画を観たんですが、どうも原作を読んで印象に残っているシーンや台詞などが映画のなかで再現されていないと、やっぱり原作を読む西区はないなと・・・って、なんだよこの変換は(笑)まあ、原作を読んでいない方が映画を楽しめるということなんでしょうかね。その点、上記“Night of the Eagle”は原作を読んでいてもそのあたりのストレスが微少。

ところで、もしも自分が映画監督だったらあの小説を映画化してみたいな、なんて考えること、ありませんか? Hoffmannの場合、もしも映画監督だったら、フリッツ・ライバーの小説ならぜひとも「闇の聖母」を手がけてみたいもんですね。それに、一昨日取りあげたトマス・ウィーラーの「神秘結社アルカーヌム」とか―。


いずれにしても、過ぎ去りし時代へのノスタルジー横溢する、むせかえるような雰囲気の映画になりそうですね(^o^;




2011.03.04 fri



前回帰宅時にシベリウスの交響曲第7番が聴きたくなって、引っぱりだしたレコードはバルビローリ指揮ハレ管弦楽団、ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団による全集盤。さらに同日、たまたまサイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団のCDを入手したので、これも聴いてみたんですよ。いろいろ思うところもあったので、覚え書きです(ただしメモをとっていなかったので記憶で書きますよ)。

ラトルのdiscはこれまで2、3点しか聴いたことがなかったんですが、これはなかなかに個性的かつ入念な譜読みによる、ひじょうにすぐれた演奏でした。冒頭のティンパニからして音程明解で、たしかにこのティンパニが上行音階のはじめの一音であることを意識させます。ここで弦楽器との間をとるとそのあたりが曖昧になってしまうんですが、ラトルは思いきり遅めのテンポで、しかし弛緩することなく、この冒頭の処理はあざやかなものです。ただし音程が明解であるが故に、多くの指揮者の演奏に聴くことのできるような神秘的な雰囲気は犠牲になる。現代的といえば現代的かな。そして冒頭が遅いのに、だんだん速くなってくるので、全曲としてはさほど演奏時間は長くはない。

ベルグルンドが各エピソードごとにテンポを変動させているのに対して、ラトルは長いスロープをもって変化してゆくあたり、この単一楽章の交響曲に対する解釈の相違が垣間見えるようで興味深いところです。この作品が幻想曲ではなくて交響曲であることを重視すれば、微細な変化の妙よりも、構築性を重視するべき。再現部の扱いなどに、ラトルの志向があらわれているような気がします。バルビローリもさすがに全曲の構成を把握していると思わせるんですが、どことなく一本調子に聴こえるのはどうしたわけか。そのへんはひょっとするとラトルの方が一枚上手かも。たとえば、トロンボーン(だったかな?)の主題が控えめに顔を出して、何度か繰り返されるうちにやがて堂々と英雄的に奏される、それまでの過程の処理はまったく見事です。ただし、このひたすら明快な(わざと「明解」から字を変えたんだよ)演奏がHoffmannの好みかというと、ちょっと微妙。この作品を、交響曲と交響詩を融合させた、シベリウスの最終結論と見れば、つまり交響曲というカテゴリーから解放してしまえば、むしろベルグルンドの演奏がふさわしい。冒頭のティンパニにしても、シベリウスが狙った効果は、明解一点張りではやはり表現しきれないものがあるような気もするんですね。

ベルグルンドについてもうひとつ強調しておきたいのは、シベリウスらしい、やたら長く伸ばす音など、リズムを崩しかけているようで、、一見恣意的とも聴こえかねないんですが、これがなんとも意味深い息遣いと思えることですね。これはほかの指揮者からは聴くことのできない、このひとだけの特徴です。

 

・・・で、出稼ぎ先に戻られてから、ヴァンスカ、セーゲルスタム、バーンスタインなどのCDを聴かれましたよね

セーゲルスタムも明快派だね。ちょっと雰囲気が明るめに傾いていて、もうすこし陰影感があるといいんだけど。バーンスタインは晩年のこの指揮者らしい、究極の自己流(笑)だなあ。なんだか作品の(交響曲としての)構築性なんかまるで意に介することなく、一筆書きで多彩な変化を付けていく、その結果各エピソードのコントラストが強調されているんだよね。なにしろスケールが大きくて、ここまでやられると、これはこれで説得力がある。ヴァンスカは録音が良質なので、聴きくらべるとかなり有利だね。透明度が高く、響きの彫りも深い。明快とか神秘的とか言うのが無意味に思えてくるのは、シベリウスの音楽に備わっているいろいろな要素が、どこを強調せずともちゃんと聴こえてくるからだね(言うまでもないと思うが、ヴァンスカがなにもしていない、という意味ではないよ)

たいへん高い次元での自然体、と聴こえますね。ヴァンスカを聴くと、バーンスタインのみならず、ほかの指揮者があれこれ「やりすぎ」ているかのような気がしてきます






2011.03.03 thurs

自宅で読んだ本です。



ジョン・ソールの「暗い森の少女」と「ナサニエル」。前者は前々回読んだんだけど・・・田舎町、子供、憑依か狂気かいずれともとれる展開・・・と、これはこのひとの小説の特徴。続けて読むと「またか」の印象あれど、救いのない陰鬱なstoryはこれはこれでよし。

トマス・ウィーラーの「神秘結社アルカーヌム」とウォルター・サタスウェイトの「名探偵登場」。この2作に共通するのは、コナン・ドイルとハリイ・フーディーニが登場すること。とくに前者にはラヴクラフトやアレイスター・クロウリイまで登場して、いい意味でB級映画然とした伝奇冒険小説。いや、これ、うまいこと映画化したら成功するんじゃないかな。

コリン・ウィルソンは他人の思想を借りてきてコラージュしたような評論よりも、小説のほうがいいですね。Hoffmannは「賢者の石」が結構好きで、同じくクトゥルーものに数えられる「精神寄生体」はさほどでも・・・。警察小説である「スクールガール殺人事件」は正統派ミステリながら、ちゃんとコリン・ウィルソンらしい思考の組み立てが、この作品に個性を与えていますね。「宇宙ヴァンパイアー」はこの小説を原作としている称する駄作映画がありますが(以前ちょっとだけ取りあげたことがありましたね)、その映画の悪しき印象故に、かえってこの小説(原作)のユニークさが際立って感じられるところです。



もう一冊、稲生平太郎の「アムネジア」です。稲生平太郎といえば「アクアリウムの夜」もたいへん気に入っている小説で、少年少女の日常に、皮一枚向こう側の非日常が浸食してくる様が、なんとも鮮やかに、かつ静かに描かれていました。この「アムネジア」では、描かれている「日常」が、あまりに特殊な状況であるにもかかわらず、より泥臭いリアリティを感じさせています。それだけに、「あちら側の世界」との境界が不安定で曖昧になるという不思議な効果が高まっているんですね。この小説を前にしたら、ヘタな「現代文学」なんぞ裸足で逃げなさい。




2011.03.02 wed


・・・で、夜ともなればS社のスピーカーで聴いてました(お写真は2011.02.17 tuesにupしているので省略)。



以前にも何度かとりあげたオットー・ビュヒナーのバッハの無伴奏ヴァイオリン、パルティータ第2番と第3番。いわゆるRundbogenによる演奏で、Hoffmannの大好きなレコードです。左は独盤、右はいまは無きTRIOの国内盤。国内盤の解説にはソナタとパルティータを全曲録音する計画があると記載されていますが、結局この1枚だけでその他の作品は録音されなかった模様、残念。



こちらでは“Vega Bach Bow”と表記されている、エミール・テルマニによる演奏。上品といえば上品なんですが、おもしろさでもテクニックの点でもビュヒナーに一歩譲る。

ついでだから、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのレコード(LP)をあれこれ引っぱりだしてきて、次々と聴いてみましたよ。



こちらは歴史的録音、左がエネスコ、右はシゲティ。いずれも名盤の誉れ高く、現代の奏者と比較すれば不利なテクニックとスタイルの古さを超えて・・・なんて言えば予定調和の世界(笑)じつはHoffmannはこのふたりの録音にはさほど思い入れはありません。駄耳と言われるかもしれませんけどね、でもいくら世評が高くても、思ってもいないことは言えません。Hoffmannはスノブではないのですよ。



古い録音ならむしろこちら―若きメニューインの1929〜1936年の録音。天才少年ぶりを発揮しているというよりも、どこか大人びた演奏ながら背伸びしているとは感じさせず、若い演奏家ならではの感受性が醸し出す熱気が見事。スタイルもまったく古さを感じさせません。



シェリング、グリュミオー、ミルシテインの、このあたりは有名なレコードですね。シェリングは構築性を重視した実直な高度に標準的な演奏。これとくらべると、グリュミオーの速めのテンポと歌謡性は構築性を犠牲にしている印象あり。ミルシテインは安定したテクニックによる好演なんですが、シェリングの後に聴くと個性的を超えて自己流と聴こえてしまうんですね。それだけシェリングの到達点が高いところあるということ。ただし、この欠点の見つけにくい、いい意味での規範とも言える演奏は、それがためにかえって古びてしまったかなあとも思います。



歌謡性といえば、シトコヴェツキーはやや横に流れすぎ? 典型的な「歌う」演奏。



個性派といえばポール・ズーコフスキー、推進力と曲ごとにコントラストを付ける多彩な表現が、これは個性的すぎるかも。にもかかわらず、バッハ演奏として異質と感じさせないのがおもしろい。ちなみにこの録音、CDは以前upしましたっけね。



若い演奏家の録音では、シュロモ・ミンツがとりわけ内面的な深さを感じさせてすばらしい。どちらかというと表現意欲もひかえめに淡々と奏いている演奏なのに、不思議です。



さて、Hoffmannが今回もっとも気に入ったセットはこちらの2組―シギスヴァルト・クイケンの旧録音とレジ・パスキエ。速めのテンポでやや鋭角的ながらことさらに古楽器らしさを際立たせないクイケンの節度、逆に遅めのテンポで折り目正しく、そこはかとない歌心を感じさせるパスキエと、どちらも現代のバッハ演奏として説得力は充分。




2011.03.01 yues

急用で出かけたついでに休養してきましたよ。



今回自宅で主に聴いていたのはこちら―H社のスピーカー。このところメインの座にあるS社のスピーカーが室内楽でその個性を発揮すれば、こちらはオペラや管弦楽で上を行きます。どちらもBBCモニター系列のスピーカーで、フリースタンディングとしているため、音場は奥に展開する点では共通するものの、こちらはオペラでの歌手の音像の実在感が引き立つ、オーケストラから一歩手前に出てくる印象があります。男色・・・じゃなくて暖色系の音色は歌手の息遣いに体温まで感じさせるよう。刺激感は皆無、悪くいえばいまふうの、ことさらにワイドレンジを意識させるよう音ではないんですけどね。かなり軟調傾向で低域ゆったり、そこには箱鳴りも加味されていながら、反応のよい、いい意味で軽快な響きに包み込まれるような感覚にはタマラんものがあります(^^*

もうひとつ、このスピーカーのいいところは、古〜いmono録音などを聴いても、粗が目立たず、心地よく聴かせてくれるところ。それにしても、いやはや、たいして高級機でもないのに、××年も鳴らし続けているとスピーカーもえらいことになるもんですな。