monologue 2012.07

2012.01 2012.02 2012.03 2012.04 2012.05 2012.06 
2011.01 2011.02 2011.03 2011.04 2011.05 2011.06 2011.07 2011.08 2011.09 2011.10 2011.11 2011.12
2010.01 2010.02 2010.03 2010.04 2010.05 2010.06 2010.07 2010.08 2010.09 2010.10 2010.11 2010.12
2009.01 2009.02 2009.03 2009.04 2009.05 2009.06 2009.07 2009.08 2009.09 2009.10 2009.11 2009.12
2008.01
2008.02 2008.03 2008.04 2008.05 2008.06 2008.07 2008.08 2008.09 2008.10 2008.11 2008.12
2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11 2007.12
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2012.07.31 tues

それにしてもなんだね、本棚に並んだ本がそのひとをあらわすとはよく言われるけれど、ナチスについて語るのも同じですね。先日も言ったように、Hoffmannはヒトラーそのひとにはあまり関心がなくて、それではゲッベルスやゲーリング、ヒムラーとかなんなら抵抗勢力の誰かでもいいや、そいつらに特別な関心があるのかというと、これも微妙。たいしたのはいない。独裁者って言うと悪のimageが強いけれど、ユダヤ教とかキリスト教みたいな一神教が浸透しちゃってる世界では、悪(人)というもののimageが、じつに生き生きとしたプロトタイプとなって、ひとびとの内面に用意されちゃっている。気にくわない相手はそこにあてはめるだけで、いつのまにか疑問の余地なく、悪者に仕立てあげて、おしまい。

カール・グスタフ・ユングなんかもそうなんですけどね、戦時中はヒトラーについて、この誇大妄想的な精神病質者の自己保存本能だの、ヒステリー性人格分離だの、劣等感に妄想だのといった分析を試みているのに、戦後になると、起こってしまったことは既に通り過ぎていった歴史の一事件にすぎない扱いで、ひとりの独裁者の疾患に先導されたドイツ国民の疾患、てなことですませちゃってる。どのような狂気に罹患したのか、それはどうのようにして罹患したのかと、もはや問うことはない。「戦争って、いやねえ」というだけの、そこらのおかみさんの井戸端会議と次元において変わらない。そもそも精神疾患を文字どおり病気と見るのか、状態と見るのか、このあたりの検討をすっとばして、「悪」だから「病んでいる」と無批判に決めつけちゃってる時点でアウト。ナチスについて語るのは無理よ。

話は思いっきり飛びますけどね、映画にしても、文学にしても、ナチスを描くのに心理描写なんて必要ない、よけいなんじゃないでしょうか。sentimentalismには限界があり、問題の焦点を見誤る危険がある。そこにうかがわれるのは叙述者の感傷に過ぎなくて、結局ヒトラーもナチスも語られてはいないのではないかと思います。



アメリカの「9.11」は、それまでテロリストを利用して「よろしくやっていた」はずが、そのときたまたま無能なやつが大統領をやっていたので制御しきれなくなって、また相手もその無能につけ込むチャンスを見逃さなかったということですよね。これは現在の我が国を見ていても、やっぱり近隣諸国は時の為政者の無能ぶりを見過ごすことなく、そこにつけ込んでくるってことが起きているんだとわかります。むかしっからゴロツキってのは、そうやって他人のものを自分のフトコロに入れてきたんですよ。




2012.07.30 mon

ナチス関連の映画で思い出した・・・



「ゲシュタポ卍(ナチ)死霊軍団/カリブゾンビ」(「卍」の向きは逆)、原題“Shock Waves”(1977年・米)はmonologue 2008.05.11 sunで既に取りあげています。ピーター・カッシング、ジョン・キャラダインご出演のB級映画で、我が国ではいたって評判がよろしくないんですが、どうも海外では結構評価されているみたいで、BD盤もリリースされている模様。Hoffmannの持っているのはBlue Underground盤・・・にしては、画質がよくない。リマスターされているならちょっと観直してみたいんですけどね。




さて、こちらはまたいかにも安造りなゾンビですね。後ろにいるやつなんてバカボンみたいです。これは、おそらく世界中どこへいってもたいがい評判の悪い映画「ナチス・ゾンビ/吸血機甲師団」Zonbi Lake(1980年・西・仏)から―。



第二次大戦中、パルチザンがドイツ兵の死体を投げ捨てた湖、その湖底の遺体がゾンビとなって蘇り、なにも知らずに泳ぎに来た女学生を襲う、スケベなゾンビだなあ・・・っちゅうか、これは低予算ホラーにありがちな、色気というより「エロ気」のサービスなんでしょうな。



この村にはかつてドイツ兵と村娘の間に生まれたヘレンという娘がおりまして、これが蘇った父親ゾンビと出会い・・・あらららら、ホラー映画が親子の情愛物語になっちまっただよ(^o^A;

この際だから結末まで言ってしまうと、しかしゾンビたちは村人を襲い、その血を啜るので、市長さんから説得されたヘレンは父親ゾンビとその仲間をおびき出し、村人たちは火炎放射器でゾンビを一掃、ひとり涙を流すヘレン・・・という脱力モノのstory展開です。


こんなことやってると死亡フラグが立つのはお約束♪

この映画、もともとジェス(ヘスス)・フランコがメガホンをとるはず(異説あり)が、撮影前日に遁走、そこでジャン・ローランに「ゾンビ映画撮ってくんない? 撮影は明日からね」と電話が入り、ジャン・ローランは渋々&嫌々引き受けたんだとか。予算もなけりゃ時間もない、おまけに監督はじめスタッフもやる気ゼロ、ローランは監督としてはJ.A.Lazerなんて変名を使いながら、本名でゾンビに食われる役を演じて、現場はのんびりお気楽な雰囲気だったそうです。

ところがジャン・ローラン監督作品であることはバレバレとなって、そのあまりの出来の悪さにローランは仕事がなくなっちゃった(作っても売れなくなった)という、本人としては「なかったことにしたかった」映画というわけです。







2012.07.29 sun

ところで、むかーし、男女がコトの後にコーラで洗うと妊娠しないという俗説があったんだよね

コーラで・・・って、特別な効果はないですよね

もちろん。でもね、昨日の映画「さよなら夏のリセ」のなかで、女の子がコーラがないなら「応じない」っていうシーンがある。これはね、コーラの成分がどうこうという意味ではなくて・・・炭酸だからよく振って栓を抜けば勢いよく噴出するだろう?

ああ、それで洗うという・・・つまり携帯ビデとしてコーラが使われたということなんですね(^o^*それなら、炭酸だったらなんでもいいんじゃないですか?

だからさ、この時代にして既に「考案」(笑)されていたんだよ。当時はほかに炭酸のジュースなんてあまりなかっただろう、まさかシャンパン使うわけにもいかんだろうし・・・それにコーラもムカシの方が炭酸が強めだったはずだよ

それでは、避妊具はあまり普及していなかったのでしょうか?

入手しずらかったのかもしれないね。こういう映画とか、たとえば後の時代にはすっかり忘れられちゃうような風俗小説なんかの方が、調子の高い芸術作品よりも、その時代のことがわかるんだよね






2012.07.28 sat

・・・というわけで、ロジェ・ヴァディムの「さよなら夏のリセ」Surprise Party(1983年・仏)です。



舞台は1953年、北フランスはロワールの谷あいの小さな町アンボワーズの町。リセ最終学年のバカロレア(中等教育修了証)試験にめでたく合格したアンヌと親友マリー=ジョー。アンヌは「優等」で試験に合格する女の子ですが、彼女、なかなかお転婆でしてね、ジャズに夢中でドラムを叩き、マリー=ジョーとシュノンソー城に忍び込んでそのまま眠ってしまい、翌朝観光客に写真を撮られ新聞に掲載されちゃったりします。政治家を目ざして選挙の準備をはじめていた父親からは大目玉を食らうんですが、なに、このお父さんもいいお父さんなんですよ。



いよいよバカンス。そんなある日、この町に不思議な親子―美貌の母親と息子のクリスチャンがやって来ます。アンヌは一目で彼のことが好きになり、一方クリスチャンの方も、アンヌに惹かれ、二人は急速に接近します。



さえないダヴィッドはマリー=ジョーのことが好きなんですが、まるで相手にされず。そのダヴィッドの家で「押しかけパーティ」(Surprise Party、これが原タイトル)が開かれることになり、ちょっとしたすれ違いがかえってきっかけとなって、ついにアンヌとクリスチャンは結ばれます。そんななか、アンヌが自分から離れていくようで、取り残されたさびしさから、マリー=ジョーはダヴィッドの兄サミーに身体を与えてしまい、彼女は妊娠してしまいます。



この時代のこと、堕胎といえばモグリの医者に法外な費用を払って、その手術も命がけ。マリー=ジョーに思いを寄せるダヴィッドは、堕胎の費用を用意しながらも、彼女にある提案をします・・・。

昨日upしたのは、このダヴィッド君がお父さんに相談しているシーンですね・・・(-_-*



一方、クリスチャンの母リサに夢中のマルコが母子の素性を知ってしまう・・・クリスチャンの父は第二次大戦中の対独協力者として犯罪者の烙印をおされ逃亡中の身、そのため母子は地方から地方ヘと隠れるようにひっそりと暮らしてきたのですね。リサに拒否されたマルコは、そのしっぺ返しとしてみんなの前でクリスチャンのこの事実をあばき、隠していた秘密を知られたクリスチャンは翌朝、父親の不名誉をぬぐおうと、軍隊に志願するために汽車に乗り込んでしまいます。



クリスチャンが旅立ったことを知ったアンヌはマルコの車で汽車を追いかけ、「ゆうべはぼくが悪かった」と、マルコは踏切りに車を立ち往生させて汽車を止めます。そして車中のクリスチャンに呼びかけるアンヌ・・・。



クリスチャン役を演じているのはロジェ・ヴァディムとカトリーヌ・ドヌーヴの間に生まれた息子、クリスチャン・ヴァディム。アンヌ役がフィリップ・ルロワの娘フィリピーヌ・ルロワ・ボーリュー。脇ではモーリス・ロネなどがいい味わいを添えて、この2世俳優たちを支えています。

1953年のフランス地方都市の風俗もユニークですね。冒頭で女の子が手にしている雑誌の表紙はマリリン・モンローですし、主人公のアンヌはジャズに夢中、お父さんは「黒人の音楽なんて」と世代間のズレも表現されています。それに、みんなでマルコの車にみんなで乗っているとき雨が降り出すと、♪Singin' in the Rain・・・と歌いだすのも印象的でした(^^*

ジーン・ケリーの「雨に唄えば」はまさにこの映画で描かれている1953年の公開なんだよね(^^*

おそらく、ロジェ・ヴァディム自身の青春時代が投影されているのだと思いますが、こうして私が観ていても、Hoffmannさんがおっしゃるノスタルジーに浸ってしまうような、atmosphere
が感じとれますね

キャプチャ画像が荒いのはダビングしたVHS tapeからHDDに落として、さらにそこから焼いたDVD-Rのため。こんなにいい映画がなんでいまだに本国でもDVD化されていないのか、理解に苦しみますなあ。

そういえば「血とバラ」もDVDになっていないんですね。でも、Hoffmannさんがこの映画に特別な愛着をお持ちでいらっしゃるのは、この映画とは切り離せない「想ひ出」が・・・(ムガムガ)

しーっ、言っちゃダメ(;-_-)♭(^×^;)




2012.07.27 fri



昨日取りあげた飯田道子の「ナチスと映画」(中公新書)の巻末には「」ヒトラー・ナチス関連映画一覧」があって、数々の戦争映画から
リリアーナ・カヴァーニの「愛の嵐」、フォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」、ハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの「ヒトラー」、クリストフ・シュリンゲンズィーフの「ヒトラー100年」なんてのまで網羅されています・・・が、なぜか「チャプリンの独裁者」は(本文ではふれているのに)このリストになく、「サロン・キティ」も漏れている。ケン・ラッセルの「マーラー」まで含めるなら同じくケン・ラッセルの「リストマニア」だって入れておくべきでは? リリアーナ・カヴァーニなら「愛の嵐」だけでなく、「ベルリン・アフェア」は?

まあ、いちいち難癖付けてたらきりがないから仕方がないかな、でもHoffmannとしてはアラン・レネの(というか、マルグリット・デュラス原作の)「二十四時間の情事」に加えて、ロジェ・ヴァディムの「さよなら夏のリセ」もここに並べておきたい。まさかいずれも邦題が「トンデモ」だからって、見過ごされたわけでもあるまいが・・・。

ロジェ・ヴァディムの「さよなら夏のリセ」は原題が“Surprise Party”でしたね。かなり以前にもこの邦題については話題にされましたけど、未だ映画の内容についてはふれていらっしゃいませんよね

なぜか海外でもDVD化されていないみたいだけど、青春映画の傑作だよ



・・・って、あえてこのシーンをupしますか〜(^o^*




2012.07.26 thurs



高村宏の「ドイツ反ファシズム小説研究」(創樹社)は1933年から1945年の間に書かれた反ファシズム小説について、「亡命文学」としてではなく「抵抗文学」として捉え、論じたもの。一般に「亡命文学」を論じる際に見過ごされてきた、帝国主義以来の社会的階級関係による視点が、当時の反ファシズム文学という潮流にも見受けられる、そこではプロレタリア革命作家とブルジョワ・リアリスト作家が共通の敵、ファシズムと共同して闘ったのである、としている。



飯田道子の「ナチスと映画」(中公新書)。これは戦中のナチスによるプロパガンダ映画から、戦中・戦後、さらに現代に至るまで、ヒトラーとナチズムはどのように「評価」され、あるいはimageされ描かれてきたか、その変遷を俯瞰することによって、ナチスの変容、さらには歴史と記憶の関係を論じるもの。新書版のヴォリュームなのでやや食い足りないが、コンパクトにまとまっている。




2012.07.25 wed



W・L・シャイラーの「第三帝国の興亡」全5巻井上勇訳(東京創元社)
。この本はHoffmannがコドモの頃から家にあったのよ。先日本屋に行ったら、新訳の新装版が出ていた。その新しい翻訳がどんなものなのかは、読んでいないので分からない。

ナチ時代を俯瞰するには便利。著者はアメリカ出身のジャーナリストで、硬すぎず柔らかすぎず、読みやすい。ただし歴史研究書ではなくてあくまで読み物。古典的名著であることに異を唱えるつもりもないが、当時の連合国側のジャーナリストが第三帝国をどう見たか(資料をどうまとめたか)、という点をアタマの片隅で意識しつつ読むべき。まあ、だからHoffmannも新訳版にまで手を出す必要を認めないんですけどね。




2012.07.24 tues



じつを言えばヒトラーそのひとにはあまり関心がありません。それでも、その肉声にふれておくなら、ヘルマン・ラウシュニングの「永遠なるヒトラー」船戸満之訳(八幡書店)がいちばん。ラウシュニングはナチス台頭期にヒトラーの腹心となり、ナチスが絶頂に至る直前に、その破局を予見して離脱したひと。1932年から1934年までの記述。この本はかつて学芸書林から「ヒトラーとの対話」という表題で出ていましたが、そちらは英語版からの重訳だったようです。



W・C・ランガーの「米国戦時秘密報告書 ヒトラーの心」ガース暢子訳(平凡社)はその表題のとおり、アメリカの諜報機関の要請により、1943年に作成されたヒトラーの精神分析報告書。ヒトラーの行動を予想する章で、「病死するかもしれない」、「中立国にへ亡命するかもしれない」、「発狂するかもしれない」・・・などと並べて、最後が「自殺するかもしれない」、そして「これは最も可能性のある結果である」としている。大当たり。さらに、「これはわれわれにとって最も望ましくない。もしそれがうまく行われれば、ドイツ国民の心にヒトラーの伝説を非常に強く植えつけるので、それをかき消すには何世代もかかることになるかもしれないからである」とある。つまり、ドイツの敗戦後も連合軍(国家)にとっては、ヒトラーに対するnegativeなプロパガンダは絶対に必要だったわけです。別にヒトラーの肩持つつもりも同情するつもりもないけどさ、いろいろ思い当たるでしょ。



次に、個人的にはヒトラーよりも興味深いゲッベルス関連書を取りあげようかと思ったんですが、どうもHoiffmannが眼にした限りでは、あまりたいした本が出ていないようです。そのなかではR・マンヴェル、H・フレンケル共著の「第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯」樽井近義・佐原進訳(東京創元社)が重要かな。副題のとおり、ゲッベルスを扱ってはいるんですが、ナチズムとマス・メディアについて論じて鋭い内容の本というのは、意外にもほかにはなかなか見あたらないんですよ。



そのほか、「ゲッベルスの日記」西城信訳(番町書房)は一次資料なれど、別段必読というものではなし(私生活は低劣なる俗物だ、こういう男はHoffmannの職場にもたくさんいる)。前川道介の「炎と闇の帝国 ゲッベルスとその妻、マクダ」(白水社)は、さすがにこの著者、おもしろいんですが、あくまで読み物として・・・かな。




2012.07.23 mon



ナチズムの思想的基盤、これはナチスのイデオローグであったアルフレート・ローゼンベルグの「二十世紀の神話」吹田順助・上村清延共訳(中央公論社)。昭和13年の刊行ですが、たしか数年前に復刻されていたような気がします(間違いだったらごめんよ)。原書は1930年に刊行されて、ヒトラーの「我が闘争」とともにナチの聖書と呼ばれたもの。これは人種理論。ダーウィンなんぞ知ったことかとばかりに、血液の神秘的なパワーなんぞ持ち出すあたり、どこかの国のカルト宗教を思い出させる・・・ちゅうか、あちらが、ナチズムに限らず、あちこちにお手本を見つけ出して、引用と借り物で宣伝(布教)していたんですよ。ただし引用とか借り物だけに、それらはかつて実証された効果(!)を持つものだったわけです。ちゅうことは、大衆は歴史からなにも学んでいないってことなんですなあ。



というわけで、この人種理論はそもそもオカルティズムと無縁ではないし、また性、あるいは性差別の問題と密接に結びついているのですよ。そこで横山茂雄の「聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム」(水声社)。そうした人種理論が第三帝国下で具体的にどのように機能していたか、風俗や教育にどのような影響を及ぼしていたかについては、H・P・プロイエルの「ナチ・ドイツ清潔な帝国」大島かおり訳(人文書院)が参考になります。



さらに人種論の側面から、ナチズム台頭の背景にあるヨーロッパの思想風土を根本的に検証しようと試みるならば、オットー・ヴァイニンガーの「性と性格」竹内章訳(村松書館)ものぞいておいて損はない。ついでに当時の思想風土では反ユダヤ主義に関して、ドレフュス事件についても知っておいた方がいい。さらにドレフュス事件についてはゾラとプルーストも読んでおきたい・・・って、こりゃきりがないな(笑)



原点・源流に遡ると言う意味では、ワイマール体制の自由主義がかえって「自由からの逃走」を生んだとるすエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」日高六郎訳(東京創元社)は当然の必読書として、ウォルター・ラカーの「ドイツ青年運動」西村稔訳(人文書院)、上田安敏の「世紀末ドイツの若者」(三省堂)、今泉文子の「ミュンヘン 倒錯の都市」(筑摩書房)などがあります。ちょっとキワモノ臭い方がおもしろいという向きは長澤均、パピエ・コレの「倒錯の都市ベルリン1918-1945」(大陸書書房)をどんぞ。



心理学的な側面からのアプローチについては、フロイト、ユングの著作にふれておくことはもちろんのこととして、マルクス主義的フロイト学派の視点でナチズムを呼び寄せた大衆心理を論じた本としてW・ライヒの「ファシズムの大衆心理」上下巻平田武靖訳(せりか書房)。それにしても、この上下二巻本を見ていると「赤いきつねと緑のたぬき」ってえのを連想しちゃいます(^o^;



より深層心理的にナチズムの源流に至ろうとすれば、過去の遺産をシンボリズム面から読み取ろうとする多木浩二の「『もの』の詩学 ルイ十四世からヒトラーまで」(岩波現代選書)、アナール学派のアラン・ブーローによる「鷲の紋章学」松村剛訳(平凡社)も参考になります。

以上、一応分けてはみたもののどこからどこへ飛んでもいいんですよ。それぞれがお互いを補完しあっているでしょ。ちなみに政治・世界情勢の面から見た社会的基盤ということなら、ここでHoffmann的には昨日のA・J・P・テイラーの「第二次世界大戦の起源」につながるんですよ。



お写真まとめて・・・上で言及していない本についてひと言ふれておくと、中央のマックス・ピカートの「われわれ自身のなかのヒトラー」佐野利勝訳(みすず書房)とかV・E・フランクルの「夜と霧」霜山徳爾訳(みすず書房)はいまさら述べるまでもない基本図書。右写真の2冊は、ナチズムについて知るためにはフランクフルト学派も守備範囲に含めておかなきゃなあという考えから。




2012.07.22 sun

ナチズム関係の本についてまとめてみようかなと思ったのはもう何年も前のことなですけどね。何度かこのページでその準備みたいに、いくつかの本を取りあげてみたんですが、結局それだけ。範囲が広がってしまうというか、ナチズムはナチズムでもそれぞれ分野があって、並列してみてもおもしろくもなんともない。それでついめんどくさくなっちゃいましてね。

まあ、一度はやってみたかったんで、お気楽に、でも漫然と並べるだけにならないように、せいぜい工夫しみようかな。



ヒトラー、ナチズム、第二次世界大戦とくれば、Hoffmannがいちばん最初に取りあげるのはこちら―A・J・P・テイラーの「第二次世界大戦の起源」吉田輝夫訳(中央公論社)。

第一次大戦後、ヴェルサイユ条約によって数十年に及ぶ将来にわたる経済的負担を強いられることとなった屈辱、これをはらすために、ドイツでは国家の地位を回復するためのリーダーが待望されていた、というのはいまではたいがい異論のないところでしょう。この本では、ヒトラーというのはそれ「だけ」の人物だとされている。早い話が、ヒトラーは明確な目的と優秀な頭脳を持った戦争仕掛け人ではなくて、ヨーロッパの政治家が無能だったもんですからその隙をついた、ツキに恵まれただけ、首尾一貫した行動をとったわけではない、としている。

考えてみれば、ヒトラーを徹頭徹尾、極悪人としての意志を貫徹させた犯罪者・異常者として断罪するのが正統史学の立場ってえのも、話が単純すぎる。政治が介入するならそれもアリ、敗戦国のリーダーが再評価されちゃ困りますからね。でも、歴史学は政治家の損得勘定抜きで評価するべき。ヒトラーだから、ナチスだからってんで、思考停止しちゃいけません。

ムカシの恐怖映画では、アジアや東欧からやって来た。たとえばドラキュラはルーマニアからやって来ましたよね。西部劇ならインディアン(先住民族)との戦いだ。やがてそれも差し支えがあるということになって、恐怖の対象は宇宙から飛来するようになり、果ては未来なんぞから襲いかかってくるようになった。でもこれはSFという限られたジャンルでしかできないこと。いまじゃハリウッドが安心して敵対する悪党に設定できるのは、いよいよナチス(ヒトラー)ということになっている。これならどこからも文句が来ない。文句を言うやつに対しては、ファシストとかネオ・ナチなんてレッテルを貼ってやればいい。でもね、過大評価も矮小化も、じつのところ戦勝国の自己都合によるプロパガンダじゃないんですか。そもハリウッドちゅうのは、アメリカ人の思いあがりの上に成り立ってるのよ。そうした「上から目線の仕切りたがり」ぶりは、たとえば「地球の静止する日」(1951年・米)とか「インデペンデンス・デイ」(1996年・米)なんて映画によくあらわれています。




2012.07.21 sat



ポオの「アッシャー家の崩壊」のなかで、ロデリックとその友人が読んでいる本のなかに、このカンパネラの「太陽の都」がありましたね。16世紀半ばに生まれたカンパネラは、カトリックでありながら宗教改革論者の影響を受けて、占星術に基づいて急進的な革命を画策、投獄されてその獄中で執筆したのがユートピア小説「太陽の都」です。

ルター派復員教会の牧師であり、薔薇十字運動の中心的人物であった、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、そのカンパネラの影響を受けて、やはりユートピア小説「キリスト教都市国家」(クリスチャノポリス)を書いています。アンドレーエはその著作、「科学の結婚」につて「お遊び」だの「気晴らし」だのと言っていますが(それなら重要な本だ!)、なーに、、薔薇十字思想だって錬金術にしたって、哲学者の壮大なお遊びなんですよ。

「お遊び」ったって、なにも莫迦にしているわけじゃない。カンパネラの翻訳を出していた現代思潮社の古典文庫シリーズ、この叢書はかつての学生運動時代に盛んに読まれたとうこと、ご存知かな。




2012.07.20 fri

アラン・ロンバール指揮によるMozartのオペラ2組です。かなーり以前に取りあげた記憶がありますが、そのときなにを言ったのか、おぼえていません。同じことを言うか、ぜんぜん違うことを言うか・・・。

もしも以前おっしゃったことと同じでしたら・・・?

Hoffmannはボケ老人ですから、同じことを何度も言います( ̄- ̄)エヘン
 (^o^;)なにも威張らなくても・・・

ちなみに、以前とぜんぜん違うことを言ったとしても、関知しません( ̄- ̄)オホン 
ヾ(^∇^*)トボケ老人ですねっ



さて、まずは「コシ・ファン・トゥッテ」、アラン・ロンバール指揮ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団による1977年の録音。仏Erato盤LPです。

当時売り出し中だったテ・カナワ、フォン・シュターデを姉妹役に、フッテンロッハー、レンドール、ストラータス、バスタンと並べた、ちょっとMozart録音としてはめずらしいキャストです。Hoffmannはテ・カナワの声は好きではありませんが、これも個性と思えば全体に歌は水準以上の全曲盤です。

問題は指揮者で、どうもオーケストラと歌がかみあわない。ロンバールに関しては、まあ、このひとのdiscがほめられているのを聞いた記憶も読んだ記憶もありませんが、Hoffmannは結構レコードを持っていまして、グノーの「ファウスト」なんか好きなんですよ。でも、その「ファウスト」でも、この「コシ・ファン・トゥッテ」でも同様なのが、この、歌とオーケストラの表情のアンバランス。なんでかなーと考えてみたんですが、このひとは勢いのある指揮をするわりに、ドラマの表出に無関心なようですね。だから歌手に寄り添うようなそぶりを見せないという演奏になって、チグハグな印象を残すのかもしれません。




お次は「魔笛」、同じくストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団による演奏で、1978年の録音。仏Barclay盤LP。

歌手はテ・カナワ、P.ホフマン、バトル、グルベロヴァーなど、まだまだ未熟。もっともバトルはその後も未熟なまま消えたけどな。歌も下手だが台詞の下手さ加減ときたら、微笑ましいくらい。フッテンロッハー、モルがいい歌唱。侍女役に伊原直子の名前が見えます。指揮に関しては、一曲一曲を聴く限りでは悪くないんですが、全曲を通じての設計というものが感じとれません。まあ、storyもほとんど破綻しているようなおとぎ話ですから、極端なハナシ、オペラじゃなくてミュージカルだと思えば、これはこれで問題ないかなと思います。ミュージカルだなんて突飛なことを言うようですが、劇団「シカネーダー」の大衆向けミュージカル・・・って発想は、そんなにおかしなもんじゃないでしょ。





2012.07.19 thurs

この流れだとここはやっぱりロスバウトの「フィガロの結婚」を取りあげておきませんとね。



1955年エクサン・プロヴァンス音楽祭live録音。ハンス・ロスバウト指揮パリ音楽院管弦楽団、歌手はシュティヒ=ランダル、シュトライヒ、ローレンガー、レーフス、パネライ、コルティス、キュエノーほか。

ちょっと検索してみたら、ロスバウトといえば一般的には「フィガロの結婚」よりは「ドン・ジョヴァンニ」の方が評価が高いそうなんですが、だとスっと、Hoffmannは少数派だな(笑)

すると、Hoffmannさんは「フィガロの結婚」の方が・・・?

ロスバウトなら「コシ・ファン・トゥッテ」だな(* ̄ー ̄)♭ 
(^o^;あららら・・・

いや、ロスバウトの「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」なら「フィガロの結婚」の方が好きですね。序曲から活気があって、溌剌としています。歌手も概ね好調で、とくにパネライとシュトライヒによるフィガロとスザンナのコンビがよく、コルティスのバルトロも適役、ローレンガーのケルビーノも可愛らしく、脇をキュエノーなどが固めています。



ロスバウト指揮エクサン・プロヴァンス音楽祭のlive録音ってことで、ついでだから、あちらにはページを作っていないんですが「後宮からの逃走」のdiscを取りあげておきます。1954年のlive録音。オーケストラはもちろんパリ音楽院管弦楽団、歌手はシュティヒ=ランダル、ブリエット、ゲッダ、セネシャル、アリエ。INA音源のRodolphe盤CD。

コンスタンツェのシュティヒ=ランダルは弱いし、オスミンのアリエなんてもっと強烈な主張があってもいいかもしれませんが、かえって全体のなかから浮きあがってしまうこともなくて、これはこれでいいですね。「後宮からの逃走」のちょっと古いスタジオ録音盤は、台詞が声優によって語られていることがあって、どうも聴いていて白けちゃうんですね。live盤だからそのようなウソっぽさはないし、比較的音質良好です。ロスバウトの指揮は「フィガロの結婚」や「コシ・ファン・トゥッテ」と同様。聴き手に媚びるような色気はありませんが、バランス感覚にすぐれたもの。




2012.07.18 wed

本日はモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」でござい・・・って、このオペラに関しては、あまり言うこともないんだよね(^^;



いずれもハンス・ロスバウト指揮パリ音楽院管弦楽団、エクサン・プロヴァンス音楽祭live録音。左は1957年の収録で、歌手はシュティヒ=ランダル、ベルガンサ、アダーニ、アルヴァ、パネライ、コルティス。右は1955年の収録でシュティヒ=ランダル、メリマン、シュトライヒ、ゲッダ、パネライ、コルティス。どちらもセッコはピアノ。INAのdisc。

ロスバウトの指揮はやっぱりドライな印象ですが、これは録音(ホール)のせいもあるのかも。それでも冷たく無味乾燥というわけではなくて、音楽は明快、小歌劇場の上演に接しているようなintomateな雰囲気があります。個人的にはロスバウトには「ドン・ジョヴァンニ」よりも、この「コシ・ファン・トゥッテ」の方が適しているように思います。歌手は1957年盤と1955年盤と、それぞれに魅力的。「ドン・ジョヴァンニ」で文句を付けた歌手も、ここでとびきりの名唱を聴かせてくれるというほどでもなく、しかしこの作品では問題なし(笑)これはあくまで個人的な(ややおおげさに言えば)「コシ・ファン・トゥッテ」観みたいなもんですけどね、このオペラは、重唱のアンサンブルができていれば、むしろ飛び抜けた大歌手なんかいないほうがうまくいく、そんな作品じゃないでしょうか。

そんなわけで、ロスバウトのモーツァルトを聴きたくなったらこの2組のdisc、そのどちらを取り出してもいいなと思っているんですけどね、じつは1955年盤の方、これはエクサン・プロヴァンス音楽祭live録音集と呼ぶべき5枚組でして、上記「コシ・ファン・トゥッテ」のほかに、クリュイタンスによるグノーの歌劇「ミレイユ」(1954年)、ロスバウトのピアノ伴奏によるボリス・クリストフのリサイタル(1955年)、プーランクのピアノ協奏曲を作曲者のピアノとミュンシュ指揮で(1950年)、デゾルミエール指揮のメシアン「トゥーランガリーラ交響曲」(1950年)と、なんとも貴重な録音が収録されたセットなんですよ。




2012.07.17 tues

引き続きモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のdicsです。



1956年9月20〜28日の録音とあるので、エクサン・プロヴァンス音楽祭上演後のセッション録音かな。ハンス・ロスバウト指揮パリ音楽院管弦楽団、エクサン・プロヴァンス音楽祭合唱団。歌手はカンポ、シュティヒ=ランダル、ダンコ、ゲッダ、コルティス、モッフォほか。

指揮はややドライで即物的、それだけに古びた印象はありません。なんかね、聴き手に媚びていない、淡々とした語り口でありながら、Mozartならではの軽快感が愉しめます・・・が、歌手がほぼ全滅状態。カンポは弱く、モッフォはそもそも歌手としての才能なし、いい歌を聴かせてくれるのではと期待したダンコのドンナ・エルヴィラとシュティヒ=ランダルのドンナ・アンナは知的表現という点でまったく不満。それぞれドンナ・エルヴィラとドンナ・アンナという女性の性格が把握できていないのか、それとも表現できないだけなのか。いくらかましなのはレポレロのコルティスくらい、ただし笑いながら歌ったりして、すっかり浮いちゃってます。結果、作品の上っ面をなぞっただけのものとなってしまいましたとサ。




上記discと同じキャスト、ただしこちらは1956年7月12日とのデータあり。live録音ですね。歌手はマゼットが上記Pathe録音ではアンドレ・ヴェシェールでしたが、こちらの盤ではパネライ。セッコはPathe録音ではチェンバロなのにこちらではピアノ。音質は良好。INA、すなわちRadio Franceから出た(というか、tape提供かな)disc。

序曲冒頭の気迫からして違いますね。これが同じ指揮者なのかというくらい、ノリがいい。ただし歌手はほとんど同じ面々なので、live録音ならではの臨場感が多少印象をましなものにしている程度。コルティスの「カタログの歌」中の「ウホホホホ・・・」も同じだし、そのほか下手なひとはやっぱり下手。




2012.07.16 mon

あちらのページを加筆・更新中なので、そこらへんから流用・・・っちゅうか、ここで語ってから、多少手を入れてあちらに転載することが多いんだが―。



後で述べる理由により、Hoffmannがもっとも感動したモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のdicsがこれ―ブルーノ・ワルター指揮メトロポリタン歌劇場による1942年3月7日live録音。歌手はエツィオ・ピンツァ、アレクサンダー・キプニス、ヤルミラ・ノヴォトナ、チャールズ・クルマン、ビドゥ・サヤオと、卒倒しそうな往年の大歌手たち。ワルターの指揮するオーケストラも見事ながら、この伝説的な名歌手たちのアンサンブルがすばらしく、ほとんど奇蹟と呼びたいような公演の記録です。

奇蹟ったって、ミスがない完璧な演奏という意味ではありません。Hoffmannが仰天したのは、第二幕でドンナ・エルヴィラとともにいたレポレロが、ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオ、マゼット、ツェルリーナたちから詰め寄られるところ―ここでレポレロ役のキプニスが出を誤って、しばらくオーケストラとずれたまま迷走するんですが、なんとここでドンナ・エルヴィラ役のノヴォトナが、とっさにレポレロの歌詞をオクターヴ高く歌い、キプニスを正しい位置に導くんですよ。

すばらしいじゃないですか。これぞプロ、さらにそのプロが共同して作りあげる芸術作品ってもんです。Hoffmannはこれを聴いて、すっかりノヴォトナのファンになっちゃいました。

(おまけ)


左はドンナ・エルヴィラに扮したノヴォトナ。右はブルーノ・ワルターと。



それぞれ「薔薇の騎士」のオクタヴィアン、「魔笛」のパミーナの舞台写真。



人柄がにじみ出ているような、いいお写真ですね〜(^o^*ステキ♪




2012.07.15 sun

そのむかし、若杉弘がケルン放送交響楽団を率いて来日したその公演の会場で、長らくドイツに滞在していたという年長の知人に「ドイツではこのオーケストラの評価はどうなんですか?」と訊いたら「あまり高くないよ」と言われて、ああそうなんだと思っていたんですよ。でも、同オーケストラの1950年代の録音がdiscで聴くことができるようになって、すくなくとも一時期は黄金時代があったんじゃないかなと思うようになりました。



これはクレンペラーがケルン放送交響楽団を振ったモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」。1955年5月17日の録音。歌手はロンドン、ツァデク、ウェーバー、シモノー、クッシェ、シュトライヒほか。Testamentから出たCDです。

このほかにもエーリヒ・クライバーの「魔弾の射手」、カイルベルトにチェリビダッケ、クナッパーツブッシュと、指揮者がそうそうたる面々。クリュイタンスの「カルメン」なんてのもあったよね

このオーケストラについては、たしかカール・ベームにも、「私のオーケストラ」なんて言っていたというエピソードがありましたね(^^*



これはチェリビダッケが1957〜58年にケルン放送交響楽団を振った録音を集めた5枚組CD。このセットに収録されたチャイコフスキーの交響曲第6番とかブラームスの1番などを、晩年のミュンヘン・フィルとの演奏と比較すると、なかなか興味深いものがあります・・・なーんて書いてあっても「ふむふむ」なんて感心しちゃいけません。興味深いものがあるならどのように興味深いのか書いてなければ、だれでも言えること、聴いてなくたって言えます(笑)

・・・ではHoffmannの場合じっさいどうなのかというと、ムカシのチェリビダッケは骨太なロマンティシズムが特徴なれど、弱音へのこだわりとか、フレージングは粘らないのにアタックで踏ん張ってみせる(わずかな間をとる)あたり、晩年の演奏と共通する特徴が印象強く、格別興味深いというほどのことはありませんでした。

なんだかカール・ダールハウスみたいに、ひとの鼻面を引き回す言い方なさいますね〜(((;^o^)σ)~0~)/プニッ♪




2012.07.14 sat



これは何度かupした記憶があるな。新東宝の毛利正樹監督による「怪談鏡ヶ渕」(1959年)と中川信夫の「怪談かさねが渕」(1957年)。いずれも三遊亭円朝が原作。右の写っているのは後者の原作、岩波文庫版「真景累ヶ淵」。

やっぱりねえ、若杉嘉津子が主演している「怪談かさねが渕」がいいですねえ。若杉嘉津子はなんといってもこの豊志賀と「東海道四谷怪談」のお岩です。中川信夫が怪談映画を本格的に監督した最初の作品なんだそうですが、やっぱり非凡な才能を感じさせます。



鎌とか三味線とか、Hoffmannさんのおっしゃるfetishismはちゃんとおさえておりますね(^^;

ちなみに岩波文庫版「真景累ヶ淵」は、一昨年Hoffmannが救急車で搬送されたとき、ひとに頼んで買ってきてもらって病室で読んでいた本のうちの一冊。あンときは全身管だらけだったので、今後「管狐」とか「管狐居士」なんて号を考えたもんです。

またハナシがおかしな方向に・・・Hoffmannさんの場合、竹筒に入るほど細身じゃありませんから、むしろ「団三郎居士」とか・・・(^o^*

♪ハァ〜佐渡へ佐渡へと草木もなびくよ〜ハ、アリャアリャアリャサヾ(^∇^*)ノシ




2012.07.13 fri




左が昨日の「怪猫 お玉が池」のDVD、右は同じく新東宝は中川信夫監督の「亡霊怪猫屋敷」(19158年)、じつはこれも「原作 橘外男」と表記あり。出演は和田桂之助、北沢典子、中村竜三郎。五月藤江ほか。



妻の転地療養を兼ねて郷里の古びた屋敷で開業医をはじめた大学病院の助教授、やがて妻は不気味な老婆につきまとわれ、菩提寺の和尚に相談すると、和尚は夫妻が借り受けた屋敷にまつわる怨念話を語る・・・って、なんだか昨日の「怪猫 お玉が池」と似たような話ですなあ。

現代劇は青みがかったモノトーン、時代劇の部分はカラーという、パートカラー映画であるのは、これ、低予算の故。これを逆手にとって効果をあげているのはさすが中川信夫の手腕です。




やっぱりね、とりわけ怪談映画にはfetishismが必須なんですよ。



ところで、いまの住まいに来てから、スーパーで銀鱈を売っているのを見たことがないなあ。以前の出稼ぎ先では(輸入もんだけど)ちょいちょい見かけて、安くなっているときには買ってたんですけどね。Hoffmannの部下だった奥さんも、銀鱈が大好物で、でもお高いから自分の分だけ買って、ご主人と息子さんには「あなたたちにはお肉にしてあげたからねっ(笑)」とか言っていたそうなんですが(^o^*

なんかもう、近頃では話がそれても、なんとも思ってらっしゃらないようですね〜(^o^;

きょうのおかずは「まだらの紐」ですよっヾ(^∇^* ええっ、蛇?(・・; (^o^;真鱈の干物じゃないですか?




2012.07.12 thurs

このところ怪談映画をいくつか観ましてね、たまたまなんですが、その大半が化猫映画。タイトルだけ列記すると・・・

「怪猫夜泣き沼」(1957年・大映京都)
「怪猫逢魔が辻」(1954年・大映京都)
「怪猫岡崎騒動」(1954年・大映京都
「怪猫呪いの壁」(1958年・大映京都)
「怪猫五十三次」(1956年・大映京都)
「怪猫有馬御殿」(1953年・大映京都)
「秘録 怪猫伝」(1969年・大映京都)
「怪談鍋島の猫 鍋島怪猫伝」(1949年・新東宝)

・・・まだあるんですが、これだけ続けて観ていると、もうどれがどれやら(^_^A;

「かいねこ」で漢字変換すると当然の如く「飼い猫」と出ますね(^o^*「かいびょう」だと「会病」



こちらは1960年新東宝の「怪猫 お玉が池」です。石川義寛監督、出演は伊達正三郎、北沢典子、松浦浪路、沼田曜一、五月藤江ほか。なぜこれを取りあげるかってえと、昨日に続いて往年の大衆作家の小説が原作であるため。すなわちこれ、原作が橘外男なんですね。橘外男の本といえばかつて出ていた教養文庫や中公文庫の作品集などが棚に並んでいますが、やっぱりこの映画の原作(「私は呪われている」)はどこにも収録されていないなあ。

storyは叔父の葬儀に向かう途上、山道に迷った男女が山裾の寺で一夜を明かす、和尚はこのふたりを見て、百年前の代官の悪事とその報いを語る・・・という枠物語。



こうした場面では緑色の照明を使うことが多いんですよね。



中川信夫のような様式美は望めませんが、雰囲気はなかなかいいですね。化猫を控えめに出しているのがうまい。ただ、それ以外の幽霊はいらなかったなあ。




2012.07.11 wed



これは1949年大映のミステリ映画「虹男」です。監督は牛原虚彦、原作は角田喜久雄。

「虹が・・・虹が!」という謎のことばを残して次々と殺される摩耶家の人々。果たして摩耶家は虹男に呪われているのか。容疑者として取り調べを受けている由利枝はなにを隠しているのか・・・。



パートカラー映画として有名な本作、まあ、登場人物の幻覚として(わっ、言ってしまった;;;)こんなシーンがあるだけで、どうということもなし。



Hoffmannがこの映画で注目していたのは、由利枝役の若杉須美子です。後に新東宝で「東海道四谷怪談」などの怪談映画に出演する若杉嘉津子と名前を変えた女優さんですね。まあ、このひとが開花したのやはり新東宝へ行ってからなのかな。そのほか、若き小林桂樹を除けば、あとは台詞棒読みの学芸会です。

角田喜久雄といえば「妖棋伝」とか「髑髏銭」とか、代表作として挙げられるのは昭和10年代の作品ですね。戦後は江戸川乱歩とも親交を持ち、ミステリ作家(当時は本格推理小説作家と呼ばれた)となったひと。Hoffmannは何冊か読んでいるんですが、どちらかというと伝奇小説作家、大衆小説作家というimageです。でもいま、本棚にあるのは講談社大衆文学館という文庫本シリーズの一冊、捕物帖を7篇を集めた「怪異雛人形」だけ。この「虹男」の原作も読んでいません。この映画を観る限りでは、たしかに古色蒼然としたミステリであまりおもしろくもない。ただ、DVDのレビューを検索したら、原作を改変していると言っているひとがいたので、原作の責任ではないのかもしれない。

探してみたら、アンソロジーに二篇収録されているのを見つけました。双葉文庫の「怪奇探偵小説集」第II巻に「底無沼」、立風書房の「現代怪談集成」下巻に「沼垂の女」。後者は昭和29年発表の作で、奇怪な出来事をあるがまま叙述した名品です。




2012.07.10 tues

世間の流行り廃りには一切関係なく、この季節はハイボールが美味いんですなあ。いや、美味いから飲むんではなくて、酔うのがいいんですけどね(^^*

ところで、失言や暴言を「酒の席の話だから」と言って謝罪もせずに誤魔化すひとがいますよね。あれ、酒飲む資格はありませんな

酔っぱらったときこそ本音が出るということですか?

うんにゃ、酒飲みながらの話がいちばん大事であり、重要な話こそ飲みながらやるもんだ、ということだよ

なんだか幕末の志士みたいですね〜(^^;




2012.07.09 mon

文庫本の棚の前に座り込んで香山滋、橘外男、日影丈吉など読んでいたんですが、それぞれに美点はあるものの、さすがに日影丈吉は別格。

まあ、この部屋はどこに座っても本棚の前なんだが・・・


トイレに座っても目の前に本棚がありますからね(^^*




2012.07.08 sun

もともと永久に完成しない、随時更新中だったmusik halle”のページ、一部up開始。

2012.07.04から2012.07.06までは
、そのための準備だったんですね(^o^*




2012.07.07 sat

なんかね、このhomepageなんですけどね、Firefoxで見てみたらfontの色やサイズがおかしいのよ(IEだと問題ない)。このmonologueのページでHoffmannのおしゃべりが赤になっちゃってる箇所があるんですよ。いろいろやって直ったり直らなかったり・・・とりあえずFirefoxの方は、下品な言葉遣いが赤fontになっていても、それは優美ではなくこのHoffmannの語りなので、読んでいておかしいなと思ったらそこんとこよろしゅうたのんます。

「IEでご覧ください」とはおっしゃらないのですね(^o^;




2012.07.06 fri

さらにモーツァルトの歌劇、ダ・ポンテ三部作ということで、「コシ・ファン・トゥッテ」です。



これまたベームの指揮による三種類の録音、左からウィーン・フィルとの1955年DECCA録音。中央が1962年フィルハーモニア管弦楽団との独Electrola録音、右が1974年ザルツブルク音楽祭のlive録音、ベーム80歳記念の公演でしたっけね。オーケストラはもちろんウィーン・フィル。

Hoffmannが物心ついたころには、中央のフィルハーモニア盤が「歴史的名盤」と呼ばれていましたね。ベームも気力充分で、シュワルツコップとルートヴィヒによる姉妹がすばらしいというのがその理由とされていました。それでもHoffmannはシュワルツコップがあまり好きでないのと、やはりlive録音には独特の雰囲気があることから、1974年盤が好きでしたね。プライとかシュライアーなんて、やっぱり自分と同時代のひとという親しみも感じられましてね。ついでに言っておくと、Hoffmannがはじめてオペラの公演をナマで体験したとき、その耳に入ってきた第一声はシュライアーの歌だったんですよ。

今回あらためて聴いてみて、歌手はそれぞれに一長一短と感じました。1974年盤ではヤノヴィッツ、グリスト、プライ、シュライアー、パネライはいい(あれ、あとひとりだけですね、そのひとりがよくないんです)。1962年盤はシュワルツコップは好みの問題としても、ちょっと浮いちゃってると思うんですよ。男声はダメなわけではないんですが、割食っちゃてるなあ。デスピーナ(これも重要な役です)のシュテフェクはほかにだれかいなかったんでしょうか。1955年盤はクンツ、シェフラーと並べてしまうとデルモータがねえ、言っては悪いんですが、歌唱上の演技において木偶の坊です。




2012.07.05 thurs



同じくモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」、ベーム盤二種です。左はプラハ国立歌劇場を指揮しての1966年の録音。戦後このころまでウィーン・フィルはDECCAと専属契約を結んでいたので、DGGではベームといえどウィーン・フィルを使えなかったんですね。もっとも「ドン・ジョヴァンニ」にプラハ国立歌劇場というのはなかなかに意義深い録音であったとも言えます。歌手はフィッシャー=ディースカウ、フラジェルロ、アーロヨ、シュライアー、ニルソン、グリストほか。ドン・ジョヴァンニのF=DはHoffmannの嫌いな歌手だと言うことを別にしても、ちょっと神経質すぎやしないでしょうか。ドンナ・エルヴィラのニルソンはイゾルデみたいに気品がある、といえば聞こえがいいんですが、ここでは気位ばかりが高いといった印象で、ドン・ジョヴァンニもこの女性を誘惑しようとはいい度胸してますな。じっさい、エライ剣幕で詰め寄られてオタオタしているように聴こえます。この録音でいいのはツェルリーナのグリストと、決して超一流とは言いがたいものの、ほの暗い、渋めの音色が作品にふさわしいオーケストラですね。

右は1977年ザルツブルク音楽祭のlive録音。歌手は ミルンズ、ベリー、トモワ=シントウ、ツィリス=ガラ、シュライアー、マティスほか。このレコードが出た当時、ベームも衰えてかつての録音に聴かれるような推進力に欠けている、なんて評されたようですが、いま聴くと、たしかにリズムは硬いものの、そんなに覇気のない演奏ではなく、それなりに生き生きとしたオーケストラです。もっともやや粗く感じられるのは、指揮者の統率が行き届いておらず、オーケストラが勝手に演奏しているような面があるためかもしれません。歌手は総じて欠点が少なく、live録音であることを考慮すれば可も不可もなし。シェリル・ミルンズは貴族的な気品がいま一歩なれど、数多ある「ドン・ジョヴァンニ」全曲録音のなかで決して悪くはありません。ただしレポレロのワルター・ベリーは演技が大げさすぎて、声の衰えをカバーしようとしているみたいで、ちょっと痛々しいですね。

ベームの「ドン・ジョヴァンニ」はCDでlive録音がいくつか出ているので、そのうちにあちらのページでコメントを付けますよ。




2012.07.04 wed

先日自宅で聴いてきたレコードから―。



これ、以前にも取りあげたかと思いますが、オトマール・スイートナー指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」です。歌手はプライ、ギューデン、ローテンベルガー、ベリー、マティス、ブルマイスター、シュライアーらと超豪華。1964年の録音。我が国では国内盤が出ていたという記憶はありませんが、輸入盤のshopではよく見かけた、つまりLP時代から有名なレコードですね。

「フィガロの結婚」といえば、1960年ごろまではドイツ語圏ではドイツ語で歌われることがふつうだったようですね。フルトヴェングラーによる1953年ザルツブルク音楽祭のlive録音もドイツ語歌唱でした。「リンリン」、「ドンドン」がドイツ語だと「ディンディン」、「ウシウシ」とくるんですが、この作品でのモーツァルトの音楽はドイツ語のほうが自然と聴こえます。異論はあろうかと思いますが、聴き慣れているその「慣れ」をあえてご破算にしてみれば、イタリア語歌唱のほうがむしろ違和感があるような気がします。

歌手はヒルデ・ギューデンのみがやや古いスタイル、そのほかの歌手はいずれも若々しくて、数ある「フィガロの結婚」の全曲録音のなかでもトップの座を争うもの。指揮はスポーティといいたいような速めのテンポと洗練されたものながら、基本的に典雅な「フィガロの結婚」となっているあたり、やはり1960年代という時代かな。ちょっと小造りにまとまってしまったような印象もあります。それだけに多くのひとがこの作品に期待するようなスタイルであり、安心して聴くことのできる好演ですね。スイートナーはこのドレスデン時代が最盛期じゃないでしょうか。ベルリン国立歌劇場へ行ってから後、1970年代を過ぎたあたりから、だんだんルーチン・ワークと聴こえてくる。ちなみに日本でのみ評価が高いと言われるベートーヴェンの交響曲全集のセッションを見学したひとから聞いたんですが、リハーサルでもいちばん熱心なのはプロデューサーで、これがオーケストラの奏者たちにソロの練習を何度も繰り返させている間、スイートナーはずっとほかの奏者とおしゃべりしていて、まるで遊んでいるように見えたとのことでした。

どうも指揮者も、ひとつのオーケストラとあまりに長くコンビを組んでいると、演奏の質が落ちてくる傾向があって、レニングラードにしてもシカゴ、ボストンにしても同様だったんじゃないかと思うんですが、とりわけ(国家によって身分を保証されていた)東独のような旧共産圏ではそうした例が多かったのではないかと思います(ライプツィヒとかさ)。現代のサラリーマンにしても、転勤だの配置換えだので四苦八苦しているひとは、やはり鍛えられているのか、しっかりしたのが多くて(Hoffmannを除く)、役所とか地方公共団体系の職員の質の低さというのは、こうしたところにも原因があるのかもしれない。いや、民間だってそうです。愚かなトップが周囲にイエスマンばかりを集める、という現象だけでは説明がつかない例があって、これは上層部のおぼえがいい、手許に置かれることによって結果的に長期にわたって同じ仕事ばかりしていると、よほど自分を律することのできるひとでないと、日々ルーチン・ワークを繰り返すだけの平凡な組織人に堕してしまう、という現象なんじゃないでしょうか。

話がそれていきますね〜(^o^;

いやね、こないだ○○○○○○の出先機関である×××××に行って、そこの40歳くらいの課長と会ってきたんだけどさ、自分の仕事なのに途方もなく無知で、責任とりたくないのか自分の考えが口に出せず、意志薄弱というか、これでよく勤まるなあと呆れちゃったのよ。あれだったらウチのハタチちょっと過ぎたくらいの女の子(と言ってはいかんのだが)のほうがよほどしっかりしてるぞ




2012.07.03 tues



JBLのアクティブSP、CAS-33の続きをupしていましたが、2012.06.27、2012.06.28と月をまたいでいると(自分でも)読みにくいので、2012.06.28の(追記)扱いにして移動させました。




2012.07.02 mon

ただいまご帰還。

おかえりなさ〜い(((/^o^)/ おかえりなさいっ(((/^∇^)/

「ちょっと本を買いに行ってきます」と言って出かけていたわけですが、あまり収穫はありませんでした。