Requiem






まずは古楽器演奏。S.クイケンによる1986年ブリュッセルにおけるlive録音。バイヤー版による演奏。クイケンらしいアンサンブル重視の演奏。アクセント強めの、旋律を歌うよりも構築していく、いい意味での刺激的なレクイエムになっています。ただ、白AccentのLPでジャケットはいかにも録音が良さそうに見えるんですが、これがあまりよくない。妙にほこりっぽく混濁気味。惜しい。



こちらはホグウッド盤。アーメン・フーガのモーンダー版なのでほかのdiscと同列には比較しにくいんですが、録音はやや堀が浅いものの、まずまず良好。ホグウッドのdiscはどちらかというとヘンデルをよく聴くHoffmannですが、ヘンデルだとひなびた響きとなるのに、モーツァルトだと意外と刺激的。




これよりモダン楽器演奏。まずはコルボ盤。1970年代録音の仏Erato盤。録音はまあまあ、Eratoにしてはさほど・・・とも思うんですが、1970年代も半ばとなるとこんなものかな。演奏はきれいといえばきれいなんですが、カラヤンあたりとは別な意味で演出臭ぷんぷん。そんなに下品じゃないんですが、千変万化の表情も、歌うのも、とにかく「たっぷり」、やっている。それがなんかもうここまでやらなくてもいいんじゃないかというくらい、まるで聴き手に媚びているようなサービス過剰の効果造りになっているんですね。ぱっと見「おっ、清楚な美女だ」と思ってよくよく見たら、こってり厚化粧の水商売風・・・といった印象です(笑)

水商売って、水道局におつとめの方ですかっヾ(^∇^*



「たっぷり」といえばこれも―ジュリーニ1978年の録音。とにかくジュリーニらしい、よくも悪くも自己流の音楽造りで、響きはふくらんで音場はみっしりと隙間なく埋め尽くされたかのような厚みを感じさせるもの。EMIらしいオフマイク録音なんですが、細部がマスクされてしまって、よく言えばハーモニーで聴かせ、悪く言えばおだんご状の音響。ただし不思議と混濁しているという印象はない。演奏そのものはまじめでたいへん好感の持てるものなんですけどね(歌手はひとりだけいまひとつの出来)。これは小型の装置で聴くと、装置の柄を超えた厚みのある響きがふわぁーと広がって効果的鴨。



1987年録音のムーティ盤。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団もさることながら、エリック・エリクソン率いるスウェーデン放送合唱団、ストックホルム室内合唱団が聴きもの。これも指揮者の作為はかなりあからさまなんですが、ムーティらしくひたすら歌う(歌わせる)ことに徹していて、あまり姑息な小細工とは感じられないんですね。これはHoffmannの好きな演奏です。



カラヤン、ベルリン・フィルの1960年代と1970年代の録音。DGGらしい低音のない、平面的で薄っぺらな録音。演奏も推して知るべし。カラヤンも若いころ、フィルハーモニア管弦楽団との録音を行っていた時期だとそれなりの良さもあるんですけどね。この2種の演奏は10年(以上)の時を隔てているにもかかわらず、大筋は同じ。AV男優がAV女優を撫でているような(そんなに見ていないけどな・笑)レガートは、響きをハーモニーとするよりも単に混濁させただけ。合唱下手。ムード音楽だと思えばBGMに使える? カラヤン盤はたしかさらにこの後に録音されたdiscも持っていたはずなんですが見あたりませんでした。実家かな・・・。



ベームによる1979年の録音。古老の語りを聴いているような、ある意味平板、聴きようによってはこれこそ「祈り」かとも思えるような滋味ある演奏ですね。ただ、緊張感が持続できないのはベームの衰えでしょうか。録音もよくない。DGG独プレス盤。



リヒター盤。なぜかオーディオマニアに受けのよい演奏で、どうしてかなーと思っていたら、ゴミとかいう作家が交通事故で他人様の子供を死なせたときに、来る日も来る日もリヒターによるモーツァルトのレクイエムを聴いた、とかエッセイに書いていたんですね。こういった自己の内面を「演出」してお涙頂戴式に嫋々たる嘆き節で公表する精神って、Hoffmannは大っ嫌いです。かつて、とくに私小説作家に多かったんですが、自慰行為そのものが目的ではなく、その行為を他人に見せることで他人に及ぼす効果を見て楽しんでいる(効果を狙っている)という、公然猥褻的売文。もっとも、ムカシからこういうのはマニアには人気が高い。露悪趣味的なsentimentalismに犯されたマニアって、小林秀雄のムカシから結構多いんですよね。ただ単に身勝手で無責任、意志薄弱なだけの主人公が、ほかでもない手前のだらしなさ故に破滅していく私小説を読んで、カッコいい、真似したい、という青白い文学青年的な幼稚性でしょうな。

感傷的かどうかどうかわかりませんけど・・・自分がやっていることにお手本とか目標のような、教祖を求める心情じゃないですか?

ヒトラー政権下のドイツ国民みたいなものか?(笑)「マニア」って、たいがいしかめっ面して求道精神だの修行だのと事大主義な主張をして、それでいて鼻持ちならないほど自信満々なくせに、どうしてその一方で謙虚ぶって前世紀の遺物みたいな(だれです、「全性器の汚物」なんて連想したのは・笑)アイドル(偶像)を祭り上げたうえ、それをよりどころにせにゃならんのかなあ・・・

それはともかく、このリヒターの演奏については?(^^;

だからというわけでもないんだけど、このリヒター盤は過大評価されすぎでは? いや、じつはこのdiscの演奏はあんまり印象に残っていなくて・・・(笑)

# ただし、上記の作家ご当人と面識があった方のお考えや愛着は尊重します。友人・知人が寄せる思いはまた別問題です。



これはCD。ジュリーニ1989年の録音。オーケストラは新旧ともにフィルハーモニア管弦楽団。旧盤のような過剰な「ふくらみ」は一歩後退しているものの、やはり「ゆったり」系。合唱など、やや歌いにくそう? どことなくモノトーンで、響きが痩せて聴こえるのはおそらくジュリーニ晩年の衰えか(DGG録音後期でも聴かれる傾向)。



シューリヒト1962年5月19日のlive録音、Disques Refrainからも出ていたんですが(右)、音質は別もののように良質なarchiphon盤(左)。交響曲などでは性急ともとれるテンポのシューリヒトですが、ここではやや速め程度でしみじみ開始、冒頭は合唱もソフトに、やや流し気味・・・と思いきや、ソロ歌手のハイテンションぶりにびっくりします(とくに女声。マイクが近い?)。その後、速くなりそうなところはむしろ抑えめにじっくり進めて、要所要所のアクセントは強めなのが終始軟調の合唱とかみ合わず、不思議なコントラストを形成していますね。



ワルターによるdisc。左は1956年6月26日live録音のOrfeo盤。これ聴くと、前のシューリヒトは結構モダンな感覚だったんだなあと思いますね。最近の古楽器演奏とは別な次元で、緩急強弱のコントラストは最大限とばかりの古風なモーツァルト。それが板に付いているのはワルターなればこそであり、また時代でもあるんですね。いまの時代に、こんな表情付けしたら滑稽にしかならんでしょう。従って貴重な記録(record)です。ソロ歌手もいかにも役者がそろったという印象。

右は1937年のパリ録音。ワルターこのとき60歳。テンポの変動はあるものの、上の1956年録音よりもむしろ禁欲的というか、フォルムが整っているように聴こえます。こちらの方が好きかな。ソロはこれまた大歌手の時代。








こちらはブルーノ・キッテルが自らの合唱団を率いて、モーツァルト没後150年となる1941年に録音したdisc。このdisc、じつは2008.11.15 satに「マタイ受難曲」の古い録音のひとつとして取りあげていて、そのときモーツァルトのレクイエムについては「かなりゆったりめのテンポで、ていねいと言えばていねいなんですが、スケールを拡大するには至らず、ものものしい進行」なんて言ってました。

ところが今回聴き直してみたところ、ずいぶんと印象が変わりましたね。上のワルター盤を聴いた直後だからかもしれませんが、いや、ワルターとはえらい違い。
歴史的録音なれど、感傷を廃した、驚くほどモダンな感覚の演奏です。さらにこの録音を特異なものにしているは、ナチス政権下の録音であるため、歌詞の一部(ユダヤ由来の語)が変更されていることですね。はじめて聴いたときには、聴き慣れない発音の箇所に、あれ、これラテン語・・・だよね? なんて首かしげちゃいましたよ(それでなくてもドイツ風の発音でやや違和感あり)。合唱指揮者とあって、オーケストラに対する意思はいまひとつコントロールが不徹底、とはいえ、1941年にしてこの現代感覚は見事。

# 上の文章で、「上のワルター盤を聴いた直後だからかもしれませんが」と言っていることについてひと言。念のため断っておきますが、これ、別に言い訳してる訳じゃありません。印象や感想が変化することを恥じる気持ちなどHoffmannにはありません。むしろ変わるのがあたりまえ、一貫して変わらない方がどうかしている、と思っていることはかなり以前に書いたとおりです。



比較的気に入っているCDをまとめて―左からサヴァール、グッテンベルク、ヘレヴェッヘ盤。いずれもオリジナル楽器(ピリオド楽器)による演奏。ほかにコープマン、ガーディナー盤もあるんですが、ガーディナー盤は古楽器演奏であることをことさらに主張しすぎているようで、あらま、いつの間にか時代に取り残されつつあるのでは? いや、録音は1986年なのでちょっと以前なんですけどね。一方のコープマン盤は、ガーディナー盤と比較するとよほど自然体なんですが、やや日常的すぎて、もう少し厳しさも欲しい。