monologue 2012.09

2012.01 2012.02 2012.03 2012.04 2012.05 2012.06 2012.07 2012.08
2011.01 2011.02 2011.03 2011.04 2011.05 2011.06 2011.07 2011.08 2011.09 2011.10 2011.11 2011.12
2010.01 2010.02 2010.03 2010.04 2010.05 2010.06 2010.07 2010.08 2010.09 2010.10 2010.11 2010.12
2009.01 2009.02 2009.03 2009.04 2009.05 2009.06 2009.07 2009.08 2009.09 2009.10 2009.11 2009.12
2008.01
2008.02 2008.03 2008.04 2008.05 2008.06 2008.07 2008.08 2008.09 2008.10 2008.11 2008.12
2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11 2007.12
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2012.09.31 Σ( ̄□ ̄;



こないだ酔いどれピアニスト、サンソン・フランソワのboxセットのお写真をupしましたが、Hoffmannがショパンのピアノ作品を聴くのはアルフレッド・コルトーとこのサンソン・フランソワのdiscです。ショパンなんてほとんど聴かないんですけどね、聴くときはこのふたり。

ショパンというと、これはもう若い演奏家はダメ。女流もてんでいけない。これははなはだ重症の偏見と思ってもらってかまいませんけどね、日頃たいがいの演奏家は若いころの方がいい演奏していたもんである、てなこと言っているHoffmannも、ショパンに関しては、女子供の演奏は聴きたくない。まあ女子供に限らんのですが、妙にせせこましくって、度し難いほどのsentimentalismに毒されたショパン演奏が多くって、またその逆に、デリカシーのカケラもないような野性味の強い、というより滑稽なくらい下品にバリバリ奏きまくったショパンも結構ある。そんなのが天才と呼ばれているのは悪い冗談としか思えません。女流なんて名前も覚えていませんが、男ならルビンシュタインなんて媚がクサく嫌らしく、ポゴレリッチは滑稽なまでに自意識過剰、リサイタルやっても日本でしかお客が来ないので日本に住み着いて、ひたすらダラけているブーニンなんぞ、あたしゃこいつが「ニッポンジン、ダマシヤスイネ」と薄ら笑いを浮かべている光景が目に浮かんでしょうがない。

そこでHoffmannがショパンを聴くっちゅうと、まずはコルトー、次にサンソン・フランソワとなるんです。どちらもピアノを習っているひとが真似しちゃいけない演奏の代表みたいなもんですが、フラフラしている千鳥足演奏が、これほどサマになっているひと、ほかにはいない。千鳥足なのに、地に足がついている・・・じゃねえや、足が地についてる。それにね、Hoffmannの耳には、このふたりがとても男性的に聴こえるんですよ。

異論もおおいにあろうかと思いますが、そもそもショパンなんてたいして好きでもないHoffmannの言うことなんで、あまり気にせんでください。

「酔いどれ」が「酔いどれ」に共感しているだけのような気もしますね〜(^o^;




2012.09.30 sun



Jean-Efflam Bavouzetによるドビュッシーのピアノ作品全集、待ちかねていたdiscが届きました。MDGから出ているラヴェルやChandosのピエルネ、ファリャなどのdiscを聴いて、ドビュッシーも聴きたかったんですが、おそらくセットで出るだろうと待っていたんですよ。

変化球よりも直球勝負、モノモノしくならない自然体でありながら、主張がはっきりしていて、どちらかというと骨太、洒脱さも併せ持つ演奏です。とくにペダルの使い方に、音(色)の重なりに対する抜群のセンスを感じさせます。



ところで、同じフランス人なんですが、ヴィオラ奏者ジェラール・コセと、このバヴゼって、どことなく容貌が似ているような気がしますなあ。




2012.09.29 sat



昨日取りあげたコリン・ウィルソンの「精神寄生体」ですけどね、この寄生体の正体は「発揮されなかった潜在力の復讐」なんですが、これが月を媒体にして人間に作用を及ぼしているとい設定なので、なんとなく月が気になって(笑)満月ではないが、撮ってみましたよ。コンパクトデジカメの望遠端で撮ってトリミング。




2012.09.28 fri



かつてあらかた売りとばしてしまったコリン・ウィルソンの本ですが、その後文庫本で出ているものをときどき入手して読み返したりしています。ここ数日の間に読んだのは「精神寄生体」。小倉多加志訳の学研M文庫版。人間の精神に癌のように巣くっている寄生体・・・という、幻想文学ともSFとも限定しがたいものながら、クトゥルー神話の系列に連なる小説ですね、これは。

そこからユングのアクティヴ・イマジネーションへと連想が働いたんですが、これ、あまりに特殊な話なのか、あたりまえのことなのか、ユングにはまとまった論考がないんですよね。お写真はバーバラ・ハナー、老松克博・角野善宏訳「アクティヴ・イマジネーションの世界 内なるたましいとの出逢い」(創元社)。




2012.09.27 thurs



巷で出くわす酔っぱらいっちゅうもんは、視線も合わせたくないほどすこぶる付きに迷惑な存在ですが、大酒飲みの作家とか音楽家ってぇものは、どうしてこんなにも魅力的なんでしょうなあ。






2012.09.26 wed



「キング・コング」に代表される「美女と野獣」物語―美女と野獣なんぞといえば聞こえはいいが、その意味するところは獣姦にほかならない。なにも眉をひそめなさるな、人獣交歓はオリンポスの昔から、神々すなわち禁制の彼方にある聖なる存在にとっては、いかなる意味においても異常に非ず。獣姦を禁じたのはキリスト教であって、とくに中世においては異端審問により火刑とされた例も数知れず、しかしそのタブーは道徳的な問題からではなくて、宗教的異端であったから。歴史的に見れば、オリンポスの方がはるかに先輩なんだぜえ。

それはともかく、人獣交歓はポオの「モルグ街の殺人」を経て、19世紀末芸術に花開き、20世紀に至って「キング・コング」という不朽の名作映画に実を結んだわけです。

さて、画像は古典SF映画「禁断の惑星」Forbidden Planet(1956年・米)のDVD。先年亡くなったレスリー・ニールセン二枚目俳優時代の映画ですね。イドの怪物が暴れ回る映画・・・ちゅうか、これも先年亡くなった女優アン・フランシスがミニスカートではしゃぎまわる映画です(笑)

いや、そのstoryとは関係なくてね、問題はこのDVDケースのデザイン。いかにもアメリカン・コミックに見られそうな、ロボットが失神した美女を抱えて立ちすくむのシーンです。これが先に述べた「美女と野獣」テーマのSF版にして、その流れ着いた先なんですよ。人類滅亡後の如き荒涼たる景色は、あたかも密室のように息苦しいばかりで、ここには健康的に性を謳歌する開放感などさらになく、ただここに感じとれるのは、性の不在というよりも、不妊なんですね。







2012.09.25 tues



フェミニズム方面の研究家に言わせれば、怪奇映画・恐怖映画において女性の眼差しは抑圧されている、ということになっております。もともとハリウッドの映画なんか、男性が美女を目当てに観賞することに関しては、なにも問題とされないのに、女性が男性に対して同様の目的で観賞することに関しては、これは認められておらず、懲罰の対象として扱われているんですね。つまり女性の性欲はつねに抑圧される。だから怪奇映画のヒロインはドラキュラを見つめているのではなくて、あれは見つめられることで魅入られてしまっているにもかかわらず、その眼差しの結果、懲罰として拉致され、危難に陥ることとなる。女性が眼差しを向けることの禁忌と懲罰は、たとえば「青髭公」の物語でわかりやすく説明されているよね。

ところがね、あるフェミニズム系映画研究家によれば、女性がモンスターを見ることの禁忌には、女性とモンスターが同一化を求め合っているからだということなんですよ。つまり女性は自らのうちに怪物性を抱え込んでおり、男性中心主義の社会において、女性とモンスターは相互補完的な存在であり、女性はそこにいわば鏡に映った自らの姿を認めると。たしかに、男性は恐怖映画を観ても平然としていて、女性は恐れ、嫌悪感すら催す・・・これはまさしくフロイト的な、己のシャドウに対する否認ですよね。

たとえばキング・コングといったほとんど天真爛漫とも言うべき獣性は、これは男性性・その欲望の象徴ですよね。いや、なんなら「モルグ街の殺人」のオランウータンだって、ドラキュラや狼男だって含めてもいい。しかし真に脅威的なのは、そうした獣性ではなくて、その獣性をもつものに欲望を喚起させる美女のsexualityである、モンスターに対する誘惑的な女性性こそが怪物的なのであり、それにくらべれば、男性性はじつに単純無邪気健康的である、というのがそのフェミニズム研究家のご意見。もちろん、このひとは、そのように女性が受難の対象として描かれてきたことに、恐怖映画の女性蔑視・女性嫌悪があらわれている、と言ってるんですけどね。

どうです? 「キング・コング」のラストでデナム氏が「美女が野獣を死なせたんだ」と言う、その台詞もなかなか一筋縄ではいかんでしょ。



藪から棒に、なんの話かわからんよ、という方は、monologue 2012.08.23 thursあたりをご参考に。




2012.09.24 mon



「セルビアン・フィルム」A Serbian Film(2010年・セルビア)観ましたよ。スルディアン・スパソイエヴィッチという長いうえに覚えにくい名前の監督。引退して妻と長男と暮らしている元ポルノ男優に、芸術的なポルノ大作を作りたいと出演の依頼がある。莫大なギャラに釣られて、映画の内容も不明なままにこの仕事を引き受けるが・・・というstory。過激な内容から、世界各国で上映禁止、大幅なカットを余儀なくされたという問題作。我が国では局部にモザイクはかかるものの、一応「完全版」としてBlu-ray、DVDが発売されました。

・・・で、どうだったかっちゅうと、ツマラなかった。Hoffmannは歌劇も過激も好きですけどね(笑)、サスペンス映画としては上出来の部類と思うんですが、結末なんてとっくに予想がついちゃったもの。だから鬼畜なシーンでも心の準備ができちゃって、衝撃が弱まってしまいます。これは致命的だよなあ。なによりがっかりさせられたのは、これだけモラルに反した映像を並べておきながら、観る側にとっては、観賞の対象の域を出ないこと。観ている者を共犯者・共有者の立場に引きずり込んで、慄然とさせるような効果があるために、上映禁止だのなんだのと嫌悪感を催させる映画になっているんだろうなと、まあ勝手に予想して、覚悟して観たんですけどね、これはただの紙芝居。どのシーンも一定の距離を置いて観賞させられただけだった・・・。リーフレットに掲載された監督のインタヴュー記事など読むと、これはセルビア(人)の置かれた状況のメタファーなんですと。よせばいいのに、そんなこと得々と喋っている。ああ、それじゃこれはダメですね。イデオロギーとかメッセージ性の強い映画を否定するわけじゃありませんが、これは言いたいことを「提示」しただけの映画です。嫌悪感も含めて、「共感」を得ることのできるだけの、観る側への働きかけがない。だから世界各国で公開禁止とかDVD発売禁止といった「反感」を持たれたのも、これはじつに表面的な「嫌悪感」をもたらしただけで、結局のところ監督の意欲は空回りしちゃったんじゃないでしょうか。いっそ、「見せ物」でござい、と開き直った方がまだしもだった?

ひょっとして、監督が「セルビア(人)の置かれた状況のメタファー」だなんて言ってるのは、世間に対するアリバイ作りなのかもしれませんよ(^^;




2012.09.23 sun

メトロポリタン歌劇場の「神々の黄昏」を観ましたよ。

結論から言うと、どうも「ワルキューレ」を頂点に、あとは尻すぼまりとなった印象です。舞台装置はどことなく、「神々の黄昏」という舞台作品にふさわしい印象なんですが、逆にこれまでにも観たことのあるような既視感があって、目を奪われるような、つまり莫大な費用をかけたと威張るほどの効果はないなあと思います。ジークフリートはもうひとつスタミナ不足、高い声域でアクビの延長みたいな薄っぺらな声になるのも気になるところ。ブリュンヒルデは、音程は悪くないんですが、流し気味に歌う傾向があって、歌詞はきわめて聴き取りにくい。さらにファビオ・ルイージの指揮が手堅くまとめた以上のものではなく、レヴァインのように、音楽に大きなうねりを感じさせるには至っていない。だから「ブリュンヒルデの自己犠牲」から幕切れまではさっぱり盛りあがらない。レヴァインだってそんなにHoffmannの好きな指揮者じゃないんですけどね、これはちょっと格が違ったか。

「ブリュンヒルデの自己犠牲」といえば、ブリュンヒルデが愛馬グラーネにまたがって火中に身を投ずるという演出はめずらしいですね。ただ、このグラーネ、「身を投ずる」どころか、ブリュンヒルデが歌い終わった後、ノロノロと火に近づいていくのは、いかにもサマになりません。ここはやはり音楽が求めている「勢い」っちゅうもんが必要で、このあたりも「盛りあがらない」原因のひとつになっているんじゃないでしょうか。



画像はモニタを撮ったもの。グラーネの首をひっきりなしにフラフラ動かしているのも、気が散るなあ。オペラの演出家って、この仕事をもっと舞台劇の演出として意識して、さらに映像化されるのであれば、(live収録とはいえ)カメラに写った映像も念頭に置くべきだと思うんですけどね。




2012.09.22 sat



ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場によるWagnerの楽劇「ニーベルングの指環」のBlu-ray盤セットがやってきましたよ・・・って、すぐに買わなかったんだよね。レヴァイン、メトの「リング」はCDセットのほか、DVDもあり(別録音)。あちらのDVDはオットー・シェンクによる伝統的な演出で、昨今の珍奇な演出のあまり好きでないHoffmannにしても「いまさら」の感あり、一度観たっきり、ほとんど観返すこともないんです。レヴァインの指揮も、決して悪いわけじゃないんですが、音楽に対してあまりに予定調和、その古典的演出の見栄え(のなさ)とも相俟って、なーんか手際よくまとめました、といった印象なんですよね。よって、この新しいセットも、あまり食指が動かなかったんですよ(「触手」じゃないよ、クトゥルー神話じゃあるまいし・笑)。ま、いずれ入手するつもりではあったんでね、タマタマ先日shopをのぞいたら目についたので、買っちゃった。

収録は2010年から2012年まで、「ラインの黄金」と「ワルキューレ」はレヴァインの指揮、その後レヴァインが腰だか背中だかの手術でキャンセル、「ジークフリート」と「神々の黄昏」はファビオ・ルイージの指揮となっています・・・って、これ、買ってから気がついたのよ(^o^A;関心が浅くてスマンね。

演出はロベール・ルパージュとかいうひと。歌手の名前を見ても、Hoffmannのあまりよく知らんひとんばかり。最近の歌手ってほとんど知らないのよ。もちろん、Hoffmannが知らないだけで、きっと世間では有名なひとたちなんでしょうね。もしかしたら、手許にあるCDやDVDでも歌っているかもしれない、ただ、最近の歌手って、ほとんど印象に残らないんだから仕方がありません。その点、シェンク演出のDVDはさすがに馴染みのある歌手ばかりですが、好みでないひと(ベーレンス)、歌も演技も下手なひと(イェルザレム)などが主役級ですから、やっぱりあまり観(たく)ない。

と、いうわけで、このBD盤も期待せず観はじめたんですが・・・「ラインの黄金」はちょっと退屈。いや、作品は結構好きなんですよ。演出はわりあいオーソドックスで、いわゆる「読み替え」なんてやっていない。舞台装置は一新されていて、そんなに悪くはないけれども、これといって目を見張らせるようなものでもなし。ただ、レヴァインの指揮は以前の録音とくらべると格段に充実しています。ヴァイオリンの旋律線が浮きあがって聴こえるのは、たぶんオーケストラのせいじゃないかな。歌手は水準以上なれど可も不可もなし。

ところが、「ワルキューレ」で舞台装置が光る(比喩だ、べつにピカピカ、テカテカ光るわけじゃないぞよ)。なるほどこう使うわけねと、これは納得の設備。とくに第三幕で、たいがいの演出ではワルキューレがひとり、ふたり・・・と登場するところ、いきなり8人並んで登場したのでちょっと驚いちゃったんですが、おお、この舞台はアイデア賞ものだぞ。ここで拍手が起こるのも、これまた納得。ワルキューレのひとりが(たぶん)拍手に手を振りますが、これも微笑ましくていいじゃないっスか(^-^*魔の炎の音楽のシーンでも、昨今の演出でよくやるように、ホントに火を燃やしたりはしないんですが、これで充分。ただし歌手への演技指導はいまひとつでは? 演技と演技のわずかな間に、ちょっと手持ち無沙汰そうにしているシーンが散見されます。歌手はジークムントが盛大な喝采を受けているけれど、ところどころ声がうわずってるよ。レヴァインは「ラインの黄金」以上に見事。こうなると、「ジークフリート」以降キャンセルしちゃったのが惜しまれるなあ。

その「ジークフリート」では、ファビオ・ルイージがレヴァインのスケールにはわずかに及ばぬものの、緻密な音楽造りで公演のレヴェルを保っています。ちなみにこうしたdiscはive収録といっても、たいがいリハーサル時に収録した映像や音声なども使用して編集しているのが「常識」だと思うんですが、これはどうも正真正銘の、一夜通しての収録みたいですね。ジークフリート役の歌手は、このひとも代役だったようですが、第一幕ではかなり声を抑えている、いや、だからダメってことじゃありません。ルネ・コロだってそうだったし、ヴィントガッセンも同様だったそうです。ただね、第三幕では息も絶え絶えになっちゃうのが残念。対するブリュンヒルデは第三幕で目覚めたばっかり(笑)で元気だから、よけいにそう感じてしまうのかもしれませんけどね。このジークフリートは声やや軽めで、不安定さものぞかせます。急遽呼ばれた代役とあってはやむを得んか。ブリュンヒルデもちょっと個性的な声ですね。

いまのところ視聴したのは「ジークフリート」まで。ここまででもっとも感銘を受けたのは「ワルキューレ」です。もしもいまHoffmannが、Bayreuthかメトのいずれかに招待してあげるよ、と言われたら、ケッタイ面妖な演出のBayreuthよりも、このメトの方を選ぶかもしれません。

さて、「神々の黄昏」はどうかな。




2012.09.21 fri



昨年だったか一作年だったか、グスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界」が岩波文庫から上・下2巻本で復刊されたときも、「ほほー」と思ったもんですが、今度は「文学におけるマニエリスム」が平凡社ライブラリーから復刊されましたね( ̄o ̄*ホホー
(^o^;文庫本など、こうしたカタチで復刊されるということは、古典の仲間入り、もしくは殿堂入りが公に認められたんだろうと言いたいところなんですが・・・どうかな? Atokも「manierisumu」と打って「マニエリスム」とは変換してくれないし(笑)もちろん、この碩学の業績に異を唱えるつもりなんぞ毛頭ありませんが、やっぱり我が国には根付いていない分野なんですよね。いや、文学とか美術とか、造形芸術とか、ひとつひとつのせまーい「分野」を超越して、縦横に駆けめぐり、解体して、それからいっぺんに見渡してしまうような論考っちゅうもんは、我が国では一部のひとにしか理解されず、ヘタすっと、ディレッタンティズム扱いを受けちゃうんだよね。







2012.09.20 thurs



これは最近―といっても昨年だが―我が家にやってきたシャーロック・ホームズものTMVのDVD。







2012;09.19 wed



コナン・ドイルのシャーロック・ホームズもの聖典は、いま読み返しても、もはやさほど愉しめなくなってしまったかな、というのがHoffmannの正直な感想です。世のシャーロッキアンがその空白の何年間とか矛盾点などについて研究する、そういった愉しみ方はHoffmannのようなズボラな人間には荷が重いので、これはもともとやらない。さらに、聖典の価値を減じることなく、より際立たせて永遠の価値を与えることとなった、パロディとかパスティーシュの方が、出来のいいものだと、かえって聖典以上にホームズやワトソンの人物像を魅力的に描いている、そのおかげで、コナン・ドイルの小説の方は、想像力を駆使してそうした人物像を補ってやらないと、どうにも書き込みが足りないと思えてくるんですね。ビジネスライクに要領よく書きとばしちゃって、なんかもうひとつ、血が通っていない。じっさいのところ、みなさん、さまざまな挿絵とか、どなたかホームズを演じた俳優さんの容貌とか、心に描きながら読んじゃってませんか?

そうなると、パロディやパスティーシュではない、コナン・ドイル原作にこだわると、映画やTVMのホームズものを観賞した方が(多少の改変はあれど)楽しくなってしまうというわけです。




Ronald HowardとかBasil Rathbonemもいいし、Peter Cushing言うまでもなく、しかしなんといってもJeremy Brett主演のグラナダTV版はひときわ完成度が高く、何度観ても飽きさせませんね。




2012.09.18 tues

勢いで「陽炎座」(1981)のページを作っちゃったのでupしておきます。恥ずかしいとかなんとか言っておきながら、「ツィゴイネルワイゼン」と同じ調子でやっちゃいました。いまは反省してます(^_^A;

これからこの映画を観ようかというひとには、なんの役にも立ちませんね〜(^o^;Hoffmannさんが愉しんでるだけじゃ・・・

自分が愉しまないでどうする?( ̄- ̄*)キッパリ



#いや、ホント、反省してます。




2012.09.17mon



鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」、「陽炎座」、「夢二」のBlu-ray3枚組セット、結構なお値段なのでどうしようかと思っていたんですが、結局買っちゃいました。「ツィゴイネルワイゼン」と「陽炎座」はDVDを持っていて(さんざん)観ているんですが、「夢二」は未見、これがはじめて。



・・・で、いま「陽炎座」を観ているところ。上の画像はキャプチャじゃなくて、モニタを撮ったもの。

記念に(笑)「ツィゴイネルワイゼン」のページをupしちゃいます。ふだんとは趣を変えて語ってみたもの―いま読み返してみるとちょっと恥ずかしいなあ(^_^A;そのうち書き直すかもしれんが、いまはとりあえずそのまんまupしておきます。





2012.09.16 sun



クナッパーツブッシュ指揮ウィーン国立歌劇場、1955年11月16日公演のlive録音。歌手はMaria Reining、Sena Jurinac、Kurt Boehme、Hilde Guedenほか。

クナッパーツブッシュというと、なんでもかんでも狂ったように絶賛するひとがいますが、とりたてて美点のある演奏でもありません。やはりリハーサル嫌いで、まして新演出でなければぶっつけ本番、オーケストラが勝手に演奏している印象です。ソロとか管楽器の合いの手がいちいち浮き上がって聴こえるのはこの指揮者の特徴なんですが、ひょっとするとリハーサルをせず、奏者任せだからそうなるのかもしれません。

歌手はReining、Jurinac、Guedenなどが同年にDeccaが録音したエーリヒ・クライバー盤と共通。Reiningはさほどすぐれた歌唱でもなく、やはりJurinacが光りますね。Guedenはいかにも「ほんわか」とした箱入りのお嬢さんふう。

クナッパーツブッシュには1957年にバイエルン国立歌劇場で指揮したlive録音もあって、たしかLPを所有していたはず。あまり記憶に残っていない、印象の薄い演奏だったような気がします。




カイルベルト指揮バイエルン国立歌劇場による1965年5月21日公演の記録。キャストはCllaire Watson、Kurt Boehme、Herta Toepper、Erika Koethほか、歌手役はFritz Wunderlich。

monoながらたいへん良好な録音。これくらいの音質になると、さすがに歌手が細部に込めたニュアンスも伝わってくるし、逆に下手なひとは表現力の不足などがバレてしまいますな。昨日のメトロポリタン歌劇場聴くことのできる往年の大歌手とくらべてしまうと小粒な印象はありますが、それでも水準以上。いい意味でのオーソドックスな上演じゃないでしょうか。個人的にはToepper、Boehmeに敢闘賞をあげたい。それと、音色にはやっぱりミュンヘンのオーケストラならではの魅力があります。カイルベルトらしい骨太な響きも、辛口とまでは言いませんが、甘いものを甘くしすぎないから、いい。




さらに時代は新しく、1978年7月26日ザルツブルク音楽祭のlive録音です。クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィル、歌手はGundula Janowitz、Kurt Moll、Yvonne Minton、Lucia Poppほか、う〜ん、Hoffmannの好きな歌手ばかりだ(^^*歌手役にはPavarottiが出演。stereo収録。おそらく放送局のtapeか、エアチェックされたtapeから起こしたんじゃないかな。

ドホナーニが振ると、これがウィーン・フィルかと、びっくりするくらいオーケストラの精度が高まりますね。フォルテシモでも咆哮せず、アタックはやわらかく、つねに美しさを保ちながらも、流し気味にならないのは縦の線がきちんとコントロールされているから。知的だけどマゼールみたいに作為を感じさせない、だから神経質でなく、のびのびとした開放感がある。ウィーン・フィルなんてたいして好きでもないHoffmannにも、このオーケストラの美点を認めさせる、数少ない指揮者のひとりですね(もうひとりはバルビローリ)。

歌手も充実、Janowitzはセッション録音だとあまりドラマティックな歌唱とはならないひとなんですが、liveだと一歩踏み込んできますね。Mollはことさらに諧謔味を演出せず、知性派ならではの役作り、F=Dみたいな嫌らしさのないところがホントの才能。Mintonはおそらくこのキャストのなかで、もっともドホナーニのコンセプトにふさわしい歌手でしょう。どこかのだれかさんみたいにオトコオトコしたわざとらしさで下品になることなく、貴族的な気品にも欠けていない、ユニセックスふうのオクタヴィアン。音感(音程)の良さは抜群。Poppはマイペースで可愛らしいんですが、この時期にして相当の貫禄が備わりつつあるのは隠せず。余裕だな♪

ちなみにこの上演でも、第二幕の幕が上がったところで拍手が起こるんですよ。ザルツブルク音楽祭だから観光客かな?(^^*ま、いいじゃないですか♪


このmonologueのページでも言った記憶があるんですが、Hoffmannは「薔薇の騎士」って、決して好きなオペラというわけじゃないんですよ。でもね、最近になって、それは甘ったるい演奏ばかり聴いてきたからかもしれないなと思うようになりました。このドホナーニ盤を聴けば、やっぱりいい音楽です。何度も言うけどね、もとから甘いものにさらに甘味を付けるような演奏は嫌いなのよ。

さて、「薔薇の騎士」のCD、もう2、3組あるんですが、ドホナーニ盤があまりいいので、今回はここまでとしておきます。




2012.09.15 sat



フリッツ・ブッシュ指揮メトロポリタン歌劇場1942年12月14日live録音によるR・シュトラウスの歌劇「薔薇の騎士」です。F・ブッシュのオペラlive録音というのはグラインドボーンのモーツァルトを除くと、どれも録音状態は時代を考慮しても劣悪、観賞に差し支えるレベルで、ほとんど雑音の収録されたdiscじゃないかというようなものもあるくらいなんですが、これは例外的にまともに聴くことのできるdiscです。

元帥夫人を歌っているIrene Jessnerというひとはあまり有名ではありませんが、たしかウィーン出身で主にメトで活躍したひとじゃなかったかな・・・とスっと、よくジェスナーと表記されているけれど、イェスナーと発音するのかもしれない。ちょっと可憐な元帥夫人。オックス男爵のList、オクタヴィアンのStevens、ゾフィーのSteberなど、いずれも往年の名歌手ならではの名人芸を愉しめるdiscです。ブッシュの指揮は真面目で媚がなく、それでいて情感豊かなところが好き。

さて、ついでだから「薔薇の騎士」のdisciを並べてみましょうかね。レコード(LP)ではカラヤンのEMIへのセッション録音とlive盤、クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、エーリヒ・クライバー、ケンペ、ベーム、バーンスタイン、デ・ワールト盤などが実家の棚にあったはずですが、出稼ぎ先にはCDしかないので、今回取りあげるのはCDのみです。



これも1946年メトロポリタン歌劇場における「薔薇の騎士」のlive録音。2月16日のジョージ・セル指揮による公演です。元帥夫人のIrene Jessner、オックス男爵のListは同じ、ゾフィーはNadine Conner、オクタヴィアン役がHoffmannの大好きなJarmila Novotnaです。添付のリーフレット(cast、index表)にオクタヴィアンに扮したノヴォトナの写真が掲載されていたのでupしちゃいます。

セルの指揮は速めのテンポで響きはやや痩身気味ながら、第二幕終わりのワルツなどこぼれ落ちんばかりの甘やかなニュアンス。これが指揮者のテクニックとか演出などと感じさせずに、じつに自然に音楽そのものに語らせているように聴こえるとあたりが見事です。これ聴くと、砂糖たっぷりのお菓子に、さらにクリームをてんこ盛りしているような指揮者たちには爪の垢でも煎じて飲ませたくなりますな。

歌手は総じて優秀。HoffmannはNovotnaが贔屓なので、どうしてもオクタヴィアンにばかり耳傾けちゃいます(笑)



メトの「薔薇の騎士」live録音をもうひとつ、ブッシュ、セルによる公演の10年後、1956年1月18日のルドルフ・ケンペ指揮による演奏。歌手はLisa Della Casa、Otto Edelmann、Rise Stevens、Hilde Guedenほか。

見ればわかるとおり、このオペラハウスではたたきあげのアメリカ人歌手が重要な役をもらうことは少なくて、主役級はたいがいヨーロッパから呼んでくる、あるいはヨーロッパで名をあげたアメリカ人なら呼び寄せる、といった傾向があります。これは歌手のみならず、指揮者についても同様。

じつはこの公演で元帥夫人の家令役を歌っているJames McCrackenがまさにその例で、ドナルド・キーンのエッセイによれば、このひとはメトでは端役しかもらえなかったためヨーロッパへ、そしてオテロ歌手として名をあげたことによって、メトに招かれた。ところがあるとき「オテロ」がTV中継されるとなったら、出演が決まっていたMcCrackenはおろされてジョン・ヴィッカーズが起用されたんですね。それで憤慨したMcCrackenはメトでは二度と再び歌わないと宣言した・・・。アメリカではアメリカ人演奏家というのは評価されないんですよ。だからいかにもヨーロッパふうの「芸名」を名乗るひとが多いのよ。なんだか、我が国の某国営放送局のオーケストラがドイツ偏重主義で、ドイツ人であれば三流以下の無能な指揮者でも大喜びで呼び寄せていたのと似てますな。空虚なプライドと卑屈なコンプレックスのごった煮の腐汁が異臭漂わせているようです。

それはともかく、ブッシュ盤、セル盤とくらべると、10年の差でずいぶん音質は良くなっていますね。ケンペの指揮は例によって粘らずあさり、しじみ・・・じゃなくて、あっさり、しみじみ聴かせるところも過度にsentimentalにならない節度を感じさせるもの。しかしながらstaticに傾かず、じつに生き生きとした躍動感あるリズムは聴いていて愉しくなっちゃいますね。

Lisa Della Casaは多彩な表現という点で不満はあるものの、どことなく高貴な雰囲気を漂わせる歌で、役にふさわしいですね。その他、Edelmannのちょっといかにもな俗物めいた田舎貴族ぶりは、これが絶対とは思わんが、さすがにはまり役。Stevens、Guedenの息が合っているところ、見事です。

ところで、メトロポリタン歌劇場といえば演奏の途中でも拍手がわき起こり、前奏から幕が開いた(歌手が登場する)ところでもやはり拍手、となるのが伝統。どこかのshopのCDレビューでメトの古いlive盤について「相変わらずマナーの悪さ・・・」てなこと言ってるひとがおりましたが、マナーが悪いと言うより、これが当時のメトの習慣なんですよ。そんなこと言ってたら、1970年代あたりまでは、バイロイトやウィーンだって、終幕では演奏が終わっていなくても拍手喝采・・・となっているlive録音は結構ありますからね。それに、幕が上がると「ざあーっ」と拍手がわき起こるなんて、楽しそうで悪くない雰囲気じゃないですか(^^*イーナー

ところが今回、上記三種のメトのlive盤を聴いて、第二幕の幕が開いたところで拍手、となっているのは
1956年のケンペ盤のみ(第三幕はいずれの盤も拍手なし、第三幕はさほど見栄えの豪華な舞台でもあるまいから不思議ではない)。たまたまなのか、それとも1946年にはこの「伝統」がなかったとしたら、いつごろからはじまったんだろう?





2012.09.14 fri


昨日たまたま「ニーチェの妹」なんて言っちゃったので、ニーチェの話です。

最近、「ナントカのことば」とかいうおかしな本が出て、「ニーチェを読んだ」というひとが結構いるようですが、あれでニーチェを読んだといえるものかどうかはともかく、人生とか生活の知恵といったような感覚でニーチェが読まれるというのは意外です。だって、なんの役にも立たないもんね。とにかく抽象的で、たとえば女の子相手に気のきいたひと言もぶちかましてやろう、なんて下心で読んだって無駄。抽象的な発言というのはまず女性には理解してもらえない、たいがいの女性には抽象よりも、他人の「中傷」の話題のほうが得意です。

ドイツの学者というのはとにかく分厚い本、大著をものしますよね。根本から説き起こす。でもね、例をあげると、法律学で法律以前を論じる際に、もともとは無法状態で善も悪もない社会・人間を想定するわけにもいかないので、やっぱりひととしてやっちゃいけないよとか、守らなきゃならない最低限のことはあるよ、と言いたくなるんですね。だからといって宗教を持ち出すわけにもいかないもんですから、法律以前に「根本規範」なるものがある、なんて話になっちゃう。なにもないところから語りはじめようとして、なにもないはずの「○○以前」には、そうした「なにか」があるのだ、とやってしまう。この「なにか」っちゅうのは、ありふれたことばで言えば「真理」ってことです。

ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、この「真理」がやっぱりあてにはならないってことになんですよ。だから否定した。それで神に代わる「超人」を山から降りてこさせたってわけです。でも「超人」は神ではないから、永遠に回転し続ける存在に具体的な解決策などありはしない。これはよくニヒリズムなんてことばで単純化されてしまっているんですが、それまでほとんど疑問もなく信じられてきた「真理」の存在を否定しちゃったから、ニーチェをもって道徳の伝統とか歴史というものは、いったん断ち切られてしまった。だからニーチェ以後の哲学者は、人間を社会との関わりでしか論じていないのです。

どうです、ニーチェなんてなんの役にも立たないでしょ。ニーチェは書くことによってのみ存在して、その著作は読まれることによってのみ存在する、まさしく読まれるため、「読書」の愉しみそのもののために有用なのであって、そこからなにかを学んで、応用するといった「ハウ・ツー」じゃないのです。

きょうは思いっきり抽象的なお話でしたね〜(^o^;


Q州にお住まいのお友だちからショーチューがとどきましたよっヾ(^∇^*




2012.09.13 thurs



グスタフ・マーラーの音楽は好きですが、マーラーというひとについては、格別肩入れしたいほどの魅力を感じているわけではありません・・・と、一応断っておいたうえで言うんですが、奥さんのアルマ・マーラーっちゅうのは嫌な女ですなあ。いや、公然と浮気をしていたなんてこたぁ別問題としてもね、Hoffmannは知れば知るほどこのひと、大嫌いになりました。もっともマーラーの女性関係で言うと、ウェーバーの未亡人はよく知りませんが、ナターリエ・バウアー=レヒナーもアンナ・ミルデンブルグも、タイプは異なれど、うっかり関わったら「かなわん」女みたいだし、妹のユスティーネもちょっとアブない妹ですよね。まあ、ニーチェの妹よりはよほどましですかね。どうもマーラーっちゅうひとは女運が悪かったとしか思えません。



それはともかく、アルマの回想録でさんざんな言われようのリヒャルト・シュトラウスはお気の毒です。どうも回想録に書簡を掲載しようとしたら断られたってンで、逆恨みというか、相当な悪意で、現代のどこかのマスコミよろしく話を捏造されたみたいですね。つくづく性格の悪いオンナです。アルマの回想録からR・シュトラウスの悪しきimageを植えつけられちゃったひとは、このふたりの作曲家の往復書簡集を読んであげてください。




2012.09.12 wed

Hoffmannが、ひとより多くの本を読んでいるとしたら、これは父親が本好きだからだと思います。Hoffmannの父は、Hoffmannが生まれたばかりのとき、母に「おれの息子だから将来本好きになるぞ」と言っていたそうなんですが、遺伝というより自然に身に付いた生活習慣というわけです。子どものころから、親を見て「オトナというものは、家で本を読んで過ごすものなんだ」と感じていたんですね。だから友人の家に行くと本がまったくないことがあって、不思議に思ったものです。

ある友人夫妻は「ウチの子は本を読まない」と言うんですが、だってキミたち夫婦が読まないからだよ。同じく、別な友人は「ウチの子は出来が悪い」と嘆いているんですが、そりゃあキミたち両親が学校でロクな成績残していなかったんだからさ、あまり無茶言うもんじゃないよ。

念のため言っておくが、以上は環境による生活習慣の話ですよ。本を読むなんてのは自慢でもなんでもない。これを自慢だと思うひとは、読まないことをコンプレックスに感じているひとです。本を読まないことを恥ともなんとも感じないひとなら、これをただの事実として受けとるはずです。たとえば、Hoffmannはスポーツを一切やらなし、野球やらオリンピックやらを観るのも興味なし、だからって運動神経優秀なひとの話を聞いても、別段自慢話とは受けとらないし、ましてや、アタマが悪いから運動が得意なんだろう、なんて思いません。自分のプライドを満足させるために、いちいち他人に独善的なレッテル貼りをするのは愚かなことです。そして、こうした尊大な「ご意見」てのは、なぜか呼んで(訊ねて)もいないのにやってくるんですよ。



(画像はやっぱり本文とは関係ありません)




2012.09.11 tues

言うまでもありませんが、万人に共通する必読書なんてものはないのです。ただ、読んだ本と読んでいない本があるのみ。これが区別できていなひとというのもいて、自分が読んでない本の名前をあげて、「○○より××が好きです」なんて言っちゃう。「××」が好きなのは勝手だけど、読んでもいないなら「○○より・・・」ではなくて、「○○は読んでないよ」と言うのが正しい(アタリマエダ)。

ついでに言っとくと、座右の書なんて他人様に語るものではないのです。猫と女は呼ばないときにやって来ると言いますが、他人様の座右の銘とか信念信条というやつも訊いていないときにやって来る(笑)


とか言いながら(^o^;Hoffmannの座右の書を言ってしまうと・・・・キョーミのないひとはここでブラウザを閉じればいいんですよ・・・











・・・各種辞書です。国語辞典、漢和、古語、独和、英和、仏和、各種人名、その他・・・Hoffmann的にはこれが座右であることは当然です。しかも、いま座っている右側にあります。もしも左に移動したら「左遷」ですな。

(お写真は本文とは関係ありません)





2012.09.10 mon

謙遜の影にはプライドがあって、ことばの裏に(裏どころかかなりあからさまに)相手を見下した(い)自負心があらわれているということは、よくあります。

学生時代、同級生のK君は、Hoffmannに対してことあるごとに「レコード、CDを沢山持っていてさすがだ」、「たいしたものだ」と言っていたんですが、やはり同級生のM嬢には「レコードもCDも沢山持ってりゃいいってもんじゃないさ」と言い、「おれだって田舎(実家のこと)に帰れば、もっと持ってるんだ」と、何度も繰り返していたそうです。どうも発言が破綻してますな(笑)ついでに言っておくと、どうやらK君はM嬢の気を引きたかったらしいんですね。

かなり年長の、60歳くらいの知人は、やはりHoffmannに対して「(音楽のことを)いろいろ教えてください」なんてへりくだっておいて、「わたしはあなたのように決定的名盤には関心がありません」、「いい音楽で演奏がよければそれでいいのです」なんてmailをよこす。ツッコミどころ満載ですが、一応解説しておくと、Hoffmannだって好きな音楽がいい演奏で聴ければそれでいいと思っています。「決定的名盤」ってなんですか? このひとは、Hoffmannが世間で有名なレコード・CDばかりを(わかりもしないで)集めているんだろう、と決めつけて(決めつけたくて)、対する自分は「わかる」人間だから、自分で選んで買っているんだよと宣言することによって、どうにかしてHoffmannを見下したかったんですね。いやはや、プライドというものは60年間も生きてきたひとにさえ、こうまで幼稚なことを言わせてしまうんでしょうか。

だから聞いてもいないのに、わざわざ謙遜してくるひとは信用しちゃいけないんです。

他人と比較しないと自分に自信が持てないひとって、多いですよね(^^;




2012.09.09 sun



monologue 2011.12.27にupしたお写真そのまんまで申し訳ないんですけどね、マルグリット・ユルスナールの自伝的三部作、ドイツ語版でも第三巻を買い逃していたから、昨年白水社から刊行が始められたのはたいへんうれしい・・・でね、私はいま声を大にして言いたい・・・

第三巻はまだか?

待ち遠しい・・・2012年刊行予定って、もう9月だぞ。もしも読まないうちに死んじゃったらどうしてくれるんだ。頼むよ白水社・・・
( ̄_ ̄*ハヤク〜




2012.09.08 sat



ラカン派がもっぱら「流行」しておりますが、左はアラン・バディウ、長原豊訳「ワーグナー論」(青土社)で、「附論=スラヴォイ・ジジェク」とあり。右はヘンリー・ボンド、橘明美訳「ラカンの殺人現場案内」(太田出版)で、こちらには「スラヴォイ・ジジェク/解説」とある。

なんか、ムカシ自民党の新人候補のポスターに、当然人気のイシハラとか、わけもわからぬ井戸端の婆ぁに人気のイケメン議員が推薦人として名前を載せ、場合によっちゃあ、当の立候補者よりも大きな写真で笑顔ふりまいていたのを思い出します(^^;

つまり、スラヴォイ・ジジェクの名前で売り上げが期待できるんでしょう、すごいぞジジェク(笑)

ジジェクって、何冊か読むと同工異曲というか、結局同じことを言い方替えているだけなんだよね

Hoffmannさんと同じじゃないですか〜((((*^o^)σ)~0~)/プニッ♪




2012.09.07 fri



程良いペースでWagner作品のdiscがリリースされますなあ。こお写真に写っているのは、1941年メトロポリタン歌劇場の「トリスタンとイゾルデ」、1957年同じくメトの「神々の黄昏」、1961年バイロイトの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。

きょうの晩ごはんはナポリタンですよっヾ(^∇^*

なんとも珍奇な演出の映像が新録音(収録)で出てくるよりも、こうした往年のlive録音の方がワクワクしますね。近日中にあちらのページにも追加しますよ。

それから、この機会に(どの機会だ?)このページ、upしときます。

ちっとも加筆してらっしゃいませんし、その後入手された本もありますよ〜(・・;

だからさ、upしたらやるんじゃないかと思って・・・(^o^A;でも、なにもかも取りあげるより、参考文献に関しては、重要なもの・特徴のあるものに絞った方がいいかな




2012.09.06 thurs

Hoffmann自信も総統・・・じゃなくて、Hoffmann自身も相当ガタがきていますけどね、先日はPCの電源ユニットやらHDDが故障したと思ったら、今度はモニタがこわれちゃいました。いまだにそんなの使ってたんか、というような七尾の17inchCRT。考えてみりゃこのhomepage開設以前、Windows98時代から使っていたもので、かれこれ14〜15年になるのかな。

ま、あわてず騒がず、別室でDVDプレーヤーがつながっている24inchLCDモニタを持ってきて、1台はD-Sub、もう1台はHDMIで接続。このLCD、余っていたんだからもっと早く交換すればよかったんですが、Hoffmannはけちん坊でしてね、七尾のCRTも使えるうちは使いたかったんですよ・・・って、鼻歌まじりで入れ替えたんですが、なんか表示がおかしい・・・あわわわ、ドライバの選択間違えとるわ( ̄□ ̄;ってんでやり直してようやくsetup完了。

さすがに16:9のフルハイビジョン、1920×1080は広くて快適ですなあ。難を言えば、入力切替がサイドのボタンを何度も押さなければならないのが面倒で、さらにブラックアウトしている時間がやや長く感じられるんですが、これくらいは我慢しよう。


サヨウナラ〜ヾ(;∇;*

たしか、これよりも古いCRTモニタが、まだ自宅と実家に各1台ありましたよね・・・(^o^;




2012.09.05 wed



左は自宅で長らく活躍したCDプレーヤー。このメーカーのCDプレーヤーが好きで、古くなってダメになると買い替えて、もう3台か4台(代?)使い続けてきたんですけどね、現在は輸入されていない。で、これが調子悪くなっちゃったから、いま自宅ではπのuniversalプレーヤーをつないであります(右)。自宅ではほとんどアナログLPを聴いているんですが、CDだって買ってくれば聴きたくなりますからね。それにこれ、SACDも再生できる。映像(DVD)観たけりゃモニタにつなげば、Region Free機でもあります。

これが「間に合わせ」のつもりだったのに、う〜ん、悪くないじゃないですか。そういや、これの前機種はスイスの140万円のSACDプレーヤーの中身に使われているとか言われておりましたね。まったくそのまんまではないが、ほとんど同じなんだとか。まあ、その真偽はどうでもいいんですが、個人的にはもう少し濃い音が好きではあるものの、かなりいい。ちなみにメガネタイプの電源ケーブルは交換しています。



そこで、出稼ぎ先の住まいでも、同じπのuniversalプレーヤーをプリメインアンプにつないでみましたよ。

CDプレーヤーもuniversalプレーヤーも既に接続されているので、あんまりアンプにいろいろブラ下げるのもどうかとは思ったんですけどね、出稼ぎ先にはメガネ型電源ケーブルの持ち合わせがなくて、交換していないし・・・でもこれで先日入手したRCAケーブルを比較してみたら、これがなかなか「違いのわかる(わかりやすい)」プレーヤーなんですなあ。仏蘭西製のCDプレーヤーや大英帝国謹製universalプレーヤーほどには個性が強くないのかも。

英国は9EDの銀メッキケーブルでつなげば、たしかに銀メッキ線らしいブライトなキャラクターが中高域あたりに乗って、これはこれで愉しいけれど、ギラついてにぎやかすぎると嫌がるひともいるだろうなとわかるし、国内人気メーカー園豚のケーブルにすれば、やや低重心で音が前に出てくるのにstaticというユニークな個性がおもしろく、先日入手した鈴電はことさらに個性を主張しない、それでいて魅力的。古手区の単線ケーブルにしてみれば、音場感よりも音像の実在感で一歩リード、歌曲を聴くといいんですね。

どれかひとつ、これでなければダメってことはない、どれもそれぞれにいいところがありますよ。








2012.09.04 tues

唐十郎の小説「糸姫」といえば、篠原勝之が漫画にしているんですよね。掲載紙は月刊誌「ガロ」の1975年11月号。







story、登場人物の台詞などは原作に忠実、ちゅうか、原作どおり。しかし、唐十郎の小説を絵にするのって、想像しただけでも相当な困難と思えますけどね、さすがのimagination。







2012.09.03 mon

グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」を読みましたっヾ(^∇^*

私はフンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」を聴きましたよ(^^*

「ヘンゼルとグレーテル」というコニャックを飲みました( ̄ー ̄hic



・・・ふとテーブルに目を落とすとそこにコニャックが一本置かれ、瓶の肩にメーカーの商標マスコットらしい二体の人形が吊りさがっていた。さっきまでそんなものはありはしなかった。誰かが運んできたのだ。・・・瓶が傾くと二つのマスコット人形が黄色い糸に吊られて、交互に揺れた。(唐十郎「「糸姫」から」)




2012.09.02 sun



「ウルトラQ」とか初代「ウルトラマン」を観ていると、登場する怪獣に、ときどき奇蹟じゃないかと言いたいくらいすばらしい造形感覚のものが見つかりますよね。同時代の海外の怪獣映画など足元にも及ばず、これは我が国が世界に誇っていいんじゃないでしょうか・・・と思ったけど、いいのはこのころだけだね。その後は実在する生物の変形ばかりだしなあ。キングギドラはせいぜいアイデア賞。

ここ十数年、海外のデザイナーは昆虫あたりもに見切りをつけちゃって、ダニとか顕微鏡で覗いたりしていると聞いたことがあります。やりつくしちゃったってことでしょうか。そんななかでは、ギーガーのエイリアンは傑作の名にふさわしいかな。もっともエイリアンの場合は露骨に男根なんですよね(^^;

ちょっと補足しておくと、あの「エイリアン」第一作に登場するアンドロイドなんて、ペニスがないから「平凡パンチ」を丸めて代用ペニスとするし、首(頭部)がもげたら白い液体をまき散らす・・・これ、あからさまに性的な寓意ですよね。エイリアンも襲った人間に卵(幼虫?)を生み付けるし、エイリアンってのは、要するにレイプ魔なんですよ。

いまにしてみれば、そういった象徴とかある種のイデオロギーにも通じるような情緒に汚染されていない、たとえばガラモンとかカネゴンといった怪獣の造形には、純粋無垢な「不思議さ」があって、そんなところがたいへん好ましく感じられるわけです。




2012.09.01 sat



我が家のDVD棚には、訪問客の目には触れないようになっている一角がありましてね、あえて名付ければ「暗黒映画館」といったところかな。それとも、パリの国立図書館の「地獄」室に倣って、「地獄映画館」でもいい。もっともあちらはエロティック系の蔵書が収められているそうなんですが、我が家のDVD棚にあるのは、エロティシズムと無関係ではないにせよ、それが主たるテーマの作品ではありません。もちろん、Hoffmannなりの審美基準はあって、決して無価値な映画がそこに並ぶことはないんですが、それでも他人には見せないでおいた方がいいと判断したものが、この場所を占めているんです。



それにしても、この棚に並んでるの、ドイツの映画が多いなあ。

念のため断っておくと、パゾリーニ作品のような名作や、ウンベルト・レンツィくらいじゃこの棚には加わることはありません、そのあたりなら平気で見えるところに並べちゃいます(笑)