monologue 2012.11

2012.01 2012.02 2012.03 2012.04 2012.05 2012.06 2012.07 2012.08 2012.09 2012.10
2011.01 2011.02 2011.03 2011.04 2011.05 2011.06 2011.07 2011.08 2011.09 2011.10 2011.11 2011.12
2010.01 2010.02 2010.03 2010.04 2010.05 2010.06 2010.07 2010.08 2010.09 2010.10 2010.11 2010.12
2009.01 2009.02 2009.03 2009.04 2009.05 2009.06 2009.07 2009.08 2009.09 2009.10 2009.11 2009.12
2008.01
2008.02 2008.03 2008.04 2008.05 2008.06 2008.07 2008.08 2008.09 2008.10 2008.11 2008.12
2007.01 2007.02 2007.03 2007.04 2007.05 2007.06 2007.07 2007.08 2007.09 2007.10 2007.11 2007.12
2006.01〜2006.03 2006.04〜2006.06 2006.07〜2006.09 2006.10〜2006.12
2005.01〜2005.03 2005.04〜2005.06 2005.07〜2005.09 2005.10〜2005.12
2004.12




2012.11.31 Σ( ̄□ ̄;

・・・とかなんとかやっているうちに11月も終わり。

総選挙も近いけどさ、未来に期待するものってあります? Hoffmannはことあるごとにノスタルジーというものに対する愛着(愛惜、かな?)を語っていますけどね、こういう態度って、いくらでも批判できるよね。でも、Hoffmannのノスタルジーってのは、だれでもが思い浮かべるようなステレオタイプなそれじゃないのよ。そういうのは商業化されたノスタルジーであって、他人の寝言。そうじゃなくてね、だれだってそれまでの人生に背負ってきたり、通り過ぎたり、うかつにも置き忘れてきちゃったものがあるでしょうけど、そういったずっと引きずってきたもの・・・ではないんですよ、絶対に。そんな生臭いものはノスタルジーには馴染まない。ノスタルジーってのは過去に拘泥することとは違うのであって、いわばはるかなもの、遠いものへの憧れ、出会うことのなかった滅びたのものへ愛惜なんですよ。だからこそ、こだわりなく思いを馳せるということなのです。

ニーチェのことばを借りれば「遠人愛(das fernste Liebe)」だな

「遠人愛」って、むしろ未来へ向けられたものじゃないんですか?

出会うことのなかった過去と、来るべき未来との間に違いなんてないさ。人間の生は「円環」なんだって、ニーチェも言ってるじゃないか( ̄ー ̄*)♭

はぁ〜(^o^A;さすが、屁理屈大魔王ですね


「なんかまたわけのわからんことを・・・」




2012.11.30 fri



ひさしぶりにバッハの「マタイ受難曲」のdiscがやってきました。「マタイ受難曲」も、LP、CD、DVDと合わせると、もう20組近くあるんじゃないかな。だから「マタイ十何曲」というのは古い駄洒落(^^;

今回入手したのはエドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の1958年3月30日live録音、あのメンゲルベルクの19年後ですね。エヴァンゲリストがエルンスト・ヘフリガー、イエスがハインツ・レーフスで、ソプラノにエルナ・スポーレンベルクの名前も見えます。

じつはまだ第一部しか聴いていないんですけどね、音質は年代なり・・・よりもやや貧弱。メンゲルベルクほどロマン的な誇張はなく、しかし全体としてはロマン的、とくに合唱にその残照あり。1958年ならばもう少しモダンかなと思ったんですが。テンポは遅めで、ひと言で言うと穏健派、楽曲ごとのコントラストを際立たせるよりも、敬虔な祈りに傾きます。このあたりをどう受けとるかで、好悪は分かれそう。ヘフリガーはさすが、この公演を支える見事なエヴァンゲリスト、つまりこの作品のドラマティックな面はヘフリガーに負っていますね。アルトのアニー・ヘルメスがいい歌唱を聴かせてくれて、スポーレンベルクの清潔な歌も悪くはないんですが、テンポが遅すぎてやや歌いにくそうなところも。







2012.11.29 thurs

近頃すっかりお気に入りのコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が聴きたくて入手したdiscなんですが・・・



2007年9月14日のイフラヴァ・マーラー音楽祭のオープニングコンサートを収録したもの。指揮はMartin Turnovsky、Frantisek Novotnyのヴァイオリン、Karia Bynarovaのメゾソプラノ、Bruno Philharmonic Orchestraの演奏で、R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲、マーラーのリュッケルト歌曲集を収録。

R.シュトラウスはやや粗いところもあるんですが、協奏曲と歌曲集はソロの健闘もあり、またオーケストラもだんだん鳴りだして、なかなか聴き応えのあるdiscです。なによりも、プログラミングの妙というものを感じさせてくれるところがいいですね。この日のプログラムが以上3曲だったのか、もう1曲組まれていたのかはわからないんですが、この3曲のみだとしても、一夜のプログラムとしてはやや短めながら、これで完結しているというか、じつに筋が通っています。CDとしても、はじめから通して聴くのがふさわしい、こういうdiscは入手してヨカッタと思えるものですね。







2012.11.28 wed



シューマンのピアノ協奏曲、クララ・ハスキルのdiscはクーベリック指揮デンマーク放送交響楽団との1955年live録音、カップリングはショパンのピアノ協奏曲第2番でオーケストラはパリ音楽院管弦楽団、1960年live

アニー・フィッシャーのdiscはカイルベルト指揮ケルン放送交響楽団との1958年のlive録音。カップリングはべートーヴェンのエロイカ変奏曲とピアノ・ソナタ第30番で、こちらは1957年の録音。

シューマンの作品であるから、ピアニストの名前が「クララ」であるに越したことはない・・・ってのは冗談(^o^;ハスキルの抒情とフィッシャーの熱い高揚、どちらもいい演奏。伴奏が雄弁なのも作品にふさわしい。それぞれ同曲の別録音盤もありますが、いますぐに思い出せるのはアニー・フィッシャーのクレンペラーとのセッション録音、Hoffmannが持っているのはアナログLPなので、いま比較はできませんが、あちらは伴奏のせいか、もっと硬派な印象がありましたけどね。それにクーベリックといえばゲザ・アンダとのDGG盤がありましたが、こちらはどんな演奏だったか覚えていません(これもLP)。

そうそう、ケルン放送交響楽団といえば、比較的新しいところでクリスティアン・ツァハリアスのピアノにハンス・フォンク指揮によるdisc(1991年のlive録音)が印象に残ってますね。あの地味〜なフォンクがツァハリアスに引っ張り込まれているのか、良くも悪くもシューマンの狂気が聴き取れるような演奏になっています。







2012.11.27 tues

Hoffmannは女流演奏家をあまり贔屓にはしませんが、それでも好きなひとはいます。ただやっぱりね、どうしても古いひと、古い録音になっちゃう。



月並みな言い方になりますが、教育にしても全世界共通とまでは言わないにせよ、いくつかの流れが主流として固まっちゃってるうえに、演奏解釈にしても平均的に均されてしまっているいまの時代、とくに若手の演奏家には魅力がないんですよ。



それとね、もうひとつ。ムカシの演奏家って、当時の写真に格別の魅力があるってこと、ないでしょうか。肖像写真なんて音楽とは関係ないと言えばないんですけどね、受けとる側への影響は無視できない。写真っていうものも、撮影するひともいまより真剣だったから、被写体の最高の魅力がそこに写し込まれているんじゃないかって気がするんですよ。

まあ、お写真効果はともかく、本日の一段落め、二段落めみたいなことを言うと「懐古趣味」とか「ムカシはよかったオジサン」なんて言われちゃいそうで、だからそんなことを意識して古い演奏家の話題を避けたり、無理して最新録音に好意的になろうとする(している)ひともいますけどね。Hoffmannは「懐古趣味」をそう悪いものだとは思っていませんが、なにもそんな自分の好みに関して、他人の目を意識して無理するこたぁない。いいと思うものはいいと言うし、気に入らなければそれまでです。だって、まるでキョーミのない演奏家なんて、古かろうが新しかろうが、山ほどいるでショ?







2012.11.26 mon



クロード・モネの「印象、日の出」がジャケットを飾っているCDです。左はクイケン兄弟らによるドビュッシーの室内楽作品集、ケルンの西ドイツ放送局の録音で仏Arcana盤(で、いいいのかな?)。右は仏Forlaneから出たJean-Claude Bernede指揮Orchestre des Concerts Lamoureuxの演奏で、ドビュッシーの「海」とラヴェルの「亡き王女ためのパヴァーヌ」、「ボレロ」、「ラ・ヴァルス」。

モネの「印象、日の出」といえばまさしく「印象派」という呼称の元となった絵ですね。当時は「未完成の描きかけ」だとか「即席で仕上げた」なんて酷評されたそうですが、海にしろなんにしろ、ある瞬間の対象を、もっとも写実的に描いていますよね。ちなみにForlane盤にはジャケット画がモネであることが明記されていますが、じつはこちらは裏焼き。ただしいずれも色調を変えていて、Arcan盤は青みが強く、Forlane盤はくすんで寝ぼけたよう、後者はcopyのせいでこうなったのかな・・・って、それはともかくとして、いまだにドビュッシーが「印象派」って誤解はなんとかならんかね、モネに文句を言うわけではないんだが・・・。

やっぱりここはハクサイの絵ですよねっヾ(^∇^*



あらららら・・・(^o^;

さて、Jean-Claude Bernede指揮Orchestre des Concerts Lamoureuxの「海」。1986年5月のlive録音と記載されています(拍手は入っていない)。このベルネードさんってベルネード四重奏団を率いていたヴァイオリニストですよね。パリ音楽院でヴァイオリンを学び、指揮はピエール・デルヴォー、マルケヴィチらに師事したひと。なるほど、たしかにフランスのオーケストラにしてはめずらしいくらい、アンサンブルは整っています。整っているだけじゃない、弦楽器出身の指揮者にありがちな、横に歌わせることに傾いた演奏ではなくて、縦横のバランスも見事。強烈な主張を感じさせるような作為的な演奏ではないんですが、よく聴けば木管のソロなど表情付けは入念。どこをとってもこうあって欲しいというようなドビュッシーになっていて、たいへん好感を持ちました。



そこで「海」のマルケヴィチ盤。これは国内盤でOrchestre Lamoureux, Parisパリ・ラムルー管弦楽団と表記されていますが、同じオーケストラでしょう。録音は1959年5月。

マルケヴィチらしい明晰系の演奏です。ただ録音のせいかオーケストラは横一列整列型、前後感がなくて、ためにマルケヴィチのアプローチと相俟って、よけいにドライな印象が強く、聴いていてちょっと疲れます。第三楽章などは白熱的ながら、骨組みが透けて見えるような痩身の響きで、これが1950年代のフランスのオーケストラから聴くことができるというのも意外ですね。

・・・というわけで「海」のページに追加。まだ取りあげていないdiscがいくつか残っているので、機会あるごとに。

     
(;^∇^) ρ(^o^*)








2012.11.25 sun

たしかどれも過去にupしたことがある本です。



「神女 唐代文学における龍女と雨女」エドワード・H・シェーファー 西脇常記訳 東海大学出版会
「メリジェーヌ 蛇女=両性具有の神話」ジャン・マルカル 中村栄子・末永京子訳 大修館書店
「水の音楽 オンディーヌとメリザンド」青柳いづみこ みすず書房
「メーテルランクとドビュッシー 『ペレアスとメリザンド』テクスト分析から見たメリザンドの多義性」村山則子 作品社

こうして並べるところに意味があるんです。音楽書は音楽書の棚へ・・・って「分類」じゃダメなんですよ。

「メリジェーヌ」はちょっと微妙ですね(^^;

そこは「あえて」なんだよ(笑)なにかが生まれ出てくるかもしれないという期待がある(^^*







2012.11.24 sat




国内盤はお高い・・・いや、そう言い切ってしまうのはかならずしも正しくはないんですが、つまり数が捌けるものはそれなりの価格設定っちゅうこともありますけどね、あまりたくさんは売れそうにもないと、やはりそうお安くはならないのかな。

「たくさんは売れそうにもない」なんて失礼なことを言うやつだと叱られたら謝りますけどね、それならつねに少数派が正しいってことになるんじゃないかと言いたいんですよ。







2012.11.23 fri



以前にもupしたお写真、エルガーの“The Starlight Express”です。アルジャーノン・ブラックウッドの小説「妖精郷の囚れ人」をViolet Pearnが翻案した劇の付随音楽。ヴァーノン・ハンドリー指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団による全曲盤、英EMIのアナログLP、SLS5036。右はいまは無き月刊ペン社から出ていた「妖精文庫」シリーズのうちの上下二巻本。

Hoffmannはブラックウッドの原作の方はさほどでもないんですが、このエルガーの音楽は好きでしてね、出稼ぎ先でも聴きたくなって、CDでも入手済み。そこにこの作品の新録音が出たので迷わず購入。



アンドルー・デイヴィス指揮スコットランド室内管弦楽団ほかによる2012年5月の録音。英ChandosのSACD Hybrid盤。この指揮者がChandosから出しているエルガー、ディーリアスといったあたりはたいがい入手しているんですが、どれもハズレのない好演。ブライデン・トムソン、ヴァーノン・ハンドリー亡き後、イギリスの指揮者でたよりになるのはこのひとくらいのものか。一段落したらハミルトン・ハーティを録音してくれんかねえ。







012.11.22 thurs



ふたりの大女優を愉しむ映画―「昼顔」Belle de Jour(1967年・仏)のセヴリーヌと「恋人たち」Les Amants(1958年・仏)のジャンヌ、すなわちカトリーヌ・ドヌーヴとジャンヌ・モローです。ルイス・ブニュエルとルイ・マルというふたりの映画監督を愉しむ、と言ってもいいかな。共通項はどちらも人妻の話で、夫以外の男性とゴニョゴニョ・・・(笑)

映画的感興という点では、「昼顔」はドラマティックなんですが、想像力の余地はさほど・・・。フロイト的な精神分析も可能なのも、あまりにおあつらえ向きなパターンであるところが、さすがに古くさい印象も。だれだって気がつくじゃないですか、登場人物のわずかな台詞でも、セヴリーヌの心理はほとんど説明調に語られちゃって、わかりやすくあからさまです。そんなところが、鑑賞する側の想像力を働かせる余地を奪ってしまっているということなんです。

「恋人たち」のstoryは人妻が一夜にして家庭を捨てて他の男性と出て行く決心をする・・・って、それだけ、もうそれ以上説明のしようがない。ただしこの映画では単なる筋書きの外に匂わせるもの、感じさせる味わいが、ある。これは文学作品とかではなく、映画という表現手段でこそ可能となっているわけ。だから映画的感興という点ではこちらの方が上なんじゃないかな。モノクロ画面も美しく、目を愉しませてくれます。
個人的にはブラームスの弦楽六重奏曲第1番の第2楽章の使われ方が、いまとなってはsentimentalに過ぎるような気がしないでもない。ただし「いまとなっては」っちゅうのは、この映画が製作された当時の感覚ではまた話が別ってことです。このころ、フランスではブラームスはさほど聴かれてもいなかったはず。だから、たとえばフランソワーズ・サガンの同名の小説での「ブラームスはお好き?」という台詞の意味も、そのあたりを汲んで読まないといかんのよ。たとえば「鬼火」Le Feu Follet(1963年・仏)で使われているサティ の「ジムノペディ」にしたって、同じこと。自分がその音楽に抱いているimageを万人共通のものと錯覚しちゃいけません。ましてや50年も前によその国で作られた映画なんだからサ。だから「個人的には」って言ったの。それを勘違いして、あげくにその錯覚を根拠に映画を評価するのは滑稽なことだかンね。

たしかサガンはお嫌いでしたよね(^^;

まあ、Hoffmannの場合、女優本位で観れば、圧倒的にジャンヌ・モロー贔屓だからね、映画としての好みに関しても、ちょっと「恋人たち」に肩入れしがちではあることは否定しないよ(^o^*







2012.11.21 wed



monologue 2012.10.20 satでも言いましたけどね、プルーストの「失われた時を求めて」は、現在岩波文庫と光文社古典新訳文庫が順次刊行中ですが、次に全巻通読するのはいずれになるか。寿命が許せば、すくなくともあと2回は読み通す予定であるわけです。ところが既刊分を読み終えてしまうと、次の巻が出るまで中断を余儀なくされてしまう。それで入手を躊躇していたんですが、とりあえず光文社の方を読みはじめることにしましたよ。なんでかっつーと、最終稿グラッセ版を底本としている「消え去ったアルベルチーヌ」が先に出ていて、これを読んだから。高遠弘美というひとの翻訳と「訳者あとがき」を読むと、Hoffmannの“読みたい気分”が「そそられる」んですなあ。「花咲く乙女たちのかげに」以降、そんなに速いペースでどんどん刊行されんだろうから、一度読み終わった分は、いろいろ参照するなどして繰り返し、ゆっくり愉しんでみようかと思っています。







2012.11.20 tues

健康診断。腹囲85cmのラインは余裕でクリア。

視力検査で、これはHoffmannの場合メガネ装着でやるわけなんですが、例の輪っかのどこかが開いてるやつ、まず右目で「一番下に並んでいるの、見えます?」と言われて「左から上、右、左・・・」とやってって、さすがに最後のいちばん小さいのはただの点としか見えない。

「ほんじゃま・・・あてずっぽうで下にしとこ♪」
「正解です」

次は左目、同じく上だ下だとすすんでゆき、やっぱりいちばん小さいやつなんて、そもそもそこに輪っかどころか点ですらテンデ見えません。

「あてずっぽで左だ・・・」
「正解です。両目とも1.5ですね」
「そんなばかなーっ」
「だって一発で見えてるじゃないですか」
「見えてないんだよ、テキトーに言ってみただけなんだよ」
「とにかく1.5です。はい、次の方」




2012.11.19 mon



久夫縦覧・・・と変換するなあ、しっかりせんか、Atok。ちなみにHoffmannの職場で久生十蘭の名前を知っていたのはこれまでHoffmann以外にはひとりだけ。だからって莫迦にしているわけじゃありませんぜ。Hoffmannだって、ワタナベジュンイチとかいう名前の作家は知らないし、海外の作家でもハリー・ポッターなんて読んだこともありませんからね。

それは作家の名前じゃないと思いますよ〜(^o^;

それはともかく久生十蘭。作風が多彩なひとなので、ちょっと焦点を絞りにくくて一見とらえどころのない印象もありますが、ひと言で言うと講談風ルポルタージュとも呼ぶべき手法で縦横無尽に―言い換えれば好き勝手に―講釈たれて、読者を煙に巻くのがこのひとの作風。小説を、筋書き(だけ)とか思想(だけ)とかで読ませるのではなく、芸で読ませることを心得ていた、いわば達者な「語り部」が小説家になったようなひと。

Hoffmannは三一書房版の全集を持っているので、最近出た国書刊行会版全集は入手していないんですが、あれ、経済(資金のことだ)と不動産(収納スペースのことな)の事情が許すのであれば、我が家の本棚に収まってもらいたい全集モノの筆頭格なんですよね。

お写真は久生十蘭の「従軍日記」(講談社文庫)、表題は正しくは「久生十蘭『従軍日記』」、翻刻は小林真二。昭和18年に海軍報道班員として南方に派遣されたときの日記。ちなみに右の山田風太郎「戦中派虫けら日記」(講談社文庫)はその昭和18年を含む昭和17〜19年の日記。







2012.11.18 sun

monologue 2011.08.03 wed、すなわち昨年ですが、「けふ、健康診断に行ってきたんですけどね、メタボのラインは難なくクリアv(^-^)ぶいっ」なんて言ってますが、「難なく」はウソです。このとき優美が「ここ数ヶ月、ダイエットを心がけてらっしゃいましたからね〜(^o^;」と言っているとおり、「ようやく」、「なんとかかんとか」、「きわどいところで」クリアしたんです。

ところが、今年は余裕をもって11月に健康診断を受けることにしたのに、ダイエットの効果があらわれません・・・と、いささか焦りだしたのは先月中旬のこと。7月頃から気をつけていたので、例年ならば多少はハラが引っ込んでもよさそうなもんなんのに、ぜんぜん変化がありません。そこでさらなる対策をテッテ的に(笑)施しはじめたところ・・・1ヶ月で5kg痩せちゃいました(^0^*)カンラカラカラ・・・って、喜んでいていいのかどうなのか、健康診断が終わったら少し体重を増やしたい(笑)




2012.11.17 sat

今回は往年の「巨匠」による録音を―まずはシャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団によるlive録音、1967年11月14日、シャンゼリゼ劇場における同オーケストラが改組されての発足演奏会だね。はいっ、優美さん、はりきってどうぞヽ(^-^*

またワタシがやるんですか〜(^o^A; ヾ(^∇^*優美お姉ちゃん、がんばってくださいっ



えーと・・・これはずいぶん表現意欲にあふれた演奏というか、テンポは伸縮自在といった印象で、勢い込んでみたり、潮が引いていったりと、ダイナミクスも含めて表情の変化著しい演奏ですね。恣意的に過ぎるのではないかとも思いますが、そこそこ様になっているあたり、巨匠時代の指揮者ならではですね・・・って、聴いているこちらもミュンシュの指揮だからと思っているからなんですが(笑)またこの指揮者らしく、激しい箇所はあざやかに聴かせるものの、しんみりした箇所となると、ちょっと持て余し気味とも聴こえます。正直なところ、私はこのような演奏にはちょっとついていけません(^^;コメンナサイ

ina音源の良質なstereo録音だね。シャンゼリゼ劇場の音響はややデッドみたいで、かえって細部までよく聴き取れる。それだけに古くさく感じてしまうということもあるね。じつを言うと、ところどころで笑っちゃった(^^A;



次はピエール・モントゥー指揮ボストン交響楽団、1954年のmono録音だ


先ほどのdiscよりも録音は古いのに、演奏ははるかにモダンですね。録音もmonoとして鮮明で、やはり響きへの鋭敏な感覚はたしかです。主旋律に限らず、聴こえるべき音が聴こえるという、模範的な演奏といっていいのではないでしょうか。このようなmono録音の時代からきちんと明晰な演奏している指揮者もいたわけで、その後も「印象派」だなんて勘違いしてモヤモヤと曖昧な演奏をしているひとがいるのは不思議ですね


例によって主旋律以外の副声部の扱いがユニークで、さらに情感豊かでありながら、決してsentimentalにならない節度がモントゥーらしいよね(^o^*はい、優美さん、お疲れさまでした♪

こんなのでよろしかったですか?(^o^A;フウ ヾ(^∇^*おつかれさまでしたっ♪

ドビュッシーの「海」のdisc、未だいくつかあるんですが、いまはとりあえずここまで。ついでにまとめとして「海」のページも作成中です。




2012.11.16 fri

(昨日の続き)

今度は優美が喋ってよ(*^^)
σ(^o^;え〜、ワタシがですか?



えー、それでは・・・ネーメ・ヤルヴィ指揮デトロイト交響楽団による1992年の録音、このCDはルーセルの交響曲第4番、ミヨーのプロヴァンス組曲、ルーセルのシンフォニエッタ、そして最後にドビュッシーの「海」と、英Chandosらしいユニークな組み合わせのdiscですね。

意外にも録音レベルが低くてヴォリュームを上げなければならないんですが、その状態で大音量になっても飽和することなく朗々と鳴るあたり、さすがChandosのCDですね。演奏もそんな録音ですから、屈託なくのびのびとしたものです。全体にテンポは速めで、これといって強烈な主張を感じさせはしないものの、どこをとってもドビュッシーの管弦楽作品として過不足のない好演だと思います。私はデトロイトのオーケストラを聴くのははじめてかもしれませんが、かなり上手いうえに、響きもたいへん美しいオーケストラですね。これ、知らずに聴いてフランスの楽団だよと言われたら、信じちゃいますね。おそらく指揮者の手腕によるところが大きいのではないでしょうか。


このひと、なにをやってもこんな「フワッ」とした響きになるんだよね。ある意味、とても現代的だ



アルミン・ジョルダン指揮スイス・ロマンド管弦楽団の1990年の録音です。

ジョルダンはHoffmannさんがお好きな指揮者ですね。小細工のない「純情」な演奏とよくおっしゃいますよね(^^*ここでも同様に、素直で明快な演奏となっています。テンポの変動もほとんどなくて、粘ったり踏ん張ったりしませんから、良くも悪くも響きは上品ですっきりしています。ドビュッシーとなると、作品によっては毒が仕掛けられているのではないかとも思いますが、この「海」に関してはあまりそうした不満もなく、これはこれでいい演奏ですね。


強烈な個性とか主張がないのに、引き込まれちゃうんだよね(^^*



シルヴァン・カンブルラン指揮SWR交響楽団による2004年の録音です。

このひともHoffmannさんがかなり以前から注目してらした指揮者ですね。相当の知性派だと思います。ドビュッシーといえば「印象派」といった誤解がまかり通ってきたのももう古い話ですが、横の流れよりも縦の線、さらにこうした構築性の妙で聴かせる演奏は、ドビュッシー演奏にまた新しい世界を開いているように思えますね。


第一ヴァイオリン優勢気味で、やや浮きあがって聴こえるのは意図したものなのかどうか、ちょっとわからないんだけどね



エサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団、これは1996年の録音ですね。

これも知的な演奏なんですが、どこをとっても抑制気味と聴こえます。重層的なおもしろさにも欠けてはいないんですが、高度に充実した演奏であることは認めたうえで、どうしてもこれでなければというアピールポイントに乏しいような気がします。どうも細部の詰めがいま一歩と感じられて、「意余って言葉足りず」ならぬ「力足りず」なんじゃないでしょうか。

遠くから響いてくる太鼓の「ドン、ドン」がすごい(笑)




2012.11.15 thurs

(昨日の続き)



リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団による1993年の録音。ムーティがフィラデルフィア管弦楽団を振ったdiscは録音良質なものが多いんですが、どちらかというと、アナログLPの方が彫りが深くて好きです。これはCD。

このオーケストラは輝かしく、ゴージャスによく鳴るんですが、この音色に魅力があるかというと別問題。良くも悪くもinternationalな響きで、しかしだからこそドビュッシーのスコアの仕掛けが明瞭になります。ダイナミクスなど、細部ではっとさせるようなコントロールが行き届いているのはさすがムーティ。明るめの響きでストレートな運び。

歌わせすぎることなく、重層的なおもしろさにも欠けてはいないんですが、たしかにストレートというか、旋律が直線的に聴こえるような印象があります。オーケストラの響きは派手ではないものの、たしかにゴージャスですね(^^;



ガリー・ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団による1993年のlive録音。SACD Hybrid盤。

これもコントロールの行き届いた演奏なんですが、ムーティ以上に入念な表情付けが施されているかと思えば、あっさりやりすごすところも。作為的とまでは思わないんですが、ちょっと考えすぎかも。このdiscでは併録されている「夜想曲」の方が好演ですね。SACD盤にしては細部の見通しいま一歩。

緩急のコントラストがきつすぎるような気がします、緩急といってもテンポのことばかりでなく、響きや表情付けも含めてのことですけれど・・・。あまりに目まぐるしくて、聴いていてちょっと振り回されているような印象ですね。この指揮者のマーラー演奏と同じ方法での音楽造りだとは思うんですが、ここではあまり成功していないようですね



準・メルクル指揮リヨン国立管弦楽団による2007年の録音です。どうもNAXOSの録音ってのは味も素っ気もないね。もうひとつヌケが悪くて、新しい録音にしてはクリアネスに不満。

オーケストラはやや鈍重。ムーティ盤、ベルティー二盤の後に聴いてはさすがに酷か(^^A;緩急のコントラストといえば、第一楽章で遅め、第二楽章でさらにたっぷりやって、第三楽章でベルティーニ並の快速テンポになる・・・わりにはあれこれやっている印象を与えないんですね。遅くなっても粘るわけではなく、意外と淡泊。またオーケストラの表情が多彩とはいいかねるのも、これは技術的な問題か。とくに金管のピアニシモなど、手に余っているよう。とはいえ、朴訥とした演奏が、そこはかとないいい雰囲気を感じさせてもいます。好きか嫌いかと訊かれれば、結構好きかも(笑)

たしかにソロなどは世界一流とは言えませんし、地味といえば地味なんですが、素直な歌い口に、私は好感を持ちましたよ(^^*




2012.11.14 wed

えらい古いハナシですが、monologue 2006.10.08 sun、2006.10.12 thursあたりでドビュッシーの交響詩「海」のdiscを取りあげていました。このとき漏れていたdiscもあり、その後いつの間にやら手許に集まってきたdiscもあるので、ここで取りあげちゃいます。



ピエール・ブーレーズ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団による1966年の録音。お写真はCDですが、北斎がジャケットを飾るLPも持っています。

明晰系の演奏。現代でも充分通用するモダンな感覚というか、この録音のレコードが発売された当時の評判がどうであったかは知りませんが、いまやこうした曖昧さを排した演奏が主流ですね。フランスのオーケストラを使わずに録音しているあたりがブーレーズらしいんですが、「海」の演奏として決して場違いな印象もなく、交響詩「海」の、ひいてはドビュッシーの規範的な演奏といってもいいんじゃないでしょうか。

これはいま聴いてもいいですね。ドビュッシーは調性をボカしてはいるものの、響きをボカしているわけじゃありませんからね(^^*



チェリビダッケ、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のCD。左はひところshopでよく見かけたMETEOR盤、海賊盤ですね。右はチェリビダッケの死後に遺族の許可が出てEMIから発売されたもの。EMI録音は1992年8月13日のガスタイクにおけるlive録音、METEOR盤には録音年の記載なし。聴いたところ別演奏ですが、基本路線に変わりはありません。

例によってスローテンポで、噛んで含めるような演奏です。これだけスローでありながら重くなりすぎないのは、このテンポについてゆくオーケストラの実力でしょう。そのテンポと相俟って、フォルテシモの箇所でもスコアが見えるような明晰さ、チェリビダッケが楽譜を改変しているところもはっきりと。とくにティンパニの変更がわかりやすい。

これは協和音も不協和音も、その移ろいも、すべての響きを曖昧にしないために遅いテンポとなったと思えますね・・・って、チェリビダッケの演奏はみんなそうですけど(^o^;Hoffmannさんもおっしゃるように、この遅いテンポでもリズムが犠牲にならないのはさすがですね

それにしても、遺族の許可があればめでたく「正規盤」ってことは、要するに海賊盤の問題は、結局それを造って売っているやつが金儲けをして、演奏者や遺族といった「権利」を持っているひとの収入にならないからなんだよね

芸術的・道徳的な問題ではないということですか?

道徳はどうか知らんが、芸術的な問題だというならば、遺族が故人の意思に反するかもしれないことを許可することだって、その是非が問われるだろう? 遺族=権利者が許可したなら海賊盤でないというのなら、「正規盤」か「海賊盤」かという違いは資本主義の原理によって決まってくる(にすぎない)わけだ




2012.11.13 tues



読んだことがあるようなないような・・・とにかく記憶がはっきりしなくて、ウチの本棚にはなかったので買ってきた本、ホセ・ドノソの「隣りの庭」野谷文昭/野谷良子訳(現代企画室)です・・・で、読みはじめようとしたんですが、その前にドノソの傑作「夜のみだらな鳥」を読み返してからにしようかどうしようか、迷っています。「夜のみだらな鳥」はこれまで2回読んでいますが、まさか2回で終わるわけにはいかない。「隣りの庭」も早く読みたいけれど、ここは「遠回り」の極意で、より長期間愉しむか・・・。




2012.11.12 mon

どうも、昨日のように「最近読んだ本」を列記しようとしたとき、アンソロジーの類は読んでいても、ここには並べられることがないんですよ。アンソロジーにはアンソロジーの魅力がありますけどね、Hoffmannの場合、例えば寝る前にひとつ読む、数日かけて読了っちゅう読み方なので、「最近読んだ本」と看板掲げたときに、1冊の本としては強い印象を残していないんですね。



その意味では、たとえば上のお写真の本なんて、どれも滅法面白いのに、「これを読みました!」ってな話題にはなりにくい。

「最近読んだ本」ではなくて、「最近手許に置いてある本」ですね(^^*




2012.11.11 sun

最近読んだ本から―。

「ゴースト・ハント」H・R・ウェイクフィールド 鈴木克昌他訳 創元推理文庫
「百物語の怪談史」東雅夫 角川ソフィア文庫
「なぜ怪談は百年ごとに流行るのか」東雅夫 学研新書
「明治百年」小野俊太郎 青草書房
「百年の孤独」G・ガルシア・マルケス 鼓直訳 新潮社
「欧州百鬼夜行抄 『幻想』と『理性』のはざまの中世ヨーロッパ」杉崎泰一郎 原書房
「デューラーを読む 人と作品の謎をめぐって」藤代幸一 法政大学出版局

かなり以前、「夏は日本の怪談、冬は英国産怪奇小説」なんて言いましたが、どちらも本がありゃあいつだって読みます(笑)それにしても、なんだかやたら「百」の字が目につくね(^^;

Hoffmannさん、シャックリがとまらないんですかっヾ(・∇・*



デューラーときたら次はサルトルの「嘔吐」がお約束(笑)




2012.11.10 sat

たしか以前にもupしたことのある本です。



昨日までエクソシスト映画をとりあげましたが、こちらヴァチカンのエクソシストに関する参考書。「エクソシストとの対話」島村菜津(小学館)と「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウィルキンソン、矢口誠訳(文藝春秋)。ただしボリューム的には食い足りない。読みやすい反面、軽めの読み物。




2012.11.09 fri



「エクソシスト ビギニング」Exorcist: The Beginning(2004年・米)。監督レニー・ハーリン。元祖「エクソシスト」The Exorcist(1973年・米)で悪魔パズズとの壮絶な死闘を繰り広げたメリン神父が、その25年前に体験した悪魔との最初の戦いを描いた作品。いわゆる後日譚とくらべて前日譚ってのは、あまり興味も湧かなくて、これまで観ていなかったもの。

故郷のオランダでナチスの残虐行為を目の当たりにし、これを阻止することが出来なかったことから神への信仰を見失ってしまったメリン神父は考古学者となって、アフリカの教会遺跡の発掘現場へ。やがて彼の周囲で不可解な事件が勃発、村の少年ジョセフはハイエナに襲われ重症を負い、次々と殺人事件が―というstory。

またもや失った信仰を取り戻す主人公っスか・・・と思ったけど、これは第一作「エクソシスト」のカラス神父が草分けで、もはやこの種の映画の伝統かお約束か。登場人物の過去のエピソードにナチスをからめているのはやや陳腐。メリン神父はわかるけど、さらにサラまでが(笑)同様に収容所でナチスから拷問を受けたという設定が、どうしても必要だったのか疑問。終盤の白人(軍隊)と原住民の衝突も、メリン神父が地下から出てきたところのシーンのために必要だったんだろうね。ウジのわいた赤ん坊だとか顔面にウミが出たオッサンといった映像はなかなか。ただしCGを使ったところは違和感ありあり。メリン神父と悪魔の対決は長くもなく短くもなく、ダレない程度にまとめてしまっている印象です。ハエやウジ虫はダリオ・アルジェント、教会で発見されるオッサンの死体は「羊たちの沈黙」・・・と、いろいろあちこちから借用したアイデアかしらと思うようなシーンも。とはいえ、元祖「エクソシスト」のような重厚さはないものの、全体としては正攻法で撮られた佳作だと思いますね。



以上で、エクソシストもの(邦題だけというのが1本あるが)計8本ですね。

お気に入りはどの作品でしょうか?(^^*

傑作はなし。佳作が「エクソシスト ビギニング」と「ザ・ライト ―エクソシストの真実―」。「デビル・インサイド」に特別賞をあげてもいいかな

さすがに「デビル・インサイド」は特別賞止まりですか。まあ、うかがっていて、予想はつきましたけれど・・・(笑)

それじゃ、そろそろ飽きてきたからエクソシストものは・・・

あっ、「もうよそう」とかおっしゃりたいんですねっ(*^o^)σ)~0~)/プニッ♪




2012.11.08 thurs



「エミリー・ローズ」The Exorcism of Emily Rose(2005年・米)です。これまた実話を基にした映画ですね。監督はスコット・デリクソン、主演はローラ・リニー。

ある日、ムーア神父が悪魔に取り憑かれたという19歳の女子大生エミリー・ローズに悪魔祓いの儀式を施した末、死に至らしめたとして過失致死罪で起訴された。彼の弁護には、女性弁護士エリンがあたることに。エミリーは精神病で、薬の服用をやめさせたことが原因だと主張する検事側に対し、エリンはムーアの真摯な主張をもとに悪魔の存在を証明しようと決意する―というstory。



エミリーの悪魔憑きは裁判における証言のなかで描かれるので、枠物語ふう。従って怖い映画ではなし、緊迫の裁判劇映画といったところですね。俳優・女優の演技はまず申し分なく、おしまいまで画面に引きつけられちゃいました。ラストはそんなにひどいご都合主義に堕してはいませんが、このいかにも感動的だろっ、てな結末が、どこかハリウッドの商業主義的な戦略から要請されたクライマックスと見えてしまうのは、Hoffmannがヒネクレておるからかな。

ベースになったドイツの事件では、神父は過失致死で有罪、6ヶ月の保護観察となったそうで、まあ、キリスト教圏ではこれが妥当な判決なのかもしれません。




2012.11.07 wed

「デビル・インサイド」The Devil Inside(2012年・米)。監督 ウィリアム・ブレント・ベル 。本国アメリカでは異例の大ヒットだとか。



1989年、マリア・ロッシという女性が悪魔祓いの儀式中に3人を殺害。裁判所では彼女を精神障害と認定して、彼女はイタリアの病院へ。20年後、マリアの娘イザベラ・ロッシは、母親が悪魔にとり憑かれているのかどうか、真実を知るため、2人の神父(エクソシスト)とともに母親が収容されている精神病院へ向かう・・・。

「実際にあったことを基にした」とされていて(ホントかどうかは知らん)、それでフェイク・ドキュメンタリータッチのカメラワークと構成をとっているんでしょう。つまりはいまどきの典型的な低予算ホラー映画。

悪魔祓いのシーンがなかなかの見せ場で、悪魔憑きの演技はなかなかの迫真もの。ここではエクソシストのふたりの神父が、バチカンの許可を得ないで儀式を行っているアウトローであるのがユニーク。従って、幾度となくバチカン批判が繰り返されます。映画の冒頭で、バチカンの協力を得ていない、とわざわざ断りが入っていたのはそういうわけね。だからエクソシストの描き方は、昨日の「ザ・ライト ―エクソシストの真実―」The Rite(2011年・米)とは対極にある、このあたりがHoffmannはたいへん気に入りました。



唐突なラストも―これは観ていて怒るひともいるかと思いますが―Hoffmann的には、実話の再現であるフェイク・ドキュメンタリーらしく、余韻のない宙ぶらりん具合が(前例は数々あれど)いいと思います。宙ぶらりん、すなわちsuspense、suspensiveっちゅうことですよ。

ところで、本日の上の画像を見て思い出したんですが、Hoffmannが月も恥じらう高校1年生のとき、ガッコにイタリアから留学生がやって来て、朝礼でご挨拶、曰く「せっかく日本に来たので、ゼンとヨガをやりたいです」・・・って、禅はわかるけど、なんで日本でヨガnano?




2012.11.06 tues

「ザ・ライト ―エクソシストの真実―」The Rite(2011年・米)。監督ミカエル・ハフストローム、主演はアイルランド出身の若手コリン・オドナヒュー。アンソニー・ホプキンスがエクソシスト役でご出演。



悪魔憑きに懐疑的なアメリカ人青年が優秀なエクソシストの神父のもとで修行にあたる過程で直面する戦慄の恐怖を描くサスペンス・ホラー。

神学校の卒業を目前にしながらも司祭の道に進むつもりのない神学生マイケルは、恩師である神父からバチカンで行われているエクソシスト養成講座の受講を勧められ、ローマへとやって来る。講座に出ても懐疑的な態度に終始するマイケルは、やがて「異端だが一流のエクソシスト」と讃えられているルーカス神父を紹介され、16歳の少女の悪魔祓いの儀式に立ち会うことになり・・・というstory。

信仰を取り戻したことによって悪魔に打ち勝つ・・・ちゅうのは、いささかご都合主義。その意味では、この映画について、いまなお行われている儀式とエクソシストの全貌が描かれている・・・と言われているのは、どうかなと思います。これはその一面にすぎないんじゃないでしょうか。もっともエクソシストをバチカン公認の聖職として描くとなればやむを演歌・・・じゃないや、やむを得んか。これはバチカン寄りの、さらにハリウッド映画としてのentertainment性に背かない(カネになる)、エクソシストの描き方なんじゃないかと、ちょっとナナメに構えてしまうHoffmannであります。それにしても、アンソニー・ホプキンスはさすがの貫禄、主役を喰っちゃいますね・・・って、「羊たちの沈黙」みたいにホントに食べちゃうわけじゃないからねっ(^^;




2012.11.05 mon

「ザ・クロス エクソシストの闇」Psalm21(2009年・瑞)。監督・脚本フレードリク・ヒラー。これはエクソシストものじゃありませんでした。



ストックホルムで神父を営むヘンリクは、亡くなった母親の出てくる悪夢に悩まされていた。そんなある日、別居していて同じ神父である父親の訃報を受け彼の地へ赴く。そこで父親と母親の秘密を知ることとなり・・・というstory・・・みたいなんですが、すみません、よくわかりません(^_^A;

別に悪魔は登場しない、悪魔祓いもなし。突然顔が崩れる亡霊は出てくるんですが、ひょっとすると主人公の幻想なのかなと思わせるような、脈絡のなさ。調子が高いというか、妙に高踏的で何回観ても難解で(笑)主人公の、子供の頃倒れた母親を見殺しにした罪の意識とか、父親の悪行とか、その父親の聖書とか、なにを意味しているんだろう? ラストでそれまで地獄の存在を否定してきた説教を撤回して信者のブーイングを浴びつつも、妻子を抱きながら悩みが晴れたように笑顔で教会を立ち去るのも、どういうわけでこういうことになるのか、さっぱり理解できません。信仰を捨てたってことじゃないよね・・・。

俳優女優はみなさんいい演技をしているんでんすが、結局アタシが莫迦なのか、そもそもこの映画が製作者のひとりよがりにすぎないのか、それすらワカランという映画でした。




2012.11.04 sun

本日は「ラスト・エクソシズム」The Last Exorcism(2010年・米)です。監督ダニエル・スタム。



これまで数々の悪魔祓い(エクソシズム)の儀式を行ってきたコットン・マーカス牧師が主人公。じつは彼自身は悪魔の存在を信じておらず、すべての不可解な現象は合理的に説明できると考えており、彼が行う儀式も、巧妙なトリックが使われているにすぎないもの。そんなインチキ悪魔祓いから足を洗う決意をしたコットン牧師は、儀式の舞台裏を撮影し、それをドキュメンタリー映画として公表することにして、撮影クルーを引き連れ、悪魔が取り憑いたという少女のいる農場へと向かう・・・というフェイク・ドキュメンタリー・ホラー。

16歳の娘ネルに悪魔が取り憑いているなどとは信じていないコットンは、これまでと同様に家具を動かすピアノ線や悪魔の声を流す小型スピーカーなどを利用して儀式を行い、それを撮影させます。彼はそれまでの経験から、悪魔憑きの多くは精神的・心理的なもので、儀式による暗示を与えれば解決できるものであると考えています。そして無事に仕事を終えたコットンと撮影隊はモーテルに宿泊しますが、深夜、彼らの宿泊先を知るはずのないネルが現れて・・・。

まあ、いろいろと思いつくもんですな。主役のマーカス牧師も、たしかに牧師とか神父というよりも、実業家タイプというか、いかにもな商売人風(笑)ただ、後半に向かってstoryは破綻気味、エクソシスト当人が悪魔憑きなんか信じてはいないという設定が、結局は単なる思いつきにすぎないと見えてしまいます。ドキュメンタリー調というのは近頃の流行ですね。




2012.11.03 sat

ここんとこ、オカルト系、そのなかでもエクソシズム(エクソシスト)ものの映画をいくつか観たのでとりあげちゃいます。ネタバレも何気なくサラッと言ってしまうかもしれないので、ご注意を・・・つったって、注意していたところでいきなり言われちゃったらどうしようもないよな(^o^A;



まずは「エクソシズム」La Posesion de Emma Evans(2010年・西)です。監督はマヌエル・カルバージョ 。

両親が厳しい家庭に暮らす15歳のエマはある日突然卒倒して痙攣を起こす。医者にも原因は分からずお手上げ状態。最初は悪魔が取り憑いたという娘の主張に耳を貸さない両親だったが、ついには神父でもあるエマの叔父クリスに助けを求めて、悪魔祓いの儀式を行うことに。かつて、エクソシズムの失敗で少女を死なせてしまい、世間から非難を浴びていたクリス神父は、教会の許可を得ないでエクソシズムを行うので、もしもの際には弁明に必要だからと、儀式のすべてをヴィデオ録画することを条件に・・・というstory。

典型的なB級映画。腹に一物あるクリス神父がユニークな存在で主役の女の子が別段美少女とかではなくフツーっぽいのはたいへんよろしい、ただし演技は揃いも揃って大根。最後まで観るのが少々苦痛でした。



こちらは「エクソシスト リターンズ」Devil Seed(2012年・米)。監督グレッグ・A・セガー。

1972年、ボストンで女子大生アレックスは友人と3人で一軒家を借りて住むことになりますが、室内には不穏な風が吹き、さらに奇妙な物音が聞こえるようになって、やがて(というか、やっと・笑)悪魔憑きに。40年前に儀式中に女性を死なせてしまった事件以来悪魔祓いを封印していた神父(エクソシスト)がやって来て・・・というstory。

なんとも魅力のない女優さんたちですなあ。カンタンにまとめてしまうと、女子大生に悪魔が憑依して、ちょこっとエクソシストが出てきて、あとはオチへ。エクソシストが以前儀式中にその悪魔の憑依した女性を死なせてしまったことがあるってのが、上の「エクソシズム」La Posesion de Emma Evans(2010年・西)と同じですが、その神父さんの葛藤はまったく描かれていない。そもそも引っ越してきたその家になにか原因があるのか、よくわからない。いわくありげな物件であるようなことを匂わせておいて、それっきりなんですよ。アレックスがラストで(処女のまま)悪魔の子(?)をスッサンするというのも、このstory展開で悪魔の意図がそこにあったとする説得力はない、「ローズマリーの赤ちゃん」か「オーメン」あたりから思いついたのか、なんだかとってつけたよう。駄作。




2012.11.02 fri



ここ数年来、EMIからは指揮者から器楽奏者、歌手の録音や、あるいは特定の作曲家の作品をまとめたCDのbox setが続々と発売されていますね。安いもんですからつい食指が動いちゃうんですが、うっかりすると入手してもあまり聴きそうもないものにまで手を出してしまいそうで、あわてて予約などしないように自重しているところ。お写真は、これは入手して当然のプーランクの作品集で、20CDのセット。もっともほとんどはアナログLPで所有しているんですけどね。

ただちょっと気になるのが、最近はSACD化、その低価格化の前に、CDで売り切っておこうというような意図も感じとれないではない、ということ(^^;ごく最近出たクレンペラーのセットなんか、そんな匂いがすると思いませんか?(笑)

いずれにせよ、チェロのポール・トルトゥリエとかピアノのアルド・チッコリーニのセットなどは、Hoffmannにとっては「永久保存版」(盤?)ですから、出してくれたのはほんとうにありがたい。

ところで、ここでEMIにリクエスト―指揮者でルイ・フレモーが'70年代にバーミンガム市交響楽団と行った録音を全部まとめてもらえないでしょうかね(^人^*)タノムヨー




2012.11.01 thurs




ベートーヴェンは格別好きな作曲家というわけでもありませんが、まあそこはベートーヴェンですから、交響曲全集なんてアナログLPでもCDでも、複数組所有しています。とくにCDでは、アナログ時代には考えられなかったようなお値段になっているものが少なからずあるもんですから、また一組、もうひと組と、つい買っっちゃう。もうできるだけ買わないようにしていたんですけどね、最近また一組増えてしまいました・・・とサ(^-^*
ヾ(^∇^*メデタシメデタシ♪

それじゃ話が終わっちゃいますよ〜((((;^o^)σ)~0~)/プニッ♪

(^o^A;そんじゃま・・・飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団ほかによるlive録音です。飯守泰次郎といえば、以前Wagner作品のdiscを3点取りあげたことがありましたっけね。この指揮者とオーケストラは、既にベーレンライーター版による全集録音を行っていますが、そちらは聴いたことがない。この全集はマルケヴィチ版による演奏だったので、興味ををもって入手しました。

まあ、ブライトコプフ版からベーレンライター版やらペータース版やらと、ベートーヴェンの交響曲では、あまり版の問題をことさらに問題視してもしょうがないんじゃないかなとも思っているんですけどね。だって、いまも昔もブライトコプフ版にはっきり印刷されている細部を見過ごして演奏している例はいくらでもあるし、指揮者の演奏解釈によっては、使用している版がどれであろうとそんな相違なんか些細なことと、聴いた印象からはふっとんじゃうケースもあります。ベーレンライター版が、古楽器(ピリオド楽器)の興隆と時を同じくして発表されるというタイミングでなかったら、そんなに注目されたかどうか、疑わしいんじゃないでしょうか。

演奏は、ピリオド楽器のオーケストラを聴く機会の多い耳には、いかにもロマン主義の音楽と聴こえるもの。マルケヴィチ版という日常演奏することのないスコアを使用しているためか、集中力にも欠けることなく、通俗名曲の演奏で陥りがちなルーチンワークに堕すことなく、程良い緊張感が感じられます。とりわけ、全曲録音がやっつけ仕事でなく、一曲一曲をていねいに造りあげていったという印象を与えるのは、たいへん好ましいことですね。

録音もそんな演奏にふさわしく、オーケストラの響きが結構厚みがあり、重厚感があります。ちょっと聴くと分解能不足と思うひともいるかもしれませんが、よく聴けば細部まで明瞭です。マイクセッティングが適切で、あまり調整卓であれこれいじってないとこういう録音になるんですよね。スッピンの魅力かな。あれこれいじりまわして、ソロの距離感なんかが変動することで細部が聴き取りやすくなっているようなゴテゴテ厚化粧録音に慣れているひとは、これ聴いて物足りなく感じるかも。

第3番あたりを聴いていて気がついたのは、マルケヴィチの録音がこのマルケヴィチ版のスコアを使用していないことですね。たしか、マルケヴィチって、この改定版を完成したとたんに亡くなっちゃったんじゃなかったかな。だからマルケヴィチがベートーヴェンを録音したときには、未だマルケヴィチ版は完成していなかったか、あるいは取りかかってさえいなかったのかもしれません。

どうでもいいことかもしれませんが、ケースは厚みを節約して5枚収納するためか、ちょっと特殊タイプ。discは取り出しにくいうえ、解説書の収まりがよくない。割れにくいケースだとは思いますが、特殊形状は万一破損すると困るんだよなあ。



こちらマルケヴィチによるベートーヴェンの交響曲集。1、3、5、6、8、9番に序曲5曲を併録。3番のみシンフォニー・オブ・ジ・エア、あとはラムルー管弦楽団の演奏で、録音時期は1956年から1961年までに至る。3番と6番はmono。マルケヴィチは1970年代まで活動していたのに、1961年以降はベートーヴェンを録音していないんですね。

3番など劇的といいたいくらいホットな表現ですが、やはりこの指揮者らしく、切れ味鋭い、猛禽類を思わせる風貌そのままの演奏です(笑)ラムルー管弦楽団はやはりちょっと弱いかな、わずかに響きが痩身気味。それだけに、マルケヴィチらしさが増強されてきます。そのあたり、速めのテンポと、ダイナミクスの変化にマジックがあるようです。飯守盤の演奏から、それがこの指揮者の改訂になるスコアを使用していると言われてもピンとこないんですが、マルケヴィチ版は自己の表現よりも、もっと普遍性を追求した結果なのかもしれません。